AgneiyaIV
白薔薇の惑い 
5.あと一歩踏み出すだけ


 花嫁の公都入りが遅れている。それが問題となっていることは、ソフィアの耳にも届いていた。
 予定を無視した第二公子の行動は、父大公や兄である第一公子に非難されてもおかしくはない。ただ、これは彼がソフィアのためを思ってしたことで、とはいえど、一個人の考えで予定を大幅に変えるなど本来はしてはならぬことだった。
「警護の問題もございますゆえ」
 祖国より付き従った、侍従武官も渋い顔をする。
 花嫁一行が逗留する街、通過する街道には、相応の警備態勢が敷かれていた。だが、蓋を開けてみればどうだ。
 花嫁はそこを通ることすらしない。どころか、無警戒の街に赴き、そこで一日、もしくは数日を過ごすという我儘を通している。
「我儘など」
 シェリルが抗議をするが、これを我儘と言わずして何と言おうか。
 重ねて侍従武官に窘められ、シェリルも口を噤んだ。ソフィアは、軽く唇を噛む。
 公都につけば、名実ともに自分は第一公子の夫人となる。シリウスは義弟になるのだ。自分よりもはるかに年上の、弟。違和感がある。否、違和感ではない。
「わたくしは」
 嫁ぎたくない。そう言ってしまえば、良いのだろうか。
 第一公子がどれほど好人物だったとしても、シリウスの義姉にはなりたくない。
 自分がなりたいもの、それは――
 けれども、言ったところで、無理であろう。
 あの優しい公子にも、迷惑がかかる。彼にもきっと、婚約者がいるだろう。
 彼を白鳥の乙女の犠牲にしてはならない。
 明日は公都に入る。公都の灯りを間近に見る街に滞在したソフィアは、涙を堪えていた。
 自分はこの想いを胸に抱いたまま、第一公子の花嫁になるのだ。カルノリアの、セグの、両国のために。
 ここで、もし。嫌だと言ったら。輿入れを中止して欲しいと、そう訴えたら。聞き入れられるだろうか。
 ふと、考える。
 自分に甘い父のこと、恐らく今回の縁談はなかったことにしてくれるだろう。
 だが、結果的に両国の間に深い溝をつくることになる。
 自分は、皇女だ。カルノリアの頂点に立つシェルキス二世の娘だ。我儘を通すことは許されない。
 理性はそう告げる。しかし、感情は。

 ――偽りの愛に生きるよりも、真実の愛に殉じるほうが、本望でしょう。

 公子シリウスの言葉が、蘇る。ならば、いっそのこと。ここで命を断つ方がいい。そうすれば、体裁を気にして病死と判断され、ことは表沙汰にはならぬだろう。ソフィアは窓を開いた。露台へと足を踏み出し、柵越しに庭を見下ろす。ここは、三階だ。三階から身を投げれば、死ねるかもしれない。投身、即、死に繋がるとこの時ソフィアは信じていた。出来れば湖に身を投げたかったが、そこはもう遠く離れている。これ以上、周りを困らせてはいけない。第二公子シリウスへの批判を、増やしてはならない。

「ごめんなさい」

 誰に謝っているのか。判らぬまま詫びの言葉を口にする。ソフィアは柵を乗り越え、今にも宙に身を投げ出そうとしていた。が。

「おやめ下さい」

 耳に馴染んだ声に我に返る。
 ふと今一度庭に目を向ければ、そこにはエミリアンの姿があった。彼は緩くかぶりを振り、いけません、と繰り返す。
「止めないでください」
 ソフィアも負けじとかぶりを振る。こんなときに、現れないでほしい。彼の姿を見たら、未練が出てしまうではないか。この世への未練。彼の傍にずっといたいという、道ならぬ想い。
「セグは、御嫌いですか? この国の、将来の国母となられることは、お嫌なのですか?」
 シリウスの言葉に、棘が含まれる。
「綺麗だと、良い国だと、仰ったお言葉は、偽りなのですか」
「違います」
 それだけははっきりと答える。
 セグは美しい国だと思った。気候も穏やかで、人々も温かく優しい。カルノリアのように何処かしら冷たい印象はなく、牧歌的で大らかで、こんな国に住みたいと思った。シリウスの傍で、ずっと暮らしたいと思った。
「わたくしは……」
 ソフィアは迷った。己の想いを口にすべきかどうか。
 ここで想いを打ち明けられても、彼は困るだけだ。彼は確かに優しくて好い青年だ。ただ、それだけ――兄嫁となるソフィアを、歓待しただけである。その彼の優しさに、優しさ以外のものを求めてしまったソフィアが愚かなのだ。
「それとも、私の態度に落ち度がありましたか?」
「いいえ、いいえ」
 違う、とソフィアは繰り返す。彼に落ち度は一つもない。悪いのは自分だ。
 だから、彼に誤解を与えたまま、命を捨てるのは嫌だった。判って貰えなくとも、本当の心だけは伝えたい。

「あなたを、お慕いしているのです」

 言ってしまってから、ソフィアは後悔した。
 はしたない娘と思われているのだろう。夫となる男性以外の男に惹かれるなど、どのようなあばずれかと。貴族の婚姻に、愛情も恋も不要なのだ。必要なのは、互いの身分、家格、権力。それに対して、異議を唱えてはならない。唱える者は、愚者の烙印を押される。

「私もです、姫君」

 やがて、シリウスの声が聞こえた。
 星降る庭に佇む青年は、ほの白い庭園灯の灯りを受けて、やわらかくほほ笑む。
「私もです。ソフィア様。ずっと、貴方を妻に迎えることができる兄に、嫉妬しておりました」
 シリウスの告白に、「おお」とソフィアは口元を押さえた。彼もまた、同じ気持ちであったのだ。
 素直に嬉しいと、そう思えた。
 だが、互いに想い合っていたところで、許されぬ恋である。ソフィアが嫁ぐのは、第一公子。シリウスの異母兄である。それだけは、ゆるぎない事実であった。
「私の、妻になって戴けますか、ソフィア姫」
 思わぬ求婚に、ソフィアの身体が震える。妻に――シリウスの妻に。なりたいと思う。だが、なれるのだろうか。
「ともに、歩んでいきましょう。だから、どうか……」
 どうか、と、顔を赤らめた第二公子は、若干ソフィアから目を逸らした。
「その、そこから離れてくださいませんか?」
「え?」
「――おみ足が、その、あまりにも……」
 言われて、己の姿を見下ろしたソフィアは、別の意味で頬を上気させた。柵に片足をかけていたせいで、衣裳が大きく捲れ上がり、夜目にも白い太腿が晒されていたのである。彼女は慌てて柵から離れ、裾を整えた。そうして暫くの間呼吸を整え、改めて露台の柵の前に立つ。気配を察したか、シリウスが此方を見上げる。彼の一途な瞳が、ソフィアの緑の瞳を捉えたとき。
「妻に、してくださいますか? わたくしを。ルフィーナ・イルザ・ソフィア・イリーナを、貴方の花嫁に」
 彼の求婚に応えた。
 セグ第二公子シリウス・エミリアンは膝をつき、胸に手を当て深く首を垂れる。
「生涯、お傍にてお守りいたします」



 彼の言葉に、嘘はなかった。


乙女の裏路地さん/恋五題 使用
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