AgneiyaIV
外伝/覇王の瞳(1)

 ――げにおぞましきは、帝国の瞳。蛮族の色、穢れし色。



 日は、既に暮れかかっている。
 遠くの山々で、狼の鳴き声がした。仲間を呼んでいるのか、それとも自身の孤独を埋めるためか。もしも自分が狼であれば、あのように遠吠えをしてみればよかったかもしれない。いや、今からでも遅くは無い。いっそ、声を張り上げてみようか。
「誰か」
 しかし、細い少女の声など簡単に山は飲み込んでしまう。森閑とした木々に絡め取られた声は、瞬く間に霧散した。
「だめ、か」
 彼女は肩を落とした。
 どれだけ歩き回ったことだろう。既に体力は無く気力だけで動いている状態である。朝から何も口にしていないせいか、空腹がひどかった。腰に下げた袋には、侍女が用意してくれた果物の砂糖漬けが入っていたはずだが、それを食べてしまっては、先が思いやられる。先――つまり、夜。夜を越すためには、気休めでも何か縋るものが必要であった。
 狩りに行きたい、などというのではなかったと、後悔が頭を掠める。
 自身の婿候補を募る催しとして開かれた狩りに、自分も参加したいなどと。
 婿となる相手が、どれほどのものか。馬術と武術に長けた自分と互角に渡り合える人物であるのか。この眼で確かめたかった。だから、男装までして、従兄の従者として紛れ込んでみたのだが。獲物を追ううちに、いつの間にか森に迷い込んでしまった。しかも、ここは禁猟区とされる場所で、滅多に人が近づかぬ区域である。夢中になっていたとはいえ、何たる失態。これでは、自分を救出したものが必然的に婿となるのではないか。それがたとえ、どれほど好みに合わない相手だとしても。恩人、という事実を押し付けて、自分を要求するに違いない。
「ああ、やだ」
 彼女は自身を抱きしめた。
 できれば、自分の力でこの森を抜け出したかった。ここから生還して、何食わぬ顔で宴の席に顔を出したかった。それは、もう叶わぬだろう。
 日は、山の端に足早に隠れようとしている。ここは下手に動き回っては危険だ。どこかで暖を取りつつ、朝になるのを待とう。彼女がそう決意したときだった。
 ふわり、と鼻先を香ばしい匂いが掠めたのである。
「……」
 肉を焼く匂いだ。
 彼女は素早く辺りを見回した。この近くに人がいる、ならば、そこへ行って助けを求めればいい。食欲に負けた彼女は自身に言訳をしつつ、匂いを辿って歩き出す。眼を凝らせば、薄紫に霞む森のなか、淡い火影が見えた。そこに、人がいるのだろう。近づこうとしたその矢先に、背後で荒い呼吸がした。振り返れば、幾つもの赤い瞳が、こちらを見ている。闇を見透かす、獣の瞳。狼である。先程の遠吠えは、やはり仲間を呼んでいたのだ。
「嘘」
 彼女は身を固くした。肉を狙ってここまで来た狼だが、火があるために近づけない。恨めしく遠巻きに見ていたところに、別の獲物が登場したというわけか。
 柔らかい肉を持つ、生餌――狼たちの視線が彼女に集まる。
「冗談でしょう」
 彼女は短剣を引き抜いた。弓も剣も失った今、頼れる武器はこれしかない。腕に覚えはあるが、これだけの数の獣を相手にして、無傷でいられるかどうか。緊張に強張る身体を必死に奮い立たせて、彼女は狼に向き合った。
「かかってきなさい」
 彼女は首領格と見られる狼に切っ先を向ける。それが合図となったか、首領格の両脇に控えていた二頭が、同時に彼女に牙を向けた。ゆうに彼女の身長を超える、巨大な身体が闇を背負って飛び掛ってくる。左右双方から。
 これには、さすがの彼女も凍りついた。まさか、相手が一対一で対戦してくれるとは思ってもいなかったが、いきなり複数で同時攻撃は反則ではないか。
 等と、ケモノ相手に内心悪態をつきながら。
「来るなっ!」
 先程とは矛盾した言葉を叫びつつ、彼女は短剣を振るった。刃が狼の耳を掠め、鮮血が彼女の頬を濡らす。きゃん、と仔犬じみた声が上がるが、それしきのことで相手は怯まない。寧ろ血の匂いに興奮したのか、更に目をぎらつかせてこちらに迫ってくる。こうなるともう、彼女には何も出来なかった。
 ただ、黙って食われるだけなのか。
(父上、母上。ごめんなさい)
 わがままを言って、困らせて。
 彼女は目を閉じた。生きながら食われるのは、痛いだろうか。痛いに違いない。それでも物の本で読んだことがある。彼らは急所を一撃して獲物の息の根を止めた後にその肉を食すのだと。ならば、痛みは感じないのではないか。さっさと喉に噛み付いてくれればいい。
 覚悟を決めたときだった。
 狼の悲鳴が聞こえたのは。
「なに?」
 思わず目を開ければ、狼たちの輪の中に、燃え盛る松明が転がっている。松明――いや、火のついた枝か。思う間もなく、また、続けて二つ、三つと火焔の枝が飛んでくる。
「それを拾え」
 背後から声が聞こえた。それが誰の声かなど、気にする間もなかった。彼女は手を延ばし、枝のひとつを手にする。と、狼は火に怯んだか。じり、と後退した。
「向こうへ行きなさい」
 枝を振ると、狼たちは悔しげに彼女を見上げた。獲物はここにいるのに、と。恨みの篭った目が幾つも幾つも彼女を見ている。火を反射した、赤い瞳。赤い、双眸。

 ――げにいまわしきは、帝国の瞳。
 ――蛮族の色、穢れし色。
 ――覇王の瞳、覇者の瞳。

 なぜだろう、このようなときに。詩の一節だろうか。不可解な言葉が脳裏を過ぎった。
「腹が減ってたら、これを食え」
 呆然としていた彼女の傍らで、声が聞こえた。どさり、と狼たちの間に放り込まれたのは、今度は火ではなく、肉の塊であった。まだ、体の一部を切り取られ、生々しい鮮血に彩られた鹿。無残なその姿を、まるでものでも放るように狼に投げ与えたのは、
「誰?」
 まだ若い青年であった。あの焚き火の主であろうか。それにしても、いつの間にここに来たのだろう。人の気配はまるで感じなかったのだが。彼女はそっと彼を見上げた。その手の中にある枝、ともる火が闇の中に彼の姿を映し出す。声からして男性だと思ったのが実は間違いなのではないか――そう思わせるほど、彼の横顔は繊細にして優美であった。いわゆる優男、と呼ばれる類の彼のどこに、こんな牡鹿を担ぎ上げ、しかも放り投げられるだけの力が備わっているのだろう。
 彼女は自身とそうかわらぬ年頃の青年に、不審の目を向けた。
 しかし、彼はそんな視線など気にも留めず、
「さっさと食え」
 狼たちを促すと、徐に彼女の肩を抱き寄せる。不意のことに身を硬くする彼女に向けて、青年は静かな笑みを向けた。
「おまえも。腹へってるんだろ?」


 やはり、彼が焚き火の主であった。彼女が連れてこられたのは、あの、温かな火影の場所である。香ばしい匂いとともに焼きあがるのは、鹿の肉。先程狼に提供したものの一部であろう。これは、彼の今日の獲物だという。
「ここは禁猟区でしょう?」
 咎めるような物言いに、彼は怒るかと思いきや。
「そのようだな」
 あっけらかんと答える。ついでにまるで悪びれずに、焼けたばかりの肉を枝に刺して彼女の前に突き出した。食え、と笑顔で言う彼に、彼女は僅かに眉を寄せる。
「だから、ここは禁猟区で」
「いらないのか?」
 すっと肉が引っ込められた。肉の匂いがするりと逃げて、彼女の腹の虫がきゅうと鳴く。いや、泣いているのは彼女自身か。彼女は縋るような目で、彼を見た。
「いらないんだろう?」
「い……」
 いらない、といえればどれほど楽だったか。けれども悲しいかな、次の言葉が出てこなかった。
「やせ我慢している場合か。食え」
 彼は乱暴とも思える仕草で、彼女に肉を押し付けた。彼女はこくりと頷き、彼に小声で礼を述べる。父が定めた禁猟区、そこで収穫された獲物を食すなど。許される行為ではなかったが、この際仕方がない。彼女はぱくりと肉にかぶりついた。
「美味しい」
 じゅわっ、と口の中に広がる肉汁に、思わず歓声を上げる。屋敷で食べる食事は温かく、どれもきれいに盛り付けをされているものであったが、どこかしら味が薄いような気がして。彼女はあまり好きではなかった。が、この肉はしっかりと味がつけられていて美味である。
「岩塩。それを焼く前にすりこんだ」
「へえ?」
「見かけによらず、野蛮なものが好きなんだな」
 彼は軽い笑い声を立てる。
(自分だって)
 黙っていれば、優美なる貴公子と思える容姿を持っているくせに。と、彼女は心の中で悪態をつく。どこかの領主の物好き息子なのか。そうであれば、今日、彼女の婿選びの狩りに参加していようはずなのに。彼は、彼女には興味がなかったのか。
 この辺りのものだとしたら、サンドラ伯の子息かとも思うのだが。そう問うても彼は笑うだけだった。
「俺は、貴族じゃない」
 顔に似合わぬ、粗野な口調で答える。
「おまえは? どこかのお嬢さんだろう? いいのか、こんなところをうろついていて?」
「いいわけないでしょう! 道に迷ったのよ、道に!」
「迷った?」
 彼は大仰に目を瞬かせる。ここは、街からかなり離れた場所にある。どう考えても、旅人でもない娘が一人で出歩く場所でもない。何を好き好んでこのようなところにやってきたのだと、彼の目が問うている。その、火を映しこんで赤く映える瞳に吸い込まれそうになる自分に気づいて、彼女はあわてて目をそらした。
「今日は、狩りがあったのよ」
「狩り。ああ、なんだか山裾のほうが騒がしかったな」
「私の、婿を決める狩りなの。一番大きな獲物をとってきた人を婿にするって。そういう話になったのよ」
「そりゃまた。博打だな。変な奴が勝者になったら、どうするつもりだったんだ?」
「だから」
 自分が、一番の獲物をとろうと、男装までして狩りに加わった。そういうと、彼は一瞬きょとんとしたが。やがて腹を抱えて笑い出した。余程おかしかったのか、涙を流しながら地面に手をついて笑っている。
「何よ。なにが可笑しいのよ」
「だって、おまえ。単純すぎ」
「どこが!」
「お前が一番でかいのを取ったとしたら、二番目に大物を取った奴が婿になるに決まってるじゃねぇか。もとから、お前なんて物の数には入ってないんだし。やれやれ、くたびれ損だよな」
 彼は指先で涙をぬぐいながら、再び彼女に目を向けた。朝露輝く明けの空――赤みの強い紫の瞳がまっすぐに彼女を見ている。彼女は知らず息を呑んだ。赤い瞳、そう呼ばれる蛮族の証。ミアルシァが忌み嫌う、明けの瞳、覇王の瞳とは、このような色ではないのか。彼の瞳は、今まで見たことのない色だった。炎のせいかとも思うが、違う。彼の瞳は、『赤い』。
「あなた」
 彼女の声がかすれた。彼は「なんだ」と首をかしげる。
「あなた、誰?」
 妙な質問だと思った。けれども、それははじめに問うべきことであった。彼女は自身を指して、はっきりと
「私は、ルキア。あなたは?」
 今一度尋ねる。青年は皮肉めいた笑みを浮かべ、彼女の肩に手をかけた。そのまま勢いで地面に押し倒し、覆いかぶさるようにして彼女の双眸を覗き込む。
「盗賊。……っていったら。どうする?」
 頭の脇に置かれた手を見、ルキアは喉を鳴らした。わけもなく、体が震える。怖い。異性に、このような扱いを受けたことはなかっただけに、未知なることへの恐怖が頭をもたげ始めた。
「おまえをどこかに売ってみるのも面白いかな」
 すっと頬に手が触れる。細く冷たい指が、輪郭を丁寧にたどっていく。背筋から這い上がる恐怖に、彼女は身をすくませた。
「それとも。お前の親から身代金をもらうか」
「――わたしを、誘拐する気?」
「今の状況を考えてみろ。誘拐するんじゃなくて、されている、だろ? もう」
「う、そ」
 そうだ。盗賊と名乗るこの男は、決して親切心からルキアを助けたわけではないかもしれない。寧ろ彼女の身柄と引き換えに、両親から金子(きんす)をせしめようと考えているほうが自然ではないか。
「お前を助けたといって、恩を売って。お前の婿に納まるのも悪くはないかな」
 彼は、にやりと笑った。下品なはずの笑いが、なぜか美の女神の彫刻のようにはかなげで美しくて。言葉を裏切るその表情に、ルキアはただ、目を見開くばかりであった。
「婿、に? 誰の?」
 思わず間抜けた問いを返してしまう。青年はあきれたように目を細めた。
「おまえの、に決まってるだろう?」
「わたしの。わたしの、婿に?」
 このような状況でなければ、頷いているかもしれなかった。
 目の前にいるのは、優美なる青年。粗野なる物言いや雑な物腰を見なければ、それこそミアルシァの洗練された貴族の御曹司と見まごうばかりである。黙っていれば、彫刻を思わせる美貌は、アルメニアの田舎じみた貴族たちの中には感じられない気品をたたえていた。
「俺の、花嫁にならないか?」
 それは、求婚なのだろうか。
 火に映える、赤い瞳。正確には、赤ではないだろう。より、赤みの強い紫の瞳。暁を思わせる、奇異なる瞳――その目に射すくめられたように、ルキアは動けなかった。かの瞳に映りこむ自身の姿は、あまりにも情けなく、震えるだけの子供であり。とても、彼のごとき貴公子の求婚を受け入れられるような令嬢とは思えなかった。
 従者の姿をした、道に迷った子供。
 これが、普段の通りに衣裳(ドレス)を身にまとっていれば。吟遊詩人の歌う、貴族の姫君と流浪の騎士との恋物語のごとく、彼の手をとって国も家も捨てて飛び出してみたいのに。
 ルキアの心は、揺れていた。恐怖と甘美なる想像の狭間で。
 彼はその心を読んでいるのだろうか。呼吸すら忘れてしまったかのような彼女をそっと抱き起こすと
「なんて言ったら、お前はどうするかな」
 それこそ見ほれるほど柔らかな笑みを浮かべて、彼女の手の甲に口付けをした。ルキアは一瞬意識を飛ばしてしまったが、あわててその手を引っ込める。彼の唇が触れた部分が、異常に熱く感じられ、自然、頬が赤らんでいく。
「馬を貸してやるから、明日の朝、ひとりで家に帰れ。山裾までは見送ってやる」
 彼はちらりと視線を背後に向ける。つられてルキアもそちらを見れば、闇に溶け込む漆黒の馬が一頭、木につながれ下生えの草を食んでいた。
「奴は、人間顔負けの賢さがある。放しておけば、ここに戻ってくるから、気にせず乗り捨てるといい」
 お前が、馬に乗れるのなら。
 と彼は付け加えた。ルキアは
「馬鹿にしないで」
 先程のときめきはどこへやら、子供らしさ丸出しで唇を尖らせる。これでも、乗馬の腕は城下でも一、二を争うほどだと思っている。仕える騎士の中でも、彼女ほどうまく馬を乗りこなすものはいないだろう。
 盗賊を自称するこの青年、実は見かけと同じく人品卑しからぬ存在に違いない。家督を継ぐことを厭って、野に出てしまった名家の御曹司か。それとも、生まれを許されぬ、高貴なる人物の落胤かと。ルキアは思う。帝国の瞳、覇者の瞳と忌まれる、特殊な紫の瞳――ミアルシァではそれを持つものが生まれると、たとえ王族だとしても、殺害するか捨てるか、どちらにしろ存在自体を抹消されてしまうと言われているが。彼もそういったミアルシァの『封印王族』の一人なのではないだろうか。
「あなたは、だれ?」
 ルキアは三度(みたび)問うてみた。また今回も、彼ははぐらかすに違いない。はぐらかさないまでも、正直に答えることはないだろう。そう思っていたのだが。
「俺か?」
 彼は微かに笑った。どことなく、自嘲を思わせる投げやりな笑みに、ルキアは心の裏側を爪で引っかかれたような、不思議な感覚を覚える。
「俺は……」
 一瞬、彼は言葉に詰まったように息を止める。だが、何かを吹っ切るように、ひとこと。自身の名を告げた。
「アグネイヤ」
「アグネイヤ?」
 失われた帝国の、皇帝の名前だ。ルキアは思わず激しく目を瞬かせた。
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