AgneiyaIV
断章 混沌の姫君 
月姫


 その日。
 セルニダには、重苦しい空気が漂っていた。
 世継の姫君の誕生の吉報が市中を廻った直後にもたらされた、訃報。皇帝崩御の知らせが、一気に祝賀の雰囲気を黒く塗りつぶしてしまった。いったい誰が想像したであろう。娘の誕生したその日に、父が死亡するなど。誰もが、若き皇帝の死を悼むと同時に、かの人の暗殺を疑った。

 ――陛下は、殺されたんだ。
 ――殺されたんだよ。
 ――ああ、殺されたに違いない。

 でも、誰に?

 ――そりゃあ。
 ――決まっているさ。フィラティノアの王様だ。
 ――自分の息子の嫁に、と、姫さまを希望してるんだ。陛下が亡くなれば、姫様に冠が転がり込んでくると思って。
 ――ああ、恐ろしい。

 多くの市民の間に、囁かれた言葉。それが、隣国フィラティノア国王による、皇帝ガルダイア三世暗殺説だった。無論、皇帝が暗殺されたか否かは、誰にもわからない。后であるリドルゲーニャにすら、皇帝は狩りの折の落馬、その傷がもとで儚くなったとの説明がされただけであった。産褥の中で乳飲み子を抱え、悲嘆にくれる皇后は、亡夫の顔を見ることも許されず、皇帝は司祭と重臣たちによって埋葬されてしまった。
 皇帝の死は、文字通り闇に葬られたのだ。

 だが。

 同じ暗殺説を唱える者のなかに、犯人をフィラティノアではなくミアルシァであると主張する者がいた。フィラティノアとの同盟強化を危惧したミアルシァ国王により、ガルダイアは殺害されたのだ、と。


「真相は、闇の中よ」
 揺れる燭台の明かりを見つめて、クラウディアは呟く。傍らに佇むエルナは、軽く息をつき、髪をかき上げた。細い指の間から、金褐色の髪がこぼれる。彼女は顔の半分を覆う形を保ったまま
「多分だけどね」
 呻くように言葉を紡いだ。
「多分だけど。フィラティノアではないよ。皇帝を暗殺したのは」
「そう」
 クラウディアは頷くだけにとどめた。正直、父の死因が何であるか。興味はなかった。物心ついたときには、既に父はなく。肖像画すら見たことのない相手に、愛情など覚えるわけもない。父帝が暗殺されたにせよ、事故死にせよ、どちらにしろ変死にはかわりがないのだ。
 双子が誕生したことにより、混沌の時代が訪れる。
 その予言は、はからずしも的中したことになる。
 ガルダイアの崩御後、皇帝は立たず。アグネイヤ四世の即位まで、十六年の長きにわたって皇帝不在の時代が続いた。統治権を得てはいても、リドルゲーニャは冠を頂かず、皇后のままであった。もしも、あのとき。リドルゲーニャが皇帝として即位していたとしたら。
(利を得るのは、ミアルシァ)
 だからこそ、敢えてリドルゲーニャは皇帝とならなかった。彼女が即位することで生じる様々な弊害を避けるために。まさに、烈婦の称号を受けるにふさわしい女性である。
「でもね。予言、て、あたしは信じないね。なんでも後付けでしょ?」
 エルナがこちらに向き直る。蝋燭の光を受けた赤紫の瞳が、闇の中からクラウディアを見つめていた。
「人はなんでも、あとから『予兆』を探すもんよ」
「そうみたいね」
 クラウディアは苦笑した。エルナの言葉にも、一理ある。予言は予め言われたことばに、あとから事実をつけるものなのだ。
 そういえば、あのとき。
 思い出すと、あんなことが。
 ひとは、そうやって、『予言』に踊らされる。
 もしかしたら。アルメニアに十六年もの空位時代を作ったのも、リドルゲーニャやエルハルト、他の重臣たちによる演出なのかもしれない。この空位時代こそが、『混沌』なのだと。それ以上の『混沌』はないのだと。位置づけるために。印象付けるために。そうやって、訪れるかも知れぬより大きな災いを避けようとしたのだ。
(もしくは)
 混沌を呼ぶ姫といわれる皇女を、花嫁に迎える勇気はあるのか。フィラティノアへの問いかけだったのやもしれぬ。
「ことに、わたしはクラウディア。滅びの娘の名をもつ皇女ですからね」
 自嘲とともに零れた言葉に、エルナは何を思うのか。焔を映す赤紫の瞳は、感情を表さない。
「神聖帝国最後の皇帝の名が、クラウディア――無論、彼女を皇帝と認めているのは、アルメニアとミアルシァだけだけれども――初めから、生まれた子供が娘だった場合は、クラウディアの名を与えるつもりだったらしいわ。誰の意向かは、わからないけれどね。そうして、姫を迎えた国が滅ぶように、呪詛をしたのではないかしら」
「……」
「だからわたしは、フィラティノアにとっては、災いの種」
 神聖帝国の領土に寄生する、蛮族の王国を滅ぼすための、使者。
「でも、あなたの名前は、それだけではないでしょう? ねえ、『ルクレツィア』?」
「エルナ」
「ルクレツィア――これって、創始の皇后の名前でしょう? 本当に滅びの娘にするつもりだったら、なぜ、創始の皇后の名前を入れたのかしらね?」
 あなたなら、その意味が分かっているでしょう?
 エルナは、暗にそう言っている。
(そうね)
 やはり、エルナは愚か者ではない。寧ろ、賢い。恐ろしいほどに。
「ああ、すっかり話がそれてしまったけれど、わたしに用があったのではなくて?」
 今更、といった感はあるが。ふと思い出してクラウディアはエルナに尋ねた。彼女は何らかの情報を得て、クラウディアの元にやって来たのだ。あの場所では、『耳』がある――ゆえに、王太子妃の私室まで引き上げて来たのだ。
「エリシア后の行方がわかった、とか?」
「残念ながら、そちらじゃないのよ。別のお后様のお話ね」
 エルナがもたらしたのは、ラウヴィーヌ后の件であった。近々フィラティノア入りを果たすマリエフレド公女を、茶会に招く。ただ、それだけのことである。それだけのことだったが。
 どうやら茶会の手配と同時に
「わたしの、暗殺?」
 それも画策しているという。
「中央通りの、『リーゼロッテ』っていうお店があるでしょう、どこぞのお姫様と同じ名前の。あのお店の支配人にね、ちょっと聞いて来たのよ。ラウヴィーヌ后が茶会の手配をしたあとに、劇場に行って、そこで――誰に会ったと思う?」
 意味深長に問いかけるエルナに、クラウディアは溜息で答えた。
「どうせ、オルウィス男爵夫妻とかでしょう?」
「あら、当たり」
 わざとらしく眼を丸くするエルナ。こういう小芝居は好きではない。
「彼らの娘が刺客として送られてきていたからね。まあ、どうせまた、見え透いた手を使って仕掛けてくるのでしょうけど。せいぜい気をつけておくわ。毒蜘蛛にかまれないように」
「そう願っているわよ、あたしも」
 エルナは言い、片目を閉じた。彼女はそのまま明りを吹き消し
「おやすみなさい」
 就寝の挨拶をして、部屋を出ていく。
 暗がりに一人残されたクラウディアは、軽く腕を組み、そのまま寝台に寝転がった。
 刺客に狙われる――今に始まったことではないが。そう言われても、少しも恐ろしくはなかった。むしろ、心が浮き立つ。どうやって、『敵』を迎え撃つか。考えるだけで、笑みがこみ上げてくる。

 今夜も、長い夜になりそうだった。



 マリエフレド公女がオリアを訪れたのは、それから程なくしてのことである。
 輿入れというよりは、寧ろ『留学』『遊学』を思わせる、簡素な支度での来訪だった。王族の妃とはいえ、第二継承者の――それも、傍流の王子の花嫁である。ヒルデブラントとしても、今回の縁組にはさしてうまみを覚えてはいないのだろう。蛮族、と見下しているフィラティノアへの『降嫁』である。しかも、送り出されるのは、先のアヤルカスの縁談で恥をかかされ送り返された姫君。
「難癖のついた姫を体よく追い出せて、やれやれ、といったところかしらね」
 マリエフレド公女到着の報を聞いたエルナは、嘲りを含んだ笑みで口元を彩った。
「言うことが、いちいち辛辣ね」
 エルナが入れた香茶を味わいながら、クラウディアは苦笑する。
 午後の茶を楽しむ、優雅なひととき――この時間が終われば、マリエフレド歓迎の晩餐に出席しなければならない。決して気は重くないのだが、神聖帝国皇帝と瓜二つの自分の顔を見て、マリエフレドが気分を害するのではないか。そんな危惧を覚えてしまう。それでなくとも、クラウディアとて、マリエフレドを袖にしたアヤルカス国王ジェルファ一世の姪にして従妹である。マリエフレドからしてみれば、最も会いたくない人物の一人に違いない。
「フィラティノアは、どうやら『曰くつきの姫君』が大好きなようね」
 皮肉とも厭味ともつかぬ言葉を漏らす、クラウディア。そんな彼女を見下ろすエルナは、軽く肩をすくめるだけにとどまる。
「ディグルは先に欠席を宣言しているし。厭なことは全部わたしに押し付けようっていう魂胆かしらね」
 病を理由に自室に引きこもっている夫を詰れば、エルナはからからと声をたてて笑い出した。
「そんだけ奥方を信頼しているんでしょうよ。自分がいない方が、うまく立ち回れると思っているんじゃないかい?」
 確かに、ディグルから離れていたほうが、動きやすいことは事実だが。果たして、彼がそれを考えて欠席を申し出るだろうか。単に人混みがいやだ、人間と接するのが疎ましい、それだけの理由ではないか。
 疑ってしまうクラウディアである。
「それよりも、マリエフレド公女よね。彼女がどう出てくるか。簡単にラウヴィーヌに取り込まれるような、ひ弱な姫様ではないことを祈るわ」


 けれども。
 実際対面した際のマリエフレドは、予想に反してしっかりとした娘だった。古式に則った優雅な礼とともに、自己紹介をする。ヒルデブラント人特有の見事な亜麻色の髪と、夢見るような淡い空色の瞳が印象的な――だが、その実内面に激しい焔を秘めていることを感じさせる女性。
 軟弱なジェルファは、彼女の抱える焔に焼き尽くされてしまいそうだ。それを恐れて、彼はマリエフレドを遠ざけるだろう。容易に、そういったことが想像できてしまう。
 ジェルファは、アグネイヤのように、常に一歩引いた女性が好きなのだ。決して他人の前に出ようとはせず、影のごとく誰かに寄り添う、いわば『支え』となってくれるような女性が。
(ひ弱な男の典型よね。好みの対象からして)
 マリエフレドを観察しつつ、クラウディアは思う。
 自分やマリエフレドのような姫君を上手く御せてこそ、『男』ではないか。初めから勝てるとわかる相手にだけ勝負を挑む男性は、どうにも好きにはなれない。
 そして、マリエフレドの花婿たる貴公子は、というと。
「これは、妃殿下。ご機嫌麗しく」
 踊るようにクラウディアの前に滑り出した『花婿』は、花嫁そっちのけといった様子で、クラウディアの前に片膝をつく。洗練された動きに、周囲に集う貴婦人・令嬢の口元からため息が漏れる――が。当のクラウディアは、冷めた目で義理の従兄弟にあたる彼を見下ろしていた。
「ごきげんよう、ウィルフリート卿」
 差し出した右手の甲に、ウィルフリートの唇が落ちる。
 触れた部分に微妙な熱を感じて、クラウディアは眉をひそめた。
(この男……)
 しかし、そんなことはおくびにも出さず、彼女は扇をひらめかせつつ彼から離れる。いな、離れたのは身体だけだった。右手は依然、ウィルフリートの手の中にある。執拗なまでにクラウディアをとらえた義理の従兄は、
「のちほど、一曲、お相手願えませんでしょうか」
 大胆にも王太子妃を舞踏(ダンス)に誘ったのだ。
 その言葉は、新妻たるマリエフレドの耳にも届いていたのだろう。彼女の顔色が変わったのを、クラウディアは見逃さなかった。
(とんだ食わせ者だわ)
 彼は、挑発しているのだ。妻となるべき女性を。そして、王太子妃を。整った柔和な面立ちの奥に、冷酷な本性を隠して、ふたりの器量をはかっている。器量を測られることには慣れてはいたが、あまり気分の良いものではない。特に、こういった自身よりも格下の相手に値踏みされるのは、腹が立つ。
 ほほ、と。クラウディアは笑い、
「わたくしに気を使わずともよろしくてよ? ウィルフリート卿。今夜の主役は、マリエフレド公女殿下および、彼女の花婿たるあなたご自身ではなくて? 第一継承者の妃であろうとも、遠慮をすることはないわ」
 滑らかに拒絶の言葉を浴びせた。
「これは。逆にお気遣いいただき、恐縮にございます」
 ウィルフリートは彫刻のごとき淡い微笑を顔に張り付かせ、ふわりと立ち上がる。一礼してそのまま去るかと思いきや、一瞬、クラウディアの耳元に唇をよせて
「わが花嫁の前に、霞んでしまう貴方様とは思えませんしね」
 幾分、砕けた口調で囁くと、
「さあ、皆様にもご挨拶に伺いましょう」
 花嫁の手を取り、足取りも軽く人の波の中に消えていく。
 なんと厭味な――心の中で呟いて、クラウディアはわざと音をたてて扇を閉じる。皆は、気付かないのか。あの貴公子の腹に巣くう毒蜘蛛に。きれいな顔と柔らかな笑みに騙されて、本質を見失っている――それは彼を慕う女性たちはもちろんのこと、自身では強かな策士を気取るレンティルグの女狐も同じだろう。狡猾で知られる、グレイシス二世はどうであるかはわからぬが。
「あんたは、勘が良すぎるんよ」
 背後に控えたエルナが、小声で告げる。彼女もまた、ウィルフリートの本質に気づいた一人だろう。金緑石の瞳を眇めて、花道を歩く若き二人の後ろ姿を見送っている。
「そういうのは、もう少し隠しておかないとね。笑顔の下で牙をとぐ――それが、一番の策士と思うけど」
「残念ながら、わたしは策士になる気はないわ」
「へぇ?」
「わたしがなるのは、帝王と決まっているもの」
「ありゃ、それは失礼しました――って、女の言う台詞かね、これが」
 やっぱりあんたは男だよ、ホントはついているんじゃないの? と、エルナがふざけてクラウディアの衣裳(ドレス)に手をかけたときだった。
「あら?」
 自室で休んでいるはずの夫の姿を見かけ、クラウディアは軽く眼を見開く。
 自身の侍女ではなく、ツィスカを伴って広間に現れた王太子は、密やかなざわめきと好奇の視線のなか、迷うことなく妻の元にやってきた。
「お加減が悪いのではなくて?」
 傍目からは、夫を気遣う良妻に見えるだろう。特にそれを考えて演出しているわけではないのだが。彼の『病』に気づいてからは、どことなく声に、口調に、労わりが籠ってしまう。弱きものへの配慮、といった、上からの態度なのだろうか。それとも、純粋に夫の身を気遣っているのか。クラウディア自身にもわからぬ感覚が、彼女を支配しているのだ。
「ひとりも、退屈だからな」
 たまには、人の顔も見たくなるものだ。――言って、彼はクラウディアの傍らに立った。気を利かせた小間使いたちが、クラウディアの椅子の横に王太子用の椅子を用意する。
「ありがとう」
 夫の代わりに礼を述べ、彼に椅子をすすめると、クラウディアも着席した。すかさず、別の小間使いが二人の前に飲み物を運んでくる。芳醇な香り漂う、林檎酒である。クラウディアは(グラス)をひとつ手に取ると、
「あなたは?」
 ディグルを見上げた。彼は無言で杯を受け取る。節張り、細くなった指を目の当たりにして、クラウディアの心臓が嫌な音をたてた。
「ディグル」
 妻の掠れた声を聞いたのか、それとも、聞いていなかったのか。ディグルは徐に左手の指から指輪を外すと、それを杯の中に無造作に投げいれた。しゅっ、と小さく泡が弾ける音がして、銀色に輝いていた指輪はどす黒く変化する。
「あ」
 毒だ。銀が、毒に反応したのだ。クラウディアは声を抑えるのに必死だった。
「あんた」
 エルナが蓮っ葉な言葉で小間使いを呼びとめる。そそくさとその場を去ろうとしていた小柄な娘は、驚いたようにエルナを振り返った。
「これ、どこから持ってきた?」
 与太者のような口調で尋ねられ、若い娘は震え上がる。
「エルナ」
 だめだ、この娘は、何も知らない――言いかけたクラウディアを、ディグルが制した。
「その娘を、捕えておけ」
 感情のこもらぬ声で命じると、彼は杯を手にしたまま席を立つ。もしや、彼はそのまま毒杯を呷る気ではないのか。クラウディアの危惧は、次の瞬間霧散した。ディグルが、杯の中身をバルコニーから捨てたのだ。
 王太子の奇怪な行動に気づいたものは、それぞれに眉をひそめて彼を凝視していた。そのなかに、現王妃ラウヴィーヌも含まれていることを、クラウディアは視線の端で確認した。
(なるほどね)
 ディグルは、わざと派手に動いた。そういうことなのだろう。彼はラウヴィーヌに一瞥をくれると、エルナを促した。エルナは何食わぬ顔で小間使いの手を取り、軽やかな足取りで広間を出ていく。ラウヴィーヌは、二人の姿をも眼で追っていたようだったが。クラウディアの視線に気づくと、
「……」
 扇越しに妖艶な笑みを送ってよこす。
(レンティルグの、毒蜘蛛)
 美女の皮を被った化け物は、漸くその触手を伸ばし始めたようである。



 ほほほ、と。軽い女性の笑い声が聞こえる。
 舞踏会の行われている、華やかな大広間――そこから少し離れた控室に、
「疲れたので、少し休んでまいりますわ」
 適当な口実を述べて、ラウヴィーヌ后と彼女の女官でもあるオルウィス男爵夫人が入ったのは、つい先程のこと。飲み物を持参した侍女を返し、二人きりとなったラウヴィーヌが、視線で男爵夫人に指示を出すと。
「誰もおりません」
 夫人は、自ら素早く扉の前と窓の外を確認する。
 ラウヴィーヌは艶やかな刺繍が縫い取りされた長椅子(ソファ)に体を預け、満面の笑みで夫人を見上げた。
「『生贄の羊』は、今頃王太子の元で、どのような拷問を受けておるのか」
 それを想像すると、楽しくてたまらない。そういった表情である。
 男爵夫人も尤もらしく頷き、
「あの娘をどれほど責め立てたところで、何も出てくるわけがございません。あれは、ただ、給仕をしただけなのですから」
 ラウヴィーヌ同様、嘲りを含んだ笑みをこぼす。

 王太子夫妻暗殺――とまではいかぬが、『威嚇』をしたのは、ラウヴィーヌ。それに、オルウィス男爵夫妻である。もとより、王太子らを殺害する気はなかった。ただ、脅すだけ。そして、まるで関係のない給仕役の娘を目くらましとして用いたのみである。あの娘と、オルウィス夫妻はもちろん、ラウヴィーヌ自身もまるで縁はない。偶然、毒の入った飲み物を、王太子夫妻に運んでしまっただけなのだ。無論、その毒杯を仕掛けたのは、オルウィス夫妻の息がかかった者なのだが。

「これで王太子妃(クラウディア)が、毒殺を恐れるようになると、ことは更にうまく運びそうですわ」
 ラウヴィーヌの構想にあるのは、クラウディアの毒殺ではない。彼女の馬術好き、剣術好きにことよせた事故。不幸な事故による落命を謀っているのだ。そのほうが、毒殺よりも余程確実で信憑性がある。現に、先のアルメニア皇帝も、落馬の折の傷がもとで亡くなったというではないか。父帝と同様の最期を遂げられるのであれば、クラウディアとしても本望だろう。
「妃殿下の愛馬には、少しずつ薬を飲ませております」
 人間の食事に関しては、毒見役の存在が邪魔になる。しかし、相手が動物であれば。餌に薬を混ぜるなど、容易なこと。誰も、馬に薬物を投与していることなど気付かないだろう。
「近日中に、ウィルフリートとマリエフレドの名で『狩り』が行われます。後見人として、王太子夫妻も出席せざるを得ないでしょう。王太子は、あの通りの病身。なれば、と、王太子妃が手綱を取るのは明白」
「その折に、事故が起きても、不自然ではございませんものね」
 二人の女性の笑い声が、密やかに重なる。


「――そういうこと」
 ふ、と。
 彼女らの留まる部屋の外、溜息をつくものがいた。エルナである。
 金緑石の瞳をもつ裏巫女は、窓の傍らに背を預け、胸高に腕を組んで。
「単純すぎ」
 嘲笑を浮かべ、空を仰いだ。
 天空に張り付いた星々が、彼女に何かを伝えるように激しく瞬いている。天から『巫女』への啓示(メッセージ)か。エルナはそれを受け取ったのか、それとも拒絶したのか。一瞬、睫毛を伏せて、その場を離れた。



 暗がりの中に一人、娘が佇んでいる。この部屋に連れてこられてから、どれほどの時が流れたのだろうか。

 ――ちょっと、こっちに来な。

 蓮っ葉な言葉の侍女に強引に広間から連れ去られ、向かった先は、宮廷内に設えられた豪奢な部屋。貴人の私室か、彼女が今までに一度も見たことのないような、洗練された部屋であった。
(どうしよう)
 不安に、涙がこぼれそうになる。
 宮廷に勤めて一年、漸く華やかな舞台に出られる仕事を得られたのに。何か粗相をしてしまったのだろうか。それともなんらかの形で、高貴なる人々の不興を買ってしまったのだろうか。
 これから自分はどうなるのだろう。
 故郷には、年老いた両親がいる。病に倒れた兄がいる。兄を支え、必死になって働く兄嫁と、まだ小さな甥や姪も。彼らのために、これからも仕送りをせねばならぬというのに。クビだろうか。それとも、最悪の場合、処刑されるのだろうか。震えながら黒く塗られた未来を危惧する彼女の前に、
「お待たせ」
 場違いなまでに明るい声を発しながら、あの金緑石の瞳をもつ侍女が現れたのは、それからどのくらい経った頃だろうか。
「ちょっと、野暮用こなしていたら遅くなっちゃって。ああ、寒かったよね。なにか、羽織るものを渡しておけばよかった」
 心底済まなそうに謝る侍女に、少女は小さくかぶりを振った。
「あの」
 私はどうなるのでしょうか――尋ねる前に、
「あたし、エルナ。エリィって呼んでもいいよ」
 徐に侍女が切り出してきた。
 エリィ、と、少女は口の中で繰り返す。
「あんたは?」
「あ――アデル、です」
 問われて思わず名乗ってしまう。本当は、別のことを言いたかったのに。自分の未来を、彼女に――エルナに尋ねたかったのに。
「そう。アデル。いい名前だね」
 にこりと笑うその顔、エルナの綺麗な表情に引き込まれ、アデルはつい、自身のおかれている立場を忘れてしまう。
「あんた、王太子殿下に給仕をしたでしょう? あの(グラス)、誰から受け取ったか、覚えている?」
 そこ、大事なとこよ、と。エルナが念を押した。
 杯――アデルは思わぬことを聞かれて、目を見開いた。杯。自分はあれを、どこから持って来たのだろう。厨房から、というのは当然だとして。
 いや、厨房ではなかった。
 広間の壁際に控えていた自身の前に、

 ――今、王太子殿下が見えたから。これを両殿下のところにまで運んでちょうだい。

 誰かが盆を押しつけたのだ。
 誰かが――誰が?
「覚えてない?」
 エルナの問いに、アデルは頷いた。申し訳ない気持が心を支配したが。思い出せないものは仕方がない。
 エルナは暫しのあいだ、腕を組んで考えに耽っていたようであったが。仕方がない、と、呟いて。
「アデル。あんたの所属は? 厨房? 広間? どの管轄に勤めているの?」
 更に不可解な問いを投げかけてくる。アデルは素直に厨房の所属だと答えた。するとエルナは、
「じゃあ、明日から東の離宮に配置換えだって。あんたの上司に言っといて。正式な通達は、明日迎えに行くときに出すようにするから。いいね?」
「はっ、はい……?」
 どういうことなのだ? 自分は、東の離宮に配置換えになるのか。東の離宮といえば、王太子夫妻の住居である、そこに勤務することになるのか。
「お、お給金は! お給金は、今までと変わりなく、頂けるのでしょうかっ?」
 思わずエルナに詰め寄ると、
「へ?」
 彼女は呆気にとられたように眼を見開いたが。やがて、可笑しそうに吹き出した。いやだよこの子は、と、涙を流しながら転げ回り、挙句にバシバシとアデルの背を叩く。自分が何か妙なことを言ってしまったのだろうか。それとも、つい、訛りを丸出しにして、それがエルナのツボに入ってしまったのか。
 どちらにしろいたたまれぬ気分になり、アデルは顔を真っ赤にして俯いた。
「大丈夫。間違いなく厨房にいたときよりも給金高くつくから。侍女――ではないけれど、小間使いかな。王太子妃殿下付になれるよう、あたしが頼んでおくからさ」
 妃殿下付。
 小間使い。
 アデルは信じられぬ思いで、エルナを見つめた。王族直属の使用人になど、一介の平民がなれるわけがない。少なくとも、騎士階級の出身でなければ、小間使いにすらなれぬのだ。もしも、エルナの言葉が本当ならば、自分はとんでもなく幸運だ。誰もが羨む出世をしたことになる。
「本当ですか?」
 天にも昇る気持で幾度も確認をしたが、エルナはその都度アデルの待遇を確約してくれた。
 自分は不幸なのではない、幸運の女神に愛されたのだ――アデルは、夢見心地でその部屋を出た。今夜、厨房に戻ったら、責任者にこのことを告げよう。責任者はどんな顔をするだろうか。まさか、と、相手にしてくれないかもしれない。けれども、明日になれば。明日になれば、東の離宮からの使者がそれが真実だと告げてくれるのだ。
(……)
 恋する乙女の如く頬を染めて、アデルが人気のない回廊を横切ったとき。
「……?」
 柱の陰から延びた手が、彼女の細い腕をとらえた。
 誰、と、誰何の声を発する間もなく、アデルの身体は闇に飲まれる。

 静寂だけが変わりなく、そこに鎮座していた。


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