ゲルダ街。そこが何処であるのか、どのような意味を持つ場所であるかの前に、なぜ、かの土地の名を知っているか。そのことの方が奇異である。
タティアン大公領に、『ゲルダ街』という地名は確かにある。だが、その土地は長らく通称で呼ばれて来たのだ。『魔女の懐』と。あえてその通称を言わず、土地の名で尋ねてきたエルナ、彼女も当然、その場所の意味を知っているだろう。知っているからこそ、にやにやと勝ち誇ったようにその名を口にするのだ。
『魔女の懐』――裏の世界では有名な、『市場』である。
ダルシアの『貴婦人の褥』、ミアルシァの『花宴』に匹敵する、人身売買をはじめ非合法の劇薬の取引が行われる土地。大陸の闇の部分に属するものでなければ、生涯かかわりを持たない、もしくは、知らぬままに過ごせる場所なのだ。
(……)
どうするか。ツィスカは逡巡した。
このまま、知らぬ存ぜぬを通すか。それとも、逆にエルナにかまをかけるか。
「前の主人の、使いで参りましたの」
当たり障りのない返答で、とりあえずこの場をしのぐ。その道をツィスカは選んだ。
「へぇ」
ふうん、と。何事か感心した様子で、エルナは頷く。まさかこの答えを鵜呑みにしたわけではあるまい。それは、エルナの表情から容易に見て取れる。
「まあ、お互い知られたくないことには触れないようにしましょう。乙女の過去は、奇麗にしていたいものね」
片目を閉じて、エルナはそのまま階段を上った。ツィスカは無言でそのあとに従う。まるで、現在の互いの立場を示しているようで、胸に焦げ付いたような痛みが走る。
この女性は油断ならない。
ルナリアよりも。
もしや、エルナもまた、自身と同じ目的で王太子妃に近づいたのではないか――ふと、そんなことを考えて、ツィスカは自嘲した。ありえない。いや、実際はあり得ないことはないのだが。この女性に限り、それは違うと思う。思わせる何かが、ある。
ツィスカは目の前で揺れる金褐色の髪、偽りの色を持つ髪を見つめ、そっと唇を噛みしめた。
◆
オリア随一の繁華街、ズライカ。表通りに軒を連ねるのは、王侯貴族御用達の大店から、少し流行り出した人気店、それに劇場などが軒を連ねている。劇場に赴いた貴族たちが、その帰りにふらりと店に立ち寄るのはよくあることであり、別段珍しくもなかったのだが。
「まあ、これは王后陛下。お知らせを頂ければ、お城にまかり越しましたのに」
初老の女主人の前に現れたのは、侍女を一人供としただけの王妃ラウヴィーヌであった。忍びのためか、衣裳もさほど豪奢なものではない。が、その質は見るものが見れば目を見張るであろう、最上級のミアルシァ産の布地を使用している。
ラウヴィーヌは顔を覆っていた仮面を取り外し、それを侍女に渡すと
「ああ、気にしないで頂戴な。思い立って立ち寄っただけです。すぐに帰るので、お構いなく」
婉然と微笑む。
この店は、ラウヴィーヌがフィラティノアに嫁いで以来、贔屓にしている高級菓子店である。彼女がことのほか愛している焼き菓子や、乳製品を使用した生菓子を取り扱っている店で、最近では宮廷の晩餐の甘味は、この店から派遣された職人が全てを取り仕切っていた。
「今度、お茶会を開こうと思うの」
にこり、と、先程とは異なる無邪気な笑みを浮かべるラウヴィーヌ。
「ヒルデブラントの姫君をお迎えするので、あちらの方のお菓子も合わせてお願いできないかしら?」
「ヒルデブラントの、で、ございますか?」
公女マリエフレドとウィルフリートの婚約の件は、非公式ではあるが発表されている。当然、王宮出入りの商人たちは、花嫁の関心を引こうと躍起になっていた。この女主人も例にもれず、新たなる王族顧客獲得に目を輝かせている。ここでマリエフレドの眼に適えば、王妃の他にももう一人、強力な後ろ盾を得ることになるのだ。
「姫君は、ことのほか甘味がお好きとか。フィラティノアを蛮族の地と思われないよう、腕によりをかけてお持て成しをしなければ、ね」
扇で口元を隠し、ラウヴィーヌは軽く首を傾ける。
自ら茶会の菓子の手配をしたのち、彼女は馬車に戻るかと思いきや――通りを隔てた向かいの劇場に足を運んだ。上演されているのは、『ルキアの婚礼』。ミアルシァの喜劇である。
「ルキア、ね」
ほ、と。溜息をつき。彼女は侍女を伴い中へと入る。賓客専用の通路を抜けて、三階の個室席へと赴けば
「あら、お待たせしてしまいましたわね」
そこには、先客がいた。ラウヴィーヌ同様、仮面をつけた男性である。年齢の割に豊かな銀髪を丁寧になでつけた、品のある紳士。と、その傍らにひっそりと、だが深紅の衣裳に身を包み、それなりに自己の存在を主張する貴婦人の姿があった。
「御令室もご一緒でしたのね」
ラウヴィーヌの言葉に、男性の妻は優雅に立ち上がり、礼をする。美女揃いのフィラティノアにおいては、可もなく不可もない、目立たぬ顔立ちの女性である。自身もそれを承知しているのか、必要以上に出しゃばることはない。けれども、時折、自身の存在を気付けと言わんばかりの派手な形をして現れることがある。今日が、それだった。
いわゆる、『お忍び』で城下におりたラウヴィーヌである。目立つことは好まない。それなのに、この女性は、と。ラウヴィーヌがわずかに眉をあげたのを、紳士は見逃さなかった。
「申し訳ございません、以後、慎しませます」
夫の言葉に、妻は不愉快そうに口元を歪める。
「気にしなくてよ、オルウィス殿。それよりも」
ラウヴィーヌは扇で口元を隠しつつ、彼に囁きかけた。
「王太子付の医師を、続けて二人も罷免されたようですけれども。あの『魔女』は気付いているのかしら、こちらの動きを?」
「いや、それが」
オルウィス男爵は、渋く表情を変化させる。
「手のものに探らせてはいるのですが、なかなか、妃殿下も賢い方のようで」
「尻尾はつかませない、そういうことですわね」
最近の王太子妃の動きは、ラウヴィーヌにとっても脅威である。夫に対してわずかなりとも愛情が芽生えたのか、彼の健康を害している、そう思える動きをする医師を――ラウヴィーヌの息のかかった医師をあっさりと罷免した。ならば、と、代わりの医師を紹介しても、そのものも三日と経たずにお役御免となってしまったのだ。
更には、何を思ったのか。王太子妃は暇があれば図書館へと籠り、この国の歴史及び地理について学んでいるという。将来の国母として頼もしい限りだと、グレイシス二世の覚えはめでたい。重臣や国王取り巻きの貴族たちもその気配を聡く読んだのか、最近では王太子妃贔屓の派閥まで誕生している模様である。
(あの娘……)
王太子妃は、着実に宮廷内に足場を築いている。
いったい彼女の目的は何であるのか。王太子妃の心が読めぬだけに、歯がゆい。
「ともあれ、リオラを失ったことは痛手ですわね」
リオラ、の名に、男爵夫人の顔色が変わる。手塩にかけた愛娘を、王太子妃に殺害された――そう信じている彼女にとって、娘の名は禁忌である。男爵は腫れ物にでも触るように妻を宥めると、
「その点は、また別に考えがございますゆえ」
王妃に対しても当たり障りのない答えを返した。
「ともかく、エリシア前妃を探し出すことよりも、あの魔女の始末をする方が先決でしょうね。彼女の存在は、我が国のためにはなりませんわ」
王太子妃暗殺令。それに等しい呟きに
「御意」
男爵夫妻は短く答える。
だが、その答えは観客の拍手によって打ち消された。
彼らの思惑とはまるで異なる、華やかな芝居の幕があがったのだ。『ルキアの婚礼』――その皮肉な標題にラウヴィーヌが口元を歪めるのを、男爵は無言で見つめていた。
◆
「随分熱心なのねえ」
夜の稽古を終えて、自室に帰ろうとするところを、運悪く――とも言えぬが、エルナに見つかってしまった。王太子妃が夜陰に紛れて剣をふるう。その光景を、どこまで見ていたものか。エルナは樹木の一つに寄りかかり、軽く腕を組んだ姿で、悪びれもせず主人に声をかける。
「それに、意外に剣筋がいいじゃない」
到底、自身の主君、それも王族相手にかける言葉ではないが。クラウディアは別段、怒りはしなかった。寧ろ、さばけた喋り方をしてくれるエルナの方が、気が置けなくていい。
「あなたも嗜むのでしょう? それなりに?」
鞘におさめた長剣を右手に抱え、クラウディアは額の汗を拭う。
秋とは言え、もう、北国では冬も同然である。周囲の空気も冷たく、息も白い。その中で汗ばむほどに稽古を重ねていたクラウディア――彼女に、エルナは何を思ったのだろう。青緑の瞳を細めて、何事か観察する風に首を傾げる。
「まあ、それなりに、だけどね」
気のない返事をしてから、エルナは少女のように声をたてて笑った。
「ルナリアが惚れるの、わかるわぁ。ほんと、男らしい」
「――褒められているのか、けなされているのか。複雑ね」
衣裳姿で剣をふるう娘は、男らしいのか。お転婆、じゃじゃ馬、とは言われるが。流石に『男らしい』と言われたのは初めてである。
「衣裳着てようが、髪を結っていようが、化粧していようが、中身は隠せないよ。あなたは男だね、完全に。だから」
「だから?」
「処女なわけだ」
ぶっ、と。エルナは今度は吹き出した。
「……」
それは、人妻に向かって面と向かって言うことなのだろうか。クラウディアは眉をひそめ、新参の侍女を見つめる。
「ああ、失礼。でもね、そうでしょう? あなた、自分がカマ掘られるの厭なんでしょう。どっちかっていうと、掘りたい方じゃない?」
エルナは、初夜の夫婦の会話を聞いたのか。疑いたくなるほど、その指摘は的確だった。
「女に生まれたのは、間違い……でもないね。あなたが男だったら、千人斬りっていうか。何人もの女を泣かせそう」
「それ、わたしが遊び人てこと?」
「男だったら、の話よ。ああ、そうね。あなたは生涯処女を通すでしょうよ。『男』だから。男だから、男に抱かれることを由としないのだわ」
「……」
「ほんと、あなたが男だったら。抱いてほしいわねえ」
姿勢を低くして視線を合わせるエルナ。クラウディアは疲れた笑みでそれに応える。全く、裏巫女の思考はわからない。エルナの言い分からすれば、自分は片翼に纏わりついているあの暗殺者のようではないか。異性と見ればすぐに誘いをかける――というより、女性が色目を使うのか。
(ああ、それで?)
それで、自分はあの男が嫌いなのかもしれない。どこかしら、似た性質を持っている、それはあながち誤りではないだろう。そうだ。だからこそ、アグネイヤは。
ジェリオの中に、クラウディアの影を見ているのかもしれない。
クラウディアの、否、見たことのない父の、面影を重ねているのかもしれない。
(う……)
片翼の幼い心を分析して、クラウディアは額を押さえた。
下手をすれば、その甘えを利用して、あの殺し屋はアグネイヤを自身の欲望を満たす道具にしてしまうだろう。
「で? わたしに何か用があったのでしょう? 用があったから、待っていたのよね?」
溜息交じりに問えば、エルナは一瞬キョトンとしたが。
「あ。そうそう」
思い出した、とばかりに声を上げる。
「でも、ちょっと、ここじゃあね」
クラウディアの姿を一通り見つめて
「部屋に帰ってからにしましょうよ。早く着替えなきゃ。風邪ひくわよ、それじゃ」
にこ、と笑い、エルナは彼女の背を押した。そのまま子供がじゃれ付くかのごとく、両手でクラウディアの肩を押しながら
「ほっほーい」
妙な歓声を上げて屋内へと導く。
クラウディアはエルナの座興につきあいつつも、一瞬だけ視線を動かした。
木立の向こう、彼女らからはちょうど死角になる場所に、ちらりと見えた人影。エルナもそれに気づいたのだ。だからこそ、ここを離れた。『気づいた』ことを相手に悟られぬよう、さりげなく。
(やるじゃない)
新参の侍女の行動に、クラウディアは小さく笑う。
ディグルの眼は、やはり、節穴ではなかったのだ。
「きゃあ、この傷。ますます男らしいわぁ」
エルナは黄色い歓声を上げた。
クラウディアの、背中の傷を見たのだ。
「……」
彼女は内心舌打ちをする。今まで、これは侍女頭とリオラ、それにツィスカにしか見せたことがない。見られてあまり嬉しいものでも誇れるものでもなく。寧ろこの傷こそが烙印。自身が真実の皇帝、アグネイヤ四世である証なのだ。
その事実を知る者は、少ない。双子が『入れ替わっている』ことを知るのは、旧アルメニアの主だった者たちだけである。だからこそ、彼らはアグネイヤを唆し、自ら死地に赴くよう画策した。結果は、彼らの思惑とは異なり、アグネイヤが帰還してしまったのだが。
あれは、間違いだったのか。
片翼の想いを叶えて、自分が帰れば良かったのか。帰って、神聖皇帝として戴冠して。そして――フィラティノアを滅ぼし、片翼を取り戻した方が良かったのではないか。
(馬鹿だわ)
クラウディアは己の考えを否定する。
一度決めたことなのだ、これは。今更、覆すことなどできない。サリカは、アグネイヤになると言った。彼女がそう決めたのだ。簡単に揺らぐ決心であってはならない。ことにこれは、国家の未来を左右する重大な事項なのだから。
「でも、後ろ傷って嫌ねえ。逃げたわけじゃないんでしょ?」
あなたのことだから、と。
新たな衣裳を羽織らせながら、エルナが尋ねる。
「ああ。これは、そうね」
クラウディアは遠い眼をした。
あの日。自分たちは午後の講義に出るかでないかで賭けをしたのだ。普段は自分から一歩引いてしまうサリカが、その時に限っては賭けに勝った。
――ごめんね。
すまなそうに言う片翼を見送り、クラウディアは――マリサは一人、講堂へと向かった。神学の講義を受けるためである。その途中、刺客に襲われたのだ。刺客として紫芳宮に紛れていたのは、一人ではなかった。複数の不届き者が回廊の影から現れ、マリサを殺めんとした際に、
――逃げなさい。
彼女は同行していた侍女たちを庇い、剣をふるったのだ。
おまえには、長剣が合う――師に言われて、マリサは常に帯刀していた。それが幸いして、刺客たちは彼女一人ですべて屠ることができた。
が。
――殿下。
駆け寄ってきた侍女を
――危ない。
背後に押しやったとき。
――!
背に、焼けつくような痛みを感じたのだ。
赤黒く染まる、視界。
喉の奥から込み上げる、不快な塊。
つう、と唇の端から零れたものを手にとって、マリサは大きく眼を見開いた。
血、だった。
――?
振り返れば、血染めの剣を握る侍女の姿があった。先程庇った娘たちの一人である。彼女は青白い顔に凄惨な笑みを浮かべ、狂気の声を上げた。
――お覚悟。
鋭く突きだされた剣を、マリサはかろうじて受け止めた。受け止めただけで、精一杯だった。意識が、徐々に遠のいていく。
そのあとのことは覚えていない。
次に目を開いたのは、自身の寝室だった。泣きそうな顔の片翼が、こちらを覗きこんでいる。アグネイヤの――サリカの暁の瞳を見て、
――生きている。
改めて実感した。と、同時に。背に激痛が走り、マリサは顔を歪める。
――痛い? 苦しい?
悲痛な声で問う片翼に、大丈夫だと告げたかったが。声が出なかった。それが一層、片翼の心を乱したのだろう。彼女自身も傷を受けたかのような、蒼白な顔をしている。その震える唇が、マリサと寸分違わぬ形良い唇が、思いもよらぬ言葉を発したのは、次の瞬間だった。
――私が……いえ、『僕』が。僕が、皇帝になる。
傷を受けたときよりも、衝撃的な言葉だった。
片翼は何を言っているのだ。マリサは一瞬、意味が解らなかった。自分は熱に浮かされて、ありもしない幻を見、幻聴を聞いているのではないか。もしくは、自分は刺客の刃に倒れて、冥府へ下っていて。残されたサリカが否応なく継承宣言をさせられているのではないかと。
違う。
皇帝になるのは、わたし。
わたしこそが、アグネイヤ四世。
エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤを継ぐ者。
しかし、マリサの声は、言葉にはならなかった。
あのときから、サリカはアグネイヤに、マリサはクラウディアになったのだ。そして、アグネイヤとなった片翼は、以降頑なに自身のことを『僕』と。そう称するようになっていた。
「妃殿下? 妃殿下? どうしちゃったのさ?」
エルナの声で、我に返る。着替えはとうに終わっていたのに、動こうとしないクラウディアを彼女は不審に思ったらしい。
「なんでもないわ」
無理に笑みを作り、クラウディアは鏡の前を離れる。離れる前に、ちらりと中にうつる自身の姿を見た。
「……」
鏡の中には、常に片翼がいる。寂しげな眼をした、甘え上手な片翼が。脆い心に重すぎる帝冠を頂いた、偽りの皇帝が。
「この姫は……」
「はい?」
クラウディアの呟きに、エルナが首をかしげた。
「この姫は、長く歴史に名を残すことでしょう。混沌を呼ぶものとして」
「――なに、それ? 詩? 予言?」
「わたしたちが生まれたときに、高名な予言者が語った言葉よ」
信じていなかったけどね、と。付け加えて、クラウディアは今度こそ鏡から離れる。
信じてはいなかった。
そう、今までは。けれども。今は、少し。少しだけ。信じている自分がいる。
混沌を呼ぶ姫君。確かに、自分は――自分たちは、そうかもしれない。
彼女らはそれぞれ、進むべき道を誤ったのだ。
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