AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
12.暗雲(4)


 いったい何を考えて、ディグルはエルナを自分の侍女としたのか。ルーラからの依頼というが、それならば他にも適任がいるはずだ。それとも、ディグルが信頼を置くことのできる人物が、ルーラを除けば彼女だけということになるのだろうか。
(人脈なさそうね)
 わが夫ながら、情けない。それはあの、人嫌いな性分から発するものだろうか。舞踏会にも茶会にも出席せず、ひたすら内に籠る傾向のある世継の王子。その美貌は詩人によって中央諸国はおろか、大陸中に広まっているというのに、彼の本質を知る者はルーラを除いて他にはいない。幼いころの事件が未だに尾を引いて、人間不信に陥っているからか。それとも単に、母后を失脚させたラウヴィーヌに対して警戒を解いていないからか。その辺りは不明だが。
 せめて、もう少し。人脈を作っておかねば、後々苦労することは目に見えている。
 フィラティノアは、集合国家といっても過言ではない。
 国守と呼ばれる有力貴族の頂点に立つのが、王家である。現在は王家が最も力を持っているために諸侯が従っているだけにすぎず、少しでも王権が揺らげば、別の貴族が台頭してくるだろう。皆、首のすげ替え時を今か今かと待ち望んでいるのだ。
 これは少し、考えなければならない。
 夫が人嫌いなのであれば、自分が。――自分が、裏で動かなければ。
 そのために、エルナはかなり役に立つ存在ではないか。そう考えると、自然、ディグルの意図も見えてくる。
(馬鹿じゃないことは、確かね)
 クラウディアの宣言を聞いて、ディグルも思うところがあったのだろう。
 ラウヴィーヌに奪われるくらいであれば、クラウディアに王冠(フィラティノア)を渡す。そう決心したからこそ、有益なる手駒をクラウディアに与えたのかもしれない。
 そこに思い至れば、あとは、簡単だった。
「あなたには、色々お願いしたいことがあるのだけれど。聞いてくださるかしら?」
 空になった碗を置き、クラウディアは優雅に微笑む。エルナは「お好きに」とでも言いたげな表情で、肩をすくめた。『彼女』とディグルの間では、既に話はついているのだろう。
「まずは、髪。色を、染めるなり鬘を使うなりして頂戴」
 思わぬ依頼に驚いたか、エルナは
「ちょ、ちょっと待ってよ、妃殿下」
 慌てた風に姿勢を改める。
「なんでそこから始まるのさ?」
「考えてみて頂戴。ここでは黒髪は目立つのよ。ついでに言わせてもらえば、黒髪に、『聖女の瞳』。完全にミアルシァ王家の血をひく者の容姿だわ。フィラティノアだからわからない、とか気楽に考えているわけではないわよね? 特徴的な姿を持っているものは、基本、密偵には向かない。ここはオルネラではなくてよ。神殿の閨とは違う。白昼堂々、顔をさらして行動するのであれば、目立たぬ方が得策でしょう?」
 クラウディアの言葉に、エルナは気圧されていた。明らかに驚いた様子で、今は青緑に染まる瞳を大きく見開いている。
「密偵は極力特徴のない顔がいいのだけれど、目の色までは変えられないでしょうし。だとしたら、髪。髪だけは何とでもできるでしょう?」
「――妃殿下は、あたしに髪を脱色しろというの?」
 何とも情けない声で、エルナが尋ねる。クラウディアは間髪入れずに頷いた。
「どうしても?」
「自分の職務が分かっているのであれば、できるでしょう?」
「そんなぁ」
 エルナが涙目になる。彼女、この緑の黒髪が気に入っている模様である。どころか、あの忌まわしいといわれている『聖女の瞳』すら、美しいと思っているのだろう。確かに、整った顔に豊かな黒髪、光の加減で色が変化する瞳は、『商品』としては魅力的である。しかし、一歩それを離れてしまえば、目立つ烙印にすぎない。
 この調子では、今までにも幾度か彼女は素のままで密偵行為を行ったのではあるまいか。
(意外に、鈍いのかしらね?)
 クラウディアは眉間を指先で抑えた。思ったよりも使えないのかもしれない、この裏巫女は。
「それともなにかしら? あなたは本当はミアルシァの密偵で、フィラティノアの内情を探るために潜入したのだとでも?」
「それはない」
 揶揄を込めた問いに、エルナは憤りを見せた。彼女は瞳の奥に怒りの炎を揺らめかせ、主人たるクラウディアを睨み付ける。
(あら)
 エルナは、ミアルシァに対して、良い感情を抱いていない。それは、『封印王族』全般を通して言えることであるが。これほどまでに嫌悪を露わにしたものを見たことはない。封印王族は、穢れた仕事を与えられる。どれほど高貴な血を受け継いでいたとしても、遊女同様に扱われるか、もしくは、密偵の仕事をさせられるか。エルナがどのような経緯でミアルシァではなく、フィラティノアの密偵となったのかは不明であるが、今の彼女の表情から推し量るに、
(聞かない方が良いかもしれないわね)
 そういうことなのだろう。
「ミアルシァ? あんな国のために、身を粉にして働く気なんてないわよ。冗談じゃない。――って言っても、信用はされないわよね」
 台詞の後半に、苦笑が混ざる。エルナは未練たらしそうに毛先をいじっていたが、「しかたがない」という風に、やがて溜息をついた。
「あの金髪娘には、見られちゃっているけど?」
 そこはどうやって取り繕うのだと、エルナは尋ねる。
 そうだった。ツィスカ。彼女と、それからどれだけの数に上るかは不明だが、離宮の使用人たちは、エルナの姿を見てしまっている。まさか、その全員の命を奪うといった乱暴な手段を取ることはできない。
「気分転換、とでも言っておけばいいじゃない? 聞かれたら。自分から話題に出すと、胡散臭く思われるからね。――もしくは、こちらの黒髪のほうが鬘で、実際は別の色の髪だったとでも言っておけばいいのではなくて?」
「そんな無茶な」
「無理は、通すものよ」
 クラウディアは片目を閉じる。


 その言葉が駄目押しとなったのか。翌日、目覚めたクラウディアを迎えたのは、金褐色の髪の娘だった。一晩かけて脱色したのだろう。涙ぐましい努力は認めるが、
「なんだか辛気臭い顔をしているわね」
「誰のせいだと思っているのよ」
 あからさまにムッとした表情をされていては、こちらも気分が悪い。が、幸いなことにツィスカもエルナの髪については言及せず、他の小間使いたちも特に何も言わなかった。皆、本当に気にしていないのかもしれない――クラウディアは、そのおおらかなフィラティノアの気質を、好ましく思う。宮廷の作法もアルメニアに比べれば、いたって簡素である。王太子妃といえども、付き添う侍女の数は、片手の指に満たない。アルメニアでは、終始十名を越える侍女が周囲を取り巻いていた。そのことを考えると、婚姻も悪いものではない。
 ついでに言えば、男色家にして権力に興味のない夫など、クラウディアにとっては願ったり叶ったりである。
 夫の真意を確かめた今、誰に遠慮をすることもない。
 フィラティノアを手中に収める。この計画を、実行するときがやって来たのだ。



 王太子妃の印象は、想像とまるで違っていた。黒髪に古代紫の瞳、白磁の肌に珊瑚の唇、といった容姿の方は
「ああ、なるほど」
 詩人に歌われるのも、納得できるものがある。
 ただ。性格が違うのだ。
 深窓の姫君といえば、風に吹かれても折れてしまいそうな、脆弱な精神の持ち主か。高慢な態度が鼻につく、我儘か。もしくは表面だけ気取った、腹の底では何を考えているのか得体の知れぬ女狐か――おおよそ、大別してそのどれかに当てはまるものだと思っていた。
 そう、フィラティノア王太子妃ルクレツィア――本人はあくまでも『クラウディア』を名乗っているが――に出会うまでは。
 なにより、彼女は変わっていた。雰囲気に、女性らしさは欠片もない。衣裳(ドレス)をまとい、宝石を身につけ、流行りの(スタイル)に髪を結っていてさえ、彼女の中から感じられるのは『男性』。それも、『父性』である。時折、ここにいるのは姫君ではなく、女装の皇子なのではないかと錯覚してしまうほど、彼女は女性を感じさせない。
 だからこそ、調子が狂う。女性的であれば、特有の自尊心をくすぐって、懐深くに入り込むことができるのに。彼女にはその手法が効かない。半年以上傍に仕えているはずなのに、いまだ少しも主人たる王太子妃の心をつかめていないというのは、どうしたことだろう。何と言う失態。

「……」

 らしくない溜息をつき、ツィスカはひとり調理場へと足を運ぶ。朝食の折、王太子夫妻が好んで口にする葡萄酒が、運悪く切れてしまっていたのだ。それがないからと言って、取り立てて激怒するような夫妻ではないが、手落ちはなるべくなくしておいた方がいい。
 可もなく不可もなく、が、現在の自身に対する評価であるのであれば、そのままにしておいたほうが何かと便利だろう。ことに、派手な新人の侍女が王太子妃に仕えるようになった今は。
「あなたも大変ですねえ」
 調理場の主任が、苦笑を浮かべながらツィスカに葡萄酒の瓶を渡す。樽から出したばかりの、新鮮な葡萄酒である。その美しさにツィスカは「ほう」と息をつくが、蝋燭に照らされた神秘の赤は、新参侍女を思い出させて。彼女は、ふっと表情を曇らせる。
 王太子妃は、夫より紹介されたというあの新人を重用していた。より長く傍にいる自身(ツィスカ)よりも。
 新人がうまく王太子妃に取り入ったのか。それとも、たまたま波長が合ってしまったのか。理由はわからない。けれども、あの新人――エルナ、といったか。彼女は決して良家の娘ではなく。寧ろ素性のわからぬ卑しい娘である。初めてツィスカが彼女と対面したのは、王太子妃が巡察の名目で旅に出ていたときであった。ルナリアよりの使い、と称して離宮に現れた彼女は、堅気ではない、舞姫のような扇情的な姿をしていたのだ。
(王太子の、愛妾)
 そのときは、そう思った。ルナリアのほかに、王太子が愛人を囲っていると。
 以来、エルナの姿はふつりと消えた。再びまみえたのは、先日である。もう、十日ほど前になるか。今度は新参の侍女として、紹介されたエルナを、ツィスカは不可解なものでも見るような眼で見てしまった。
 いったい、王太子は何を考えているのか。
 妻も変わり者ならば、夫も変わり者である。
 自身の愛妾をどれだけ正室にまとわりつかせれば気が済むのだ。という、ツィスカの憤りとは裏腹に、王太子妃はエルナをことのほか気に入った様子である。彼女には、夫の愛妾を受け入れるという懐の深さがあるのか。それとも、彼女なりの思惑が――考えると、精神が疲弊する。
「こういうことは、新人がすることですよね」
 ふと我にかえれば、調理場主任の青年が、こちらに苦笑を向けていた。ツィスカは曖昧に頷く。
「聞けば、新人さん、妃殿下のお気に入りになったそうじゃないですか」
 取り入るの、うまいなあ――彼は心底ツィスカに同情している模様だった。
「ひとによって、気の合う合わないがありますからね」
 素っ気なく言い放ち、彼女は調理場を後にする。
 皆、エルナに対する見解は同様のようである。ふと現れて、王太子妃に取り入った新参者。小間使いたちも、ツィスカに対して同情的な意見を持つものが多かったが、当の本人は気にはしていなかった。それよりも、舞姫姿のエルナを見た人物は、自分だけだったのか――だれもそのことを語らないのだ。『あのとき』、エルナの姿を見たものは他にもいたろうに。
(ああ)
 ツィスカは、思わず内心声を上げた。髪の色だ。エルナは、見事な黒髪を、金褐色の髪に変えた。それで、幾分印象が変わったに違いない。皆、エルナのことは見かけはしても、じっくり見たり語ったりしたわけではないのだ。ひとは、それほど他人を見てはいない。
(いい加減な)
 凡人に自身と同じ観察眼を期待するのが酷というものか。ツィスカがさらに溜息をつくと。
「あらら、そんなに溜息ばかりついていると、幸せが逃げちゃう」
 踊り場に、エルナがいた。窓を背に佇む彼女は、陽光に金褐色の髪を煌めかせている。髪の色が違っても、まるで違和感はない。寧ろもとからこの色だったような、そんな錯覚すら抱かせる術は大したものである。
「重いでしょう、持ってあげる」
 言うより早く、彼女はツィスカの手から瓶を奪い取った。先輩に対する態度ではないが、ツィスカはあえて何も言わず。エルナに従う。
「ごめんねえ、あたしってば気が利かなくって」
 あはは、と笑う後輩の後ろ姿に、ツィスカは更に何も言えなかった。これが素なのか、屈託がないからこそ、王太子夫妻に好かれるのか。ツィスカはしげしげとエルナの背を見つめ
「以前、お会いしましたよね?」
 低く、聞き取れるか聞き取れないか――微妙な声の高さで尋ねた。
「は?」
 エルナが笑顔のままで振り返る。
「以前、あなたは舞姫の姿で、この離宮に立ち寄られましたよね?」
 エルナの笑顔が固まる――思ったのは、ツィスカの間違いであった。
「ああ、そう」
 彼女はまるで表情を変えることなく、
「あのとき、取次に出てくださったかた。あなたでしたわね、ツィスカ……殿」
 あっさりと過去の邂逅を認めたのである。これにはツィスカもいささか面食らった。
「そうそう、仕事にあぶれてね。どうしようかと思ったときに、思い出したのがここ、ってワケ。下働きでも小間使いでも、使ってくれって頼んだら、王太子妃殿下の侍女になっちゃった」
 エルナは、ぺろりと舌を出す。
 舞姫としての誇りはないのか、芸に対する矜持は、と、責めたくなったが。ツィスカはあえて追及を避けた。この様子では、何を言っても笑顔で流されてしまいそうな気がする。ある意味、厄介な存在。自身が宮廷に生きていく上での、障害になりそうな存在である。
 ツィスカは、まっすぐにエルナを見つめた。光の加減で色が変化する、不可思議な緑の瞳を。エルナもまた、ツィスカを見つめ。
「あたしも、あなたを見かけたことがあるのよ、ツィスカ殿?」
 くく、と、小娘の如く喉を鳴らした。
「カルノリアの――いえ、タティアン大公領の、あれは、どこでしたっけね?」
「……」
 ゲルダ街? ――語尾を上げたエルナの顔が、ひどく歪んで見えた。ツィスカは唇を噛みしめ、目に力を込める。なぜ、それを、と。迂闊に口にしてしまいそうな自分が、愚かしくも悲しかった。


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