AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
12.暗雲(1)


 里に帰る。
 それが、ルーラの暇乞いの理由であった。実家の父が倒れたので、その看護に戻るというのだ。この期に及んで、いもしない両親を捏造するのも、と、当のルーラは渋い顔を見せたが
「それが一番妥当な線よ」
 クラウディアが強引にその口実を用いるように推した。もとより、ディグルはすべてを承知の上である。彼が認めれば、ルーラの行動は自由だ。誰にはばかることなく、宮廷を、オリアを離れることができる。
「しばらく、寂しくなるわね」
 ひっそりと厩舎を出ようとしたルーラに、声をかけたのはやはりクラウディアだった。侍女も連れず、単身やってきているところが彼女らしいと、ルーラは苦笑した。余人にはそれと判らぬ苦笑、だが、王太子妃には分かるとみえて、
「なに? また、我儘したと思っているんでしょう?」
 クラウディアはつんと顎を逸らし、子供のように唇を尖らせた。
「ちゃんと、ツィスカには断わっています。朝の散歩に出かけます、とね。嘘じゃないでしょう」
「それは、そうですが」
 困惑した様子のルーラに、クラウディアはあでやかな笑みを向ける。
「気をつけてね」
「妃殿下も、御身ご自愛願います」
 騎士の礼をとるルーラは、まさに『男装の麗人』であった。彼女は颯爽と騎乗し、踝で馬の腹をこすり上げる。調教の行き届いた馬は、それだけで素直に反応し、ゆるりと並足で歩き始めた。
「気をつけて」
 去りゆく背に、クラウディアは今一度声をかける。今度は答えはない。だが、ルーラの背は、クラウディアを拒んではいなかった。
(……)
 ルーラと離れるのは、寂しい。アグネイヤと離れた時の寂しさに似たようなものを感じる。だが、ルーラは再びクラウディアの元に戻ってくるのだ。否、クラウディアではなく、ディグルのもとへか。クラウディアがディグルの后である限り、ルーラは傍にいる。


 クラウディアはその場で両手の指を絡み合わせ、神への祈りをささげた。
 ルーラの無事と、エリシアの無事を祈って。


「――ついてきたの?」
 目を開き、肩越しに背後を振り返る。そこに人影はなかったが、クラウディアは気配を感じていた。厩舎の脇、大木の陰。早朝の風に柔らかく翻るのは、金髪である。別段、隠れて様子を窺っていたわけではないらしいツィスカは、クラウディアの呼びかけに素直に姿を現した。彼女は静かな足取りでこちらに近づき、クラウディアの前に膝を折る。
「不躾とは思いましたが、密かにお供させて戴きました」
 悪びれずにそう言うツィスカに対し、クラウディアは何の感情も湧かなかった。
「そう」
 とだけ答え、踵を返す。
「妃殿下、どちらへ?」
「散歩。まだ、途中ですのよ」
 しらっと言ってのけて、クラウディアは歩き出す。特にこの金髪の侍女が嫌いなわけではない。素っ気ないがそれなりに気の利く娘だと思っているし、そりが合わないわけではない。寧ろ、リオラよりもずっと気の置けない相手である。言ってみれば、傍にいても気にならない存在――なのだろうか。
「短剣を帯びての、お散歩ですか?」
 問いかけに、クラウディアは足を止めた。
「使いなれぬ得物は、いざというときに役に立たないと思いますが」
 咎める風でもなく、淡々と口にするツィスカ。クラウディアは姫君らしくなく、短く舌打ちする。(スカート)の下に、短剣を忍ばせていることは気付かれても、普段彼女が長剣を使い慣れていることを知られているとは。思ってもみなかった。見ていないようでいて、実はツィスカは、クラウディアをそれとなく探っていたのではないか。しかも、探っていたということを隠さない。
 単なる侍女の好奇心ではない。
 誰に頼まれたのだろう。
(ラウヴィーヌ后?)
 まさか、と思うが、ありえぬ話ではない。だが、それなら何故。敢えてこのような行動に出るのだろう。心理的にクラウディアを追い詰めていく作戦、とも思えぬが。
「あなたも剣を嗜んでいるのかしら?」
 クラウディアの問いに、ツィスカは
「いえ、それほど」
 謙虚であるが、「是」を意味する答えを返した。
「そう」
 クラウディアは目を細める。
「でしたら、今度お相手願いたいわ。剣の相手がいなくなって、どうしようかと思っていたところですのよ?」
「御言葉とあれば、お受けいたします」
 挑発には、乗ってこなかった。
 刺客――クラウディアを暗殺するつもりであれば、ここで一気に攻撃に転じるだろうに。ツィスカは有能な侍女らしく、感情を抑えた様子でクラウディアの斜め後ろに従っている。
 彼女の反応に些か物足りなさを感じて、クラウディアはわざと聞こえるように溜息をついた。
 それでも、ツィスカは溜息の意味を尋ねてこない。
 この侍女は一体? ――クラウディアは振り返らずに問いかけた。
「あなた、故郷(おくに)はどちら?」
 他愛のない世間話、とはいえ、半年も傍に仕えている侍女とこんな話をするのはこれが初めてだったことに気付き、クラウディアは我ながら驚いた。それほどまでに、ツィスカに興味を持っていなかったのか。そう、彼女にはまったく関心はなかった。一方、ツィスカのほうも目立たず出しゃばらず、影のように主人につき従っていたのだ。
 金髪であるから、西方――ヒルデブラントかアマリア、その辺りの出身であることは間違いないだろう。あるいは、人種の坩堝でもあるカルノリアの血を引いているのかもしれない。
 しかし。彼女の答えは、クラウディアの予想を裏切っていた。
「アダルバードです」
 初代、二代目オルトルートに代表される、赤毛の多い国である。
「アダルバード」
 クラウディアは、舌の上でかの国の名を繰り返した。
 アダルバードで金髪、であるならば。例外なく貴族の出である。爵位をもたぬ者は、赤毛――かつて、アダルバードとヒルデブラントの周辺の領主であったアインザクトの、流れを汲む一族である。アインザクトの領民は、亜麻色の髪もしくは金髪か――希少ではあるが、赤毛の人々であったとクラウディアは記憶している。神聖帝国崩壊後、カルノリア大公に攻められたアインザクトが完膚なきまでに叩き潰され、解体され。大公家の人々までもが散り散りになってしまった後の領土は、台頭してきたアダルバード、ヒルデブラントの支配下となった。
 ツィスカの言葉を信用するならば、彼女は生粋のアダルバード人。アインザクトではない、西方の民族である。
「お父様は、子爵? それとも、男爵かしら?」
「いいえ」
 回答は間髪をいれずに戻ってきた。
「元は貴族であったと申しておりましたが、現在は農場を経営しております」
「そう」
 微妙なところで嘘がばれる。農場主の娘が、剣を取るものか。しかも自称とはいえ、それなりの腕前であると公言するものか。
 ツィスカの身元保証人は誰であったか。
 クラウディアは記憶を辿った。
 こういうときに、ルーラがいないのは辛い。彼女であれば、即座に答えてくれるだろうに。
「……」
 せめて、気心の知れたアルメニアの侍女がひとりでも残っていてくれれば。思うだけ虚しいことを実感して、クラウディアは息をつく。
「どうか、されましたか?」
 なぜにこういうときだけ声をかけてくるのだろう――侍女の間の悪さに、クラウディアは重ねて息をついた。
 得体の知れぬ侍女、ツィスカ。彼女の存在は、レンティルグの毒蜘蛛同様、厄介な存在には違いなかった。


「御手紙が届いております」
 部屋に戻ると、小間使いの娘が声をかけてきた。
 クラウディアは、自室の居間に当たる部屋に入室し、机に置かれている『書簡』に目を向けた。
「あら」
 置かれている手紙は、二通。
 一通はカルノリア第四皇女アレクシアから、今一通は、神聖皇帝アグネイヤ四世からである。おそらくどちらの手紙も、趣旨は同じだろう。即ち、ドゥランディアの『解呪方法』について。アグネイヤはその後、何か情報をつかんだのか。それとも、

 ――ごめん、やっぱりみつからなかったよ。

 詫びの言葉が認められているか、だが。アレクシアの方は、それなりに収穫があるような気がする。なにしろアレクシアは、十八歳という若さであらゆる学問に精通している姫君である。頭の良し悪しは別として、知識量だけは豊富なのだ。過去、目にした文献の中の、一節でも一文でも覚えていてくれれば。それに関して、さらに深い知識を持っていてくれるのであれば、それだけで充分である。
(頭も悪くはないわよね、多分)
 ただ知識を得るだけではなく、それを応用できる能力も備えているのだから――クラウディアは肖像画でしか知らぬ、アレクシアの姿を想像して、ひとり笑い出した。
「すぐにご覧になられますか?」
 執務机の前に立ったツィスカが、小刀(ペーパーナイフ)を手に首を傾ける。
「そうね」
 アレクシア皇女の書簡を、と、答えてから。クラウディアは長椅子(ソファ)に腰を下ろした。
「開封したら、渡して頂戴」
 指示に頷いたツィスカは、丁寧に封書を開ける。その姿を見ながら、クラウディアはさらに笑った。
「中を見てもいいけれども、きっと、わからなくてよ?」
 挑発的な言葉に、しかし、ツィスカはまたも反応はしなかった。彼女は封筒を机に置き、書状のみをクラウディアに渡す。それを広げたフィラティノア王太子妃は、盛大な溜息をついた。
 そこに書かれていたのは、
「暗号――にしては、新鮮ね」
 恋の、詩である。

 ――あなたを想い、身が焦がれる。

 そんな趣旨の言葉が延々と連なる、 ひところ中央諸国の間で流行った悲恋もの――その一節が、さらさらと書かれている。これをどう読解せよというのだ。男女間のやり取りでもあるまいに。
「燭台を、こちらに」
 クラウディアの呼びかけに、小間使いが応える。彼女はしずしずと燭台を主人の元に運んできた。そこに手紙をかざしたクラウディアは、
「意外に古い手だわ」
 白紙部分に赤く浮き上がる文字を見つめ、肩をすくめる。要は、焙り出しである。この鮮やかな赤、その色を考えれば、ウィレアの実を使った特殊な液を用いたのだろう。
(あなたを想って、身が焦がれる……)
 朝日のなか揺らめく蝋燭の炎を見つめ、クラウディアは目を細めた。確かに、身を焦がさなければ、真実を見ることはできない。カタブツの割には洒落た謎かけをする、アレクシアも年頃の娘だということか。しかし、この先も一筋縄でいかぬのが、この文通相手の憎いところである。浮かび上がった文字は、やはりというべきか――古代神聖文字であった。これを現代の文字に直し、綴りを整え、その意味を理解する。面倒ではあるが、楽しい作業でもあった。これで、朝食までの時間を楽しく過ごせるかもしれない。
「なるほどね」
 ざっと目を通しただけでは、詳細まで読み取ることはできないが。主旨は大体わかった。さすがは賢皇女アレクシア。よくぞこの短期間で、これだけの情報を集めてくれたものだ。
 我ながら、彼女を褒めているのだか貶しているのだかわからないが、ともあれ、アレクシアは頼もしい味方の一人には違いなかった。一歩間違えれば、頼もしい味方は敵に回すと厄介でもあるが。アレクシアは、敵に回ったとしても、害になるような存在ではない。彼女は毒にも薬にもならない。水のごとき存在である。欲しているときは、何よりもうれしい恵み、けれども、満たされているときには、特に思い出さない存在。それは、先方も割り切っていることだろう。おそらく。
「……」
 クラウディアは、アグネイヤの書簡も開封させた。そちらは、なんの捻りもない。ごく普通の、手紙であった。アグネイヤの性格からして、暗号など用いることはない。彼女は常に正々堂々としている。小細工を弄することもなく、すべてにおいて正面突破を狙っている。
 自分とは、対局の存在。
 それを、羨ましく思うと同時に、疎ましいとも思う。
 案の定、アグネイヤの手紙にも、ドゥランディアに関する情報が書かれていた。そこには、婉曲的ではあるが、解呪方法も記されており。クラウディアは知らず目を見張った。
「房事」
 ぽつりと漏らした呟きに、小間使いが顔を赤らめ、ツィスカは首を傾げる。
 クラウディアは特に言い訳も説明もせず、先へと視線を走らせた。

 ――房事により、呪縛を解くことが可能。

 かも、しれない。
 あくまでも、予測でしかないのだが――アグネイヤは、くどいほど念を押している。しかも、術を施した相手にしか、解放はできない。
 もしくは、互いに想いを通わせたもの同士。
(レーネの、恋人?)
 馬鹿を言わないでほしい。目についた男を片端から部屋に連れ込むような淫らな娘に、恋心などあってたまるか。クラウディアは肘掛けに頬杖をつき、嘆息する。せいぜい、アグネイヤに付きまとっていた刺客。あの男であれば、レーネも『満足』するのではないか。彼のことは、憎からず思っていた様子であるし、幾度かは情も交わしていたことだろう。だからといってあの男にレーネを抱かせろ、と。そんなことを自分に指示しろとでも言うのか、片翼は。
(彼女の好みそうな男性を傍に置いて。恋を芽生えさせるしかないのかしらね?)
 そもそも、色恋を利用して心を操るなど、できるものだろうか。人間とは、それほどまでに色欲に支配されるのか。まるきり、解らない。理解不能である。アグネイヤは、セレスティンに淡い恋心を抱いていた模様だが、どこをどう間違えば、あの見た目純粋――その実中身は真っ黒な、食えない男に惹かれるのか。アグネイヤも人を見る目を養った方がいいと、当時クラウディアは心の中で幾度も片翼の鈍さを呪っていたものだが。
「恋、ね……」
 またしても漏れ聞こえたクラウディアの呟きに、小間使いが軽く眼を見開いた。
 ツィスカは――緑の瞳に一切の感情を浮かべぬまま、相変わらずこちらを見つめていた。


「恋、だと?」
 朝食の席で。クラウディアは夫に素朴な質問を投げかけた。

 恋とは、どんな感覚なのか。と。

 葡萄酒を口に含んでいたディグルは、それを吹き出してしまうのではないかと思うほど激しく咳き込み、
「ああ、ごめんなさい、食事中に」
「殿下、お加減が」
 幾分済まなそうに首を傾けるクラウディアと、急ぎ背をさするツィスカ、二人の少女を前に些か困惑気味に視線を揺らした。彼のそのような表情を見るのは、初めてである。無論、表情の変化を感じたのは、クラウディアだけだろう。ツィスカも給仕達も、ディグルの面のごとき顔からはいかなる表情も読み取れない。読み取ることは、不可能だった。
「食事中、は、関係ないと思うが」
 漸く咳がおさまったディグルは、息を整えながら答える。口元を押さえる手布(ハンカチ)が赤く染まっているさまを見て、クラウディアは一瞬ぎくりとしたが。
(ああ、葡萄酒)
 夫は、『赤』をことのほか好むのだと思いだし、心を落ち着けた。
 先日、あの重い咳をじかに聞いてから、なんとなく引っかかるものがあっただけに、この光景は心臓に悪かった。とはいえ、彼を咳き込ませたのは他ならぬクラウディアなのだが――それはこの際、脇に置くとして。
「ならば、重ねてお聞きしますけれども」
 彼女は悪びれず言葉をつづけた。
「あなたは、ルーラを寵愛していたでしょう? そういうときの感覚は、どういったものですの? 愛しいとか、切ないとか、恋しいとか。彼女のことを考えると、夜も日も明けぬ。胸が苦しくて、どうしようもない……そんな感じでして?」
「そんな、理詰めで語れるものではない」
 クラウディアの言葉を、ディグルは一言で切り捨てた。
「『理』では測れないものが、それだ」
 ――だと思う、と。ディグルは付け加える。
 クラウディアは肩透かしを食らった感じだった。都合の悪い質問をしてきた子供に対し、飴玉を与えてごまかす大人の心情に近いのだろうか。今のディグルは。
 いや、そうではなく。
「おまえも、誰か愛しいと思う相手がいるだろう?」
 解らないのか?
 どことなく呆れた様子で逆に訊き返すところを見ると、クラウディアが何やら腹に一物持って彼に問いかけているのだと思っているのかもしれない。もしや、ルーラに異性として興味を持ったのか――ひどく婉曲的ではあるが、そのような意味合いが言葉の奥に含まれているのを感じて、
「いません」
 先程のディグル同様、クラウディアもきっぱりと答える。
 第一、恋心が分かれば苦労はしない。まどろっこしい方法をとらずとも、ドゥランディアの呪縛を解くことができるはずである。
「強いてあげるとしたら、アグネイヤ。彼女――いえ、彼以外を想うことはありません」
「ならば」
 それが、恋だとディグルは言う。
「でも」
「同性だからか?」
 畳掛けるように発せられた言葉には、棘が含まれている。それは自身の身に置き換えているからなのだろうか。
「おまえが神聖皇帝を想う気持ちに、肉欲を加えるといい。それが、愛や恋といわれるものの本質だ」
「……」
 アグネイヤに対して、欲情する。それが、愛か。恋か。なんだか、違うような気もするが。
 それでも、彼の言うことには一理あるような。クラウディアは「そう」と頷き、食前酒を口に含む。
 どうやら自分には、根本的なものが欠落しているらしい。――肉欲、性欲。その類を持って生まれてこなかったのだ。だからこそ、冷静に他人を見ることができる。だからこそ、情に流される人間を、不可解だと思う。クラウディアは人を好き嫌いで隔てない。判断基準は、あくまでも『快』『不快』なのだ。改めてそれに気づかされるのも癪だったが、仕方がない。
「なぜ、急にそんなことを聞く?」
 問いかけに曖昧に返事をしたクラウディアは、いつもの如くディグルが残した惣菜をぱくりと口に押し込み、
「なぜでしょうね」
 他人事のように、ひとりごちていた。


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