AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
11.混沌(4)


 やはり、目を合わせるのはどこかしら気まずかった。
 昨夜の痴態を思い出すと、なんともいえぬ気分になる。恥ずかしいような、悲しいような。思わず大声で叫んでしまいたくなるような。あれは自分ではない、あれは違う、と。
 何が違う? と、ジェリオならば問いそうだ。
(違わない)
 乱れたのも、アグネイヤ。彼に身を委ねそうになったのも、彼女の意志である。ただ、怖かっただけ。恐怖が、土壇場で彼女を動かしたのだ。
「……」
 朝食の麺麭をつまむジェリオの指先、そこに目を向けただけで顔が赤くなる。あの指がアグネイヤに狂おしいまでの快楽を与えたのだ。
「食わないのか?」
 手つかずのまま残されたアグネイヤの朝食を見、ジェリオが目を細める。その仕草さえ、口付けの前の表情を予感させ、アグネイヤは朱を散らした顔を激しく左右に振った。
「腹でも痛いのか? それとも、そろそろお月さんがやってくるとか」
 相変わらず下品な物言いをする男だと呆れるが。アグネイヤは「違う」とだけ答えて、ジェリオに自身の分の食事を差し出した。とても、喉を通らない気がする。彼女は水で薄めた葡萄酒のみを口にして、軽く息をついた。
 アグネイヤに反して、ジェリオは何も感じていないようだった。彼は時折思い出したようにアグネイヤに話しかけはするが、昨夜のことは一言も言わなかった。彼にとっては、あの程度の前戯等なんでもないことなのかもしれない。現に、初めて会った酒場、そこでも彼はためらうことなく衆目の前でアグネイヤの唇を奪い、その後ごく自然な流れで彼女をすべて自身のものにしようとした。あれが、彼の女性に対する扱いなのだろう。彼にとって、異性はすべて情交の対象でしかない。だから、カイラとも彼は――。
(カイラ)
 カイラにも、彼は同様のことをしたのだ。甘い言葉を囁き、巧みな愛撫を施し、そして。
 そして――。
「……」
 泣きたくなった。訳もなく、涙がこみ上げてきた。アグネイヤは小間使いに食事を下げるように言い渡すと、席を離れる。まだ食事をつづけていたジェリオは、怪訝そうな眼を彼女に向けたが、特に何も言わなかった。
 アグネイヤは執務室へと向かい、バルコニーに続く窓を開ける。朝の清々しい風が部屋に吹き込み、彼女は思わず目を細めた。風になぶられた髪を押え、ゆっくりと足を踏み出す。手摺にもたれ、眼下に広がる離宮の庭園とはるかかなたまで続くように思われる平野を見つめた。
 どれほど、そこに佇んでいただろう。
 さらさらに乾いていたはずの空気が湿り気を帯び、日差しが強さを増してきたころ。背後に人の気配を感じて、アグネイヤは振り返ろうとした。が。
「いいぜ。そのままで」
 腕に囲われる形で、柵に縫い付けられる。
 ジェリオの胸が、背に当たる。昨夜の再現を恐れて、アグネイヤは身を固くした。まさか、このような場所でいかがわしい行為に走るなど、いくら彼でもしないだろうが。それでも若干の不安はあるのだ。
「結構、後ろから抱き締めるのもいいもんだな」
 からかい調子の笑い声が耳元で聞こえる。彼の腕が腰に回り、軽くアグネイヤは抱き寄せられた。
「じらされる楽しみがある」
「ジェリオ」
 頬に彼のそれが押し付けられる。これが、口づけを求める行為なのだと、アグネイヤは感覚的に悟った。静かに彼のほうに顔を向ければ、やはり――ジェリオは自然な流れで唇を重ねてきた。柔らかく、優しく。アグネイヤは彼に向き直り、その背にゆっくりと手を回そうとした。
 そこへ。
「陛下」
 執務室の、扉越しに声が聞こえた。
 アグネイヤは我に返り、慌ててジェリオから身を離す。口元を拭い、衣服の乱れがないことを確認してから、
「何か」
 扉の向こうに立つ使者に、声をかけた。
「恐れながら、申し上げます」
 使者は、恐縮しながらも、要件のみをアグネイヤに告げる。語られた言葉に、アグネイヤは一瞬息をとめた。自身の中で使者の言葉を反芻し、それから、やはり苦い顔をしているであろうジェリオを振り返る。
「ジェリオ」
 呼びかけに彼は
「ああ」
 と。一言答えただけだった。
 数日前、アシャンティへと移動する行程で遭遇したカルノリアの令嬢。セグへと嫁いだ第三皇女の侍女だという彼女は、主人の危機を祖国に訴えるべく旅の途上にあったのだ。アグネイヤがせめてセルニダまで送ろうと申し出たのを拒絶して、ひとり旅路についたのだが。不安を覚えて、御者を物見にやったのだった。その御者が、帰還したという。随分と長い不在であるとは思ったが、よもや。
「シェリルが、殺害されていた」
 街道の傍らに、屍が転がされていたという。詳細は帰還した御者から聞くとして――アグネイヤは強く唇をかみしめた。また、大陸の闇が動き出そうとしている。セグで。ダルシアで。カルノリアで。神聖帝国皇帝たる自分にできることは、何であるのか。考えられぬうちに、大きなうねりが神聖帝国を、中央諸国を飲み込もうとしているような気がして、アグネイヤは眩暈を覚えた。


 手早く略服に着替えたアグネイヤは、早速御者が控えている部屋へと向かう。声をかけずとも、ジェリオもともに付いてくる。それがどこか嬉しくもあり、心苦しくもあった。記憶を失っているジェリオは、以前に比べて誠実である。不埒な行いはするものの、基本的に主命に逆らうようなことはしない。それは、アグネイヤを主人と認めているからだろうか。それとも、彼の中に何か異なる思惑があるのか。
 ジェリオの心の中を計りかね、アグネイヤは俯きがちに廊下を進んだ。
「待たせて、すまない」
 侍女が扉を開く間ももどかしく、アグネイヤは部屋へと踏み込んだ。そこに蹲る男性は、皇帝の入室にさらに深くこうべを垂れる。彼はアグネイヤの許しを得て顔をあげ、静かに仔細を語り始めた。
 曰く。
 あの日、彼が到着したときには、既にシェリルは何者かに殺害された後だったこと。
 血が乾ききっていないところから察するに、まだ殺害されて間もないと思い、彼は周辺を探ったそうだ。が、捜査もむなしく、暗殺者を捕えることはおろか、その痕跡すらも掴めなかった。
「誠に申し訳ございません」
 謝罪の言葉は、自身の不甲斐なさに対する悔しさからか。皇帝の思いを叶えられなかったことに対する怒りか。それとも、シェリルに対する罪悪感からか。理由はわからぬが、おそらくそのすべての気持ちが込められているのだろう。
「シェリル嬢のご遺骸は、セルニダに輸送いたしました。そこで神官より祈りを賜り、遺髪を頂いてから埋葬しております」
 紫芳宮の裏手にある共同墓地、宮廷に仕えたものを埋葬する場所である。身内はあれど、

『一度、陛下に捧げた身ですから』

 家族に辞退され、遺骸を引き取られなかった者たちがそこに眠っている。カルノリアも元は神聖帝国の一部、主家に当たる神聖帝国帝室の墓地に葬られるのは、シェリルとしても本望ではないか。せめて、そう思わねば、彼女が痛まし過ぎる。
「ご遺髪は、カルノリアのご家族にお届けしたほうが宜しいでしょうか」
 命令とあらば、彼がカルノリアへの使者を送る任務に就きたいという。アグネイヤは静かに息をついた。跪く御者の傍ら、置かれた小箱にシェリルの遺髪がおさめられているのであろう。体は帰郷ならずとも、せめて髪だけでも、体の一部だけでも帰してやりたいと思うのは、アグネイヤも同じである。まして、シェリルはソフィア姫の窮状を本国に伝えるために派遣された使者、志半ばに倒れた彼女は、どれほど無念であることか。
「こちらに、件の皇女殿下の指輪もございます」
 御者は恭しく小箱を捧げ持った。ソフィア姫が婚姻の際に父帝より贈られた指輪。姫の使者である証拠となる指輪も、彼は回収してきたのだ。
 それらを届ける人物は、神聖帝国においてもしかるべき地位にあるものでなければならない。カルノリア皇帝に皇女の危機を伝え、カルノリアがそれに対処するべく動くよう、説得できる人物でなければならない。
「カルノリア、か」
 アグネイヤの知るなかで、カルノリアに通じる人物といえば、ただひとり。
「シェルマリヤ姫」
 神聖皇帝の側室にして、自称巫女姫の侍従武官。側室に取り立てられながら、我が剣は巫女姫にのみ捧げられるものだと公言して憚らぬあの気丈な姫こそ、この役目に相応しくはないか。
「シェルマリヤ姫を、使者に立てよう」
 無論、非公式な使者として、である。表向きは、一時的な帰国。真実は、アグネイヤの密使。なにより、シェルマリヤはソフィア姫のいとこである。いとこの危機を知れば、彼女とて依頼を受けずとも故郷へと飛んで帰るだろう。
「悪いが、シェルマリヤ姫をこちらに呼んではくれないか。そして、できればカルノリアまで同行してほしい」
「心得ました」
 御者は深く頭を垂れる。
 急いでも、彼が紫芳宮へと到着するのは半日後。シェルマリヤに仔細を話してこちらに呼び出すまで一晩かかるかどうか。早くともアグネイヤがシェルマリヤと対面できるのは、一日後のことになる。それで、遅くはないだろうか。その間にも、ソフィア姫の精神は蝕まれているのではないだろうか。
 不安にざわめく胸を、アグネイヤは押さえた。こういうときに、誰かに支えてほしい。じっと抱きしめてほしい。大丈夫だと言ってほしい。
(僕は)
 どこまで弱い人間なのだろう。
 アグネイヤは口元に自嘲を浮かべ、御者に退室を促した。



 傷は癒えた。
 癒えた、と思う。いや、癒えたことにしなければならない。
 いい加減、不在が長引けば、宰相も不審に思うだろう。離宮へと向かったはずのリナレスが、いつまでも戻らないでは、彼の信用にもかかわる。しかも、リナレスは離宮へ赴いた肝心の目的を果たせずにいたのだ。
 皇帝の命を狙った、暗殺者の身柄引き取り。
 だが、肝心の暗殺者を取り逃がしてしまった。逃がしたうえに、利き腕を負傷してしまった。
 これ以上の失態はない。
 しかも、離宮には皇帝が滞在している。彼女と顔を合わせぬよう、侍女に扮したエーディトが取り計らってくれているものの、いつまでも隠しおおせるものでもない。
 アグネイヤがここに到着した日に、ついうっかり――あのお調子者の細工師が、ついうっかりと皇帝にリナレスの滞在を告げてしまったのだ。その後

 ――リナレスがいるはずだが?

 皇帝はありがたくもリナレスの存在を探してくれたようだが、この姿で彼女の前に出るわけにもいかず、あれはエーディトの勘違いだったという苦しい言い訳をしてもらい、今までひっそりと身を隠してきたのだ。
 その日々にも、限界がある。
 早朝、リナレスはそっと部屋を抜け出した。今日こそは、セルニダに、紫芳宮に戻らねばならない。厩舎へと赴く途中、一目なりとも皇帝の姿を見ておきたくて、彼女の居室のそばへと足を運んだ。離宮の端、三階の一番奥の部屋。植え込みの陰から、バルコニーを臨めば、これは運命か、それとも神々の計らいか。神聖皇帝アグネイヤ四世がそこに姿を現したではないか。
(陛下)
 目を潤ませ、リナレスはアグネイヤを見上げた。清楚な美貌は心労のためかどこかしら翳りがあるようで、リナレスは胸が痛んだ。できるものならば、このまま彼女の元に駆け寄り、その細い体を支えたい。そんな思いを抱いていたとき。
「……!」
 闖入者が現れたのだ。
 こともあろうに、皇帝の居室から滑り出した影は、あの憎き刺客。俗にまみれた下品な男である。皇帝と関係をもったと堂々と言い放ち、彼女の痴態を語ろうかとまでリナレスに言った男。何を間違えたのか、皇太后リディアは、彼を皇帝の護衛としたというのであるから。世の中は間違っている。あれでは、狼に羊の番をさせるようなものではないか。案の定、ジェリオなる刺客は、背後からアグネイヤを抱きすくめていた。
 逃げるかと思った。
 否、逃げてくれと、拒絶してくれ、と。
 祈るリナレスの心を無視して、アグネイヤは素直にジェリオの腕に収まっていた。どころか、彼の求めに応じて、アグネイヤはごく自然に唇を許していた。
(陛下……!)
 卒倒しそうになった。リナレスは、思わず傍らの枝を力任せに叩き折る。
 許さない。あの男だけは、許さない。
 暗い炎が、彼の中に燻り始める。
「おやおや、覗きですかあ?」
 ぽん、といきなり背中を叩かれ、リナレスは飛び上らんばかりに驚いた。確認するまでもない、そこにいる人物の名を押し殺した声で呼べば
「覗きというものはですね、もっとひっそり、うまくやるのです」
 わたしのように、と、まるで悪びれずに笑った。相変わらず不気味な女装をやめていない――細工師の弟子、エーディトである。彼はリナレスの傍らに腰を落ち着けると、彼同様バルコニーを見上げた。
「ああ、あんまり情熱的じゃないですね。朝の挨拶、ってとこですか。昨夜はお楽しみだったんですかねえ。とかいいつつも、陛下はまだ生娘みたいですね。ほら、腰のあたり見てくださいよ。あの腰つきは、完全処女です」
 解説を加えるエーディトを、力任せに殴ろうとして、やめた。
 リナレスは脱力し、その場にエーディトを残して厩舎へと向かった。



 時が止まっているようだった。
 今が夜なのか、昼なのか。まるでわからない。感覚がない。ここが天なのか地なのか、自分がどこにいるのか。白濁した靄の中、よく知る誰かがやさしい笑みを浮かべて手を差し伸べている。

 ――ソフィア。

 呼ばれる名が、自分の名なのか。それも、わからない。
 応えようにも、相手の名もわからないのだ。
 ワカラナイわからない解らない。
 かすかに残る自我が、彼女に涙を流させる。見開かれた瞳いっぱいにたまった熱い液体が、ぽろりと頬を伝って落ちたとき。
「なんだ、いいのか?」
 耳元で声が聞こえた。
 下穿きもなにもかも取り払われ、一糸まとわぬ姿となった彼女の上にのしかかる男は、飽きることなくその体を貪り続けていた。もう、どれほど彼の欲望に汚されたことか。拒絶の言葉も喉からこぼれることはなくなり、涙すら枯れ果てていたというのに。
「殿下」
 どこかから、声が聞こえた。あの男のものではない。押し殺した声だった。
「『姫』が戻られました」
「ああ、行く」
 あの男はけだるげに答え、彼女から――ソフィアから離れた。彼女は人形の如くその場に横たわったまま、微動だにしない。いや、できなかった。枷もつけられていないはずなのに、体は重く、自由が利かない。甘んじて男の愛撫を受け入れるしかない、哀れな抱き人形と化している。
 はじめは、その意識があった。
 屈辱も覚えた。
 だが、徐々に感覚が鈍っていった。麻痺していった。あの男の言うように、言うなりに。動くようになっていた。


「遅かったな」
 だらしなく上着を羽織り、隣室へと足を運んだ青年は、情交の名残を隠すことなく堂々とそこに佇む女性の前に披露した。寧ろ、わざと見せている――そんな感があるかもしれない。彼の生々しい欲望を目にした女性は、しかし微笑を浮かべただけで何も言わない。
「始末は済んだのか?」
 問いかけには、頷きが返ってくる。それだけで、彼は満足したようだった。徐に女性に近づき、その体を抱き寄せる。彼女も抵抗一つせずに、彼の腕に収まった。
「ソフィアは、ものにした」
 彼の立場にあっては下品とも下劣とも言える表現で、青年は首尾を告白する。女性は再び頷いた。頷いて、ちらりと彼の背後の部屋に視線を移す。
「気になるのか?」
 揶揄にも似た質問に、彼女は即座にかぶりを振る。どうあっても、この女性の嫉妬心を煽ることは不可能だと彼は観念したのか。無造作に上着を脱ぎ捨てると、その場に女性を組み敷いた。
「アリチェ」
 囁きは、情熱に満ちていた。
 男を見上げる黒い双眸は、妖しい光を湛え。彼の魂までも吸い取るかのように、深く暗く揺らめいていた。


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