AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
11.混沌(2)


 小鳥のさえずりが、木漏れ日の中に谺する。
 夏の気配が確実に失せていく――それと同時に、自身の身体から生気が抜け落ちていくような気がしてならない。
(……)
 もとより、死を恐れたことはない。寧ろ、心待ちにしているきらいさえあった。それでも、今日まで永らえてきたのは、ひとえに生母エリシアのためではないかと思う。
 彼女に会いたいがために、細く命を永らえた。そういっても過言ではない。
 生きているのは、エリシアに会うため。彼女を探し出し、その潔白を証明するため。成長した自身の姿を一目見てもらうのではなく、ただ、自分が母に会いたい――その一心からだった。
 ディグルの人生には、常にエリシアの影が付きまとう。
 エリシアに良く似ている、そう思ったからこそ、ルーラを傍に置いた。
 三歳の子供の記憶など、無きに等しいもの。人並みはずれた記憶力を持つディグルですらも、肖像画ひとつあるわけではないエリシアの面影を、鮮明に覚えているとは言いがたかった。ただ、エリシアと自分が生き写しといわれ、その自分に似たルーラを、エリシアの代わりにしている。
 ルーラを愛しているわけではない。
 慈しんでいるわけでもない。
 求めているのは、あくまでもエリシア。日々美化されていく、悲劇の生母だけである。
 それは、ルーラも承知の上だった。彼女も、ディグルに対しては、愛情ではなく忠誠をもって仕えている。主人と部下の関係なのだ、あくまでも。そこに、肉体の繋がりがあるだけで。
 だからこそ、ルーラは。
 ルーラは、苦しんでいるのだろう。忠義と、人並みに芽生え始めた恋慕の狭間で。
(俺が消えたら)
 ルーラは、おそらく宮廷を去る。去って、どうするのだろうか。彼女に帰るべき家も故郷もない。戻るとすれば、オルネラ。神殿の裏巫女としての生活が、また始まるのかもしれない。それとも、男子として、騎士として、クラウディアの前に立つのだろうか。
(俺が、消えたら……)
 ルーラは、喜ぶのか。
 クラウディアは。
 父は。
 継母は。
 そして、従弟(ウィルフリート)は。
「……」
 小鳥の声が、止んだ。ディグルはぴたりと足を止める。
「殿下」
 声をかけてこちらに駆け寄ってきたのは、赤ら顔の青年だった。従者の類か――それとも、下級騎士か。ディグルを気遣った誰かが差し向けたに違いない。王太子の姿を認めると、青年は破顔し、息を切らせて礼をした。
「こちらにいらしたのですか」
 彼の声に応えるが如く、他にも二人、剣を帯びた青年がやって来た。二人とも、先の青年同様、長いことディグルを探していたに違いない。求める人物を発見した喜びからか、不相応なほどの笑みを主人に向ける。
「お探しいたしました」
 ディグルは、彼らから視線をそらす。ウィルフリートであれば、ここで労いの言葉をかけるだろうが、生憎自分はそのような気遣いは持ち合わせてはいない。ひとりの時間を楽しみたくて、散策にここを訪れたのはディグルの勝手だが、追って来たのも彼らの勝手である。それに対して侘びだの礼だの言うほうがおかしい。
 無言のディグルに対し、不興を買ったと畏れたのか、青年の一人がおずおずと前に進み出る。
「殿下、お一人での散策は、お控えくださいませ」
「必ず、供を一人か二人はお連れいただきませんと、危のうございます」
 今一人も、するするとディグルに近づく。ディグルはふと眼を動かした。視界の隅で、きらりと陽光を反射するものがある。

「左様にございます」
「お気をつけられませんと」
「このように」

 三人目の男が、矢庭に剣を引き抜いた。息を合わせるように、他の二人も同時に抜刀する。抵抗をまるで許さぬ、暗殺剣――三つの白刃がディグルの華奢な身体を切り刻もうと弧を描き。
「お覚悟」
 言葉と同時に一瞬早く空を切り裂いた刃が、彼の額に迫った刹那。
 一条の木漏れ日のなか、小さく星が散った。
「……っ!」
 凶刃は寸でのところで止められ、軽く受け流されていた。同時に三人の前からディグルの姿が一瞬消える。白昼夢でも見たか、眼を瞬かせる彼らの一人が
「ぐっ」
 呻き声と共に鮮血を噴きながら地に倒れ伏すまで、実際にそれほど時間は経ってはいなかった。一刀のもと斬り捨てられた男は、絶命している。その屍を前に、二人の刺客は息を呑んだ。
「愚か者」
 息一つ乱さず、ディグルは笑った。口元だけが微かに動く、常人にはまるでわからぬ笑み。ただ、瞳の奥に揺れる妖しげな炎から、刺客たちは何かを感じ取ったらしい。優男だと思っていた王太子に気を呑まれて、一瞬呆けた模様だったが。
「この」
 我に返った青年が、再び暗殺を果たさんとディグルに刃を向けた。だが、余人には容易に受け流せぬ鋭い剣筋を、ディグルは簡単に見破り風の如く身を交わす。刃を交わすまでもなく、鋭い突きを彼の喉元に送りあっさりとこれも屠った。
「他愛もない」
 微笑む白銀の貴公子は、返り血も浴びていない。穢れ無き姿で、けれどもその背後に妖艶なる狂気を秘めたまま、残る一人を見つめていた。
「そんな」
 最後の刺客は、瞳に驚愕の色を宿し、ディグルを見つめるだけだった。彼も彼の仲間も、ディグルの腕を侮っていたのだろう。人嫌いの偏屈な王太子、帯刀はすれど彼の剣技など幼子のそれと同じ――そう侮っていたに違いない。
「だ……誰の差し金か、聞かないのか?」
 震える剣先をこちらに向ける辺り、玄人ではないだろう。俄か仕立ての暗殺者など、敵ではない。ディグルは一歩踏み出した。こほ、と軽く気管に詰まった風を追い出してから
「訊かずとも、判る」
 表情を変えずに彼の腹を抉った。軽く回転させて剣を引き抜けば、刺客はあっさりと倒れ伏す。後に残るのは、三体の骸とむせるような血の匂い。そして、静寂だった。ディグルは刺客の一人に歩み寄り、その衣服で剣にこびりついた血を拭う。
 実戦は、久方ぶりだった。
 相手が素人であったから、あっさり倒せたものの。これが、エルディン・ロウであればどうだったろう。神聖皇帝の如く、返り討ちにすることが出来たであろうか。
「殿下」
 遅れてやってきた顔には、見覚えがあった。ツィスカである。妃クラウディアの侍女だった。彼女は三人の屍を見ても悲鳴を上げるどころか顔色一つ変えず、
「お怪我はございませんでしょうか」
 実に的確な問いを投げかけてきた。ディグルは
「ない」
 とだけ答え、その場を去ろうとしたが。
「始末を」
 敢えてその言葉を付け加える。ここは、白亜宮内。父の屋敷内である。そこを血で汚したのは、自身の不覚。本来であれば、捕らえて首謀者の名を吐かせるべきであった。否、暗黙のうちにそう取り決められている節が宮廷内にはあったのだ。王太子とはいえ、その『掟』を破るのは如何なものか。重臣達が眉を顰める様子が手に取るようにわかるだけに、ここはあまりことを荒立てたくはない。それに、事が大きくなれば、当然刺客を差し向けた人物の益にこそなれ、かのひとの害にはならぬだろう。
(どこまでも、浅ましい)
 脳裏を掠めた緑青の瞳、それを強引に振り払って、ディグルはもと来た道を引き返した。ツィスカがここにやってきたということは、クラウディアもまだ礼拝堂にいるのだろう。ディグルが病を得ているかもしれない――そう聞かされて、同情心が芽生えたか。
 余計なお世話だと思わぬでもないが。今しばらくは他人の手前、それなりに『夫婦』を演じておかねばなるまい。冷え切って見えても、どれほどよそよそしく接していても。互いを完全に遠ざけるような真似をしてはならない。
 それは、クラウディアも重々承知しているはずである。
 それこそが、まことの婚姻なのではないだろうか。政略という名の陰に隠れた、強き絆。互いの利害が一致する限り、決して切れることのない――。
「……」
 礼拝堂の前に停車している、簡易馬車。そこに楚々としておさまっている妃の横顔を見て、ディグルは僅かに睫毛を揺らした。



 正直に言って、暇である。
 ここ数日、神聖皇帝たるアグネイヤ四世は、書庫に篭ることが多く、滅多に私室にすら戻ることはない。時折、狭い室内に閉じこもっていることに不満を感じるのか、書庫を出たときに向かう先は決まって、厩舎か湯殿である。ジェリオも馬術を嗜むが、特にアグネイヤから同行を求められることもなく。湯殿ともなれば当然、

「覗くな」

 厳しい一言と共に、遠ざけられるのが常である。
 これでは、皇太后リディアより『賜った』言葉を実行するどころか、却って距離が開いてしまったようだ。それはそれで無駄な責務を果たす重圧から逃れられるから良いものの、どうしても手持ち無沙汰になってしまう。だからといって、何もせずにぶらぶらしていられるような性分でもなく。
 とりあえず、離宮の内部を確認しておこう、と、ジェリオが思い立ったのは割と早い時期であった。

「おや、剣士さん」

 エーディトは、なぜかジェリオをそう呼ぶ。初対面の折に、カルノリアの刺客から彼とその師を救ったからかもしれないが。彼の口から発せられる『剣士さん』という響きには、どことなく揶揄が籠められているようで気分が悪かった。無論、そう言った意図はエーディトにはないのかもしれない。だが、生来の人柄というか、雰囲気というか、口調というか。そう言った要素全てが、彼をどこか世慣れた小ずるい少年に見せてしまっているのであろう。

 嫌な奴に遭った。
 ジェリオは女装の少年を視界に認めた刹那、露骨に顔を顰めた。

 正直、女装趣味のこの少年を、ジェリオはあまり好きではない。好き嫌いの問題ではなく、快不快の問題か。ともあれ、こちらから好んで話しかけたいような相手でもないのだ。けれども、どうしたものか。エーディトはジェリオを気に入ったらしく、彼の姿を見かけるといそいそと嬉しそうに近づいてくるのだ。
 まさか、『そちら』の趣味があるとは思いたくもないが。理由は他には考えられず、それがジェリオのエーディトに対する印象を更に悪いものにしていた。
「剣士さん、どちらへ?」
 尋ねられても、これといった目的を持っているわけでもない。ジェリオは曖昧に答えて、彼を振り切るべく目を逸らし、足早にその傍らをすり抜けようとした。
 が。
「冷たいですねぇ、冷たいですよ。なんですかなんですか、陛下と何かありましたか?」
 エーディトは解放してくれる気はないらしい。彼もまた、ジェリオとアグネイヤの仲を邪推している一人らしく
「最近、陛下はずっと書庫に篭られていらっしゃいますからね。寂しいでしょう。たまにはどうです? ご一緒に篭られては。なあに、扉さえ閉めてしまえばこちらのもの。誰にも邪魔されること無く――ああ、あの司書のじーさまも、そこまで野暮は言いませんよ。おふたりでしっぽり、楽しまれては如何ですかね」
 うしし、と奇妙な笑い声を上げて、ぱたぱたジェリオの腕を叩くのだ。
(……)
 言われずとも、多少なりとアグネイヤの肌や唇を楽しみたいのはジェリオの本音でもある。紫芳宮に入る前に、娼婦を抱いて以来、実に禁欲的な生活を送ってきた。実際、それどころではなかった、ということもあるのだが――そろそろ異性の肌が恋しくなる時分である。
「剣士さん、なかなかそちらのほうもお上手そうですからね、あっという間に陛下のようなおぼこい娘さんは陥落しちゃいますよねえ。あの清らかな花の(かんばせ)が、閨ではどのように変わるのやら。それを見られるなんて、役得ですよね。いや実に羨ましい限り」
 リナレスが聞いていれば、それこそ逆上して斬りかからんばかりのことを平気で言ってのけたエーディトは、満面の笑みを湛えたままジェリオを見上げた。
「で、どちらにいかれるのですか? なんなら、お供しますけど」
「断る」
 正直、彼との会話にはうんざりだった。基本、口数の多い同性は苦手だ。鬱陶しい。
 ぴしりと同行を断ってなお、後を追おうとするエーディトに凄みをきかせて、ジェリオは彼に背を向ける。これ以上纏わりつかれては迷惑だ、と、短い言葉で告げたとき。
「……?」
 ふいに。殺気を感じた。純粋な、叩きつけるようなそれではない。じわりと滲み出すような、全身を絡め取られてしまうような、蜘蛛の巣を思わせる粘ついた殺気。命の危機よりも、嫌悪感を先に覚えさせるそれに、ジェリオは瞬時に反応した。
 しかし。
 剣に手をかけて振り向いた彼の視線の先に、エーディトはいなかった。消えた、訳ではない。気配はある。陽炎の如く揺らめいた殺気を残し、生身だけがどこかへ移動した――
「――ふざけんな」
 視線を動かさず、剣だけを横に流す。流石に手ごたえはなかったが、間合いに人の気配を感じた。
「おや、なかなか」
 からかい調子の声にも、どこかしら先程の余裕はないようだった。いつのまにか、ジェリオの背後に回っていたエーディトは、彼の刃に掬われそうになった模様で、平素のにやけた顔を幾分引き攣らせてジェリオの右手に回った。
「剣士さん、左利きでしたか。いや、最高の暗殺剣ですよね、これ」
 ぎゅ、と。娼婦の如く腕に縋りつくエーディト。本気で彼を串刺しにしてやろうかと思いつつ、ジェリオは冷ややかな眼で彼を射る。
「細身の割には、筋肉逞しいし。あら、これは、陛下が夢中になるのも無理はないでしょう。若様の貧弱な身体なんか比べ物になりませんわ」
 しっかりとジェリオの腕を抱きこみ、頬擦りさえするエーディトを、ジェリオは苦々しい面持ちで見下ろしていた。
 この、食わせ物が。
 内心少年を罵倒し、彼を振り払おうとしたが、岩でも張り付いたように僅かなりとも動かすことが出来ない。
(こいつ)
 只者ではない。しかも、そのことを平気でジェリオに気づかせようとしている。余程神経が太いのか、単に間抜けなのか。それとも?
 それとも――
「おまえ、何者だ?」
 問いにエーディトは答えなかった。当然である。ここであっさりと口を割るようなタマではない。相手をからかうだけからかい倒して、笑い転げる――そう言った人種なのだ、エーディトは。
「あるときは陛下の侍女、あるときは謎の通行人、またあるときは密偵捕獲の達人、しかしてその正体は……」
 満面の笑みをジェリオに向ける辺り、この少年、少々神経が歪んでいるのかもしれない。
「ご覧戴ければ判りますよ」
 くくく――鳩が甘えるような声を立てて、エーディトはジェリオの二の腕に口付けを落とした。


「――だからって、工房に連れて来られても迷惑なんだけどね」
 薄暗がりのなか、燭台を手にした赤毛の女が不機嫌そうに闖入者を睨みつけた。半地下のその部屋は割りに広く、ここにこの赤毛の女性と彼女の高弟たるエーディトが住んでいるというのも頷ける。
 赤毛の女性は、ティルデ――大陸中の女性の心を虜にする最高芸術を生み出す彫金師オルトルートの二代目であり、エーディトはその唯一の弟子ということだった。孤高の芸術家を自称する『オルトルート』は、特定の王族・貴族の世話にはならぬと豪語していたのだが。なぜ、神聖皇帝の離宮に工房を構えているのか。その理由は、至極単純である。
「あの折は、命拾いしたけどね、あんたのお陰で」
 カルノリアの刺客に、暗殺されかけたからだった。
 ティルデもエーディトも、何故自身がカルノリア士官に狙われたか、本当の理由をわかってはいない。ただ、神聖皇帝の縁者だということで、狙われていると。そう、アグネイヤから聞かされたのみだった。ほとぼりがさめるまで、との約束で、師弟はここに仮の住まいを得たわけだが、暗殺者達が捕らわれた後もなし崩しに居住している。それは今後長きに渡って続くことになるのだが――。
「細工師の、弟子か」
 居室の向こうに広がる工房を入り口越しに見やり、ジェリオは「ふうん」と気のなさそうな声を上げた。
「あ、馬鹿にしていますね。これでも、わたし、そこそこ『やる』んですよ」
 エーディトは言い放ち、徐にジェリオの髪をかきあげる。それこそ、玄人のジェリオが動けない――気配を読みきれぬうちに、エーディトの細い指先が耳に触れた。
「……」
 同じだ、あのときと。セルニダの表通りで彼らと初めて出会ったときと。
「この耳飾(ピアス)、仕上げこそ師匠にやっていただきましたけどね、紛れもなく私の作ですよ。陛下が褒めてくださったので、そのまま献上してしまいましたけど。それをあなたがお持ちとはねえ」
 エーディトの笑いが濃くなる。肉感的な意味合いを込めた笑いに、ジェリオは溜息をつきたくなったが
「これが」
 改めて、自身の耳を飾る茜石に触れた。記憶を失った後も、大切に持ち続けてきた耳飾。これだけは手放してはならないと、頭の中で幾度も警鐘が聞こえていた。これは、神聖皇帝がジェリオに贈ったものなのだ。と、なれば。この耳飾は『契り』の証なのだろうか。
「耳飾を贈るって、かーなーり、妖しいですよね。肉を貫くんですよ、肉を。指輪や首飾(ペンダント)よりもずっと、束縛の意志が強いように思われるんですけどねえ。しかも、それは陛下の普段使いと来ているし。あああこれはもう、疑いようがありませんよねえ」
「……」
 どういう経緯で自分にこの耳飾が渡ってきたのか、悲しいことに記憶がない。アグネイヤが、何を想って普段身につけていた――おそらく、気に入りの一品だったのだろう――ものを、ジェリオに贈ることになったのか。理由を想像するのも面白い。
 彼女がジェリオを憎からず想っているのは、態度でわかる。
 もしかしたら、最後に別れた折、記憶を失う前に彼女と一線を越えそうになったのではないか。ふと、ジェリオは思った。今現在でもうまく雰囲気を作れば、あの、しなやかな身体を、滑らかな肌を、甘く香る髪を、手に入れられるかもしれない。考えるだけで、身体の芯で欲望が疼いた。
「ああ、あんた、陛下からそいつを下賜されたのかい」
 燭台を傍らに置き、ティルデは鼻を鳴らした。
「じゃあ、ついでといっちゃ、なんだ。あんたからも贈れば良いさ、陛下に」
 工房を見せてやるよ、と、ティルデはジェリオを促した。エーディトも「さあさあ」と彼の背を子供のようにとんとんと押しながら
「師匠が部外者を工房に招くなんて、ほんと、百年に一度あるかないかですよ」
 突拍子もない冗談を言い、それに対して自ら笑いだした。
「剣士さんも、陛下をぶっすり貫いちゃえばいいんですよ」
 閨にかけているのか、それとも暗殺にかけているのか。物騒なことを言う少年は、強引にジェリオを師の工房へと引きずり込んだ。そこは、道具が散乱しているだけの、物置小屋に見えたのだが――奥には幾つか作りかけの装飾品も並んでいる。ここが店なら、なんと商売っ気のない作りだろうと思うが、ティルデは職人、商人ではない。誰かに買って欲しくて創作をしているのではなく、ただ、作りたいから装飾品を作成しているのだ。それが、たまたま人に愛されている――それだけのことだろう。
「言っとくが、金はないぜ?」
 オルトルートの手なれば、それこそ眼の飛び出るような代価が必要となる。ものによっては、所領がひとつ消えてしまうくらいの値段だというから、他の手慰みに作成されたものでもかなりの値打ちがあるはずだった。
「金? ああ、いいよ、そんなもん」
 出世払いにしとくよ、と、ティルデは笑う。どこまでも金銭に無頓着な芸術家肌の人物なのか、それとも、エーディトと同じくジェリオを皇帝の男妾と思っているせいか。その辺りはわからぬが。
「これなんか、陛下が気に入りそうだよねえ」
 ティルデが取り上げたのは、精巧な細工の銀台に紫水晶をあしらった、花を意匠(デザイン)した耳飾である。いかにも乙女が喜びそうな繊細な細工だ。掌に乗せられたそれを見て、無骨者のジェリオですら感嘆の息を漏らした位である。
「陛下はあまり金は好まれないからね。白金で作ってみたのさ。結構いいセン行ってるだろう」
 得意げなティルデにジェリオは素直に頷いた。確かに、これはアグネイヤが好みそうだ。しかも、彼女に良く似合う。現在は男装しているために、女性らしい装飾品は一切身に着けてはいないようだが、これくらいであれば髪に隠れるだろう。
「そいつをあげるよ。手慰みに作ったもんだけど、あたしも結構気に入っているのさ」
 ティルデはもしかしたら、常にアグネイヤの姿を思い浮かべて作品を仕上げているのかもしれない。二代目であったオルトルート、彼女の作品が初代よりも更に格調高く洗練されているのは、具体的な対象があるせいだろう。ティルデの脳裏にある、美姫アグネイヤ――彼女こそが、ティルデの作品を身につけるに相応しい、唯一の姫君かもしれない。


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