AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
11.混沌(1)


 無冠の帝王。そう呼ばれた人物が、歴史上どれほどいたことだろう。
「……」
 アルメニア皇女クラウディア――現在は、フィラティノア王太子妃クラウディアとなった彼女も、また、その名が相応しい人物であることは間違いない。本来であれば、神聖帝国の帝冠は、彼女の頭上に輝くはずであった。彼女こそが、アグネイヤ四世としてかの大国を統べるはずであった。
 それが、どうした運命の悪戯か。
 彼女は、滅びの娘の名を与えられ、『蛮族』への生贄とされてしまった。
(妃殿下)
 国王夫妻も夫である王太子ディグルも、重臣達も、勿論国民も。皆、この王太子妃が真実のアグネイヤであることを知らない。それが、ルーラには口惜しかった。これほどまでに皇帝の器量を具えた人物が、一介の『后』で終わるなど。悔しくて仕方がない。
「どうしたの、ルーラ?」
 たっぷりと(ミルク)を注いだ香茶を楽しみながら、クラウディアは首を傾げた。

 ――ひと休みしましょう。

 午後の剣術の稽古を終えたのち、そう提案したのはクラウディアだった。彼女は侍女に命じて香茶を用意させると、先日祖国から送られてきたという砂糖菓子を卓上に置いて
「あなたたちも、いかが?」
 侍女たちに勧めた。
 下級貴族の令嬢である彼女達は、高級な菓子を押し付けられて体よく部屋を追い出される。残されたのは、クラウディアとルーラ。王太子の正室と側室のふたりだけである。
「怖い顔をしていてよ? ああ、カルノリア行きのことなら大丈夫。わたしも行きたい、なんて駄々はこねないから、安心して頂戴」
 言ってクラウディアは砂糖菓子をひとつ、口に放り込む。
「甘っ」
 顔を顰めるのは、彼女が年頃の娘にしては珍しく、甘味を好まないからか。
 それとも、これは公にはなっていないが、男性顔負けの酒豪であるからか。
 そのどちらでもあるのだろう、と、ルーラは細く息をついた。クラウディアの寝酒につき合わされたら、下手をすればこちらが潰されてしまう。アーシェルでの『宴会』において、クラウディアは誰よりも多く、誰よりも長く酒を楽しんでいたのだ。いい加減、味などわからなくなっているだろう、と、ルーラも呆れていたのだが。

 ――最後に飲んだお酒。乳酒を少し発酵させた、あれ。もう少し酸味があってもいいわよね。

 しっかりと味覚は生きていたのである。これにはルーラもあいた口がふさがらなかった。
 そんな、ある意味穏やかな辺境での生活を終え、オリアに戻ったのが今月の半ばである。同行した近衛兵と侍女リオラの件に関しては、国王が内密に取り計らってくれたらしい。王妃ラウヴィーヌは、子飼の暗殺者でもあったリオラの死に関して、なんら含むところがあったかもしれない。が、クラウディアはそれについては、盗賊に襲われた際主人を守って立派な最期を遂げた、としか答えなかった。
 ラトウィスのことは、無論、誰にも告げてはいない。
 ただ、盗賊を追って辺境に迷い込んだ際、アーシェルの民に救われたこと、彼らの生活が酷く逼迫したものであることは、国王に陳情した。王太子妃として、かの土地のことは責任を持ちたいと宣言したクラウディアを、国王は満足げに見つめていたのをルーラも知っている。
 将来のフィラティノア王妃としての自覚を持った立派な王太子妃だと、国王の眼にも映ったことだろう。
「不躾とは存じますが」
 ルーラは、僅かに口をつけた程度の香茶の碗を眺め、
「妃殿下は、――その」
 皇帝となりたい、アーシェルにおいて口にした言葉。あれは、どういう意味なのか。
 訊きたかったが、寸でのところで思いとどまった。
 訊いたところで何になろう、クラウディアは帝位からは最も遠い場所にいる。無冠の帝王、その言葉がどれほど虚しいものか、痛感しているのは彼女自身である。真実のアグネイヤ四世、けれども、それを名乗ることの出来ぬ皇女。もしも野心があるのだとしたら、クラウディアの心はどれほどの葛藤にあることか。
 かといって。
 クラウディアを神聖帝国に返すわけには行かない。この帝王の器を持つ稀代の人材を、みすみす『敵』に渡すことは出来ない。
「なあに? 途中でやめるなんて、あなたらしくなくてよ、ルーラ?」
 クラウディアはルーラの気持ちを知ってか知らずか、小悪魔的な笑みを刻む。察しの良い彼女のこと、ルーラの問おうとしていることは、薄々感じ取っているのかもしれない。それなのに、わざわざ相手に目的の言葉を言わせようとする辺り、彼女の底意地の悪さを感じてしまう。
 そこがまたクラウディアの魅力の一つなのだと思う自分も、どうかしている。
「妃殿下」
「なに、ルーラ?」
 小首をかしげるクラウディア。暁の瞳が、午後の日差しの中に揺らめいている。
 ルーラは周囲に人がいないことを確認し、改めて問いを口にした。
「妃殿下は、いつか真実の名を名乗ることをお考えなのですか」
 そういう風に問われることを予想していなかったのか。それとも、もっと直接的に尋ねられると考えていたのか。(カップ)に伸ばされたクラウディアの指先が、一瞬、震えた。
 真実の名を名乗る、――自身がまことのアグネイヤであると公言する。
 クラウディアの脳裏にその計画があるのかどうか。あるのだとしたら――。
「何のことかしら?」
 くすり、と明るい笑みを零して、クラウディアは残りの茶を飲み干した。
「妃殿下」
「わたしは、クラウディアよ。それ以外の何者でもない。あの日のあの瞬間から、わたしはクラウディアになった」
「――『された』の間違いではないですか、『アグネイヤ四世陛下』」
 押し殺したルーラの声に、クラウディアの睫毛が揺れる。
 神聖帝国が復活し、片翼が帝冠を戴いたその瞬間に、クラウディアは無冠の帝王となった。その事実を再認識したのか、彼女の古代紫の瞳の奥にふつふつと暗い焔が揺らめいたのを、ルーラは見逃さなかった。
「わたしは」
 クラウディアの声が掠れている。珍しい、と、ルーラは眼を見開いた。無論、ごく親しいものだけがそれとわかる程度にしか、変化は見られないが。ルーラの驚愕の表情をどう取ったものか。クラウディアは――真実の神聖皇帝は、気だるげに息を吐く。
「名ばかりの傀儡にはなりたくないのよ。この手で権力をつかみ取り、全てを自分自身の手で動かせるようになりたいの。理想郷? そんなものを作る気はないわ。ただ、――そうね」
 揺れる視線が、窓の外へと向けられる。
「自分の信念を押し通せる、自分が守りたいものを守れる。それくらいの力が欲しいと思うのは、事実よ」
 ああ、と。ルーラは内心感嘆の声を漏らす。
 やはり、この人は皇帝なのだと再認識する。
「妃殿下」
 このときなのかもしれない。ルーラの胸に、彼女を皇帝として神聖帝国の玉座につけたいと暗い情熱にも似た野心がはっきりと芽生えたのは。



 近日中にカルノリアに発つ、と、ルーラは言っていた。目的は勿論、エリシア前后の捜索である。ラウヴィーヌを筆頭とする、レンティルグに連なるもの、彼らよりも先になんとしてもエリシアを見つけ出さなければならない。一歩でも遅ければ、レンティルグによってエリシアはどのような目にあわされるか。想像がつくだけに、ルーラも焦っているだろう。
 近日中に、と言うだけで、正確に日程を教えないのは、クラウディアが自分も行くと直前になって駄々をこねはしまいか、その点が気になっているのかもしれない。自分はそこまで子供ではない、と、クラウディアは思うのだが。六つ年上のルーラから見れば、クラウディアはやはり守るべき幼子なのだろう。
 オリアに残る自身に出来ること、それは彼女の無事を祈ること位であろうか。
 日々の祈りの中に、ルーラの無事とエリシアの無事を加える。それだけのことしかできぬこの身が口惜しいが。それでも何もせぬよりはましだろうとも思う。
 今日も今日とて、王太子夫妻の礼拝の最中にクラウディアは、俯き加減のディグルの横顔を見ながら、エリシア妃の無事を祈る。出来ることならば、無傷で保護できるように。感動の再会の手助けをするなど柄でもないが、それでも無用な悲劇は好まないタチである。
「――俺の顔に、何かついているのか」
 淡白な問いを投げかけられて、クラウディアは
「別に」
 こちらも素っ気ない答えを返す。傍では新参の侍女たちが険悪な雰囲気と思ったのか、おろおろと手を揉み絞っている。司祭も他の聖職者も、こちらは『いつものこと』と気にしていないのか、それとも流石に精神の修養が出来ているのか、眉一つ動かさずに王太子夫妻を見つめ、彼らを祝福していた。その言葉を受けながら、クラウディアは改めてルーラの無事を祈る。
「最近」
 クラウディアを見ずに、半ば独り言のようにディグルが呟いた。
「あまりルーラを召し出さないな」
 以前は毎日のように続けていた剣の稽古も、ここ数日は二日おき、三日おきとなっている。それは、今までルーラを独占しすぎたとのクラウディアの配慮からであったが、ディグルはそのことを不審に感じているのか。クラウディアとルーラ、ふたりの妃たちの間で、何かあったのではないかと。
(気づく……かしらね、この野暮な男は)
 内心の苦笑を隠し、クラウディアは曖昧に答える。
「彼女にも、自分の時間は必要でしょうしね」
 アーシェルでの出来事は、問われぬ限り――否、問われたとしてもディグルに語るつもりはない。語ったところでどうなるものでもなく、ディグルの怒りがかえって増すだけである。生母に関する情報を彼に告げてなんとしよう。彼は自らエリシアの捜索に出向くのではないか。無論、王太子という地位を差し引いたとしても、もともと丈夫ではないディグルが城外に赴くことなど出来るはずもなく。
(世の中には、知らないほうが幸せなこともあるのよ)
 下手に事実を告げぬほうが、彼の身のためでもある。
「……」
 礼拝堂を先に出て行こうとする妃を、不審の目で見つめていたディグルは、ふっと小さく息をついた。と、それと同時に。
 ごほっ、と、重い咳をする。
「なぁに? 風邪?」
 俗に言う、湿った咳である。あまり良い兆候ではないのではないか。クラウディアが眉を寄せると、
「いつものことだ」
 ディグルは暫し咳き込んだ後、掠れた声で答えた。おそれながら、と、彼の背をさすっていたツィスカは、
「このところ、よく咳き込まれていらっしゃいます」
 主人の身を案じているのか、それとも、そうでないのか。どちらとも判断しかねる淡々とした口調でクラウディアに説明をした。最近、ということは、クラウディアが巡察に出向いている頃からなのだろうか。寝室を共にしていないゆえ、夫の変化は把握していなかった。もともと呼吸器が弱いのだとは聞いていたが、このオリアの寒さは彼のように病弱――とはいえぬまでも、食が細く生気のない青年には堪えるのではないか。
「離宮で、療養したほうが良いのではなくて?」
 グランスティアの保養地を思い出し、クラウディアは提案した。あそこなら、景色も空気も良い上に、温泉もある。温暖とはいえないが、オリアよりは身体に負担をかけずに過ごせるだろう。
「必要ない」
 妃の申し出を、ディグルはあっさりと却下する。彼はツィスカの手も振り払い、一人で礼拝堂を出た。陽光に当たると、彼の顔の青白さは一段と際立つような気がする。クラウディアは夫たる人物がこれほどまでに華奢で、これほどまでに細面であることを、今更ながら実感した。相変わらず冴えた美貌は、相手の心を凍てつかせるほど際立っていたが、その美しさすら儚げに見えてしまうのは、気のせいだろうか。
 髪と瞳の色が、殊更に彼の白磁の肌を強調しているのかもしれないが――クラウディアは言い知れぬ不安を覚え、もう一度彼に声をかける。
「アヤルカスに、行ってみないこと? 妻の故郷を見るのも、夫の役目と思わなくて?」
 わざと高飛車に出てみたが、ディグルは一向に乗ってくる様子はなかった。口元を歪めるわけでもなく、視線を揺らすわけでもない。彼は無言でクラウディアの傍らをすり抜けていく。
「ディグル?」
 クラウディアは目を細めた。
 どうしたのだろう――思ってから、自分が始めて夫に対して興味を持ったことに気づいて苦笑する。
「殿下付の侍女の言によりますと、このところ、時折重い咳を繰り返していらっしゃるそうです」
 クラウディアの傍に寄り添ったツィスカが、先程と同じ言葉を繰り返した。
「胸を、患っていらっしゃるのかもしれません」
 ポツリと漏れた言葉、それにクラウディアは反応する。
「そう」
 取り立てて気にすることではないのかもしれない。それでも、どこかしら引っかかるものがある。とはいえ、この『冷えた』と言ってよい夫婦仲で、今更夫の身体を気遣う言葉など簡単に口に出来ようか。
 幸いにも、彼は世継ぎの王子である。彼付の侍医もむざむざ主人の寿命を縮めるようなことはしないだろう。彼の体調の変化に気づけば、適切な処置を行ってくれるはず。
 だが――。
「ツィスカ」
 侍女の名を呼べば、彼女は淡い翠の瞳を揺らめかせてこちらを見た。澄んだ、というよりもディグルやルーラ同様、感情を宿さぬ瞳である。彼女は王太子夫妻を東の離宮に送るために手配された馬車に向かい、
「暫くお待ちを」
 声をかけてから、改めてクラウディアに向き直った。
「如何なされました、妃殿下」
 馬車を断り、一人庭園を散策するといってその場を離れたディグル、彼の後姿を見送るクラウディアは細く溜息をついて
「ディグルの侍医。彼は、どちらの出身だったかしら?」
 教えて頂戴、と、できるだけさらりと尋ねた。ツィスカは迷うことなくレンティルグだと答える。
「王后陛下がお輿入れされた際に、随行された医師団のお一人だとうかがっております」
「そう」
 やはり、レンティルグか。ならば、ディグルが如何様に体調を崩したとて、治療らしき治療はしないだろう。どころか、これ幸いと毒を盛ることもあるやもしれぬ。それだけは、避けねばなるまい。フィラティノアにおいて自身の地位が確立する前に、ディグルに儚くなられては困る。
「殿下の侍医には、暇を取らせましょう」
 そこまでの権限を自身が与えられているかは不明だが。危険分子はなるべく早いうちに取り除いたほうが良い。かわりに、信用できるものを。旧アルメニアより呼び寄せた医師を、ディグルの傍に侍らせるよう、巧くことを運ばなければ。
「……」
 考えを巡らせる妃の心を知ってかしらずか。クラウディアの視線の先から、ディグルの細い姿は礼拝堂の裏手に広がる木立の中へと消えていった。


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