AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
10.書簡(2)


 窓越しに外を見やれば、御者に抱き起こされていたのは、歳若い少年であった。薄汚れた姿をしているが、身なりはそれほど悪くない。商隊からはぐれた使用人が、盗賊に追われてここまで逃げてきたものの力尽きた、といった様子である。
 ぽとりと路面に落ちた帽子の下から現れたのは、金褐色の髪。異国の――それも、カルノリアかレンティルグか、ヒルデブラントか。その辺りの民であろう。
「……」
 ジェリオは無関心を装いながらも、どこかその少年を気にしているらしい。まさか、行き倒れを装った刺客、などということはあるまいが。アグネイヤも相応に警戒しつつ、扉を開けた。身軽に飛び降り、御者の隣に駆け寄る。
「息はあるのか?」
 彼女の問いに
「おそらく」
 御者は自信無げに答える。ぐったりと御者の腕に委ねられた身体は、小さく、軽そうだった。数日間、飲まず食わずでこの辺りをさまよっていた、その形跡が見て取れる。もとより日に当たることの少なかったであろう肌は、死者の如く青白い。血の気が失せたその顔は、遠い昔の忌まわしい記憶を思い起こさせ、アグネイヤは小さくかぶりを振った。
「馬車の中へ」
 手当てをするというと、御者は難色を示した。行き倒れの旅人を、忍びの旅とはいえ皇帝の馬車に乗せるわけにはいかない。そういうことだろう。本来であれば、供もこの御者一人ではなく、小隊を用意せねばならぬほどである。それを、アグネイヤが断った。彼女は馬車も要らぬ、馬で行くと主張していたのだが、流石にそれは認められなかった。折衷案が、この『簡素』な馬車での移動である。
「陛下」
 渋る御者を促し、立ち上がろうとしたアグネイヤの傍らに、気配もなくジェリオが佇んでいた。
「ジェリオ?」
 彼女の呼びかけには答えず、彼は御者の手から旅人を受け取る――強奪すると、隠し(ポケット)から取り出した小瓶の中身を口に含み、二人が見守るなか躊躇うこともなく、旅人の唇に自身のそれを重ねた。
「……、っ」
 旅人の喉が音を立てる。長い睫毛が緩やかに動き、瞼が持ち上げられた。色の薄い緑青の瞳が夢見るように辺りに視線を彷徨わせ、漸くジェリオに焦点をあわせたかと思うと
「いやあっ」
 衣を裂くような悲鳴を上げて、旅人は彼を押しのけた。
「曲者っ、曲者っ」
 叫んで逃げようとするのを、ジェリオが抱きしめる形で捕らえる。恐慌状態に陥った旅人は、がたがたと震えながら激しく泣き叫んだ。
「離せ、離せ、慮外者」
 その声、その仕草から、アグネイヤは確信した。旅人は、女性なのだ。男装の女性。空腹で意識を失って、目覚めたところに至近距離で自分を見つめる男性の顔があったら、誰でも驚くだろう。アグネイヤにも覚えがある。否、覚えがあるどころではない。昨日の朝、寝込みを襲われる形でジェリオに口付けられたことを思い出し、アグネイヤは一気に頬に血が上るのを感じた。
 それと同時に目の前の少女が哀れになり、ジェリオと彼女の間に割って入る。
「大丈夫だ。僕達は、盗賊じゃない」
 怪しい者ではない、言い切るアグネイヤを、旅の少女は不思議な生き物でも見るような眼で見つめた。アグネイヤの古代紫の瞳に魅入られるように動きを止め、彼女は完全に抵抗をやめる。
「賢者の――瞳?」
 暁の瞳をそう呼ぶのは、カルノリアの民だった。金褐色の髪と緑の強い青系の瞳は、レンティルグに連なるものの証であるが。ユリシエルもセルニダ同様人種の坩堝、どのような容姿のものが紛れ込んでも、おかしくはない。
 旅人は、アグネイヤの顔を暫くの間凝視していたが、やがて頬に朱を散らして視線をそらす。アグネイヤは今、男装だった。おそらく彼女はアグネイヤを少年と思ったのだろう。
「立てるか?」
 アグネイヤの問いに、旅人は頷く。差し伸べた手に縋って、彼女はゆっくりと身を起こした。
「とにかく、なかへ」
 アグネイヤに支えられて、旅人は馬車へと赴く。ジェリオはその様子を腕を組んで見守り、御者は苦言を呈することもなく、複雑な表情で主人とジェリオを見比べていた。


 旅人は、シェリルと名乗った。予想通り、カルノリアの娘である。商隊からはぐれて、街道を彷徨っていたところ、ここで行き倒れてしまったのだという。
 酒と乾乳(チーズ)とを腹に入れて、ひと心地ついたのだろう、シェリルは改めてアグネイヤに礼を述べる。
「どうも、ありがとうございました」
 礼には及ばない、そう答えてから
「もしも急ぐ旅でなければ、我が家で少し休まれてはいかがだろうか?」
 提案してみる。見たところ、シェリルの疲労は激しそうであった。目の下には色濃く隈が浮き出ている。顔色も、相変わらず悪い。血の気を失った唇も、鎖骨が異様に目立つ胸元も、見ているだけで痛々しい。出来れば、数日間、アシャンティにて療養してから、目的地へと旅立つほうが良いだろう。このままでは、また、何処かで倒れてしまうかもしれない。
 しかし、アグネイヤの申し出を、シェリルは頑として受け入れなかった。
「お気持ちだけ、受け取らせていただきます」
 深々と頭を下げ、立ち上がる。が、眩暈でも覚えたのだろうか。ふわりと木の葉が舞うように回転しながらその場に座り込む。額を押さえようと動いた手、その細く頼りなげな指先から、金の光が零れた。
 こん、と、虚しい音を立てて馬車の床に落ちたのは指輪であった。
 指輪が抜け落ちるなど、ありえない。
 装飾品は、無論、贅沢品である。そのようなものを身につけられるのは、それなりの財力を持つ家の者に限られているのだ。装飾品に既成品はなく、持ち主にあわせて作成するのが当然である。
 それが、抜け落ちてしまうなど。余程痩せてしまったか、もしくは、他人のものを身に着けていたのか。どちらかだった。
「……」
 ジェリオは何気なくそれを拾い上げたが、掌に転がる金の指輪を見て、僅かに眉を寄せた。なにか、感じるところがあるのだろうか。アグネイヤはシェリルを支えつつ、彼を見上げる。彼を――彼の手の中にある、指輪を。
「これは」
 みれば、それは先代オルトルートの手であった。透かし彫りで紋章が刻まれている。羽を広げた鴉。『カルノリア大公家』の紋章である。
(カルノリア)
 かの国は、帝国となって以来この大公家時代の紋章は封じている。現在は、アルメニア同様、神聖帝国の紋章の一つであった獅子の紋を使用しているはずだった。それなのに、なぜ。先代オルトルートは何を考えて、大公家の紋章などを彫ったのだろう。否、それよりも。この指輪を持つ少女。シェリルと名乗る娘の正体は、一体。
「汝に祝福あれ――婚礼の祝いの品か?」
 裏に刻まれた、ルノリア語。ジェリオが声に出して読み上げた途端、シェリルははっと眼を見開いた。
「返してください」
 慌てて手を伸ばすも、力なくその場にくず折れる。彼女は悔しげにジェリオを見上げ、なんとか立ち上がろうと必死にもがいていた。アグネイヤはそんな彼女をやんわりと宥めつつ、
(婚礼?)
 自身の記憶を辿る。

 カルノリア。
 オルトルート。
 婚礼。

 これらを結びつけるものは、ただ一つ。カルノリア嫌いの彼女が渋々受けた依頼。
「ソフィア姫?」
 カルノリア第三皇女の婚礼に際し、彼女の嫁ぎ先であるセグよりのものだった。夫となる公子から、花嫁に贈られる愛の証。カルノリア四皇女の中で最も美しいと評判であった彼女を迎えるにあたり、なんとしてでも貴婦人に人気の高いオルトルートの手がけた品を手に入れたかったのだろう。
 それに対して、オルトルートは嫌味で応えた。
 大陸の鴉。
 神聖帝国の屍を食い荒らした、鴉。そう蔑みながら、彼女は帝国の紋章ではなく大公家の紋章を指輪に刻み込んだのだ。呪詛をこめて。
 その指輪が、ソフィア姫の指に納まっているはずのそれが。なぜ、ここにあるのだろう。
 アグネイヤはシェリルに不審の眼を向ける。と同時に、彼女もアグネイヤを驚きの表情で見つめていた。ソフィア、の名に反応したのだ。
「あなた――あなたがたは、いったい……」
 どなたですの、と。シェリルは青ざめた顔で尋ねる。
 それはこちらが訊きたいことだった。
 尋ねられて、素直に皇帝であるとは答え難い。シェリル自体が何者なのかわからないのだ。下手に正体を明かしては、後々困ることになる。それを考えて、アグネイヤは暫く躊躇していたが。
「神聖帝国の、大貴族の若さまだ」
 横合いからジェリオが口を挟んだ。
 シェリルは掠れた声を上げ、アグネイヤを凝視する。
「神聖――帝国……では、ここは、旧アルメニア領内ですか」
 アグネイヤは頷いた。セルニダ郊外、アシャンティの近くであると答えれば、シェリルは「ああ」と絶望的な声を上げる。
「わたくし……わたくし、とんでもないところまで来てしまったのですね」
 何をもって『とんでもない』というのだろうか。その辺りは、謎であったが。シェリルは先程よりも落ち着かなくなり、指輪のことも忘れたのか、ただおろおろとうろたえている。
 どこに行くつもりだったのか、さりげなく尋ねると、
「ユリシ……」
 カルノリアの首都の名を答えようとして、彼女は慌てて口をつぐんだ。
 容姿と持ち物から、既に彼女の素性は七割がた割れている。カルノリア出身で、しかも皇女と接することの出来る立場にあるとすれば、皇女の輿入れの際に従った侍女であろう。だが、今ひとつ確信がもてない。確証がない。アグネイヤが彼女を警戒する理由はそこにある。
 仮に皇女の侍女であったとしても、シェリルが何故、彼女の指輪を持っているのか。まさか、これを盗み出して逃走したわけでもあるまい。売却したところで、オルトルートの手にして、カルノリア大公家の紋章の刻まれた指輪など、すぐに足がついてしまう。即日溶解処理をしてくれるような、怪しげな店に流すしか方法はないが、どうみてもシェリルにそのような伝手があるようには思えない。
 第一、売却するつもりであるならば、わざわざこのような遠方まで来る必要もなく――行き先が皇女の実家のあるユリシエルというのも妙であった。
「宿下がりをされて、ご実家に帰られる途中だったのか?」
「……」
 シェリルは無言だったが、視線の動きは『是』と応じているようなものだった。
「宿下がりに、ご主人の装飾品を持ち帰る――変わったことをなされるな」
 苦笑を浮かべると、シェリルの顔が青ざめた。彼女は胸元を押さえ、小さく震える。
「火急の使者として赴く場合。書簡と共に主人の身に着けていたものを証拠の品として持ち歩くことはあるが……女性の身でそれほどまでに重い責務を負うことは、滅多にないはず」
 アグネイヤの言葉は、シェリルを追い詰めるものだった。本来、このような言い方をしたくなかったのだが、
「姫の身に、何かあったということか」
 人の命が関わっていることであるならば、多少強く言わざるを得ない。案の定、シェリルの肩が大きく揺れた。彼女は俯き、唇を強く噛み締める。
「少し前に、セグの公子の一人が死んだって話を聞いたな」
 今まで黙っていたジェリオが口を挟む。セグの公子、その言葉を聞いた途端、シェリルは顔を上げ、鋭くジェリオを睨みつけた。親の仇にでも会ったかのような、強い視線――しかしジェリオは怯むことなく。逆に薄く笑いを浮かべた。
「表向きは病死。その実、暗殺された――ってところか?」
 シェリルの拳が震える。ジェリオの言葉は、正鵠を得ていたのだ。
 儚くなったのは、ソフィア姫の夫君。セグの第二公子。
 嫡男ではない彼を暗殺して、利益を得るものがあるだろうか。思い至ることがあるとすれば、第二公子は正室の子であるが、嫡子である第一公子は側室の子であること――くらいだろう。継承問題に絡む陰謀に巻き込まれて命を落とすことは、貴族社会においては珍しくはない。
 それに、もともとソフィア姫は第一公子に嫁ぐはずだった。ところが、見合い当日、兄に同行した第二公子と『運命的な恋』に落ちて、彼女は長男を袖にし次男と結ばれたわけである。娘に甘いカルノリア皇帝は、三女の我侭を聞き届ける形となった。セグとしても、大国の皇女を得られるのであれば、次男の妃でも構わぬわけである。――そう、国としては。
 焦るのは、嫡男だった。側室の子という負い目を、大国の皇女を妃とすることによって拭い去れると思っていたのに、それを横合いから奪われてしまった。しかも、奪った相手は正室の息子。これでは、自身の地位が危ない。考えるのは、当然である。
 ジェリオの指摘通り、第二公子が暗殺されたとしたら、犯人は、第一公子の息のかかったものである可能性が高い。
 そして。

 悲しみにくれる花嫁は、首謀者を知っている。

 ソフィア姫が実家へ戻ったという話は聞いていない。彼女に帰国されては困るわけが、セグにはあるのだ。
「カルノリアに、真実を伝えに行かれるのか?」
 静かに問いかけると、シェリルの双眸から涙が溢れた。彼女はしゃくりあげながら、幾つかの単語を唇に上らせる。

 姫君
 幽閉
 第一公子との縁組

 ――つまり。姫君を第一公子の妃とするために、幽閉しているのだ、セグは。だが、相思相愛で第二公子と結ばれた姫が、そう簡単に他人に再嫁するわけがない。しかも、相手は愛しき夫の仇かも知れぬ相手なのだ。
「自害できぬよう、装飾品は全て取り上げられ、塔の一室に閉じ込められています。無論、投身自殺も図れぬよう、窓には鉄格子が嵌められています。更に、毎日少しずつ薬を盛られて……」
 精神を、蝕まれているという。
 シェリルはその実態を祖国に伝えるために、決死の覚悟でセグを脱出したのだ。
「姫様が正気を保っていらしたときに書かれた書簡と、姫様の指輪を渡されました。姫様は、『わたくしはどうなってもよい、だた、真実を明るみにして欲しい』と。そう仰られて」
 そこまで言い切ると、シェリルは泣き崩れた。彼女の肩を優しく抱きしめ、アグネイヤは強く奥歯を噛み締めた。
 国家のため――その高潔なる言葉のもとに、一人の女性が犠牲になろうとしている。
「許せない」
 呟くアグネイヤに、
「まさか、あんた」
 ジェリオが胡乱な眼を向けた。
「セグに乗り込んで、そのお姫さんを助けようとか思っているんじゃないだろうな」
 いい加減にしろよ、とジェリオは呆れたように付け加える。
 アグネイヤは言葉に詰まり、シェリルは弾かれたように顔を上げ、アグネイヤとジェリオを見比べた。
「もしや……」

 ――助けてくれるのですか。
 ――信じても良いのですか、あなたがたを。

 シェリルの眼は、そう問いかけていた。
「……」
 出来れば、助けたかった。捕らわれの姫君を。だが、アグネイヤが動けば、それは第三国の干渉となる。隠密裏にセグへと潜入し、無事姫を救出したとしても、神聖帝国が介入したという事実は消えない。発覚した折には、セグの恨みを買い、暗部を覗かれたカルノリアからも疎んじられる結果となる。
 もはや個人の感情で行動するには、アグネイヤの地位は高くなりすぎた。
 神聖帝国の帝冠は、それほどまでに重い。
 せめてアグネイヤに出来ることは、暫しの間離宮にてシェリルを休ませ、彼女が無事に帰郷できるよう、手配を整えることだけである。
(でも)
 何かが、引っかかる。何か、重要なことを見落としているような気がする。
(……)
 アグネイヤは、脳裏にセグとカルノリアの系譜を描いた。カルノリア四皇女のうち、三人は嫁いでしまっている。長女・次女の嫁ぎ先は国内の有力貴族。三女だけが国外へと嫁している。一方のセグは、嫡男にはいまだに正室がいない。五年前の破談の影響か、その後嫡男にはこれといった縁談が舞い込んでくることはなかった。第一公子自身も、積極的に花嫁探しに動くこともなく。彼は十年近く傍においている側室以外は眼に入らぬようだと、悪意をもって囁かれた時期もあったようだ。
(側室)
 セグ第一公子の、側室。高級娼婦であったとか、旅の一座の舞姫であったとか。確たる情報もなく、謎の多い人物である。当然、公式の場に列することを許されぬ身、人の噂でしか素性を探ることが出来ない相手だが。
「――第一公子殿の寵姫は、どちらの出身だったか。お分かりか? 侍女殿」
「はい?」
 思わぬ質問に、シェリルは戸惑ったようであるが。
「しかとは解りませんが、確かダルシアの方だったと思います。ダルシア出身の、その、舞姫で」
 シェリルは言葉を濁す。さすがにそれ以上は言えないのだろう。アグネイヤは頷いた。
「ダルシアの、シルヴィオの生まれでは?」
 更なる問いかけに、シェリルは驚いたようだった。彼女はそれを肯定し、ご存知だったのですか、と首を傾げる。
 知っていたわけではない。勘だった。第一公子の側室がダルシア出身と聞いた刹那、アグネイヤの中で糸が繋がったのだ。カルノリアとダルシアを繋いでいた、見えない糸。ルカンド伯の暗殺現場が、セグであったこともこれで頷ける。
 アルメニアがリディアやエルハルトの意向のもとに動いていたのと同じく、カルノリアも水面下で活動を続けていたのだ。
「……」
 二百年間眠り続けていた戦の龍が、再び眼を覚ますときが訪れようとしている。
 アグネイヤは肌に迫る恐怖を感じて、かすかに身を震わせた。


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