AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
10.書簡(1)


 里に帰る。
 それが、ルーラの暇乞いの理由であった。実家の父が倒れたので、その看護に戻るというのだ。この期に及んで、いもしない両親を捏造するのも、と、当のルーラは渋い顔を見せたが
「それが一番妥当な線よ」
 クラウディアが強引にその口実を用いるように推した。もとより、ディグルはすべてを承知の上である。彼が認めれば、ルーラの行動は自由だ。誰にはばかることなく、宮廷を、オリアを離れることができる。
「しばらく、寂しくなるわね」
 ひっそりと厩舎を出ようとしたルーラに、声をかけたのはやはりクラウディアだった。侍女も連れず、単身やってきているところが彼女らしいと、ルーラは苦笑した。余人にはそれと判らぬ苦笑、だが、王太子妃には分かるとみえて、
「なに? また、我儘したと思っているんでしょう?」
 クラウディアはつんと顎を逸らし、子供のように唇を尖らせた。
「ちゃんと、ツィスカには断わっています。朝の散歩に出かけます、とね。嘘じゃないでしょう」
「それは、そうですが」
 困惑した様子のルーラに、クラウディアはあでやかな笑みを向ける。
「気をつけてね」
「妃殿下も、御身ご自愛願います」
 騎士の礼をとるルーラは、まさに『男装の麗人』であった。彼女は颯爽と騎乗し、踝で馬の腹をこすり上げる。調教の行き届いた馬は、それだけで素直に反応し、ゆるりと並足で歩き始めた。
「気をつけて」
 去りゆく背に、クラウディアは今一度声をかける。今度は答えはない。だが、ルーラの背は、クラウディアを拒んではいなかった。
(……)
 ルーラと離れるのは、寂しい。アグネイヤと離れた時の寂しさに似たようなものを感じる。だが、ルーラは再びクラウディアの元に戻ってくるのだ。否、クラウディアではなく、ディグルのもとへか。クラウディアがディグルの后である限り、ルーラは傍にいる。


 クラウディアはその場で両手の指を絡み合わせ、神への祈りをささげた。
 ルーラの無事と、エリシアの無事を祈って。


「――ついてきたの?」
 目を開き、肩越しに背後を振り返る。そこに人影はなかったが、クラウディアは気配を感じていた。厩舎の脇、大木の陰。早朝の風に柔らかく翻るのは、金髪である。別段、隠れて様子を窺っていたわけではないらしいツィスカは、クラウディアの呼びかけに素直に姿を現した。彼女は静かな足取りでこちらに近づき、クラウディアの前に膝を折る。
「不躾とは思いましたが、密かにお供させて戴きました」
 悪びれずにそう言うツィスカに対し、クラウディアは何の感情も湧かなかった。
「そう」
 とだけ答え、踵を返す。
「妃殿下、どちらへ?」
「散歩。まだ、途中ですのよ」
 しらっと言ってのけて、クラウディアは歩き出す。特にこの金髪の侍女が嫌いなわけではない。素っ気ないがそれなりに気の利く娘だと思っているし、そりが合わないわけではない。寧ろ、リオラよりもずっと気の置けない相手である。言ってみれば、傍にいても気にならない存在――なのだろうか。
「短剣を帯びての、お散歩ですか?」
 問いかけに、クラウディアは足を止めた。
「使いなれぬ得物は、いざというときに役に立たないと思いますが」
 咎める風でもなく、淡々と口にするツィスカ。クラウディアは姫君らしくなく、短く舌打ちする。(スカート)の下に、短剣を忍ばせていることは気付かれても、普段彼女が長剣を使い慣れていることを知られているとは。思ってもみなかった。見ていないようでいて、実はツィスカは、クラウディアをそれとなく探っていたのではないか。しかも、探っていたということを隠さない。
 単なる侍女の好奇心ではない。
 誰に頼まれたのだろう。
(ラウヴィーヌ后?)
 まさか、と思うが、ありえぬ話ではない。だが、それなら何故。敢えてこのような行動に出るのだろう。心理的にクラウディアを追い詰めていく作戦、とも思えぬが。
「あなたも剣を嗜んでいるのかしら?」
 クラウディアの問いに、ツィスカは
「いえ、それほど」
 謙虚であるが、「是」を意味する答えを返した。
「そう」
 クラウディアは目を細める。
「でしたら、今度お相手願いたいわ。剣の相手がいなくなって、どうしようかと思っていたところですのよ?」
「御言葉とあれば、お受けいたします」
 挑発には、乗ってこなかった。
 刺客――クラウディアを暗殺するつもりであれば、ここで一気に攻撃に転じるだろうに。ツィスカは有能な侍女らしく、感情を抑えた様子でクラウディアの斜め後ろに従っている。
 彼女の反応に些か物足りなさを感じて、クラウディアはわざと聞こえるように溜息をついた。
 それでも、ツィスカは溜息の意味を尋ねてこない。
 この侍女は一体? ――クラウディアは振り返らずに問いかけた。
「あなた、故郷(おくに)はどちら?」
 他愛のない世間話、とはいえ、半年も傍に仕えている侍女とこんな話をするのはこれが初めてだったことに気付き、クラウディアは我ながら驚いた。それほどまでに、ツィスカに興味を持っていなかったのか。そう、彼女にはまったく関心はなかった。一方、ツィスカのほうも目立たず出しゃばらず、影のように主人につき従っていたのだ。
 金髪であるから、西方――ヒルデブラントかアマリア、その辺りの出身であることは間違いないだろう。あるいは、人種の坩堝でもあるカルノリアの血を引いているのかもしれない。
 しかし。彼女の答えは、クラウディアの予想を裏切っていた。
「アダルバードです」
 初代、二代目オルトルートに代表される、赤毛の多い国である。
「アダルバード」
 クラウディアは、舌の上でかの国の名を繰り返した。
 アダルバードで金髪、であるならば。例外なく貴族の出である。爵位をもたぬ者は、赤毛――かつて、アダルバードとヒルデブラントの周辺の領主であったアインザクトの、流れを汲む一族である。アインザクトの領民は、亜麻色の髪もしくは金髪か――希少ではあるが、赤毛の人々であったとクラウディアは記憶している。神聖帝国崩壊後、カルノリア大公に攻められたアインザクトが完膚なきまでに叩き潰され、解体され。大公家の人々までもが散り散りになってしまった後の領土は、台頭してきたアダルバード、ヒルデブラントの支配下となった。
 ツィスカの言葉を信用するならば、彼女は生粋のアダルバード人。アインザクトではない、西方の民族である。
「お父様は、子爵? それとも、男爵かしら?」
「いいえ」
 回答は間髪をいれずに戻ってきた。
「元は貴族であったと申しておりましたが、現在は農場を経営しております」
「そう」
 微妙なところで嘘がばれる。農場主の娘が、剣を取るものか。しかも自称とはいえ、それなりの腕前であると公言するものか。
 ツィスカの身元保証人は誰であったか。
 クラウディアは記憶を辿った。
 こういうときに、ルーラがいないのは辛い。彼女であれば、即座に答えてくれるだろうに。
「……」
 せめて、気心の知れたアルメニアの侍女がひとりでも残っていてくれれば。思うだけ虚しいことを実感して、クラウディアは息をつく。
「どうか、されましたか?」
 なぜにこういうときだけ声をかけてくるのだろう――侍女の間の悪さに、クラウディアは重ねて息をついた。
 得体の知れぬ侍女、ツィスカ。彼女の存在は、レンティルグの毒蜘蛛同様、厄介な存在には違いなかった。



 当面、何処(いずこ)かに身を隠さねばならない。
 それが、カイラの下した判断だった。
 皇帝の側近と思しき少年に、(めん)が割れた。否、彼とは一度対面している。ルクレツィアに与えられた小宮で。あのときは、彼もよもやカイラを刺客とは思わなかっただろう。アグネイヤも、自身を辱めた相手の素性を簡単に話すとも思えない。
(甘いかしらね)
 アグネイヤは、妙なところで無邪気だ。大人びているようでいて、どこか、子供の部分を多く残している。側近の腕の中で泣きながら全てを話しているかもしれない。どちらにしろ、今、ルクレツィアの元に戻るのは危険であった。側室とはいえ、その侍女が皇帝暗殺を企てたともなれば、相応の処分が下される。最悪の場合は、処刑もありうるか。ミアルシァとしては、いらぬ姫君がひとり消えただけのこと。ジェルファがアヤルカス国王として即位し、神聖帝国大公の称号を得た現在、ルクレツィアなど取るに足らぬ存在である。彼女の処分を口実に、内政に干渉するなど、ましてや軍を動かすなどするわけがない。
(ルクレツィア様)
 公女として育てられた、哀れな姫。本来であれば、大国の王女としての晴れやかな生活が与えられていたというのに。瞳に僅かに覇王の色が混ざっているというだけで、闇に生きることを定められた少女。彼女を『殿下』と呼ぶのは自身だけだと思うと、それも辛かった。キアラ公女であるルクレツィアの双子の姉たち――シルヴィアとラヴィニア、それに形式的ではあるが、異母妹に当たるセヴィリアまでもが、封印王族であるルクレツィアを、ミアルシァにおいてもっとも高貴なる血を持つルクレツィアを。蔑みこそすれ、愛することはなかった。
(ルクレツィア様)
 彼女を苦しめてはならない。
 彼女を悲しませてはならない。
 ルクレツィアこそ、この大陸で最も美しく、最も高貴なる姫君。蛮族の名を持つ皇帝の、それも側室になどされて良い存在ではない。
 元来、『身を引く』などという殊勝なことをつゆほども考えぬカイラであるが、こと、ルクレツィアのこととなると大きく主旨が変わった。絶対的な忠誠を誓った国王に背いても、守りたかった大切な姫。獣である自分にも他者を慈しむ心があるのだと、あのときは本気で笑いたくなった。
(ルクレツィア様)
 どうか、ご無事で。
 祈りなどとうに忘れた、穢れた獣の身なれど。あえてカイラは天に祈る。
 紛い物の覇者の瞳を持つ、哀れで愛しい姫君の無事を。



 ふと、視線を上げる。
 目の前には、よく見知った顔があった。
 がたがたと揺れる馬車、斜向かいに座ったその男は、まだ手に馴染んではいないであろう剣を弄んでいる。いままで彼自身が使用していた剣は、というと。
「大事に使えよ」
 アグネイヤの手にあった。
 彼――ジェリオの母の知人から貰った、というその剣は、以前から思っていたのだが、一介の刺客が持つにしては随分と立派であった。装飾が、というわけではない。その作りが全て絶妙な調和をもっているのだ。まるで、ジェリオのために作られたとしか思えぬ剣である。彼が左利きであることを考慮に入れて作ったものらしく、柄の握り具合や刃の微妙な向き、細部に至るまで調整がつけられていた。
 幾度か自身にも向けられたことのある剣を、こうしてまじまじと見つめる日が来ようとは。アグネイヤは予想すらしていなかった。
 そのうえ。

 ――暫く、あんたの傍にいろってさ。あんたのお袋から、メイレイされた。

 コウタイゴウヘイカからの玉命で、彼はアグネイヤの元に改めて送られたのだという。皇太后リディアは約束通り彼の枷を外し、自由の身にした。そうした上で、馬車を仕立てさせ、皇帝と元刺客であった青年をアシャンティの離宮へと向かわせたのである。
 曰く、アグネイヤはお払い箱だと。皇帝としての資質に問題がある。ゆえに、その器量を見定めるまで、紫芳宮に戻ることあたわず。
 権力は、皇太后であるリディアに集中し、彼女を支えるのは他ならぬ宰相エルハルトであった。
 あのふたりに疎んじられた、見放されたと、ジェリオの言葉を聞いたときは絶望に気を失いそうになったアグネイヤだったが。

 ――いつか、おふくろ達を見返してやれよ。

 彼の何気ない一言に、心の均衡を保った。
(ジェリオ)
 正確には、その言葉にではなく。直後に、おどけたように、だが何気なく付け加えられた

 ――俺が付いててやるから。

 その台詞に心を動かされたのだ。
 傍にいる。傍にいてくれる。背中を預けられる存在が、傍にある。
 思うと、温かいものが身体の芯から溢れてきた。嬉しい、これはそう言った感情なのだろうか。アグネイヤの気持ちに、ジェリオは愛撫ではなく抱擁で応えてくれるのだろうか。
「なーに見てるんだよ」
 自身に注がれる暁の視線を気まずく思ったか。ジェリオは照れたように、唇を尖らせる。以前の彼ならば、このような時は必ず、下世話なからかいの言葉を発していた。今は違う。今は、今の彼は、ごく普通の青年だった。気負いも憎悪も影も。なにもない、普通の――。
「そっちに、行っていいか?」
 アグネイヤは、答えを待たずに彼の隣に腰を下ろした。ジェリオの体温が、僅かだが感じられる距離である。ジェリオは何も言わず、剣を足元に――すぐに取れる場所に置いた。それを見計らって、アグネイヤは彼の腕に頭を預ける。
 探していたのだ、ずっと。
 こうして、甘えられる相手を。
「ガキだな」
 ジェリオは苦笑したが、皮肉も嫌味も言わない。自身の右腕に絡みつく少女を見下ろし、その髪に唇を押し付ける。
 抱かれるのは、嫌だった。けれども、抱きしめられるのは、好きだった。
 ともすれば、幼子のように「抱っこ」と彼に縋りつきたい衝動に駆られ、アグネイヤはねだるように身を捩る。
「しょーがねーなー」
 ほい、と。声をかけ、ジェリオはアグネイヤを抱き上げた。そのまま自身の脚を開き、その中にアグネイヤを座らせた。背後から彼女を抱きしめて
「これで満足したか?」
 耳元に囁く。囁きながら、軽く耳朶を噛むが、これはアグネイヤに拒絶された。
「全く。煽るだけ煽って、肝心なとこはやらせてくれないんだからな」
 ぼやきながらも、ジェリオは悪い気はしてないらしい。片手で彼女の髪を梳きながら、鼻歌を歌い始める。子守唄だろうか、ひどく優しい調べであった。
「アシャンティまでは、まだ、だいぶかかるだろ? 寝てろ」
 何もしないから。
 猫のように丸くなり始めたアグネイヤを見て、睡魔の訪れを悟ったのだろう。彼は今一度彼女の髪に口付けると、また、例の『子守唄』を唄い始める。初めて聞く彼の歌声は、穏やかで優しくて。艶を含んだ声質とあいまって、すんなりとアグネイヤの耳に入ってきた。

 眠れぬ夜は、花を数えよう、掌に掬えば消えていく、儚い花弁の数を。

 そんな歌である。『花』とはおそらく、『雪』のことだろう。雪は舞い散る花にも例えられる。
(ああ)
 ジェリオは、北国の民なのだ。アグネイヤは、ぼんやりと考えた。彼の容姿に雪は似合わない。けれども、彼の声には、雪が似合う。音もなく、だが確かに降り積もっていく、雪が。
「……」
 彼の故郷は、カルノリアなのだろうか。白い都ユリシエル。父の親友、シェルキス二世が治める土地。クラウディアの友人、アレクシア皇女が住まう場所。
 いつか、時が来たら。行ってみたい。神秘の都、ユリシエルに。
 アグネイヤの元に、眠りの精霊が舞い降りそうになったとき。がたん、と馬車が大きく揺れた。
「……っ?」
 アグネイヤは飛び起き、ジェリオは彼女を右手に抱えたまま、剣を引き寄せる。
 何事だとアグネイヤが御者に尋ねると。
「――行き倒れです」
 困惑した、御者の声が返ってきたのである。


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