AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
9.岐路(4)


「なっ」
 何を言うのだ。アグネイヤは泣きたくなった。
「依頼主と標的が同一人物ってのも、なかなか面白いだろう」
 面白いどころではない。かつて、アグネイヤは同じ話を彼に持ちかけたのだ。クラウディアを――フィラティノア王太子妃を殺害せよと。言いつつ、自身がクラウディアと入れ替わって死ぬつもりだった。それをジェリオは忘れている。忘れているというよりも、忘れさせられている、といったほうが正しいか。どちらにしろ、今のジェリオは以前のジェリオではない。カイラに操られ、彼女の意のままに動くドゥランディアの下僕に成り下がっているのだ。その高すぎる矜持だけは捨ててはいないかもしれないが、それでも、彼の精神は蝕まれている。
 けれども、ここでこうして会話をしていると、呪縛のことは綺麗に忘れてしまうのだ。
 ジェリオはジェリオ。以前と少し雰囲気は変わっていたとしても。彼であることには変わりない。
「それに」
 ジェリオは彼女の頬と首筋、それに唇に軽く口付けを落としてから、更に笑みを濃くしていった。
「あんたのお抱え暗殺者だったら、俺も自由の身になれるってわけだ」
「――おまえ」
 彼は解っていない。先程、宰相は皇帝の命令を却下したのだ。一介の家臣が、主君の命令を。最早、アグネイヤの地位は失墜している。エルハルトにとって、仰ぐべき主君はリディア――リドルゲーニャただ一人でしかない。そのリディアが、アグネイヤの存在を否定したとなれば、エルハルトは容赦なくアグネイヤを斬り捨てるだろう。愚帝として。
「とりあえず、これ外してもらわないとな。どんな性技(プレイ)だよ。俺は、皇帝陛下の隷属物か、愛玩動物か?」
 手を上げて、がちゃがちゃと鎖を揺るがす彼に、アグネイヤは思わず吹き出した。こういうところは、変わっていない。彼は、彼のままだった。
「そうだな」
 アグネイヤは彼の腕からすり抜けた。試してみるのも、悪くないかもしれない。
「おい、皇女さん」
 呼びかけを、アグネイヤは無視した。すたすたと扉まで歩き、徐にそれを開ける。思った通り、入り口には先程の衛兵二人が佇んでいた。そのうちの一人、皇帝付としてアグネイヤの部屋に詰めていたほうの青年の前に立ち、まっすぐに彼を見上げる。
「陛下、いかがなされました?」
 宰相の間諜であろう彼も、主君である人物に見つめられるのは居心地が悪いに違いない。彼は幾分赤らんだ顔をアグネイヤに向けて、用向きを尋ねた。部下からの問いかけ、それがどれほど無礼であるかを承知はしていても、問わずにはいられなかったのだろう。澄んだ暁の瞳を前にしては。
「悪いが、服を脱いで欲しい」
「は?」
 直接的な言葉に、衛兵二人は頓狂な声を上げ、互いに顔を見合わせた。皇帝がついに気が狂ったのではないか、彼らは危惧しているのかもしれない。
「ああ、すまない」
 これは、表現が直接的過ぎたか。ジェリオと会話をしているうちに、彼の下品さが移ってしまったようである。
「少しの間、服を貸して欲しい。――彼に」
 アグネイヤは室内に視線を向けた。寝台の上に座り込んでいるジェリオ、彼は半裸である。しかも、傷を受けた上半身には、包帯が巻かれているのだ。途中で彼がよからぬ行為に及ぼうとしたせいか、お世辞にも綺麗とはいえぬ巻き方のそれを見て、衛兵はことを察したらしい。
「あの男を、どちらに連れて行かれるおつもりですか?」
 彼らでなくとも、問いたくなるはずだった。もしや、あの不埒な刺客に口説かれて、皇帝がその逃亡を図ろうとしているのであれば、彼らの仕事はただ一つ。刺客を捕らえ、皇帝から引き離さねばならない。身構える二人に、アグネイヤは真摯な眼を向けて、
「母上の――皇太后陛下のもとへ。彼を連れて行きたい」
 できるだけ冷静に、思いを伝えたのである。
 皇帝の命令と、宰相の命令。どちらを優先するかといえば、臣下としては当然前者に他ならない。衛兵達は仕方なく――本当に、仕方なくといった様子で、アグネイヤに従った。ひとりがジェリオに服を貸し、今一人が皇帝の警護と監視も含めて付き従う。既に薄明を迎えようとしている宮殿内には、人気がなく。要所要所に佇む兵士達の顔も、何処かしら眠たげであった。
(襲うなら、この時間帯だろうな)
 衛兵の配置を見ながら、アグネイヤはふとそんなことを考えた。考えてから、自身の妄想に苦笑を浮かべる。
 ここは、アグネイヤの宮殿だ。彼女の家だ。そこを襲うことを考えるなど、自分はどうかしている。
 宮殿内の回廊と、隠し通路を巧みに使いこなして、アグネイヤは最短距離で母后の居室へと足を運んだ。エルハルトにも、リナレスにも、他の者達にも。気づかれてはならない。これから自分が、母に持ちかける密談に。
「なんなんだよ、お袋に会わせるって。会ってどうするんだ?」
 怪訝そうに尋ねるジェリオの口を、掌で塞ぐ。先程彼にそうされたように。アグネイヤは唇の前に指を立て、
「静かにしろ」
 彼に注意を促した。後ろから付き従う衛兵は、二人のやり取りを見て、どう思っているのか。無表情ながらも、興味深く観察しているのではないかと思われるほど、彼の視線はアグネイヤとジェリオを捕らえて離さなかった。刺客と、彼に誑かされた皇帝とが、いつ自分に襲い掛かってくるかわかったものではない。更に、皇帝の目的が解らぬ今、易々と皇太后のもとに二人を行かせてしまって良いものか――衛兵の中には、葛藤があるのだろう。
 その気配をひしひしと感じているときに
「会って、俺にご挨拶しろってのか? 『あなたさまのご息女を、女にしようとしている男でございます』って」
 ふざけたことを言い出すジェリオが悪いのだ。
 アグネイヤは、力を込めて彼の向う脛を蹴り上げた。ジェリオは痛みを堪え、僅かに眉を動かすのみにとどめた。
「なにすんだよ。場所間違えたら、使い物にならなくなっちまうだろ?」
「だったら、口を慎むことだな」
 アグネイヤは怒りのままに彼に背を向ける。いくらなんでも、第三者のいる前では彼もいかがわしいことをしようとはしないだろう。それにまだ、両手は縛められており、伸ばされた鎖の端は、衛兵の手に握られているのだ。無体なことは出来るまい。
「――陛下?」
 皇太后の居室、その前に到達すれば、かの部屋付の衛兵達が驚いたように眼を丸くした。皇帝が、何用あって先触れもなしにやってきたのか――しかも、供といえば、衛兵二人のみを連れて、このような時刻に。
「皇太后陛下は、お休みになられております」
 解りきっていることを言われて、はいそうですかと下がっては、ここに来た意味がない。
「火急の要件だと、母上に伝えてもらいたい」
 アグネイヤが告げると、衛兵達はざわりと騒いだ。皇帝の突然の来訪。その目的が何であるのか。彼らははかりかねている様子である。
 と。
「どうぞ、お入りください」
 中から女性の声が聞こえた。アグネイヤは勿論、衛兵達も驚いて扉に視線を向ける。声の主は、皇太后の侍女。兵士達が渋っている間に、扉は内側から開かれた。そこに佇んでいるのは、侍女のお仕着せを纏った若い女性である。彼女はアグネイヤの前に膝を屈すると、
「どうぞ、お入りくださいませ。陛下がお待ちです」
 思わぬことを口にした。
「母上が?」
 もしや、もう、皇太后のもとに情報が届いていたのか。――考えられぬことではない、宰相に知られた時点で母にも知られたと思ったほうが良いのだ。世間が言うように二人の間にやましい関係はないが、皇太后と宰相は表裏一体。アグネイヤの行動は、筒抜けになっているのだ。
(筒抜けに……)
 思うと、頬が熱くなる。地下牢での出来事、そして、よもや隠し部屋での出来事も、母に知られてしまっているのではないか。ジェリオと交わした口付けも、抱擁も、全て。
 考えると、体が動かなくなった。最初の一歩が踏み出せない。
「来いって言ってるんだろ? 早く行けよ」
 背後からジェリオに促され、アグネイヤは漸く足を動かすことが出来た。彼女は衛兵を振り返り、その手からジェリオを繋ぐ鎖を受け取る。
「大丈夫、彼に妙な真似はさせない」
 周囲を説得するように、また、ジェリオに言い聞かせるように。言ってからアグネイヤはジェリオを連れて中へと入る。
「って、俺は犬か」
 不満をぶちまけるジェリオだが、どうすることも出来ないでいる。彼は渋々と言った呈でアグネイヤとともに次の間へと導かれた。そこには更に二人の侍女が控えており、
「暫し、こちらでお待ちくださいませ」
 丁寧に頭を下げる。
「随分、勿体ぶるんだな」
 ジェリオが背後から囁きかける。アグネイヤは小さく頷いた。
「親子であって、親子ではないからな。表面上は、皇帝と皇太后の対面ということになる」
 冠というものは、重苦しい枷でもある。ジェリオの腕を縛めるそれとはまた種類の異なる、魂を永遠に縛り付ける枷だ。普通の親子であれば、このような面倒な手続きは必要ないだろう。会いたいときにいつでも会える。けれども、場所が皇宮では、背負う責務が帝王の職なれば、そのようなことは言ってもいられない。
 もっと気軽に、母后に会えるように。
 戴冠の後は、そうなることを信じていたのに。現実は違った。皇帝となってからのほうが、母后との距離が開いたような気がする。
「陛下」
 こちらに、と、侍女に声をかけられ、アグネイヤは頷いた。ジェリオを従えて、ゆっくりと隣室に――皇太后の居間へと向かう。
「エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤにございます」
 自身の名を乗ると、背後でジェリオが低く口笛を吹いた。彼はここで初めて、彼女の名を知ったのだ。そういえば、記憶を失う前も、彼には本名を告げたことはなかったように思う。
「夜分に火急の要件とは。何事かと思ったが」
 長椅子に浅く腰掛けたリディア皇太后は、無機質な古代紫の瞳を、ゆっくりとこちらに向けた。こちらに――否、アグネイヤではなく、ジェリオに。
 皇太后の視線に、しかし、ジェリオはまるで動じなかった。跪くどころか、頭を下げることすらしない。傍らに佇む侍女が
「無礼ですよ」
 小声でたしなめるのも聞かず、彼は毅然とした態度のままリディアを見つめている。燭台の灯り越しに交錯する視線――皇太后は、ジェリオの態度をどう思ったのか。
「ほぅ?」
 愉快そうに口元を歪ませ、
「汝等、席を外せ」
 人払いをする。侍女たちは幾分不服そうであったが、主人の命令は絶対である。ジェリオと、彼を同行させたアグネイヤとを胡乱な目で見つつ、各々部屋を下がっていった。ぱたり、と扉が閉められると同時に、リディア皇太后は、椅子に深くもたれ、扇で口元を隠した。その下から、微かに笑い声が漏れる。
「我が子の命を狙うものなれば、どのような容貌をしているのかと思いきや。なかなか、良い面構えではないか」
「母上」
 揶揄の言葉に、アグネイヤは声を上げる。母后もやはり、アグネイヤとジェリオの仲を疑っているのだろう。アグネイヤが、ジェリオにたぶらかされたと。そう思っているに違いない。
「元は、フィラティノアに雇われた刺客だそうな。我が子を救ってくれた、と聞いておるが、如何に?」
 ジェリオは、アグネイヤとクラウディア、双方の命を救ってくれた。その事実には変わりはない。エルハルトは、アグネイヤの言葉をそのまま皇太后に伝えてくれたのだ。そのことに、彼女は感謝した。彼は、何処までも職務に忠実であり、決して事実を歪曲させるようなことはしない男である。
 とはいえ、それが、アグネイヤを信じている証となるわけではない。
「苦しゅうない、答えよ」
 皇太后に促され、ジェリオは不貞腐れた表情のまま口を開いた。
「ああ。そうらしいな」
 皇帝と皇太后を前に、何処までも不遜な態度である。それでも、リディアは特に彼を咎めることはなかった。寧ろ愉快そうに彼と、その傍らで気をもんでいる娘を見つめている。
「その功績に免じて、彼を助けよ、と? そう申し出る気か、汝は?」
 皇太后の赤紫の瞳を受けて、アグネイヤは肩を揺らす。自身と似た面差しを持つ厳格なる母のことは嫌いではないが、どことなく恐ろしかった。常に自身の器量をはかられているような気がして、彼女の前では普通に振舞うことが難しかった。双子の妹よりも劣っている、生贄となることでしか国のため人のために役立てないような皇女だと、暗に責められていると感じていた。エルハルトがどれほど、リディアのアグネイヤに対する愛情を語っても、全てを信じることは出来ない。
「彼は現在、ドゥランディアの獣に操られているのです。その術さえ解ければ……」
「汝の手足となって働く、有能な家臣となると。そう考えているのか」
「はい」
 間髪をいれずに答えれば、皇太后よりもジェリオのほうが驚いたようだった。彼はアグネイヤとリディアを見比べ、どうしたものかと肩をすくめる。
「どちらにせよ、この者は刺客であることにはかわりはない。依頼者が誰であれ、少なくとも二度は汝を葬らんとした。それでも信じるというのか?」
「はい」
 またも、アグネイヤは即答した。
 なぜか、わかる。ジェリオには、アグネイヤを害する気はない。ドゥランディアに操られている今でさえ、それは断言することが出来る。先日離宮に現れた折は、彼女を殺害するつもりだっただろう。けれども、そのあとは。自ら命を断とうとしたアグネイヤを、助けようとした。
「なれば、汝の命で解放すれば良いではないか。我に伺いを立てるまでもない。命を狙われたのも汝、許すのも汝。個人の問題であろう」
 リディアの言葉に、アグネイヤは唇を噛み締めた。母后は、本気でそのようなことを言っているのか。幾分投げやりとも取れる彼女の言葉の裏には、どのような意味が隠されているのだ? 否、それ以前に。アグネイヤ四世から、あらゆる権限を奪った張本人が何を言う。知らず、拳を固めるアグネイヤを、リディアは感情の篭らぬ目で見つめている。彼女には娘の気持ちがわかっているのだろうか。わかっていれば、これほどまでに冷然とした態度を取ることはないだろうに。
「エルハルトは、私の命令を拒絶しました」
 その時点で、皇帝の権威は失墜している。ただ、そこにいるだけの飾り、名ばかりの存在だと、思い知らされたことになる。この国は、実務上皇帝などいてもいなくても構わない。帝国を名乗るために必要な名目上の君主、拠り所があれば良いのだと。神聖帝国の象徴は、巫女姫。彼女さえあれば、皇帝は必要ない。二百年前であればともかく、現在は。現在は皇帝などいなくとも、政治は回ると母后と宰相は世に知らしめようとしているのだ。アグネイヤの即位は、神聖帝国再興の口実でしかない――そのことに気づいたとき、それでもいいと思っていた。かつては良き君主となるよう、心がけていたが。それが全て無駄になると知って、精神の糸が切れた。だからこそ、アシャンティに移されたときも、何も言わなかった。無力な皇帝、権力を持たぬ小娘が、誰に狙われることはないと、狙うとすれば、約束を果たすためにやってくるジェリオだけであると。そう考えて。
 戴冠した当初は、未来への希望を持っていた。
 その希望を打ち砕いたのは、他ならぬ――
「母上もエルハルトも、私が皇帝として相応しくない人物だと、そう思っていらっしゃるわけですね。暗愚で器量のない人物だと。ゆえに、私の存在を生きながら抹消しようと考えていらっしゃる」
 恨み言を言うつもりはなかった。感情を露にするつもりはなかった。殊に、ジェリオの前では。
「せめて、唯一つの願いだけでも聞いてはいただけぬのですか。命令ではなく、願いとなってしまったことでさえ、無視されるのでしょうか」
「……」
 扇の下から、細い溜息が漏れた。嘲っているのか、呆れているのか。どちらともとれる、失望の溜息であった。
「暗愚であれば、まだ良い。傀儡として立てることが出来る」
「母上?」
「汝等は、親の欲目かも知れぬが、賢い部類に入ると思っている。そう、自身で充分国を動かすことの出来る能力を備えていると」
「母上……」
「だが」
 皇太后の赤紫の瞳を暗い影が過ぎる。彼女はどこか遠くを見るように、アグネイヤから一瞬視線を逸らし、
「我は汝の育て方を間違えた。汝は、主君となるべきではない」
「――っ」
 ずきり、と胸が痛む。解りきっていたことなれど、こうして面と向かって告げられると、如何に事実とはいえ衝撃を受けてしまう。アグネイヤは項垂れこそしなかったが、感情を抑えるためにひたすら強く拳を握り締めた。手が震えるほどに。
「そうか?」
 二人の間に割って入ったのは、ジェリオだった。アグネイヤは驚いて彼を振り返る。彼は、アグネイヤを押しのけるようにして皇太后の前に進み出ると、
「あっちの、嫁に行った皇女さんよりも、よっぽど皇帝陛下らしいぜ? あっちの皇女さんは口ばっか達者で、気が小さくて、ついでに高慢ちきで冷たくて、可愛げが一つもない」
 こともあろうにクラウディアに対する悪口(あっこう)を述べ始めたのだ。これにはさすがに皇太后の不興を買うと思いきや
「なかなか、面白いことを言う」
 逆に、笑わせたのである。彼女は興味深げにジェリオを見つめ、
「汝は記憶を失っているそうだが。そういう、都合の良いところは覚えているのか」
 問いかけた。ジェリオはふと我に返った様子で瞠目する。が、やがて眉根を寄せて考え込んでしまう。おそらく、あれは弾みで口にしてしまったことだ。意識して言った言葉ではなく、感情に任せて――
(あ、っ?)
 考えて、アグネイヤはあることに思い至る。ジェリオは言っていた。時々、ふと断片的に思い出すことがあると。思い出すというよりも、ひらめきに近いそれは、本人の意識とは無関係に表面に出てくると。
 きっかけとなるのは、感情の昂ぶりかもしれない。その最たるものが情交なのではないか。
 だから、それ以外に彼の感情を揺さぶるようなことをすれば、もしや。
「マリサは、皇帝たるべく教育を受けた娘だ。双方、同様に教育をしてきたわけではない。二人は気づいていなかったかも知れぬが、五歳のときより、マリサには帝王学を学ばせてきた」
「……?」
 母の意外な言葉に、アグネイヤは現実に引き戻された。
「母上」
 それが真実であれば。十四歳のあの日まで、どちらがアグネイヤでも良かったというのは、嘘だったということになる。初めから、後から生まれたクラウディア――マリサを皇帝とするべく教育していたのだとすれば。ああ、やはり、想像は当たっていたのだ。もとより、母もエルハルトも、マリサを皇帝にと推していたのだ。彼女が優先的に帝王学を学ばされていたのは、確かな事実であったのだ。
「元は同じものなれば、どちらが上でどちらが下ということはない。向き不向きは、当然あるだろうが。汝等は、表裏一体。対となった存在。できることならば、二人で助け合いながら国を治めて欲しかった」
「……」
「それが叶わぬのは、先刻承知の上。しかも、マリサではなく、サリカ、汝が皇帝となることを宣言してしまっては」
 全ての目論見が、水泡に帰してしまう。
 それでも、誕生の折の予言は、アグネイヤが帝冠を戴くことを告げていた。アグネイヤとともに神聖帝国は復活し、そして――滅びるのかもしれない。
「汝が表舞台に立つのは、早すぎる。汝はまだ、若い。そして、甘い」
「……」
「予言に従い即位をさせたが、それは、間違いであったかも知れぬ」
 皇太后の言葉は、徐々にアグネイヤを追い詰めていく。
 未熟な皇帝。
 暗愚でもなく、切れ者でもなく、そこそこに賢い、最も扱いにくい存在。
 教育次第では、名君となれるかも知れぬが、逆に責務に潰される可能性も否定できない。
 皇太后も宰相も、おそらく重臣達も。そう思っているからこそ、アグネイヤを政治から遠ざけた。
 絶対的な名君でなければ、寧ろ暗愚のほうが良い。
 それが、主君たるものの理想像。
 アグネイヤは冷たく響く皇太后の言葉を、頭の中で反芻していた。


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