AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
9.岐路(3)


 釈然とせぬ思いを抱えたまま、リナレスは単騎、アシャンティへと向かった。
 深夜、かの離宮より紫芳宮へと戻ったフィアよりエーディトからの伝言を聞かされた彼は、取るものもとりあえず皇宮を出たのだが。いまだ、半信半疑だった。

 ――ドゥランディアの女を、捕らえています。

 正直、まさか、と思った。エーディト――金細工師の弟子である少年が、生ける凶器とも言える東方の毒薬師を捕らえたというのだ。にわかには信じられぬ話であったが、

 ――こちらを。

 エーディトの書簡に添えられていた女性の服を見て、リナレスは更に驚くことになる。それは、紫芳宮の侍女のお仕着せであった。しかも、袖の部分には、ルクレツィアの侍女である印――ミアルシァ王家の紋章が縫い付けられている。これがここにあるということは、当然
(あの馬鹿……)
 その女性は、全裸だ。ご丁寧にエーディトは下着までも剥ぎ取っている。この分では、どこかに武器や薬を隠していないかと、彼は調べずも良いところまで確認しているかもしれない。
 本当に、何を考えているのか解ったものではない。
 だが、カイラと思しき女性を手中に収められたのは、幸運だった。これでもう、ジェリオを追及せずとも済む。なれば、彼は用済みだ。早急に始末することができる。アグネイヤの目に触れぬうちに、闇に葬れれば――思って、地下牢に出向いてみれば、ジェリオは何処かへ連れ出されたあとだった。衛兵に聞けば、ジェリオを連れ出したのは宰相だという。
(なぜ、閣下が)
 疑問が残ったが、宰相もジェリオに興味を持ったのかもしれない。ダルシアの容姿に、カルノリア訛り。しかも、シェルキスの名を知っている。カルノリアに多い名前といわれればそれまでであるが、それでも、ジェリオの立場上、シェルキス二世と結び付けざるを得ない。ジェリオがシェルキスの子飼の刺客だとしたら、カルノリアがアグネイヤの命を狙っていることになる。その証拠になる。そして、カルノリアとミアルシァが裏で手を結んでいるという証にも。


 エルハルトに袖にされた後、リナレスは夜通し街道を駆け抜けた。お陰で早朝には離宮へと到着することが出来たが。
「ああ、若様! リナレスの若様! こっちですよこっち」
 朝靄の中からいきなり現れた、亜麻色の髪の――女装少年に、一気に緊張感をそがれた。確かに彼は女性的な顔立ちをしているが、それでもなんとなく女装には違和感があるのだ。可憐な乙女に見えるどころか、たちの悪い男娼に思えてしまう。
 もしやと思うが、カイラは彼の容姿に騙されて、あっさり捕らえられてしまったのではないか。コレを、女だと思って油断して……。
(ありえない)
 余程とぼけた人間でも、間違えることはない。エーディト、彼は少年だ。決して少女ではない。このへたくそな化粧と、太く根を張った眉、口元に薄ら浮いた無精ひげがそれを物語っている。
 オルネラの裏巫女であればまだしも、エーディトなど幾ら金を詰まれても、抱きたくはない。否、抱くものか。そんなことになったら、舌を噛んで死んでやる。
「若様、なに、親の仇に会ったような顔をしているんですか。捉えたネズミは、地下です、地下。ああ、わたしがあまりにも美しいので、ドゥランディアの獣と勘違いされたと、そういうわけですね」
 うしし、と笑うエーディトを軽く手の甲で叩いてから、
「冗談はいい。さっさと案内しろ」
 厳しい口調で命ずる。エーディトは
「もう、若様、冷たいんだから」
 しなを作りながら、彼の脇腹をつつき、更にリナレスを怒らせた。
「エーディト!」
 拳を振り上げるリナレスからするりと身を交わし、エーディトは軽やかな足取りで工房へと向かう。従ったリナレスは、地下で信じられぬ光景を目にした。工房の中央にある柱、そこに女性が鎖で縛られているのだ。しかも、彼女は予想通り全裸であった。漆黒の髪と白磁の肌が見事な対比をなし、見るものの心を一瞬にして奪う。項垂れた顔の下、長い髪で部分的に隠されている乳房は、つんと上を向いており、思わずそこに吸い付いてしまいたくなるような――あやしの魅力を持っていた。そこから続く平らな腹、そして、脚。彫刻の如く完璧に作られた肢体に、リナレスは魅入られた。しらず、ごくりと唾を飲み込んだ彼に
「あああ知りませんよ知りませんよ若様。陛下に言いつけますよ」
 エーディトが意味ありげな笑みを投げて寄越した。
「若様は陛下一筋ですからね、こんな女の裸の一つや二つ、へとも思わないと思っていたのですけど。やっぱり、オトコなんですねえ」
「黙れ」
 振り上げた拳は、エーディトには届かなかった。女装の少年はにやにやと笑いながら、楽しげにリナレスの周囲を歩いている。
「このご婦人に、何か着る物を」
 漸く絞り出した声は、かさかさに乾いていた。エーディトは、「えー」と不満げに声を上げる。
「そんな、こんな女に紳士的に振舞わなくてもいいじゃないですか。このひと、殺し屋ですよ。身体で誘惑したりもするんですよ。身体は見世物、ぱーっと出してもなんとも思わない輩ですからどうぞ気にせず気にせず」
 お前は気にしなくても、こちらは気にする、第一眼のやり場に困る、と、リナレスは心の中で叫んでいた。第一、裸婦をどうやって紫芳宮まで運べというのだ。街道を走っている段階で、変質者として通報されてしまう。おまえの服でもいいから寄越せと、エーディトの腕を掴むと
「あーれー若様若様いけませんいけません人が見ています」
 悪代官に襲われる村娘よろしく、エーディトは奇声を上げて逃げ回る。もう、これでは手に負えない。
「まったく、朝っぱらからなに野郎二人で戯れているんだよ」
 気色が悪い――言いながら、乱れた赤毛をぼりぼりかきつつ現れたのは、ティルデであった。彼女は染め粉を落としてさっぱりしたのか、癖のある赤毛を指で梳き、引っ掛かりのないことを確認してから満足げに笑みを零す。暗がりの中から現れる、赤毛の女――魔女か、と、一瞬怯んでしまった自分が情けない。リナレスは憮然とした表情で、ティルデを見やる。と、彼女はリナレスに向けて
「ほれ」
 衣装を一着、放り投げてきた。
「あたしのでよければ、くれてやるよ。ちゃんと洗ってある奴だからね」
 魔女らしい、黒を基調とした簡易服である。ただ身体を包めばよい、という至ってわかりやすい構造のその服を、リナレスは鎖から解き放ったカイラに着せた。じかに触れる肌は、僅かな湿り気を帯びていて、掌に吸い付くようだった。滑らか、としか言い様のないその感触を知らず楽しんでいたリナレスは、じっとりとこちらを見つめるティルデの視線に気づき、軽く咳払いをする。
「あんたも男だねえ。見ちゃいらんないよ、でれでれ鼻の下伸ばして。みっともないったら、ありゃしない」
「ですよねえ。陛下一筋の割には、浮気心満載ですよね。ああ、フケツっ」
 己の身体を抱きしめるエーディトを鋭く睨み、リナレスは服の上からカイラを縛り上げた。いまだ意識を取り戻していないのか、彼女は硬く目を閉じ彼のなすがままに身を委ねている。軽く仰け反る白い喉に、リナレスは視線を奪われた。この女性が、アグネイヤを辱めた。頭では解っていても、理性とは別のところで、身体が反応してしまう。柔らかなカイラの感触に、彼の若い身体は昂り始めていた。
 いけない、こんなことでは、いけない。
 早く、紫芳宮へと戻らなければ。
「邪魔をした」
 カイラを横抱きにして、彼は工房をあとにする。
 このようなことであれば、馬車を用意して来ればよかった。後悔しても、もう遅い。彼は仕方なく、愛馬にカイラを乗せた。さすがに荷物のように括り付けるわけにも行かず、彼女を抱きかかえるようにして手綱を取る。
 馬を走らせてからも、神経を尖らせていた。
 カイラを落とさないか。
 覚醒した彼女に、妙な勘違いをされはしまいか。
 暗殺者如きにあらぬ疑いをかけられるのは心外である――彼は言い訳のように、自身の心の中で繰り返した。繰り返すのは、言い訳ばかりではない。アグネイヤの名前だった。彼女の名を呪文のごとく唱えることにより、理性を保つことが出来る。カイラの感触に惑わされずに済む。
 と。馬が石を踏んだのか、僅かに体勢が崩れた。リナレスはカイラを取り落とすまいと、彼女を抱く手に力を込める。
「――う……」
 弾みで、息を吹き返したか――カイラの睫毛が揺れた。閉ざされていた瞼が開き、黒と見紛う深い青い瞳が、まっすぐにこちらを見た。
「あ」
 ドゥランディアの獣。
 卑しき暗殺者の瞳に、リナレスは一瞬にして捉われてしまった。
「あ……」
 声が、出なかった。深い瞳に、魂まで吸い込まれてしまったような気がして。無言で見つめるリナレスを、彼女は笑みを以って迎えた。毒のある妖婦の笑みではない。どことなく恥じらいを秘めた、少女のような笑顔。清楚だと、そう思わせる何かが、彼女の――カイラの中にあった。
「若様?」
 夢見るような瞳、うわ言の如く掠れた声で、カイラは彼を呼ぶ。
 若様――エーディトの言葉を聞いていたのだろうか。彼が自分に呼びかける言葉を。
「若様が、助けてくださったのですね」
 うっとりと目が細められる。リナレスは息を呑んだ。魅了される、とは、こういうことを言うのだろうか。
「悪い人たちに、捕まっておりました。若様に助けていただかなければ、わたし」
 そこで、彼女は言葉を切った。深い青の瞳を潤ませ、濡れた睫毛を揺らす。刹那、リナレスは心臓をつかまれたような衝撃を覚えた。どくん、と、前触れもなく心臓が跳ね上がり、以降不規則な鼓動を刻んでいる。全身の血が、頭と心臓と、それから――彼自身に集まり、騒がしく沸騰を始めるのが解った。カイラも布越しにそれを感じているのだろうか。僅かに赤らめた頬をそむけるように、リナレスから視線を逸らす。だが、そのせいで彼女の真珠の如き輝きを放つ首筋が露になり。かえってリナレスの情欲は煽られた。
(ああ)
 アグネイヤと対峙したときには覚えたことのない、強烈な劣情。カイラの視線は、声は、言葉は、柔らかな肢体は、リナレスの理性をことごとく蝕んでいく。
 これが、ドゥランディアの獣。
 その色香で他人を惑わせ、虜にし、命を奪うという魔性の獣。
 いけない、と解ってはいても、彼女の言葉に耳を傾けてしまう。その吐息を甘いと思ってしまう。そして、彼女に触れたいと。もっと彼女を感じたいと。身体が訴える。
「お水を、戴けますか?」
 横を向いたまま、躊躇いがちに彼女が問いかける。リナレスは我に返った。
「水、水だな」
 彼は辺りを見回す。アシャンティは森と泉の街、探せば近くに清らかな泉が湧き出ているはずだった。アグネイヤも確か、その泉で沐浴をしたといっていたはず。
(うわっ)
 思った瞬間。唐突に、何の予告も無く、アグネイヤの裸身が脳裏に閃いた。幼い頃、ともに狩りに出かけ、帰り道に川や泉で沐浴をした記憶――そこに、成熟したアグネイヤの裸体が、否、先程目に焼きついてしまったカイラの悩ましい肢体が重なる。
(俺は、どうかしている)
 欲望に突き動かされそうになる自分を叱咤し、リナレスは泉を探すために、馬首を返そうとした。その手首をカイラが優しく掴む。視線を落とせば、彼女が甘く瞳を潤ませながら、小さくかぶりを振っていた。
「いいえ、若様の」
 いいながら、彼女の手がリナレスの腕を愛撫しながら這い登ってくる。振り払おうと思っているのに、振り払えない。リナレスは彼女のなすがまま、動きを止めていた。やがて、カイラの手が彼の首筋に――後頭部に回り、そこにゆっくりと力が込められる。反動でカイラは身を起こし、リナレスに顔を近づけた。
「あ……っ」
 避ける暇はなかった。甘い薫りが鼻をくすぐると同時に、唇を重ねられる。驚く彼に、彼女はしなやかに絡み付いてきた。背を辿る指先は、今まで抱いたどの高級娼婦よりも淫らな動きで彼を刺激する。唇から生まれる甘美なる漣に、リナレスは溺れそうになった。愛情を持っているわけでもない、どちらかといえば憎しみしかないはずの女性、彼女の口付けと愛撫で、心まで蕩けてしまいそうになる。
(くそっ)
 彼女の愛撫に屈服しそうになる自分を抑え、彼は理性を取り戻すべく必死に彼女から意識を逸らそうとする。だが、思えば思うほど、彼女の口付けは濃厚さをまして行き、彼の魂を奪い取ろうとせんばかりに激しくなった。喉に流れ込む甘い唾液を飲み干せば、それはまるで媚薬のように彼を歪んだ快楽の世界へと誘う。
「やめろ」
 強引に引き離すと、カイラは怯えたように身をすくめた。切なげに揺れる眼差しが、彼女が傷ついたことを訴えてかけいる。それを見ると、さすがにリナレスも心が痛んだ。本当に、この女性が暗殺者なのか。ただの密偵――色仕掛けで異性を誘惑し、その代価として情報を集めるだけの存在なのではないかと思う。そんな女性ならば、数多く見てきた。そうして、そういった女性と寝ることも、自分の役目だった。子供と安心して、彼女達は容易にリナレスの前では尻尾を出す――だが、密偵であれ暗殺者であれ、危険分子にはかわりはない。母国に仇なすものには、相応の制裁を加えねばならない。
「カイラ――ドゥランディアの暗殺者だな?」
 リナレスの言葉に、カイラがびくりと肩を震わせる。
「貴様は、陛下のお命を狙った重罪人。遅かれ早かれ、裁きを受けてもらわねばならない」
 先程までの昂ぶりを否定するように、拒絶するように。リナレスは殊更固い口調でカイラに宣言した。
「色仕掛けで、わたしを篭絡しようとしても無駄だ」
 お前を生かすも殺すも、決めるのはわたしではない、――リナレスは冷たく言い放ち、再び馬の腹を蹴り上げる。応える高い嘶きに、カイラの笑い声はかき消された。喉を仰け反らせ、狂ったように笑い転げるカイラを、リナレスは奇妙な生き物でも見るように凝視する。
「何……」
 何がおかしい、と、訊くまでもなかった。
「あ」
 ぐにゃり、――視界が歪んだ。視点が大きくぶれ、身体が弛緩する。酒を過ごしてしまったときのように、手に、脚に、力が入らない。
(しまった)
 あの、口付けだ。喉に流し込まれた、カイラの唾液。あの中に、薬が仕込まれていた。
 カイラは、奥歯に妖しげな薬を仕込み、それを噛み砕いてリナレスに飲ませたのだ。
「お馬鹿さん」
 軽くカイラに胸を突かれた。それだけで、抵抗するべくもなく、リナレスは体勢を崩す。そのまま、手綱からも手が放れ、彼はゆっくりと地面に落下した。
 下敷きとなった腕が、彼の全体重を受け止めて悲鳴を上げる。折れたのか、そう思える強い痛みの中でも、他の感覚は蘇らなかった。起き上がることも出来ず、ただ、空を見上げるだけのリナレスを、カイラが魔性の笑みを浮かべながら覗き込んでくる。
「お馬鹿さん」
 もう一度、彼女は同じ言葉で彼を罵倒した。それから、悠然と手綱を取り、大胆にも(スカート)のまま脚を開き、馬に跨る。いつの間に、縛めを解いていたのか。じゃらり、と重い音がして、リナレスの胸に彼女を束縛していた鎖が落とされる。鳩尾に受けた痛みに彼が悲鳴を上げる頃には、カイラを乗せた馬影は遠く去っていた。
 遠く。
 紫芳宮へと向かって。



「呪縛?」
 彼はそれ自体が不思議な呪文であるかのように、厳かに口の中で繰り返した。
「呪縛……」
 ジェリオにかけられた呪いとも言うべき『ドゥランディアの呪縛』。名を取られ、心を奪われて、ひとはドゥランディアの傀儡と化すという。ドゥランディアに縁のあるフィアの言葉によれば、かの術は房事によって施術されるのだ。
 情交による刷り込み――それを解除する方法は、やはり、情交でしかないとフィアは言っていた。
 しかも、それは術を施したものでなければ駄目なのだと。
 ジェリオの呪縛の主は、カイラである。ならば、カイラが解呪の法を行わねばならぬのだ。
「カイラがそんなことをするわけがないから、だから」
 想いが通じれば、別の人物でも可能かもしれない―― 一縷の望みでしかないが、そこに全てを託すのであれば。
「でも、出来なかった。――出来ない。すまない、ジェリオ」
 彼に身体を開くことは出来ない。自分を納得させたつもりでも、心の奥底でその行為を嫌悪する自分がいる。異性を恐れる自分がいる。その一方で、快楽を求めてしまう自分もいる。
「呪、縛……」
 ジェリオは強く眉根を寄せた。何か思い当たる節があるのだろう。やや苦しげに低く呻くと、アグネイヤを抱く手に力を込める。また、発作に襲われたのか。アグネイヤは知らず身構えた。今度こそ、彼に食い殺されてしまうかもしれない。
「クラウディアも、いま、呪縛を解く方法を調べてくれている。カルノリアのアレクシア皇女、彼女なら大陸中の書籍を手にしているはずだから、と。アレクシア皇女にも手紙を送ってくれているらしい。僕も、もう少し調べてみる。だから」
 時間をくれ、と。アグネイヤは言った。
 そのためには、ジェリオの身柄をエルハルトから貰い受けねばならない。今は、手当てをするために一時的に『預かっている』だけなのだ。夜が明ければ――もしかすると、それよりも早く。手当てが終了したと思われた時分に衛兵が訪れて、強引に彼を連れ去るかもしれない。
「カ、イ、ラ」
 ジェリオの呻き声に、美しき暗殺者の名が混ざる。
 カイラ――彼女は何を以って、ジェリオを虜としたのだろう。アグネイヤの命を、確実に奪うためか。それとも、他に何か目的があるのか。カイラにアグネイヤの暗殺を依頼したのは、おそらくミアルシァ。否、ドゥランディアが動くとすれば、ミアルシァ国王の下命以外考えられぬ。
「俺は……」
 操られているのか――ジェリオの問いかけに、アグネイヤは頷いた。
「カイラは、俺が、あんたの子飼の刺客だといった」
「……」
「あんたは、皇帝の地位に就くために、邪魔な人間を俺に殺させたと」
「……」
「挙句、俺が邪魔になったあんたは、俺を殺そうとして――俺は、記憶を失った」
 それが、カイラがジェリオに植えつけた記憶なのだ。
「おまえは、それを信じていたのか?」
 アグネイヤは詰るわけでもなく、彼に尋ねた。
「……」
 彼の沈黙を『是』と取って、アグネイヤは目を閉じる。
 決して、希薄な関係ではなかったはずだ。男女間の恋愛ではないにしろ、アグネイヤとジェリオの間には、確かに絆が存在していたと思う。互いの存在を認め合い、その長所も短所も含めて、一個人として相手を尊重していた。そう、信じていたのに。
 かくも脆く、絆というのは崩れてしまうものなのだろうか。
 どれほどドゥランディアの呪縛が強いものだとしても、断片なりとも覚えていて欲しかった。そう願うのは、傲慢か、それとも自惚れか。
「僕は、他人を押しのけてまでも皇帝になりたいとは思っていない」
 ぽつり、と。心情を漏らす。
「ただ、僕が皇帝にならなければ、アルメニアが滅びると思った。フィラティノアに奪われると思った。――今は、後継も指名しているし、なにより神聖帝国には巫女姫がいる。彼女さえいれば、国は安泰だ。皇帝は、巫女姫の守護者に過ぎない、名ばかりの存在で充分だ。だから、お前との約束通り、死んでもいいと思った。殺されるなら、おまえに、と」

 名誉が欲しくないか。
 暗殺者としての、名誉が。

 アグネイヤは、彼の耳に囁く。
「エルディン・ロウ――『大陸の狼』に、その名を受け継がれる青年。彼のように、神聖帝国皇帝の命を奪い、後世まで名を残す存在に、なりたくはないか?」
 刺客を生業とするものにとって、これほど甘い囁きはないだろう。
「でも、殺されるのは、ドゥランディアに操られたお前にじゃない」
 カイラの呪縛から逃れ、自身を取り戻したジェリオに、命を捧げたい。それだけではなく、ジェリオを解放してやりたかった。ドゥランディアから。カイラから。自由になった彼に、殺される。それが、今現在のアグネイヤの目標となってしまった。
「馬鹿」
 こん、と、顎の先で額をつつかれた。アグネイヤは、驚いて顔を上げる。褐色の瞳が呆れたように細められ、こちらを見つめていた。
「どうしてそう、死にたがる? あんた、冥府の神の花嫁にでもなるつもりか?」
「ジェリオ」
「どうしても、俺に殺して欲しいなら、――そうだな」
 彼は、にんまりと意味深長な笑いを浮かべ。音を立てて彼女の頬を吸った。
「俺を雇え」


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