AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
8.暗殺(4)


 地下へと続く通路は、昼なお暗く、揺らめく手燭の灯りだけが頼りであった。古びた階段はどこか足を置くに心もとなく。ともすればこのまま崩れて虚空に投げ出されてしまうのではないか――そんな恐怖を芽生えさせる。
「リナレス様」
 地下牢付の衛兵が、リナレスの姿を認めて敬礼する。彼は目礼で応えると、
「様子はどうだ?」
 主語をつけずに尋ねる。言わずとも、衛兵にはわかるはずだ。現在、こちらに収監されている人物はただ一人。未遂に終わったとはいえ、皇帝暗殺を企てた刺客――
(ジェリオ)
 アグネイヤは、彼をそう呼んだ。名前まで知っているとは、どういうことなのだろう。刺客が殺す前に獲物を辱めることはあるだろうが、その際に自身の名まで名乗るものなのか。暗殺に訪れた先で、堂々と名を名乗り、対象を手にかけるなど、物語の世界の話である。実際、暗殺というものは、闇に紛れて行われるから暗殺というのだ。殺人者は決して獲物の前に姿を見せない。姿を見せたときは、どちらかの命が失われるときだ。
 やはり、アグネイヤとこの憎き刺客の間には何かがある。リナレスは直感した。最悪の場合、アグネイヤの純潔は彼に奪われている。けれども、その後の報告によれば、『行為』のあった痕跡は見られぬということだった。寝台も乱れていなければ、絨毯にそれらしい痕もない。その一歩手前まで及んでいたところに、フィアが折りよくやってきたのか。
 それまでの間、ジェリオがアグネイヤに――彼女の唇に、肌に、何をしていたのか、考えるだけで気が狂いそうになる。
 ジェリオは、あのカルノリア士官とは違う。アグネイヤは、カルノリア士官に襲われたときは怯えを見せていた。しかし、ジェリオとともにいたときは。人質とされていたにも拘らず、かの男に完全に身を委ねて、どこか安心しきった姿を見せていたような――そんな風情があったのだ。
 それが、無性に癇に障る。
「……」
 彼は牢番の案内で、奥の一室へと足を踏み入れた。じわり、と肌に纏わりつく湿気と、鼻をつく鉄錆の香り――血の匂い。ここでどれほどの人間が拷問を受け、責め苦の中で悶死したことだろう。先日まで収監されていた、カルノリア士官。彼とその一味を別の場所に移した後に、こちらに護送されたのが件の刺客である。
 リナレスは、視線を上げた。天井から、半裸の男が吊るされている。両手首を鎖で縛められた、無様な姿。それを見ても、溜飲が下がることはない。
(ジェリオ)
 リナレスは彼の名を心のうちで呟いた。
 燭台を掲げ、火を彼の顔に近づける。刺客は鬱陶しげに顔を背けるが、リナレスは許さなかった。火傷を与えんばかりに更に炎を近づけ、じっくりと彼の面差しを検分する。
 美しい、とは言いがたい顔立ちだった。けれども、目鼻立ちは整っており、精悍、という言葉が相応しい、凛とした容貌を持っている。闇に生きるものにありがちな、下卑た色合いはない。寧ろ、彼にはどことなく品があった。
(カルノリア?)
 容姿は南方だが、言葉にカルノリア訛りがある。ということは、実はこの男は、先日捕らえたクラウスなる士官の一味ではないのか。なれば、ミアルシァとカルノリア、南北の大国が裏で繋がっていることになるか。
 それも、彼を責めれば答えが出ることだ。
 生かさず殺さず、じっくりと時間をかけて。答えを吐かせてやる――リナレスは瞳に力を込めて、ジェリオを見つめる。
「鞭を」
 牢番に声をかけ、リナレスは燭台を傍らの棚に置く。代わりに手にした鞭を、既に幾度も――数十回、数百回となく打たれて血の滲み出したジェリオの肌に押し付けた。最も深いと思われる傷口、そこを鞭の柄で抉れば、さすがに堪えたのだろう、低い呻き声が聞こえた。
「……」
 リナレスにとっては、甘美な声だった。唯一無二の主人を辱めた、憎き男の苦悶の声。アグネイヤが寄り添っていたその胸に更に鞭を振り下ろせば、今度はジェリオは声を殺し顔を歪めるだけに留まった。
「二人にしてくれないか」
 リナレスが人払いをすると、牢番と衛兵は心得たもので、素早く室内から姿を消した。去る寸前に
「何かございましたら、お声をかけてくださいませ」
 通り一遍の挨拶を残していくのは、いつものことである。
 自身とジェリオ、二人だけが残ったことを確認して、リナレスは徐に切り出した。
「貴様、陛下の純潔を奪ったのか?」
 単刀直入な問いに、刺客は驚いたのか。それとも、言葉の言い回しがわからなかったのか。怪訝そうに眉を顰め、
「陛下?」
 口の中で呟くだけに留まった。
「答えよ。とぼけても無駄だ」
 鞭の柄を刺客の喉に押し付け、気管を圧迫する。
「あの方は、貴様などが触れるどころかお姿を見ることすら適わぬ、高貴なお方。その方を辱めようなど、不届きにも程がある」
 本来であれば、離宮において即処刑――そうしても良い相手であった。ただ、ドゥランディアに繋がる糸、彼を利用してカイラを引きずり出す餌と考えられていなければ。そういった『歯止め』がなければ、今ここで感情に任せて彼を殺害したい位である。
「――るのか?」
 ジェリオの唇が動いたのを確認して、リナレスは少し力を緩めた。声を、聞き取れる程度に。
「皇帝に、惚れているのか?」
 答えではなかった。彼の言葉は、質問に対する答えではなかった。それどころか、
「欲しければ、奪い取ればいいだろう?」
 刺客は嘲笑ったのだ。リナレスを。
「き、さ、ま」
 声を絞り出す、それはこのような状態のことを言うのか。リナレスはまるで自身が気管を圧迫されているかのような胸苦しさを覚えた。同時に、触れられてはならぬ、神聖な部分を汚された気がして、彼は本能的に鞭を振り上げる。それを数回ジェリオの胸に叩きつけ、肩で息をついた。
 この行為が、ジェリオの台詞を肯定していることになる――気づいたのは、感情の嵐が去った後であった。
「あ……」
 リナレスは後悔の念に唇を噛み、強く鞭を握り締める。
 これではまるで、刺客如きに『先を越された』ことを怒っているようではないか。
 機会があれば、自身も、アグネイヤを我が物にしようと思っていたのだと。認めてしまったことになる。誰にも気取られぬように、心に秘めていた純粋な想い。それを、こんな下賎な輩に暴かれるとは。
「どこをどうすれば、皇帝がどんな声を上げるか。教えてやってもいい」
 挑発に、今度は乗らなかった。リナレスは彼を睨みつけ、鞭を一度床に叩きつける。黙れ、と、視線と行為で彼を一喝してから。
「カイラ、といったな。貴様とともに入城した女性。彼女は何処にいる? 貴様らは、ミアルシァの命を受けて陛下のお命を狙ったのだろう」
 質問の矛先を変える。ジェリオはリナレスの意図に気づいたか、再び口元を歪めた。嘲笑――それよりも更に暗い、皮肉げな笑みを刻む唇に、リナレスの眼は自然向けられる。この唇が、アグネイヤのそれを貪ったのだ。肌に刻印を残したのだ。それを考えると、彼の口に熱した油を流し込みたくなる。二度と、不埒な真似が出来ぬよう。
「知らねえな」
 投げやりな答えに、リナレスは眼を吊り上げる。この期に及んで、しらをきろうというのか、この男は。
「ダルシアの容姿に、カルノリア訛りの言葉――所詮、下衆か。金のためには、国も誇りも平気で売る輩。女性と見れば構わず犯す。相手が高貴なる方であっても、場末の娼婦でも、貞淑な商家の女将でも」
 挑発で返したつもりだが、彼はまるで乗ってこなかった。闇に沈む褐色の瞳に感情の色はなく、「それが?」とでも言いたげにこちらを見ているだけである。このふてぶてしさを、アグネイヤは頼もしさと捉えたのか。ふとそんなことを考えてしまう自分が情けない。リナレスは、内心自嘲の息を漏らす。やはり、彼は尋問慣れしているようだ。と、なれば。
(ひとつだけ、手がある)
 が――。
 それは、かなり危険な賭けでもあった。
「貴様」
 呼びかけに、ジェリオが軽く首を傾げる。この、なにものにも動じない男を、動揺させる言葉があるとしたら、それは。
「陛下に、アグネイヤ四世陛下に、会わせてやろうか」
 アグネイヤの名に他ならない。
「……」
 案の定、ジェリオの瞳に変化が見られた。動揺、までは行かないが、明らかに先程よりも感情が滲み出てきている。それだけで、勝利を得たような、心地よい気分を得られる自分は卑小な存在なのだろうか――微妙な自己嫌悪を覚えながらも、リナレスは意味深長な笑みをジェリオに向ける。
「そのまえに、貴様の素性を話してもらおうか。ミアルシァとの繋がりも含めて」



 話せ、といわれて、「はい、そうですか」と語りだす愚か者は、この世には存在しないだろう。これが、機密事項ではなく、恋の秘め事や房事に関する猥談であれば、輝かしい戦歴を語ってやっても良いのだろうが。無論、目の前の小倅が尋ねているのはそのようなことではなく。
 ジェリオとミアルシァの関連性だった。
 とはいえ、記憶の大半を失っているこの状態では、どれだけ責められようが語ることは出来ない。第一、ミアルシァとの関連性を問われても、そんなことを知るわけがない。逆にこちらが聞きたいくらいだ。
(俺が、誰なのか)
 彼は――対峙する少年は、知っていると思っていた。彼の様子から見て、皇帝とはかなり親しい人物であろう。側近、いや、それよりももっと近しい。高貴な人物にありがちな、乳兄弟という存在だろうか。皇帝の全てを知っているような口ぶりであるにも拘らず、つまらぬことで嫉妬をむき出しにする。見かけ通りの子供だった。年齢は、皇帝と同じくらい。いって、十七か、八か。それくらいなものだろう。
 しかし。記憶を失う前、皇女時代のアグネイヤのもとで、暗殺者として行動していたジェリオを、この少年が知らないというのは妙である。皇帝の側近なれば、当然ジェリオの顔も存在もわかっているはずだろうに。それとも、ジェリオの存在は、隠されていたのか。
 ジェリオは、少年の黒い瞳を見つめる。澄んだ、きれいな瞳だった。汚れたことなど何一つしたことのない、無垢なるものの瞳。己の道が正義であることを微塵も疑うことのない者の目である。その双眸が怒りに染まり、ジェリオを力の限り殴打したのは、つい先程のことであった。
「カイラとは、どういう関係だ? 貴様は、カイラのヒモか?」
 ヒモ、の正確な意味さえ知らぬくせに。ジェリオは少年を嘲笑う。その顔が彼の怒りを煽ったのか、彼は握り締めた鞭を振り上げる。また、だ。また、彼は感情の赴くままに鞭を叩きつけるのだ。
 いっそのこと、痛みで気がおかしくなって、その衝撃で記憶が戻らないかと幼稚なことを考えてしまう。
 実母であるセシリアのことこそ思い出したものの、断片的に脳裏に浮かぶ情報は、まだ、極端に少ない。母の歌う、異国の歌。窓越しに舞い散る雪。ユリシエル、という街の名前と、母の旧友である――
「シェルキス?」
 なぜか、唐突にその名前が閃いた。顔は思い出せない。けれども、大きな温かい掌と、ジェリオを呼ぶ深みのある声が蘇ってきたのだ。
「シェルキス?」
 少年は不意に動きを止めた。その瞳が大きく見開かれ、信じられぬものを見たというようにジェリオを見つめている。
「シェルキス二世陛下……? 馬鹿な」
 何に動揺したのか、少年は青ざめた顔でかの人の名を呟いた。シェルキス二世なる人物が、どういった立場にあるかは知らぬが、どうやらこの少年もシェルキスを知っている模様である。否、ジェリオの知る『シェルキス』と、この少年が言う『シェルキス二世』が、同一人物であるとは限らない。
「貴様、本当はカルノリアの手のものか?」
 今度は、カルノリアか。先程はミアルシァとの関係を問いただしていたというのに。彼はいったいジェリオからどのような情報を引き出そうとしているのだ。まるでめちゃめちゃで統一性がないではないか。逆に鞭を奪ってその一貫性のなさを責めてやりたい気分であったが、両手を縛められていてはそれも適わない。ジェリオは血の混じった唾を吐き捨て、冷ややかに少年を見下ろした。
「聞く必要はないだろう? お坊ちゃん。てめえのほうが、実際俺よりも俺のことを知っているんじゃないのか?」
 静かな、だが、威圧的な声に、少年は眉を吊り上げる。何を愚かなことを――言いかけて、彼は更に怪訝そうに眼を細める。
「どういうことだ?」
「俺は以前、皇帝陛下の子飼の殺し屋だったって話だぜ? 奴が皇帝になるために、目障りな奴を片端から俺が始末していった。ところが、即位した途端に俺が邪魔になって、皇帝は俺を殺そうとして……」
 自分は、記憶を失った。それが、愛するものに裏切られた衝撃からだとカイラは言うが。果たして、その通りなのだろうか。今回も、皇帝はジェリオを受け入れるような素振りを見せたにも拘らず、裏で手を回して彼を捕らえさせた。あの清純な顔で、無垢な身体で、どれだけジェリオを弄べば気が済むのだろうか。逆にそれだけジェリオに執着しているということなのか。皇帝の傍仕えらしきこの少年の様子から、皇帝がまだジェリオに未練を残していることは容易に想像がつく。
 そして、自身の心にも。
 皇帝に対する暗い想いが、いまだに燻っているのだ。
「――なにを、言っている?」
 少年は、訳がわからないといった風に肩をすくめた。
「戯言か? それとも、打たれすぎて頭がおかしくなったのか? 貴様のような下衆な輩を、陛下がお傍に置かれるはずがないだろう」
 あっさりとジェリオの言葉を却下して、彼は更に言い募る。
「それに、陛下は暗殺など潔しとされぬお方だ。ご自身が刺客に狙われて、恐ろしい思いをしているだけにな。その陛下が、貴様など雇うはずがない」
 強い口調だった。断言している、というよりも、自身に言い聞かせているような言い方であった。少年は強く唇を引き結び、踵を返す。興が冷めたのか、何か陰惨な拷問方法を思いついたのか。足早に牢から出て行く彼の後姿を見送り、ジェリオは薄く笑う。
 これ以上ジェリオを責めたとて、彼らにとって有益な情報など得られるわけがない。だが、それが解ったときが、ジェリオの最期に繋がるのだ。益のない人物をいつまでも生かしておくほど、気長ではなかろう。
(……)
 だが。
 そう判断されて、殺される前に。
 拷問で命が尽きる、その前に。
 もう一度、あの暁の瞳に会いたかった。淡く煙る、朝焼けの色。どことなく切なげで儚げな、支配者に相応しからぬあの瞳に。
(馬鹿か)
 どこまでも、滑稽な道化だと、自嘲する。裏切られても、裏切られても、自分は彼女を忘れられないのかもしれない。忘れられないからこそ、彼女に利用されるのかもしれない。
(違う)
 皇帝は――アグネイヤは、人の心を平気で弄べるような女ではない。じかに接した今は、それが解る。皇帝は、ジェリオを救うために自分の命を断とうとした。あれは、狂言ではない。芝居ではない。彼女は間違いなく本気だった。本気だったからこそ。その生を願った。
「……」
 ジェリオは唇を噛んだ。
 彼女のことを想うと、あやしく胸がざわめく。全身に甘い漣が立つ。彼女を愛していた――その事実さえ、カイラの与えた偽りの記憶だったとしたら。
 自分は、何をよりどころとすれば良いのだろうか。


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