AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
8.暗殺(3)


「リナレス」
 アグネイヤは掠れた声で乳兄弟を呼んだ。なぜ、彼がここに? ――そんな疑問が頭を掠める。
 リナレスは、宰相の側近となったはず。
 公務でなければこちらには赴かないはず。
 それが、なぜ。
「聞こえなかったか?」
 リナレスの声は、相変わらず冷たく厳しい。アグネイヤはジェリオを庇い、彼の心臓を、首筋を、リナレスが射抜かぬように身体をずらした。が。
「周りを見てみろ」
 リナレスの言葉に、周囲に眼を向ければ、そこには彼のほかにも数人――否、十人を軽く超える騎士の姿があった。まさか、あの僅かな時間の間に、衛兵の誰かが紫芳宮へ応援を求めたのか。
 違う。
 そんな余裕はない上に、もしも、連絡をしたとしても、これほど早く駆けつけられるわけがない。と、いうことは。
「ルクレツィア姫の周辺に、不穏な動きがあることは、解っていた。おとなしく、縛につけ」
 威圧的なリナレスの態度に、アグネイヤは唇を震わせる。おそらく宰相は、アグネイヤを囮として利用したのだ。ミアルシァの刺客をおびき寄せる餌として、彼女を離宮に住まわせた。ジェリオはまんまと罠に嵌められた。そういうことである。でなければ、皇帝の警備があれほど薄いはずがない。
「そういうことか」
 背中越しに感じていた体温、それが急に離れた。
「全部、仕組まれたことかよ」
 リナレスに劣らぬ、冷ややかな声が聞こえる。それは、リナレスに向けられたものでも、取り囲む騎士に向けられたものでもない。他ならぬ、アグネイヤに向けられたものだった。
「ジェリオ」
 振り返る前に、ジェリオは下馬していた。彼は地面に唾を吐き捨て、アグネイヤに眼を向けた。心の奥底を抉るような、鋭い視線。呪詛の篭ったそれをまともに受けて、アグネイヤは息を呑んだ。
「さぞかし、面白い見世物だったろうよ」
 違う、と、そう叫びたかった。けれども、声が出てこない。
 ジェリオは、アグネイヤもぐるだと思っているのだ。彼女自らジェリオを罠に嵌めたのだと、思い込んでいるのだ。
「違う、違う、ジェリオ」
 アグネイヤの言葉は、ジェリオには届いていない。
 彼は、『皇帝』の言葉には、耳を傾けようとはしていなかった。
 彼の背は、アグネイヤを拒絶している。彼女の視線も声も、言葉も、存在すらも。全てを否定している。彼は両手を上げて、リナレスの前に進み出た。リナレスは、無機質な目でジェリオを馬上から見下ろす。没落したとはいえ、リナレスは貴族の息子。馬上と徒歩(かち)、これが彼とジェリオの差であった。それを彼らは互いに感じているのか。視線を交錯させて睨み合う。
「捕らえよ」
 リナレスの命で、騎士たちが一斉に動き出す。彼らはジェリオを捕縛し、連行した。その間、ジェリオは一切の抵抗をせず、ただなされるままに動いていた。
「ジェリオ」
 彼を追おうとしたアグネイヤを、騎士の一人が制止する。いけません、と厳しく窘められ、アグネイヤは動きを止めた。歩兵に小突かれながら引き立てられるジェリオは、決して項垂れることはなく。堂々と歩んでいる。アグネイヤはどうすることも出来ず、ただ、見つめるだけの自分を呪った。
 これが、皇帝か。
 たったひとりも救えぬ自分が、皇帝といえるのだろうか。
「陛下、お怪我はございませんか」
 リナレスがこちらに馬を進めてくる。アグネイヤは「ない」とだけ答えた。リナレスは安堵したように頷き、周囲の騎士たちにアグネイヤの警護を改めて申し渡す。
「陛下は、こちらへ」
 紫芳宮へ。
 リナレスの命に、騎士たちはアグネイヤを取り囲む。彼女が妙な真似をせぬよう、両脇にそれぞれ一名ずつの騎士が侍り、彼女は半ば強引にその場から連れ出される。
 振り返ることも許されぬ。
 名を呼ぶことも、認められぬ。
 アグネイヤはジェリオから引き離されるように紫芳宮へと送られた。まるで彼女自身が謀反人であるかのように、厳重な警戒の元で。



「ありゃ、これはまた。どういうつもりだい」
 離宮の地下、オルトルート専用に作られた新たなる工房に、頓狂な『魔女』の声が響き渡る。赤毛の女――今は、その見事な髪を黒に染めてしまっている彼の師は、エーディトが引き摺ってきた女性を見るなり顔を顰めた。
「どうもこうもありませんよ、師匠。あれです、あれ。殺し屋ですよこのご婦人」
 エーディトの説明に、ティルデこと二代目オルトルートは、眼を丸くした。
 彼女ら師弟が刺客に狙われて、久しい。狙われた理由が、アグネイヤの縁者であるから、というのも解せないが。師弟を狙うのは、カルノリアの隠密騎士団であり、まさかこのようないかにもミアルシァ人といった容姿の女性が差し向けられるなどありえぬだろう――というのが、ティルデの意見ではあるが。エーディトは指を振り、得意気に胸をそらした。
「いやいや解りませんよ、師匠。必ずしもこのご婦人が我らを狙っているというわけではなく。皇帝陛下に差し向けられた刺客であったとしたら、どうでしょう。これは、立派にお手柄ですよ。そうです、そうは思いませんか、師匠」
「だとしてもねえ」
 苦虫を噛み潰したような顔で、ティルデは弟子と女性を見比べる。
「ここに連れ込むこたぁないだろう。ここは、工房だよ」
 細工をするところだと、彼女は言う。
 それは、その通りだ。神聖な工房に、穢れた暗殺者をいれるのは宜しくない。非常に宜しくないことなのだ。それは解っているが、彼女を衛兵に突き出したとしても、どうせ色仕掛けで誘惑され、あっさり逃がしてしまうだろう。ここであれば、誰も彼女に誘惑されるものなどいない。ティルデは女性であるし、自分も――エーディトもちょっとやそっとの誘惑には負けない自信がある。
「とりあえず、リナレス様に連絡をして、引き取っていただきましょう。それまで、ここに括っとく感じで宜しいですよね、師匠?」
「ああ、ちょっとの間なら、いいけどね」
 猿轡を嵌めて、柱に縛り付けておく分には構わない。下手に小細工を弄して脱出されぬよう、エーディトは
「念のためです」
 いきなり女性の服を脱がせ始めた。年頃の少年の行為にしては、妙に淡々とした動きだと、我ながら思う。女装の趣味があるだけに、自分は真実女性なのではないか――エーディトはそんなことを考えて、ひはひはと笑いながら全裸となった女性を後ろ手に縛り上げ、柱に繋いだ。足首も鎖で縛り、猿轡と目隠しも忘れない。
「これなら、逃げられる心配もないでしょう」
 えっへん、とでも言いたげに、彼は師を仰ぐ。ティルデは女性の無残な姿に、深く息をついた。
「せめて、胸と尻くらいは隠してやんなよ」
 暗殺者とはいえ、一応女性だ。しかも、妙齢の美女ときている。このような姿は屈辱であろうし、引取りに来たリナレスも、眼のやり場に困るだろう。
「リナレスの若様は、陛下に夢中ですから。他の女性には眉一つ動かしませんよ」
「そうはいっても、ねえ」
 流石のティルデも、弟子の奇行には頭痛を覚えたのだろう。額を押さえて、ぶつぶつと口の中で何事かを呟いている。彼女の元に弟子入りして二年、師も奇人なら、弟子も負けず劣らず変人であると、ティルデも痛感したらしい。
「ああ、でも、この人ミアルシァの人でもなんだか変ですね」
 むき出しになった腕、その下に隠されていた肌に奇妙な紋様が彫られている。刺青か――それとも、烙印なのか。ミアルシァの、王冠を抱く鷲の紋章とも違う。かつてアルメニア帝国が密偵の証として彼らの身体に刻んだ、蝶の割符にも似た――
「花、ですかね?」
 花弁をかたどったような、紅い烙印。
「ロカヴェナーゼの紅い花か」
 覗きこんだティルデが、ポツリと呟く。エーディトは首を傾げた。
「なんです? それ?」
「知らないのかい。ミアルシァ王家に忠誠を誓った、殺し屋の証だよ。殺し屋、って言っちゃいけないね。『国家資格を持つ暗殺者』ってところかい? へえ、こりゃ、大物だよ。あんた、大した拾い物したね」
 ぐりぐりと師に頭を撫でられ、エーディトは悪い気がしない。やはりこの女性の狙いは、アグネイヤだったのだ。ミアルシァが『神聖皇帝』を忌み嫌っていることは解っているつもりであったが、このような女性まで送り込んでくるとは。
「物騒な世の中ですねえ」
「って、物騒な真似しておいてよく言うね」
 呆れ顔の師に軽く舌を出して、エーディトは再び女性に視線を戻す。全身からあやしの気配を漂わせていた女性。彼女を見て、一目で刺客だと看破したのには、理由があった。彼も、同様の人物に接したことがあるのだ。妖艶なる魅力を持ち、男を虜にしながら静かに獲物に向かって毒針を伸ばす――
「ドゥランディアの、獣」
 彼の中には、半分その血が流れているのだ。



 紫芳宮内の皇帝の居室に通されたアグネイヤは、侍女たちに囲まれるようにして長椅子(ソファ)に腰を下ろした。数ヶ月前まで、私室として利用していた部屋――調度も配置された人員も、何一つ変わっていないことが皮肉であった。まるでいつアグネイヤがこちらに戻ってきても良いように、あのときと変わりなく手入れをされていたようである。
 懐かしさに心が安らぐが、その一方で警戒心が芽生えた。
 アグネイヤを囮として利用したのは、その指示を出したのは、宰相――そして、母后。彼らに他ならない。彼女を使って、刺客をあぶりだす。そののち、ミアルシァに圧力をかけるつもりだったのだろう。
 けれども。
「エルハルトに、僕が面会を求めていると言ってくれないか?」
 アグネイヤを襲った刺客は、フィラティノアの手のものだ。カイラに操られているかもしれないが、ジェリオはフィラティノアの王太子より彼女の暗殺を依頼されていた。
 捕らえたのがカイラであれば、宰相の思惑は当たったのだが、それがジェリオであったら。目論みは外れたことになる。
 ジェリオを幾ら責めても、ミアルシァの名は出てこない。
 否、彼らは刺客であれば誰でも良かったのかもしれない。
 捕らえて拷問の末虐殺し、見せしめとすることが出来れば、どこの手のものでも良かったのだ。
「宰相殿は、ご多忙中です。お会いすることは出来ませんよ」
 いつの間にか、侍女たちの向こうにリナレスがいた。侍女らは優雅に礼をすると、左右に分かれ、リナレスのために道を開ける。その間を縫うように彼は進み、アグネイヤの前に膝を付いた。
「陛下におかれましては、暫しの間こちらにてお休みいただきたく」
「休む?」
「皇太后様のお計らいです。その間、わたしがお世話をさせて戴きます」
 世話役という名の、監視だろう。アグネイヤは眉を顰めた。
「フィア、は?」
 離宮までアグネイヤに従ってくれた、古参の侍女。彼女はどうしているだろう。まさか、アグネイヤを救えなかったとして、あの衛兵共々処罰されたのではないか――不安が胸を過ぎる。
 しかし、それは杞憂に終わった。
 フィアも今日中にはこちらにやって来るという。アグネイヤは胸を撫で下ろす。
「お許しください、陛下。これも、陛下のためなのです」
 リナレスの言葉に、アグネイヤは彼に視線を向けた。リナレス曰く、母后も宰相エルハルトも、アグネイヤと帝国のためを思って、彼女を政治の世界から遠ざけているのだと。アグネイヤから実権を奪ったのは、皇帝を有名無実化するため。それでも『皇帝』の存在を快く思わぬものは、その命を狙うだろう。
「囮に利用するようなことをしまして、申し訳ございません」
 お二人に代わって、お詫びいたします――リナレスは殊勝に頭を下げた。
 現に、アグネイヤが実権を失ってから、彼女を狙う刺客の数は激減した。かわりに、宰相が刺客付きとなってしまったのだが。宮廷内にも国内外にも、皇太后と宰相が組んで、皇帝を傀儡としている――そんな宜しからぬ噂も流れているという。中には、二人の関係を疑うような風評もあった。
「馬鹿な」
 そんなことは、ありえない。宰相は有名な愛妻家であるし、彼は息子も娘も溺愛している。宰相の細君は、宮廷でも有名な美女であり、賢女であり、その仲睦まじさは詩人に歌われるほどだった。
「あくまでも、噂ですから」
 リナレスは苦笑する。彼も、宰相たちを信じている者の一人だろう。
「ミアルシァは、一度陛下に対する暗殺命令を取り消した模様でしたが。最近、ルクレツィア姫のもとに、また件の女性が現れていると聞き及びまして」
 目をつけていたのだという。
 ルクレツィアは、ミアルシァの密偵の格好の隠れ蓑となる。反面、彼女の周辺を観察していれば、容易くミアルシァの密偵を捕縛することが出来るのだ。今回のように。
「あの、カイラというドゥランディアの女性は捕らえることは出来ませんでしたが……」
 幾分悔しげにリナレスは唇を噛む。彼としても、カイラの行為は許しがたいのだろう。唯一無二の主人と仰ぐアグネイヤ、彼女を辱めたのだ。アグネイヤの屈辱は、自身の屈辱と感じているに違いない。
「報告によれば、あの男もカイラとともに入城したそうです」
 『あの男』――ジェリオのことだ。アグネイヤは息を止めた。ジェリオはやはり、カイラと行動をともにしていた。カイラに操られて、アグネイヤを殺害しようとした。夕べ、離宮にやってきたのは、彼の意志ではない。カイラの示唆によるものだ。
(ジェリオ)
 それでも。彼は完全に操られてはいなかった、と思う。カイルのようにアグネイヤを貪りながら殺そうとしたが、それは叶わなかった。彼はアグネイヤの涙に反応したのだ。そして、それ以降の彼は――。
「……」
 胸が、苦しくなった。ジェリオの囁きを、口付けを、力強い腕を思い出すと、心臓の辺りがきゅんと縮み上がる。以前とは似て非なる行動をするジェリオ、もしかしたら、あれが彼の本当の姿かもしれない。真摯で、情熱的で、強引で、支配的で。でも、どこか幼くて。
「生粋のミアルシァ人ではないようですね。彼は。セグかダルシアの血を引いている模様ですが、言葉にカルノリア訛りがあるようです」
 ミアルシァは南国。ダルシアも、中央諸国の中では南方に位置する国々である。セグは微妙であるが――それでも、東の大国、北の帝国と称されるカルノリアとはかなり離れた土地である。カルノリアの首都ユリシエルは、セルニダ同様人種の坩堝と言われる都市であり、そこにダルシアやセグの血を引く者がいてもおかしくはない。
 しかし、カルノリアに生まれたものが、なぜ、ミアルシァに就くのか。リナレスはその部分が腑に落ちぬようであった。
「所詮、殺し屋など節操のない下賎の輩。金次第でどちらにでもつくことでしょうが」
「リナレス」
 思わず、声に力が篭った。アグネイヤの咎めるような声音に、リナレスは驚いたのか眼を丸くする。
「陛下?」
「――そういう輩ばかりではない。ちゃんと、彼らにも心がある。血が、通っている」
 ジェリオにも、家族がいるのだ。少し照れながら、彼は母のことを語った。彼をして『美女』と言わしめる母のことを。ジェリオの身に何かがあれば、――セシリア、といったか――彼女が悲しむだろう。
「陛下、大変失礼なことを申し上げますが」
 リナレスは探るようにアグネイヤを見上げる。
「あの男と、何かあったのでしょうか」
 彼の視線は、アグネイヤの眼から唇、首筋へと移っていく。首筋には、ジェリオの残した刻印がまだはっきりと残っているはずだった。それだけではない、服の下にも彼の所有の証が生々しく刻み付けられている。肩の傷とともに。リナレスも、それらを目にしたはずだ。目にした上で、アグネイヤに何が起こったのかを想像した。彼でなくとも、容易にその答えには行き着くことが出来る。
「あの男に、辱められて……それで」
 身体とともに、心まで奪われたのか。
 リナレスは問うているのだ。
「何もない」
 アグネイヤは掠れた声で応じた。
 何もない。リナレスの想像するようなことは、何もなかった。ただひたすら、互いの温もりを感じていただけだった。ジェリオは、それ以上は求めてこなかった。
 抱いてもいい、と。そう言ったのに。言ってしまったのに――彼は強引にアグネイヤを奪うようなことはしなかった。
「ジェリオは、何もしていない」
 毅然と言い放つアグネイヤを、リナレスは驚きの目で見つめる。それを、少女の恥じらいゆえと取るべきか、それとも別の意図があってのことか、彼ははかりかねている様子であった。彼の視線は、アグネイヤの唇と首筋との間で揺れている。彼女は、それを見るのが辛かった。乳兄弟が、どれほど自身を気遣ってくれているのかが、痛いほど解るだけに。
「そう、ですか」
 納得しかねる様子であったが、リナレスが頷いた。アグネイヤがほっとしたのも束の間、
「では、あの男に直接確認してまいります」
 もしも彼がアグネイヤを辱めていたとしたら、その罪だけで死罪に値すると彼は告げる。
「リナレス」
「陛下の名誉を守るためです。あのような、下賎な男に純潔を……」
 奪われたのでは、神聖帝国皇帝としての誇りに傷がつく。踵を返すリナレスを、アグネイヤは止めることが出来なかった。ここで無駄に騒ぎ立てれば、彼は更に疑いを深めるだろう。アグネイヤとジェリオの関係を追及するだろう。決して他人に話せぬ関係ではないが、
(……)
 ジェリオとは、一線は越えないまでも、それに近い行為をされたことがある。
 ヴェルナの夜を思い出し、アグネイヤは顔を赤らめた。唇を奪われ、秘められた場所にまで触れられてしまった夜のことを。ジェリオがそのことを話すとは思わないが、リナレスにそれを知られてしまったら――。
 羞恥と、ジェリオを失うかも知れぬ恐怖とに、アグネイヤは震えた。


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