AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
7.傀儡(5)


 月のない夜は、闇が深い。さざめく星々も闇に遠慮しているのか、その光を控えめにしているように感じる。
 こんな夜は、自分に相応しい。
 思った刹那、自嘲が漏れた。

 闇を疾駆する、青鹿毛の馬体。夜空と同じ黒衣を纏ったジェリオは、ひたすら夜道を駆けた。紫芳宮からアシャンティに向かう街道――舗装は行き届いているものの、街灯も旅人のために夜道を照らす『洋燈(ランプ)持ち』の老人すらいない、寂れた道である。これが、皇帝の住居への道なのだといわれても、すぐには信じることは出来なかった。
 そもそも、皇帝が紫芳宮にいないということ自体、考えられることではない。

『皇帝が、離宮に住んでいる?』

 なぜ、と。最初に浮かんだのは、疑問であった。カイラもこれには驚いたらしい。ルクレツィアなる皇帝の側室の説明によれば、アグネイヤ四世は暫く前から住居を離宮へと移した模様であった。しかも、そこへ立ち入ることが出来るのは――公の場合に限られているが、宰相の側近である少年男爵のみだという。皇帝の乳兄弟にして幼馴染であるかの少年を除けば、離宮への人の出入りはない。
(これじゃ、まるで)
 皇帝を暗殺してください、と言わんばかりである。

『罠じゃないのか?』

 ジェリオはそれを疑った。だが、どうもそうではないらしい。
 これが本当であれば、こちらにとってはまたとない機会であった。いい加減、潜伏することに疲れていたジェリオは、

『とりあえず、確認だけ』

 そう言って、カイラの制止を振り切り、紫芳宮を出たのである。
 暗い、暗い夜であった。
 路上に落ちる影すらなく、ただひたすら勘だけで道を行くことに、躊躇いはなかった。このような経験は、幾らでもある。刺客の生きる世界は、常に闇。光は敵だった。闇に紛れて獲物に忍び寄り、過たずその急所を捉える。それが、彼らの鉄則。
(……)
 ジェリオは思わず苦笑した。記憶をなくしていても、そんなことだけ覚えている。自分の名前も、カイラに告げられるまで思い出せなかったというのに。
 今の彼にあるのは、暗殺者としての自覚と、己の名前。そして。

「セシリア」

 声に出した名前は、夜風に千切れて飛んだ。
 銀の髪に青い瞳。麗しき婦人の面影が、心に蘇る。あれは、母だ。自分の母親だ。甘く切ない声で異国の歌を歌う、あの横顔が鮮やかに脳裏に浮き上がる。
 この仕事が済んだら、カイラとは縁を切るつもりだ。
 彼女から離れ、一人で仕事をこなす。
 仕事をこなしつつ、――旅に出る。自身の故郷を、過去を、探す旅に。
 そうだ。このまま、カイラから離れてしまえば良い。彼女には身体を含め、何の未練もない。カイラが傍にいなくとも、自分は一人で生きていける。寧ろ、現在ではカイラの存在が疎ましいくらいだ。
 なぜ、あの女性が自分に纏わり付いてくるのか。理由を知りたいとも思わない。ジェリオの身体が目当てなのか、それとも腕を欲しているのか。その両方だったとしても、共に行動して利を得るのはカイラのほうであり、ジェリオには何の利点もない。
 今まで彼女に同行していたこと自体、不思議である。
 カイラとの決別――それを果たすには、まず、皇帝を殺害しなければならない。
 かつて、ジェリオを使って暗殺を繰り返し、その地位に上り詰めたという魔女を、屠らなければならない。
 依頼主のために。そして、自分自身のために。


 アシャンティの離宮、そこも辺りと同じくひっそりと静まり返っていた。どの部屋にも灯りは点っておらず、皆、床に就いてしまっている様子であった。門を守る衛兵も、周囲を警戒する兵士も、一人も存在していない。高く閉ざされた門が侵入者を拒むのみで、他はまるで無防備である。ジェリオにとっては、門も開いているようなものである。
(なんだ?)
 奇妙な違和感を覚え、彼は眼を細めた。
 ここに本当に、皇帝がいるのだろうか。
 いるのだとしたら、警備が杜撰すぎる。逆にその杜撰さが、眼くらましになるのかもしれないが。これは、ひどい。これは住んでいると言うよりも
(軟禁、か?)
 それに近いと思う。
 これで、皇帝の居室が塔の上にでもあったら、まるで捕らわれの姫君である。
 ジェリオは馬を離宮から離れた場所に繋ぐと、徒歩で周囲を確認し始めた。何処をどれだけ回っても、離宮の周りを一周しても、人の姿は見当たらなかった。ここにはいったい、どれだけの人数が暮らしているのだろうか。皇帝付きの侍女や小姓、小間使いの類からお針子、台所の下働きまで――もしかしたら、全てあわせても十人にも満たないのかもしれない。
 王侯貴族は多くの召使に囲まれて豪奢な生活を送っているというジェリオの考えは、綺麗に霧散した。
 これでは寧ろ、側室であるルクレツィアのほうが、何不自由なく日々を過ごしているような気がする。
「……」
 彼は植え込みが低くなっている場所を見つけて、そこから敷地内へと侵入した。犬でも放たれてているかと思いきや、その気配も無い。静かに歩を進め、建物に取り付けば、三階の――最上階の一番奥の部屋にぽうっと灯りが見えた。先程までは灯りのあの字もなかった場所である。誰かが其処を訪れたのだろうか。

『陛下は、最近は夜遅くまで読書をしていらっしゃるそうよ』

 ルクレツィアの言葉が蘇る。
 と、なれば、あれが皇帝の居室だろうか。
 ジェリオはその窓を凝視した。(カーテン)が僅かに揺れて、人影が見えた。遠眼なので、顔かたちは解らない。けれども、彼はそれがアグネイヤであると直感した。



「読書も大概になさいませ」
 無駄と知りつつ小言を置いて、フィアが去っていった。アグネイヤは彼女が淹れてくれた香茶を一口含み、リナレスが届けてくれた本に手を伸ばす。ミアルシァの伝奇、そのひとつである。届けさせた書籍は全てで十二冊。これが最後の一冊だった。
 中に記されている記録は、取り立てて眼を引くものではない。先日フィアから聞いた話のほうが、余程有益であった。が、折角リナレスが用意してくれた本、全て読まねば彼に申し訳がない。――というのは、半ば言い訳のようであって。アグネイヤは純粋に楽しんでいたのだ。ミアルシァの物語を。流石に古い歴史を持つ国だけあって、様々な事象が語り伝えられている。神話から建国記、それに民間伝承まで。全て、アグネイヤの興味を引くものであった。
 フィアから聞いた『ドゥランディア』の呪法に関しては、既に手紙をしたためてクラウディアに発送した。数日うちには、彼女の元に届くことだろう。あれが、レーネの解呪の役に立つと良いのだが――アグネイヤは心の中で祈りながら、書籍の頁を繰った。
 綴られている物語にアグネイヤは心を奪われ、いつしか時が経つのを忘れていた。いい加減、休まなければ明日の職務にも差しさわりがあるうえ、フィアにもいらぬ気遣いをさせてしまう。そろそろ床に就こうか、と思ったとき。
「……?」
 気のせいか、ふわりと燭台の灯りが揺れた。窓が開けたままになっていたのか――思ってそちらに眼をやるが、帳は少しも動いていない。不審に思って振り返れば、扉が僅かに開かれている。
「フィア?」
 侍女が閉め忘れたのか、それとも戻ってきたのだろうか。
 アグネイヤが椅子から立ち上がったときであった。
「……」
 暗がりからするりと現れた影。黒衣を纏った細身の人影が、音もなく彼女の前に立ちはだかった。蝋燭の明かりを受けて紅く光るのは、抜き身の長剣。
「おまえは」
 被り物の下から現れた顔を見て、アグネイヤは息を呑む。
 褐色の、二つの月――冴え冴えとした、三日月を思わせる鋭い視線、底冷えのする暗殺者の瞳。
「ジェリオ」
 唇から零れた言葉は、呼びかけか、それとも――。
 アグネイヤ自身にも、答えはわからなかった。



 そこにいたのは、小柄な少女であった。
 男性用の部屋着を纏い、長い髪をお下げに結った、小さな少女。年齢は十六歳と聞いていたが、それよりも若干幼い印象を与える。これが、神聖帝国皇帝なのか――ジェリオは我が目を疑った。
(マジかよ?)
 想像と、まるで違う。
 彼の中では、神聖皇帝アグネイヤ四世は妖艶なる淫婦であった。男を狂わせる熟れた果実の如き身体の上に、聖女の顔が乗せられた、淫婦。そう、カイラも言っていた。彼女の清純な顔に騙されてはいけない、あの娘は毒婦なのだと。身体で男を誘惑し、従わせる天性の魔性を備えた女なのだと。
 帝冠を戴いた娼婦、カイラをしてそう言わしめた少女は、ジェリオを見ても媚び一つ売るわけでもなく。顔を背けるわけでもなく。ただ、そこに佇んでいた。暁の光を思わせる、澄んだ古代紫(むらさき)の瞳を、逸らすことなくこちらに向けている。その眼に、一点の曇りもない。
「あんた……」
 自分が何かを言いかけたことに気づき、ジェリオは驚いた。
 顔を見られた、その時点で自分は彼女を殺すべきだ。騒がれたり暴れられたり、身体を餌に命乞いをされないうちに。
 だが、出来なかった。
 手にした剣を振り上げることもなく。彼は皇帝の瞳に見入っていた。
 魅入られてしまった、とは、こういうことを言うのだろうか。
「ジェリオ」
 呼びかけに、彼は我に返った。耳あたりの良い、懐かしい――声。かつて、彼女はこういう風に自分を呼んだのか。この声で、自分に命令を下したのだろうか。
「あ……」
 アグネイヤ四世、と。その名を口にしようと思ったが、出来なかった。『アグネイヤ』ではない。自分は、彼女をそんな風に呼んでいない。呼んだことはない。
「遅かったな」
 皇帝は、寂しげに笑った。何が遅かったのか――ジェリオは混乱する頭で考える。記憶を失う前、彼女の依頼を何か受けていたのか。その報告を、彼女は待っていたのか。
(いや……)
 違う。彼女の台詞の向こうには、ジェリオを詰る気配は少しもなかった。どころか、彼の顔を見るなり、ほっとしたような、安堵したような。なにか重い荷を肩から下ろしたような――さっぱりとした表情になったのだ。これはいかなることか。ジェリオは意味が解らず、眉を顰めた。
「約束通り、皇帝になった。冠は戴かなかったけど……でも、神聖皇帝の名を受けた」
「……?」
「皇女相手じゃ、役不足なんだろう? 今の僕は、皇帝だ。戸籍上も男子として扱われている」
 皇帝は読み止しの本を閉じた。机の上を整え、自身もきちんと身繕いをする。それから両手を組み、静かに祈りを捧げた。神に対する祈りだろうか。唖然とするジェリオの前で、皇帝は床に膝を付いた。まっすぐに彼に向かい、
「どうぞ。いつでも」
 静かに目を閉じる。
 殺してくれ、と。そう言っているのだ。自ら刺客の手にかかろうとしているのだ、皇帝は。
 祈りを捧げつつ、ジェリオの刃が振り下ろされるのを待つ皇帝の顔には、微塵の迷いもなかった。いま、この場で命を奪っても、彼女の遺体は苦悶に彩られることなく、微笑すら浮かべていることだろう。
「な、んで……?」
 解らなかった。解らなかった、彼女の行動が。なぜ、ジェリオの刃を進んで受けようとするのか。彼を待ちわびていたような言葉を発するのか。てっきり身を投げ出して許しを請うと思っていたのに、彼女の取った行動はそれと正反対であった。
(罠、か?)
 それも考えた。しかし、違う。皇帝は丸腰だった。短剣すら携帯していない。
「正面からだと、やりにくいか?」
 不意に彼女は目を開き、小さく笑った。僅かに綻ぶ唇に、思わず視線が釘付けになる。珊瑚を思わせる、色鮮やかな唇。触れればどれほど柔らかいことだろう。ともすれば彼女を抱きしめ、強引に口付けをしたい衝動に駆られて、彼は慌ててかぶりを振った。騙されてはいけない。彼女は、魔女なのだ。多くのものを犠牲として皇帝の地位に就いた、妖婦なのである。
「首を刎ねるなり、心臓を突くなり。好きにすればいい」
 こちらに背を向けて座り込んだ皇帝は、促すように言う。
 ジェリオは、覚悟を決めた。ゆっくりと剣を持ち上げ、切っ先を彼女の細い首筋に向ける。ひやりとした金属の感触に、皇帝の肩が震えた。それでも、彼女はそこを離れようとはしない。
「なぜだ」
 なぜ、逃げない。
 助けを請わない。
 ジェリオは彼女に問いかける。とても奇妙な、不思議な感覚だった。これから殺されるというのに、ここまで心穏やかに刃を待つことの出来るものがいるのだろうか。
「あんた……」
 死にたいのか? 死にたかったのか――問いかけようとして。
(……っ!?)
 ジェリオは眩暈を覚えた。どこかで同じことばを口にした気がする。

『あんた、本当は死にたいんじゃないのか?』
『俺に、めちゃくちゃにされたいって。そう、顔に書いてあるぜ』

 いつだったろう。誰に言った言葉なのだろう。思い出そうとすると、頭痛が襲う。
「……」
 よろめき、その場に膝を付いたジェリオを、皇帝が振り返る。次第に霞んでいく視界の中で、皇帝の顔が大きくぶれた。
「ジェリオ」
 驚いたように手を伸ばす皇帝。細く華奢な手首を反射的に掴んだせつな、全身に甘い痺れが走った。どくりと跳ねる心臓。掌に吸い付くしっとりと滑らかな肌が、ジェリオの奥底にあるものを激しく揺さぶった。
「あ……」
 苦し紛れに彼女に縋りつく。彼女の肌に触れれば、この不可解な熱から解放される――彼の本能が告げていた。ジェリオは心の命ずるままに皇帝にむしゃぶりつき、その首筋に顔を埋めた。鼻をくすぐる、薫衣草の香り――心をほぐすというその香りに、彼は身を委ねた。
「ジェリオっ!」
 皇帝は驚いたようであったが、ジェリオを引き剥がすこともなく。
「……」
 しなやかな腕が、優しく彼の頭を抱え込んだ。苦しさのあまりジェリオが彼女の肩に歯を立てても、皇帝は微動だにしなかった。左肩に食い込む彼の歯を、悲鳴一つ上げることなく黙って受け止めている。
 また、だ。また、この苦悶だ。記憶を辿ろうとすると、襲ってくる頭痛。そして、全身の痛み。痙攣するほどの苦痛を取り除いてくれるのは、カイラの愛撫だけだった。彼女を抱くと――いな、彼女に抱かれると、痛みは綺麗に拭い去られる。けれども、後に残るのは倦怠感と濃厚な快楽。情交の幸福感は、皆無に等しい。
「……っ、……っ」
 声にならぬ呻きをあげるジェリオを、皇帝は労るように抱きしめる。自身とて、かなりの痛みを感じているだろうに――ジェリオを引き離すことは考えてもいないようだった。
 次第に、口の中に鉄の味が広がってくる。皇帝の柔らかな皮膚を、ジェリオの歯が噛み切ったのだ。白い夜着が、赤く染まる……その様を見て、ジェリオは罪悪感を覚えた。
「――も、いい」
 だから。耳元で皇帝の声が聞こえたときも。一瞬、何のことかわからなかった。なんだ、と微かに首を傾ければ、皇帝はもう一度、うわ言のように呟く。
「苦しいなら、僕を抱いてもいい」
 彼女は知っているのだろうか。ジェリオの苦悶を取り除く方法を。カイラを――異性を抱けば、この痛みから解放されるのだと。知っていて、そういうのだろうか。
「ばーか」
 皇帝の肩に歯を立てたまま、ジェリオは皮肉めいた笑いを浮かべる。
「あんた、生娘だろうが」
 俺を満足させられるのか?
 言いかけて。ふと、気づいた。なぜ、そんなことを自分は知っている? それよりも、なぜ、皇帝が生娘だと思ったのだ?
 皇帝は、淫婦のはずだ。多くの男を手玉に取る、魔性の女のはずだ。生娘であるはずがない。なのに。
(く……)
 考えるほど、頭痛は酷くなる。ジェリオはきつく眉根を寄せて襲い来る痛みに耐えていたが。ついに堪えきれず、意識を手放した。皇帝に――アグネイヤ四世に抱きしめられたまま。


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