AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
7.傀儡(4)


「まだ、お休みになられていらっしゃらないのですか」
 皇帝の居室に灯りがともっている――そのことに気づいたフィアが、そっと扉を叩くと、案の定、アグネイヤは蝋燭の元で読書に励んでいた。
「もう、真夜中を過ぎましたよ」
 身体をいとう侍女の言葉に、アグネイヤは
「ああ、もうそんな時間か」
 軽く伸びをした。
 昼間、帝王学を学び、政務をこなす皇帝には、自由な時間が殆ど与えられない。自由どころか、休む暇さえないくらいである。何とか確保しているのが就寝時間で、それを読書で削ってしまえば、それはアグネイヤの健康を害する要因になるだろう。
「それは、リナレス殿が持参された書籍ですか?」
 温かい香茶を机において、フィアは尋ねた。アグネイヤの前に広げられているのは、ミアルシァの伝承を題材とした写本である。主に南方の伝説を多く掲載しているようで、フィアには解らぬ独特の表現及び呼称がずらずらと並べられている。ミアルシァの言語にも精通しているアグネイヤは、それらを読むことにまるで苦痛は感じていない。寧ろ、子供が絵本を読む感覚で楽しむ余裕すらあった。
 だが、楽しんでばかりはいられない。
「フィアは、ミアルシァの――ドゥランディアの伝説を知っているか?」
 父の時代から皇宮に仕える侍女は、小さく首をひねった。セルニダに生まれ育った彼女には、異国のことはわからぬだろう。そう思ってアグネイヤは微かに笑った。
「ごめん。ちょっと聞いてみただけだ」
 短く詫びて、アグネイヤは本を閉じた。続きはまた明日の夜、読むことにしよう。
「――いえ、陛下」
 神妙な面持ちで呼びかける侍女を、アグネイヤは振り返る。
「わたくしの義理の叔母は、ミアルシァの……キャティナの出身です」
 キャティナ――ドゥランディアの近隣である。アグネイヤは思わず眼を輝かせた。
 フィアが語るには、件の叔母の祖母に当たる人物が、ドゥランディアの出身だったというのだ。とはいえ、暗殺を生業としているものではなく、かの一族の神職を務めていたそうである。当時はドゥランディアは完全に外界と遮断され、刺客として王宮に召し抱えられた者以外、領地を出るものはなかったのだが。フィアの叔母の祖母は、医師として王宮に上がっていたのだ。そこで貴族の一人に見初められ、側室となり子を産んだ。その子孫が、フィアの叔母である。
「叔母といっても、血は繋がっておりません。父の弟の妻に当たる女性です。幼い頃に、彼女からドゥランディアの秘術を少しばかり習いました」
 曰く、血止めの呪い。止血剤の作成や、鎮痛剤の調合の仕方、解熱剤の生成など。ごくごく簡単なものだと。
「それが、どうかしましたか?」
 皇帝がなぜ、ドゥランディアの伝承に興味を持つのか。フィアは寂しげに表情を曇らせた。
「確かにかの一族は、暗殺を生業としていると言われています。が……」
 彼女は、アグネイヤが皇帝として暗殺行為に関心を持ち始めたと、そう思ったのだろうか。黒い瞳を潤ませ、何かを訴えるように皇帝を見つめる。そのようなことをしてはならない、むげに人の命を殺めるような行為はしてはならない、彼女の瞳はそう告げている。
「違うんだ。フィア」
 アグネイヤはかぶりを振った。そうして、先日リナレスに語ったことと同じことを彼女に言って聞かせる。
 フィラティノアにおいて、ドゥランディアの刺客に襲われたこと。その刺客に、クラウディアの小間使いが操られたこと。彼女はいまだ意識を回復せず、呪縛の中にあること。
「僕は、彼女を助けたいんだ」
 なんとしても、ドゥランディアからレーネを解放したい。
「それに、人の心を操れる輩が紫芳宮に潜入したら。どうにもならないだろう?」
 だから、早めに対処法を知っておきたいのだとアグネイヤは言った。フィアは皇帝の話を黙って聞いていたが、
「そうですか」
 ひとつ、大きな溜息をついた。
「残念ながら、フィアはその方法を知りません」
 ですが、と。彼女は言葉を加える。
「同じことかどうかはわかりませんが、ドゥランディアが人を操るときには、その――」
「なに?」
「いえ。その」
 フィアの顔が心なしか赤く染まる。彼女は何を言いたいのだろう。アグネイヤが怪訝そうに眼を細めると
「――はしたないことを申し上げることになってしまいますが……ドゥランディアは、房事で人を操るそうです」
 彼女は覚悟を決めたのか、一息で言い切った。
 房事、つまり、閨で――情交で相手を虜にするのだと。
「それは」
 アグネイヤも知らず頬を染めた。
 カイラの濃厚な口付けが、愛撫が、蘇ってくる。あれは、人の心を操る手段に過ぎないのだろうか。彼女らは快楽を与えながら、脳裏に暗示を刷り込んでいく――
(僕も)
 幾度も耳元に囁かれた。不思議な言葉を。何を言っているのか、聞き取ろうと耳を澄ますと、視界が揺らめき快楽が襲ってくる。それを拒絶すると、声は遠のき、欲望は冷めていった。もしもあのまま、カイラの語る言葉に耳を傾けていたら。アグネイヤも獣の虜となっていただろう。
「……」
 考えると、ぞっとした。恐怖が背筋を駆け上がってくる。

 ――彼も、私の元にいるのよ。
 ――どう? 彼の味を思い出したかしら?

 アグネイヤの心を引き裂く言葉の合間に、練りこまれていた呪文。いな、あの言葉すら、アグネイヤにとっては呪詛に聞こえた。カイラとジェリオは、既に一線を越えている。越えているからこそ、カイラはあのようなことが言えたのだ。ジェリオと同じ愛撫を、アグネイヤに施せたのだ。
(ジェリオ……!)
 嫌な想像が、胸を掠める。
 カイラと結ばれたジェリオ。それが、彼の意志にしろ、そうでないにしろ。ジェリオはカイラの虜になっているのではないだろうか。虜となった彼は、どうしているのだろう。カイラと共に、行動しているといっていたが。
(まさか)
 カイルのように、操り人形と化してしまっているのだろうか。カイラの命に従う、哀れな木偶に成り下がっているのか。彼女の傀儡として、――傀儡として。
(僕を)
 彼自身の意志ではなく、植えつけられた呪縛の元、アグネイヤの命を奪うためにやってくるのかもしれない。
 それだけは、認められない。
 そんなことは、許せない。
 アグネイヤは強く唇を噛み締める。心なきジェリオに命を捧げる気など、毛頭ない。
「その呪詛を解く方法は?」
 アグネイヤの問いに、フィアはまた口をつぐんだ。言って良いものか悪いものか。迷っている様子である。が、何かを吹っ切るように。
「――畏れながら、陛下。ひとつ方法はございます。ございますが……」
 フィアの語る『解呪』法に、アグネイヤは声を失った。



 兄からの連絡が途絶えた。
 その報がリナレスにもたらされてから、どれだけの月日が流れたことだろう。宰相エルハルトの密偵による懸命の調査が行われたが、結局、バディールの行方は掴めずじまいであった。
「残念ながら、兄上のことは諦めたほうが良いかもしれない」
 エルハルトに呼び出しを受けたリナレスは、最も恐れていた言葉を上長から聞かされることになる。即ち、兄の捜索の打ち切り。兄は何処かで露と消えたのだと、そういうことに記録上なってしまったのだ。
「母上には、私から詫び状を送らせて頂こう。お預かりしたご子息を、無事にお手元に帰すことが出来なかった」
 形式的ではあるが、エルハルトの温情にリナレスは感謝した。密偵となったものは、いつかは野に果てるさだめにある。異国で捕らえられ、拷問を受けたの末の無残な死か。潜入に失敗し、その場で命を断たれるか。どちらにしろ、安寧なる最期を迎えることが出来ぬ――それが、密偵であった。兄自身それを痛いほど承知していたろうし、母も然りである。没落したとはいえ、貴族の――軍属の妻女、母も此度のことはそれなりに覚悟をしていたはずであった。
 しかも、今回の潜入先はフィラティノア。野蛮にして獰猛な、北の種族である。かつては騎馬民族として神聖帝国を脅かしていた存在、そのような国に足を踏み入れたとなれば、生還する率はきわめて低い。
 寧ろ、アグネイヤが生きて帰ってきたことが奇跡に近かった。彼女の逃亡を手助けしたウラオからの便りもないところを見ると、ウラオもフィラティノアに散ったのだろう。そうに違いない。
 密偵を束ねる長たるエルハルトは、彼らの死をどう受け止めるのか。人として悲しむことがあるのだろうか。それとも、手駒が一つ減ったと嘆くにとどまるのだろうか。
「兄のかわりに、私が密偵として隣国に潜入するべきでしょうか」
 リナレスの申し出に、エルハルトの表情が揺れる。
 やはり、それも彼の視野には入っていたのだ。
 フィラティノアへの潜入は、神聖帝国にとって重要なものである。この国の真実の皇帝、真のアグネイヤ四世が捕われているのだ。宰相をはじめ、重鎮達は彼女の奪還を考えているのだろう。ただ、皇太后リドルゲーニャの手前、その案を公に出来ないでいる。烈婦と称される皇太后も、所詮はひとの親。娘はどちらも愛しいはず。だからこそ、皆が落胆した『サリカ』の帰還の際も、リドルゲーニャは何も言わなかったのだ。

『サリカにはサリカの長所がある』

 重臣の前で宣言した彼女は、一人の母親そのものだった。
 その彼女と、宰相のエルハルトのみが、サリカの帝位継承を認めている。重臣達は、どこか頼りない、影のような皇女であったサリカを、今ひとつ信じることが出来ないのだ。大国の君主として、歴史ある神聖帝国の再興者として。
 結果、皇帝は蟄居同然の身で離宮に追いやられた。それも、紫芳宮から馬車で半日もかかる遠方に。これでは、彼女に政務に関わるなと言っているようなものではないか。
(いや……)
 違う。リナレスは自身の考えを否定した。

『神聖皇帝は、存在さえあれば良い』
『生きているだけで、価値がある』

 帝国の正当性、それを周囲に知らしめるだけの象徴として、生きているだけで良いのだ。巫女姫が現れ、神聖帝国が再興した今、『皇帝』は、名ばかりの傀儡で良かった。
(……)
 傀儡の皇帝であれば、サリカでも充分であろう。ただ、そこにいれば良いだけなのだから。
 そして、敵国への潜入という点においては、サリカよりもマリサの方が適していた。
 二人の皇女は、それぞれに自身にあった道を見つけたのだと、かつて宰相は言った。
(俺の仕事は、後方支援か)
 敵国の王妃となろうとしている皇女の、手足となって働く役目を担うのだ。
「フィラティノアに、行ってくれるか?」
 宰相の言葉、それは、確認ではなく命令であった。リナレスの赴任は、兄の捜索が打ち切られた時点で、既に決められていたのだ。
「仰せのままに」
 そう、答えるより他なかった。断ることは、許されない。
 リナレスは深くこうべを垂れたまま
「ですが、そのまえに」
 宰相に申し出る。
「そのまえに、暇乞いを」
 エルハルトは頷いた。勿論、と、彼は口元をほころばせる。
「暫しの間、故郷で母上に甘えてくるが良い。兄上の分まで、孝行をしてくるのだ」
 地方の所領でひとり暮らす母の元に戻るため、休暇を与えるという。それが過ぎれば、リナレスは密偵として隣国に旅立つ。明日をも知れぬ身となって。
「いえ、閣下」
 さらにその前に――リナレスは、半ば懇願するように上長を見た。ゆるぎない視線がエルハルトの瞳を捕らえ、彼は幾分表情を曇らせた。リナレスの心中を読んだのであろう。
「閣下」
 重ねて縋るリナレスに、宰相も根負けしたらしい。深く息をつき、傍らの書類の束を見やった。
「陛下の押印が必要な書類がある。近日中に、これをアシャンティまで届けてはくれまいか」
 押印をいただけるまで、滞在しているように――付け加えられた言葉に、リナレスの顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
 弾んだ声を残し、彼は宰相の執務室を後にした。これが彼女との今生の別れとなるかもしれないが、何も言わないよりはましだった。
 アグネイヤの顔を見て、彼女の声を聞いて。それだけでいい。それだけで、充分だった。
(陛下――いえ、サリカさま)
 アグネイヤの幼名を呟き、彼は自身の指先を見る。そこにはまだ、アグネイヤの唇の感触が残っているような気がした。柔らかく、弾力のあるアグネイヤの唇――そっと指先を噛めば、彼女と口付けを交わしたような、甘い漣が心に広がる。
(サリカさま)
 かなわぬ思いなのだ、これは。はじめから、叶わぬ想いなればこそ、離れたほうが良い。リナレスは幼い初恋に決別するべく、アグネイヤの幻影を心から振り払う。
 自分は皇帝と結ばれない。
 そして、皇帝であるがゆえに、アグネイヤも誰とも結ばれることはない。
 生涯、清らかな身のままでいる。
 それだけが、唯一の心の慰めであった。彼女は、誰のものにもならない。あの華奢な身体を貪る異性は、一人たりとも存在しないのだ。
 マリサを皇帝にと願った兄が、かつて同じことを考えていたことなどつゆほども知らず。リナレスは、『サリカ』の思い出を心の深い場所にそっとおさめた。

 と。

「閣下」
 慌ただしく宰相の執務室に駆け込んできたものがあった。リナレスとすれ違いざまに宰相の許へと進み出た下級騎士。彼の耳うちに宰相の顔色が変わった。
「閣下?」
 訝しげに彼を見上げるリナレス――その視線に応えるように、宰相の眉間に深く皺が刻まれる。
「リナレス」
 自分に呼びかける声は、苦渋に満ちていた。何か良からぬ報せが届いたのか。リナレスは、こくりと息を呑んだ。


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