AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
7.傀儡(3)


「妃殿下?」

 私が皇帝になったら――

 皇帝。
 皇帝とは、神聖皇帝のことだろうか。
 それとも、どこかの国の帝冠を戴くつもりなのか、この皇女は。
「冗談よ」
 ルーラの反応がおかしかったのか、クラウディアはついに声を立てて笑い出した。ついでに、と、彼女はおどけたように胸を反らして
「ルキア、でしょ? ここでは」
 ルーラの間違いを正す。
 そうだ、ティルとアウリール等数名を除いては、クラウディアが王太子妃であることを隠している。ここで下手に気づかれては、何が起こるかわからない。もともと、アーシェルは北方蛮族、フィラティノアに対しては深い恨みを持っている。根深いその思いが爆発して、クラウディアに危害を及ぼすこともありうる――それを考えて、あえて身元は明かさないことにした。先程の若者達も、クラウディアとルーラのことは、首都の下級貴族の夫人とその従妹だという触れ込みを信じている。
「でも、残念ね。エリシア様のことは、かなり根が深そうだわ。私達がどうこうできる問題ではない――ディグルが王位を継いでもね」
「ルキア」
「レンティルグの毒蜘蛛が張った巣は、かなり大きいみたいだし。彼女を『狩る』のなら、更に大きな罠を仕掛けなければならない。そのためには、こちらはそれ以上の権力を持たなければならない。場合によっては、力ずくで覆せるくらいの」
 暴力での支配。クラウディアは言外にそう含みを持たせている。
「なによりも、力は必要よ。人望もだけれど」
「それは、そうですが」
 クラウディアは、既にそれらを具えているではないか。権力も、人望も。帝王としての器も。これ以上、何を望むことがあるのだろう。真の帝冠か。
(ああ)
 そうなのだ。彼女は、無冠の帝王。帝王の器を持ちながら、その地位からは最も遠い場所にいる。彼女に与えられし称号は、王太子妃。そして、王妃。陛下と呼ばれても、冠は戴くことが出来ない。フィラティノアにおいても、頂点を極めることが出来ないのだ。
 もしも彼女が、ディグルと共同統治者として国を治めることが出来たならば。
 王妃ではなく、女王の――『国王』の称号を得ることが出来たなら。
 どれほど良き君主となるだろう。
 どれほど優れた導き手になるだろう。
 彼女の、そんな姿を見て見たい、と思う。
 だが、そう思うことは同時に、主君に対する反逆でもあった。
 ずきりと痛む心を抱えて、ルーラは異国の皇女を見つめた。暁を宿す瞳は、神聖帝国皇帝の証だという。彼女の双子の妹は、その言葉通り神聖帝国を継承した。あのどこか危うい、ただの小娘としか思えぬ皇女が皇帝を名乗り、真の皇帝に相応しい皇女が、生贄として、政略結婚の道具として異国に送られる――運命の皮肉を感じずにはいられない。

 ――僕が本当のクラウディアだ。

 あの日、今ひとりの皇女が叫んだ言葉が真実であれば、ルーラはその言葉を認めるべきであった。あの皇女をクラウディアとして迎え、今目の前にいる皇女を皇帝としてアルメニアに帰すべきであった。それが、彼女のためであったと、今更ながら後悔する。
 否。
 クラウディアのため――『ルキア』のためとわかってはいても、ルーラは彼女を帰すことなど出来なかった。手放すことなど出来なかった。
(殿下――)
 これは、裏切りだ。
 主君に対する、何よりも手ひどい裏切りだ。
(わたしは)
 認めることは出来ない。けれども、認めざるを得ない。自分の心を、偽ることは出来ない。
(ル、キ、ア)
 愛しいのだ。誰にも増して、いとおしいのだ。呪われたわが身をこのときほど嬉しく思ったことはない。この身体が、完全な男性でなくて良かったと。雄の欲望を持つものでなくて良かったと。心底思う。
 自分は今、とても情けない顔をしているに違いない。
 ルーラは、クラウディアの視線を避けるように彼女から顔をそむけた。すると、自然、ラトウィスと眼が合ってしまう。彼の緑青の瞳――レンティルグの瞳が、ルーラの邪な心を見抜いたかのように、愉悦に彩られた。彼は意味を成さぬ言葉を叫びながら、ルーラを笑う。嘲笑う。
「――ルキア」
 彼の顔を睨みながら、ルーラはクラウディアを呼んだ。この世の中で最も、愛しい人の名を。
「オリアに帰還しましたら、一度お暇を取らせていただきます」
 なぜ、とは聞かれなかった。クラウディアは否定も肯定もせず、ただ、黙ってそこにいた。以前の彼女とは違う、ただの我侭な皇女と思えた少女とは違う。クラウディアも、確実に大人への階段を上り続けているのだ。
「エリシア后の消息を辿ります」
 手短に理由を述べると
「そう」
 端的な答えが返された。クラウディアも、事情をわきまえている。今更、自分も同行する、などと我侭は言い出さないだろう。
「そのほうがいいわ」
「ルキア?」
「エリシア前妃がご存命であれば、彼らは今度こそ、その命を狙うでしょう。その前に保護しなくてはね」
 顔を上げると、クラウディアは軽く片目を閉じた。市井の遊び人のようなその仕草に、ルーラは呆れた。クラウディアには、女性の匂いがしない。異性を感じられない。だから、好意を持ったのだ、と。気づいて自分が哀れになる。オルネラの神殿に入れられて、身も心も女性となってしまったのではないか。ルーラはそっと息をついた。
「わたしも少し調べものがあるから。暫くは、王宮の地下にでも篭っているわよ」
 それが、ドゥランディアの呪縛の解除に関するものだと気づき、ルーラは「あ」と声を上げる。カイラという暗殺者の暗示にかかってしまった娘、レーネ。王宮にて保護をしているが、いまだ記憶は戻らず、獣のような唸り声を上げては異性を求める始末である。廃人に近くなってしまった彼女を一刻も早く正気に戻らせたいと、クラウディアは思っているのだ。
「フィラティノアにも、いつ、ドゥランディアの暗殺者が侵入するかわからないしね」
 宮廷のものが操られることを考えて、早急に手を打つのだと彼女は言う。フィラティノア王太子妃となったクラウディアは、神聖帝国にとってもアヤルカスにとっても最早脅威でしかない。非凡の才を持つ皇女であるからこそ、その存在は、危険視される。クラウディアも自身の命の危うさを薄々感づいているのではないか。いつか、祖国から刺客が送られることを危惧して、その対策を考じるつもりか。
「あの子自身も、恐ろしい刺客を飼っているし」
 くすり、とクラウディアが笑う。
 恐ろしい刺客――ジェリオのことである。もともとルーラがエルディン・ロウを通じてなした契約は、最早無効になっているに違いない。
「さすがに、彼が来たら私も勝てないわ」
「どういうことですか?」
 寧ろ、ジェリオのほうがアグネイヤに瓜二つのクラウディアを殺害することなどできないのではないかと思うが。あの男、何のかんの言いつつ、アグネイヤを憎からず思っている節がある。傍にいればいるほど情が移り、いつかそれが恋に、愛にかわることがあるやも知れぬ。
「アグネイヤの癖を知り尽くしているでしょ? だったら、わたしの癖も知られているってこと」
 わたしたちは、双子なのよ。
 クラウディアの言葉に、ルーラは戸惑いを隠せなかった。
「妃殿下――いえ、ルキア、は。彼のような男性が……」
 好みなのかと聞こうとして、ルーラは自身の不作法に気づいた。既に人妻であり、主君の正室である女性に何を言うのだ、自分は。けれども、クラウディアの口から彼のことが漏れたとき、ちくりと胸が痛んだのも事実である。あの天性の『たらし』のような男に、大切な女性を奪われるなど許せない。彼が、クラウディアと酷似した容貌を持つアグネイヤとよからぬ行為に及ぶことを考えるだけでも、(はらわた)が煮えくり返る思いがする。
「好きじゃないわよ、勿論」
 願ったとおりの答えに安堵する自分が悲しい。ルーラはクラウディアの一挙一動に左右されてしまうわが身を切なく思う。
「あと、帰ったら――そうね。アーシェルの件もなんとかしないといけないわね」
 クラウディアは傍らに佇むリィルの頭を撫ぜた。乳白色の髪を持つ少女は、あどけない表情でクラウディアを見上げる。黄昏の瞳を持つ、不思議な少女。彼女はクラウディアとルーラを見比べると、にこりと笑った。



 翠の小宮――『翠小宮』と呼ばれるルクレツィアに与えられた棟に足を運ぶのは、実に一月ぶりくらいだろうか。そう、カイラが言っていた。かつては賓客を迎えるための別宮とされていたのだが、ルクレツィアが神聖皇帝の側室となったことを受けて、ここはそのまま彼女に与えられた形となった。いまでは、ルクレツィアが好きなように改築しており、外観からしてミアルシァ風の様式に変化している。
「変な作りだな」
 入り口に立ち、小宮を見上げるジェリオは率直な感想を口にした。混血美の都、と称されるだけあって、この国は雑多な文化が入り混じっている。けれども、それはあくまでも融合した文化であり。こうした異国情緒を前面に出した建物は、それだけで異質なものとなる。
 異質といえば――
 彼は自身の姿を見下ろし、軽く溜息をついた。
 これも異質である。カイラに渡された、装束。近衛士官の制服である。ルクレツィアの警護の兵士として、ジェリオは紫芳宮に潜入したのだ。カイラは当然、ルクレツィアの侍女として登録されている。姫君の使いで城下に出た侍女と、彼女の警護に当たっていた兵士の帰還――表門を守護する衛兵は、そんな二人にまるで疑念を抱くことなく、あっさりと中に通した。
 これでいいのか、と、ジェリオは他人事ながら不安に思う。
 一国の王宮の警備が、これほどまでに甘いとは。
 これならば、素性を偽ることなく闇に紛れて侵入しても大丈夫なのではないか。
「それは、甘いわね」
 ジェリオの言葉を、カイラは即座に否定する。
「潜入と侵入は違うわよ。よく覚えておきなさいな」
 上からの物言いに、ジェリオは鼻白んだ。カイラのこの高飛車な態度は、どうにも虫が好かない。よくも今まで長い間、彼女と組んで仕事をしていたものだ。その忍耐強さには感心する。いったい自分はどれだけの間、彼女と組んでいたのだろう。一年か、二年か。それとも、もっと長く。
(くそ)
 思い出せない。肝心なところだけが、すっぽりと抜け落ちている。先日,、娼婦セシリアのお陰で漸く記憶の一部が取り戻せたというのに。カイラと彼女にまつわる事柄だけが、いまだ霞の中にある。
「おかえりなさいませ」
 小宮に入ると、数人の侍女の出迎があった。中で一人、侍女頭と思われる女性が進み出て、カイラの前に礼をすると
「こちらは?」
 ジェリオに不審の目を向ける。
「ジェリオ――私の片腕のようなものよ」
 カイラは嘯く。侍女頭は、その言葉に納得しかねているのか、紹介が終わっても不躾にこちらを見ている。野性味を帯びた顔立ちと、洗練された士官の制服が、余程そぐわないのだろうか。
(どうせ俺は)
 下賎の出だ、と、彼は内心毒づく。貴族も、貴族に関わるものたちも皆、彼に蔑みの眼を向ける。闇に生きる者、太陽を見ることの出来ぬ者――嘲りの笑みを幾度浴びせられたことか。
(……?)
 断片的に蘇る記憶が、彼の神経を逆撫でする。そうだ。貴族達は、彼のような刺客を雇いつつも、彼らを差別する――軽蔑する。自身は手を汚さずに、彼らに泥を被せておいて。


「カイラ? ああ、久しぶりだわ。元気にしていて?」
 姫君の部屋――そこに通されて、ジェリオは更に驚いた。扉を明けた刹那、一人の少女が躊躇いもせずにカイラに抱きついてきたのだ。華奢で、今にも折れそうな身体を豪奢な衣裳に包んだ、恐ろしいまでに容貌端麗な少女。ぬばたまの髪は艶やかに輝き、不思議な色合いの瞳は、恋する乙女の如く甘く潤んでいた。美しい、と純粋に思える少女である。
(お姫さん、か)
 彼女が皇帝アグネイヤの側室であることは、カイラから聞かされて知っていた。アグネイヤ四世は、肉体的には女性である。が、戸籍上は男子として扱われているため、妻帯を認められているのだ。皇帝はルクレツィアのほかに二人の妻を持っているという。一人が正室である巫女姫イリア。今一人が、カルノリアの将軍の娘シェルマリヤ。
 格から言えば、カイラの『大切な』姫君は、第二妃となるはずである。
「長きの不在をお許しくださいませ」
 カイラは侘びと共に姫君の頬に口付ける。が、姫君はそれでは気がすまないようであった。自らカイラの首に腕を絡め、朱唇に自身のそれを深く重ねる。
「……」
 娼婦のような口づけであった。
 ジェリオは眉を顰める。これが、一国の姫君か。神聖皇帝の妃か。姫とは名ばかりの、遊び女のようではないか。彼の不穏な視線に気づいてか、ルクレツィアはカイラから離れた。青紫の瞳が、不思議な生き物でも見るようにジェリオを見つめる。
「何者です?」
 不快感を隠そうともせぬ問いに、ジェリオの表情はますます険しくなる。
「無礼な。いつ、こちらに入っていいといいましたか?」
 言うも言わないもない。ジェリオは入室すらしていない。まだ、彼のいる位置は廊下である。扉を開けたとたん、飛び出してきたのはルクレツィアのほうだ。
「悪りぃが、姫さん。俺はあんたの部屋には入っていない」
 きつい口調で言えば、ルクレツィアは眼を丸くした。彼の言っていることがわからない、そんな顔でカイラを見る。カイラに通訳を依頼しているようだ。
「あれは、どこの国の男? 野蛮人? まるで言葉がわからないわ」
 ジェリオの想像は当たっていた。やんごとなき姫君は、俗語はまるで解さないらしい。
(皇女さんとは、偉い違いだ)
 内心一人ごち、ジェリオはハッとする。いま、自分はなんと言った?
(誰と、偉い違いだって?)
 思い出せない。
 心の中を探してみても、記憶は全て掌から零れていく。自分は誰を思い出したのだろう。誰とルクレツィアを比べたのだろう。
「このものは、暫く邸内の警護に当たるものです。殿下のお傍には近づきませんので、お気になさらぬよう」
 カイラは嫣然と微笑み、再びルクレツィアと唇を重ねる。姫君の白い手がカイラの背に回り、ぎゅっと彼女の服を掴んだ。この様子では、カイラと姫君は、身体の関係もあるのだろう。
(おさかんなことだ)
 ジェリオは二人に背を向ける。同性の情交に、興味はない。
 ルクレツィアの部屋を離れたジェリオを呼び止めたのは、先程の侍女頭であった。アガタ、という名の彼女はカイラから簡単に事情を聞いたのか
「こちらにどうぞ」
 ジェリオを別室に導く。彼は知る由もなかったが、そこは以前、アグネイヤがカイラに弄ばれた部屋であった。
「こちらを、お使いください」
 客間と寝室との続き部屋になっている、狭いけれども豪奢な部屋である。主寝室とは別に設けられた客室(ゲストルーム)なのだろう。先程の姫君やカイラの態度からは考えられぬ、破格の待遇である。ジェリオは部屋に入るなり、口笛を吹いた。
「御用の際は、なんなりとお申し付けくださいませ」
 挨拶だけ済ませると、アガタはそそくさと退室してしまう。なるべくジェリオとは関わりたくない――そんな態度がありありと見えている。彼女もまた、『下賎』の民であるジェリオを蔑視しているのだろう。
(まったく)
 上着を脱ぎ捨て、寝台に寝転がったジェリオは、天蓋を見つめて苦笑する。疲れた笑みしか、もう、こぼれない。
 貴族の屋敷は、神経が休まらない。
 どれほど豪華な調度に囲まれても、
 どれほど寝心地の良い寝台に横たわっても。
 眠るどころか、疲れを癒すことすら出来ない。
(俺には合わない)
 掃除の行き届いた部屋を見回し、ふいに興味を失ったように彼は目を閉じた。
 ここに長居は無用。早いうちに機会を見つけ、皇帝を殺害する。それが、『依頼主』のためなのか、それとも自分のためなのか。最早彼はわからなくなっていた。


NEXT ● BACK ● TOP ● INDEX
Copyright(C)Lua Cheia
●投票● お気に召しましたら、ぽちっとお願いいたします
ネット小説ランキング>【登録した部門】>アグネイヤIV
  オンライン小説/ネット小説検索・ランキング-HONなび


inserted by FC2 system