AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
7.傀儡(2)


「本、ですか?」
 案の定、アグネイヤの依頼にリナレスは怪訝そうに答える。ミアルシァの伝奇、もしくは医学書を帝国図書館より持ち出して欲しい、といわれれば、確かに奇異に思うであろう。古くより親交を結んでいるミアルシァの歴史を知りたいのであれば、歴史書だけで充分であり、アグネイヤにいたっては、かの国出身のリディア皇太后でさえ舌を巻くほど細微に渡って知っているのだ。
 それなのに、今更。
 それよりも、何故。
 訝しく思うのも、当然だろう。
「ここだけの話だけれども」
 食事のあと、侍女たちを遠ざけてリナレスと二人きりとなったアグネイヤは、そっと彼に告げた。
「クラウディアの小間使いがひとり、ドゥランディアに『名を取られた』というか、操られているんだ」
 彼女の意識を一刻も早く正常に戻したい、そう思っているからだと彼女は手短に説明する。グランスティアの離宮に仕えていた小間使い、レーネと呼ばれていた少女がカイラの手によって意識操作されたことは間違いない。それを解除する方法はないのか――施術した本人でなければ術を解けないのか。そもそも、『ドゥランディアに名をとられる』とは、どういうことなのか。その部分を知りたいとアグネイヤは思った。
 アグネイヤ自身、ドゥランディアの脅威は身をもって知っている。
 カイラに迫られると、なぜか身体が動かなくなる。声が出せなくなる。
 理性では拒絶しているのに、身体は彼女に従ってしまう。
 あの一種の呪術めいた呪縛から逃れることは出来ないのか。
 ドゥランディアの存在は、ミアルシァにとっては秘中の秘である。そう簡単に他国に出す文献に彼女らのことが記載されているとは思いがたいが、それでも、何もしないよりはましである。
「リナレスは、しっているか? ドゥランディアに名をとられることの意味を?」
 尋ねると、「残念ながら」と彼はかぶりを振った。
「解りかねます。というか、ドゥランディア自体も、実在するのかどうかあやしいものではありませんか? ミアルシァが、他国を脅すために、そう言った暗殺者集団を飼っていると、そう思わせている節も無きにしも非ずと思いますが」
 ドゥランディアの存在自体、ミアルシァの捏造だと彼は主張する。
 確かに、暗殺技術だけではなく、催眠術、暗示能力、幻術、妖術、魔術――すべての『あやしの術』に長けている一族など、詩人の妄想か芝居のネタでしかないだろう。アグネイヤも以前はそう思っていた。カイルとカイラ、二人に会うまでは。
「ドゥランディアは、実在する。先日ルクレツィア姫の部屋でお前が会った女性、あれが、ドゥランディアだ」
 思い返すのも屈辱的なあの夜の出来事。カイラに汚されてしまった夜のことを口にするのは、辛かった。しかし、それを言わねばリナレスもドゥランディアの存在を認めぬだろう。
「ルクレツィア姫の、侍女ですか?」
 リナレスの脳裏には、カイラの姿が鮮やかに浮かび上がったに違いない。アヤルカスにおいても、あれほどの美女は滅多に存在するものではなく、男性であれば一目で虜になってもおかしくない、妖艶なる魅力を湛えた女性。
「――彼女はまだ、姫の傍にいるのか?」
 念のため確認をしてみる。カイラがルクレツィアの傍に仕えているのであれば、ジェリオもおそらくは紫芳宮に入り込んでいることであろう。ルクレツィアの護衛官もしくは、カイラの身内として、堂々と正門からやってくるに違いない。以前ジェリオは王宮内での暗殺はしたくないと言っていたが、信頼のおける内通者が潜んでいれば、その信条を覆すこともあるだろう。それに彼は、アグネイヤが『待っている』ことを知っている。
「そんな、暗殺者が堂々と皇宮に紛れ込んでいるなど」
 まさか、とリナレスは眼を剥いた。彼は紫芳宮の警備には自信があったのだろう。終夜衛兵が交代で門という門を見張り、建物の中も寝ずの番の侍女が洋燈(ランプ)を手に巡回している。その警備を掻い潜り、皇帝もしくはその親族の身近に近づくことは出来はしない――ある意味、彼の考えは甘かった。
 同盟国とはいえ、ミアルシァは他国。花嫁を送りつけるということは、その侍女なり従者なりに刺客をしのばせることもありうるのだ。事実、乱世では花嫁自身が暗殺を行うことも多々あると、文献にもあった。ただそれは、あくまでも裏の歴史であって。決して表で語られることはない。
「あの侍女が、陛下の命を狙っているとなれば、早急に手を打たねばなりますまい」
 先日の意趣返しとばかりに勢い込むリナレスを、アグネイヤはやんわりと制した。
「無理だ。彼女はあくまでもルクレツィア姫の侍女。神聖帝国及びアヤルカスが、何の証拠もないままに捕らえることは出来ない」
 エルシスやクラウスのように現場を押さえることが出来れば、捕縛は可能である。けれども、いまだにカイラは尻尾を出してはいない。
「それに」
「それに?」
「いくらドゥランディアだったとしても、彼女の目的が僕の暗殺とは限らないだろう?」
「それはそうですが」
 リナレスは眉間に深く皺を刻む。こういう表情をすると、彼は兄のバディールによく似ている。これが兄弟の繋がりかと思うと、アグネイヤは少しおかしくなった。
「現にあの侍女は、陛下を、その……」
 陵辱した、とは、口に出せぬであろう。リナレスも、どういった目的でカイラがアグネイヤを辱めたのか、その理由がわからなかった。皇帝があまりにも魅力的だったから、という理由が彼の中では最も成立しやすい理由である。が、それだけで侍女に化けた刺客が、皇帝を陵辱するような真似をするだろうか――普通はそこで訝しがるものである。
「彼女は、なんというか、変わっているんだ」
 アグネイヤとしても、そう答えざるを得ない。カイラは異性とも同性とも寝ることが出来る女性なのだ。あの晩は、たまたまリナレスが来たことにより、アグネイヤを仕方なく解放したのだろうが。どう見てもアグネイヤを殺害する気はなかったようである。寧ろ、何かの腹いせのように、アグネイヤを弄んだ――アグネイヤを恥辱の海に沈めることに悦びを感じていたように思える。ということは、彼女に出されていたアグネイヤの暗殺令は解除されたということだ。いったい誰が彼女の背後に居たのか。問うまでもない、答えはすぐに出る。ミアルシァ国王だ。ミアルシァは、ジェルファをアヤルカス国王、神聖帝国大公として、満足したのか。傀儡に過ぎぬアグネイヤの存在など、どうでも良くなったのだとしたら、その展開も有りうる。
「変わっている、で、陵辱が許されたら、誰だってしますよ。いけません、陛下。断罪は迫らねば」
「だから、証拠がないだろう。僕に証人になれというのか、おまえは」
「あ」
 ことここに至り、漸くリナレスも納得したらしい。
 刺客を葬るのは、正当な手段では適わない。闇には闇の法則がある。刺客を始末するとしたら、秘密裡に。
「カイラを捕らえることができれば、一番だが」
 そうもいかないだろう。今のアグネイヤには、側室を離宮に呼び寄せる権限すら、与えられていないようであるから。ルクレツィアを呼ぶことがあれば、彼女の付き添いとして、アガタとカイラがここを訪れるだろう。
「出来る限り、ルクレツィア様の動きには、眼を配るように致します」
「頼む」
 アグネイヤの依頼を受けて、リナレスは帰還した。
 かつての側近を見送った皇帝は、密かに小さく息をつく。ここでは、緩やかに時が流れすぎる――まるで、今までのことが夢であったかのように。皇帝であるという事実すら、戯言であるかのように。
 アグネイヤの中に培われてきた『牙』は、その鋭さを失い始めていた。



 辺境の夜は、静かに更けていく。

 ――明日には、ここを発つわ。

 クラウディアの言葉に、ルーラも気持ちを固めていた。主人をオリアに送り届けた後、その足でカルノリアに赴き、エリシアの行方を追うつもりである。そんなことを口にすれば、クラウディアのことである、自分も行くといって聞かぬだろう。駄々をこねるクラウディアはそれはそれで愛らしいが、なるべく自国の暗部は見せたくない。クラウディアは将来の王妃ではあるが、異国の出身であることには変わらず、所詮ディグルにとっては他人である。
 この計画が露見した場合、なんといってクラウディアを説得するか。
 目下のところ、それがルーラの頭痛の種であった。
「ルーラさん」
 ティルの屋敷の裏手を歩いているところを、村人に呼び止められる。ルーラは己の思考を振り払い、声の主に眼を向けた。
「おまえは」
 関守の屋敷に潜入した青年の一人であった。彼はルーラの姿を見かけて、ここまで走って来たに違いない。ルーラの前で身を屈めて、息を整えると
「探していたんだよ」
 掠れた声で告げる。彼は今までラトウィスの見張りについていたという。が、
「あのジジイ、狂ったみたいに時々騒いで、ルーラさんの名前を繰り返すんだ」
「わたしの?」
 ルーラに絞め殺されそうになったことが、余程こたえたのか。それとも、彼女が実は男性だったと知ったことに衝撃を受けたのか。どちらもそれらしい理由ではあるが、
「でも、なぜわたしを?」
 尋ねると、青年は言いにくそうに口ごもる。
「あれは、おんなじゃない、おまえらは騙されている――ずっとそんなことを言っているんだよ」
 こんな綺麗な人にねえ、と、彼は渋面を作った。
 ラトウィスは、最後の腹いせとばかりにルーラの秘密をばらそうとしているのか。別に、自分が王太子の男妾であると知れても、特に問題はない。フィラティノアにおいて、男色は禁忌とはされていない。よって、王太子が辱めを受けることもないのだ。
 が。
(妃殿下)
 彼女にだけは、知られたくなかった。自分がオルネラの裏巫女であったことも、特殊な身体であることも。クラウディアだけには知られたくなかった。このままラトウィスを野放しにしておけば、いずれこの件はクラウディアの耳にも入る。そこで彼女が訝しく思ったら。クラウディアのことだ、容赦なく問いただしてくるだろう。それだけは、させてはならない。
「行こう」
 案内しろ、と青年を促せば、彼は素直にルーラをラトウィスの監禁場所へと導いた。そこに待っていたのは、青年と同じ年頃の若者ふたりである。彼らはルーラを見ると一斉に顔を赤らめ、ぎこちなく礼をしたが――
「その侍女は、おとこだ、おとこ。おまえら、騙されるでない」
 絞め殺される鶏のような、甲高い声で叫ぶラトウィスの声に、露骨に表情を曇らせた。
「さっきからずっと、こうなんですよ」
 今までの恨みとして、彼を牛馬の如くこき使おうとしていた当てが外れ、村人も失望しているらしい。特に食事を与えるわけでもなく、夏といっても朝晩は冷え込む野外に放置して、ひたすら自然に朽ちるのを待っている虜囚――それが、ラトウィスである。彼も己の危機を感じ取っているのか、必死に見張りの者どもにあることないこと訴えているのだ。

 ――欲しいだけ金はやる、私をここから逃がしてくれ。
 ――私の後ろには、王妃が付いている。
 ――あの侍女は、おとこだ。お前らを騙し、村を襲うつもりだ。

 そんなことを見張りの間聞かされているだけでもうんざりするだろう。ルーラはあばら家の奥、柱に鎖で括りつけられた哀れな老人を見つめ、嘆息した。
「暫く、見張りはわたしが変わろう」
「でも」
 彼らは躊躇したが、重ねて申し出ると幾分ほっとしたようにその場を離れた。ただ、ルーラをここに案内した青年だけが残り、不安げに彼女を見つめる。
「そういうつもりで、あんたをここに呼んだわけじゃなくて」
 必死で言葉を紡ぐ彼に、ルーラは小さくかぶりを振る。別にいい、と彼の言葉を否定してから、
「この男に、聞きたいこともある。少し、二人だけにしてくれないか?」
 三度(みたび)依頼すると、青年も踵を返した。彼はルーラを何度も振り返りつつも、仲間の後を追って村の中心に戻っていく。短い夏が終わらぬうちに、畑の手入れをしたいのだろう。誰も、こんなしなびた男の見張りなどしたくないに違いない。
「見張り、か」
 本来であれば、ルーラにこそ見張りは必要だろう。この場に二人でいれば、衝動的に老人の首を絞めてしまうかもしれない。その恐れがあるから、今まで彼の元には近づかないようにしていたが。それも、ここで――今日で終わりにしよう。
「ラトウィス」
 声をかけると、老人はのろのろと顔を上げる。そこに居るのがルーラだと気づいたのか気づかないのか、緑青の瞳は視線をあてどなく彷徨わせていた。
「お前の仲間は、オルウィス男爵、ラウヴィーヌ后、他には誰が居る?」
 聞き覚えのある名前に、ラトウィスの視線が揺れた。それがぴたりと虚空のある一点に止まり、
「あ、あ……」
 彼はうわ言のように呟く。
「テオバルト――テオバルト、た……たてぃ……」
「タティ? なんだ?」
 タティアン、と、大公領の名が閃いたが、確証はない。やはり、タティアン大公が一枚噛んでいたのか――ルーラが思ったとき。ラトウィスは思わぬ名を口にした。
「ティシア――フェレ」
 ティシアノ・フェレオ。
 ルーラは眼を見開いた。ティシアノ・フェレオは、ダルシアの大公。先ごろ暗殺された――表向きは病死であるが――ルカンド伯と覇を競った人物だ。彼まで、エリシア后失脚の裏に絡んでいるとは。
 レンティルグ、タティアン、ダルシア、その三国の陰謀だったというのだろうか。ラウヴィーヌただひとりの権力欲ではなく。
(殿下)
 ディグルの身を守るためにも、クラウディアの存在は大きい。クラウディアを正室としていることで、ディグルにはアヤルカスと神聖帝国という二大国の後ろ盾が出来る。当然、ミアルシァも不承不承ながら、アヤルカスには手を貸すであろう。
(陛下は……)
 それを見越して、奪うようにアルメニアの皇女をディグルの花嫁としたのか。三国の陰謀から嫡男を守るために。だとしたら、国王は全てのからくりを知っている。知っていながら、エリシアを見捨てたということは、今更『証人』が現れたところで、あの裁判を判決を覆そうとは思わぬだろう。彼は涙を呑んで寵姫を斬り捨てたのだ。
 自国と息子の将来のために。
「そういうこと、だったのね」
 いつのまにそこに居たのか。ルーラが振り返ると、そこにはクラウディアが佇んでいた。彼女は胸高に組んでいた腕を解き、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「妃殿下」
 なぜここに、と、問うまでもなかった。クラウディアの傍らには、リィルがいる。彼女がその天性の勘で、ルーラの居場所を突き止めたのだろう。
「タティアン大公と、ティシアノ・フェレオ。どちらも『大公』ね。嫌だわ、神聖帝国の最期を思い出す」
 クラウディアは暗い微笑を浮かべる。
 神聖帝国を滅ぼしたのは、異民族と、カルノリア大公、そしてミアルシァ。しかも、ティシアノに関していえば、彼もまた、祖国に対して二心を持つ人物である。戦に負け、ダルシア領の一部となってなお、独立の気風を失わぬ土地。次に戦が起こるとしたら、それはダルシア領内からであるとの噂は、あながち嘘ではないかもしれない。
「そういえば、あの子がルカンド伯の暗殺現場を目撃したといっていたわ」
「あの子――アグネイヤ皇女殿下ですか?」
 あくまでも、皇帝陛下といわぬルーラの強情さがおかしかったのか、クラウディアは相好を崩した。「いやね」と彼女は笑い、
「もしかしたら、その件も関係しているのかもしれない。また、歴史が動き出そうとしているのかもしれないわね」
 半ば独り言のように言う。実に彼女らしい言葉だと、ルーラは思った。この世に生まれながらの帝王が存在するとしたら、それはおそらくクラウディアのような人だろう。漠然と考える自分に、彼女は驚いた。正直なところ、ルーラは国王グレイシス二世にも、王太子ディグルにも、帝王の器を見ることが出来なかったというのに。
 もしかしたら、フィラティノアを背負って立つのはディグルではなく、クラウディアなのかもしれない。
 予感とも妄想とも付かぬ自身の考えに、ルーラは笑いたかった。
 そんなルーラを試すように、クラウディアは更に言葉を継いだ。
「ねえ、ルーラ。私が皇帝になるといったら、あなたはどう思う?」


NEXT ● BACK ● TOP ● INDEX
Copyright(C)Lua Cheia
●投票● お気に召しましたら、ぽちっとお願いいたします
ネット小説ランキング>【登録した部門】>アグネイヤIV
  オンライン小説/ネット小説検索・ランキング-HONなび


inserted by FC2 system