AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
6.辺境(5)


 グレイシス二世との会食は、予想に違わず味気ないものであった。父は取り立て息子に温かい言葉をかけるわけでもなく、王太子妃の行く先を問うわけでもなく。

 ――世継ぎはまだか。
 ――そろそろ実務を任せようと思う。

 かねてから鬱陶しいくらい聞かされていた言葉を、繰り返すだけであった。
 国王自身も高齢の部類に入る。そろそろ息子に王位を譲り、引退したいとの思いをここ数年仄めかしている。無論、体力の衰えがあるわけでもなく、政務に限界を覚えているわけではない。主要な政務はディグルに任せ、最終的な判断――統治権は自身が握るという、いたって利己主義的な構想を彼が抱いていることは、ディグルでなくとも了解している。
 だから、というわけではないが。ディグルはその『命令』に従う気はなかった。
 もうすこし、王太子という比較的自由な立場にありたい。
 それは、王太子であるうちにエリシアを見つけ出し、じきじきに彼女の元に向かいたいという気持ちもあるからだった。
「わたしも、早いうちに孫の顔が見たい」
 遠まわしな国王の要求に、ディグルは無言で頷くだけであった。部屋の隅に控えたスタシア夫人は、はらはらと王太子の様子を見守っている。
「ところで」
 食後の酒を楽しんでいるところで、国王がやけに上機嫌に話題を切り出した。ディグルは杯を卓上に置き、身体の位置をずらして父を見やる。典型的なティノア人の風貌を持つ父は、ディグルよりも更に深く青い瞳を僅かに細め、
「ウィルフリートに花嫁を迎えようと思っている」
 思わぬ名を彼に告げた。
「ウィルフリート」
 ディグルはその名を復唱する。
 ウィルフリート――彼は、国王グレイシス一世の妾腹の王女の息子であり、ディグルにとっては従弟に当たる。
 先王は父とは異なり、正妃のほかに幾人もの愛妾を侍らせていた。征服した国の王女から、国内の貴族の姫、風の民など様々な女性がいたはずだったが、その中で子を孕んだのは正妃を含めて僅かに五人。それぞれがふたりずつ子をなし、十人の子の父となった祖父は、正妃の息子であるグレイシス二世――ディグルの父を後継に指名した。彼の同母姉であるアウィゲイルは、若くして亡くなったために子が居らず、彼女が嫁ぐはずであった国内の有力貴族には、異母妹であるジークリットが嫁いでいる。彼女の息子がウィルフリートだった。確か、ディグルより二つほど年下で、現在はまだ一人身だった。その彼に、花嫁を、と。国王は考えていたのか。
 どうせまた、政略的に有益なる姫を迎えるつもりだろう。
 フィラティノアという歴史の浅い国は、神聖帝国に縁ある国からは格下に扱われる。
 アルメニア皇女も、『降嫁』のつもりでこの国に嫁いで来た。彼女は今でも、フィラティノアを蛮族の国と侮っているに違いない。
「ヒルデブラントの王弟殿下、その姫君を貰い受けたいと親書を出した」
 ヒルデブラントの王弟、といえば。大公ハーキュリーズ公。その娘といえば、エーデルトラウドもしくは、マリエフレドである。マリエフレド公女は、アヤルカス国王ジェルファ一世の花嫁候補とされているはず。ということは、エーデルトラウドを花嫁にと打診したのだろうか、父は。
「いや、マリエフレド公女殿下だ」
 グレイシスはなにやら含みのある笑顔を息子に向けた。他国の君主の花嫁候補となっている女性、その彼女をあえて指名するとは。父も何を考えているのだろう。
 ディグルはあからさまに顔を顰めた。だが、例の如く他者にはその微妙な変化は全く読み取れない。
「どうやら、アヤルカス国王はヒルデブラントの縁談を断ったらしい」
 意外な事実に、ディグルは眉をあげた。
 大国の王族の姫を退け、アヤルカス国王は小国の王女をとったのか。大陸一の美女と名高いリーゼロッテ王女、彼女の美貌に陥落したとは、彼も一介の男子だったというわけだ。
 しかし、国王はそれを否定する。
 アヤルカス国王は、マリエフレドとリーゼロッテ、ふたりの姫を退けたのだと。
 では、ジェルファは誰を花嫁にと選んだのだろうか。
 他に后候補として挙げられていたのは、カルノリア第一将軍の息女シェルマリヤである。彼女は先ごろ神聖皇帝アグネイヤ四世の側室となった。ゆえに彼女は外すとして、いったい、誰が。ディグルの心のうちに応えるように、グレイシス二世は更に濃く笑みを刻む。
「セラフィーナ公女。いや、王女、と言うべきか」
 ディグルもその名は耳にしたことがある。ダルシアの有力貴族ティシアノ・フェレオの一人娘だ。以前、ディグルの側室にと、ティシアノ・フェレオ自身より打診があったが、彼はそれを体よく断った経緯がある。あの皇女だけでも持て余しているのだ。他に妃など欲しいわけがない。
 セラフィーナは、ダルシア王レイファンの養女として、アヤルカスに嫁ぐことになったという。これで、アヤルカスは今までミアルシァを介してのみ接触のあったダルシアと、正式に縁組をしたことになる。
 なぜ、ジェルファがわざわざダルシアの貴族の姫を正妃にと望んだのか。それは本人のみが知るところであるが、ふたりの間を取り持ったのは、他でもないリディア皇太后――王太后と、宰相エルハルトであった。神聖皇帝が、ミアルシァとカルノリア、双方の国の姫を娶ったからだろうか。それにしては、北方の縁が大分薄れてきていると思われるが。
「ティシアノ・フェレオ」
 ディグルはその名を呟いた。
 ルカンド伯暗殺以来、勢力を拡大してきた貴族である。もともとは一国の主、百年ほど前にダルシアに滅ぼされて領土の一部となり、王家は侯爵位を与えられて永らえてきた。先代の侯爵が王家の娘を降嫁させ、公爵を名乗ってからこちら、まるで独立国家のように『公国』を称しているという。ダルシア王家も逼迫する財政の中、商港を有するティシアノ・フェレオの造反はなんとしても避けたい事態であり、かの一族の横暴を許すしかなかった。
 近い将来、ダルシアはティシアノ・フェレオに征服されるであろう。
 それが、諸国の有識者の見解であった。
「眠っていた、神聖帝国が動き出す。ならば我らも、北方の守りを固めねばなるまい」
 大国ヒルデブラント。その王族と縁続きとなることは、フィラティノアの益となる。ウィルフリートは、宰相の息子でもあり、ゆくゆくは政治の中枢で活躍することとなるだろう。ディグルを支えて。
「ラウヴィーヌもウィルフリートには目を掛けている。なかなかに見所のある青年だと言っていた」
「ラウヴィーヌ、が」
 レンティルグの毒蜘蛛が、何を企んでいるのだ。
「継母とはいえ、ラウヴィーヌはおまえの母だ。呼び捨てにするのは宜しくない」
 僅かに表情を強張らせて窘めるグレイシス。彼に対して、ディグルは鋭い視線を向けた。
「罪なきものを陥れる女を、母と呼ぶ気はありません」
 彼にしては珍しく感情を発露した言葉に、グレイシスも驚いたようであった。彼は穴の開くほど息子の顔を見つめ、それから深い溜息をつく。ディグルの言わんとしていること――前妃エリシア追放の件。その件に関しては、国王にも思うところがあるのだろう。彼はどのようなつもりで、王妃を追放したのか。処刑しなかっただけでもありがたく思え、と。考えているのだろうか。
「エリシア后がどこにいるか、ご存知ですか?」
 ディグルの問いに、スタシア夫人の顔が青ざめた。彼女は唇を震わせながら、頻りとかぶりを振っている。それ以上言っては駄目だと、スタシアの心の声が聞こえる気がした。けれども、ディグルはやめない。父の凍てつく青瞳を射抜くようにして、言葉を続ける。
「私が即位した暁には、あの折の裁判の再審を申し立てます。裁判記録に目を通しましたが、あれは一方的だ。どう考えても証拠は全て捏造されたとしか考えられず、証言をした者達も明らかに辻褄の合わぬ発言をしている。にも拘らず……」
「もう、よい」
 やめよ、と、グレイシスは息子の言葉をさえぎった。彼は怒る訳でも、苦渋の表情を見せるわけでもなく、ただ静かに言葉を紡ぐ。
「すべては、終わってしまったことだ。今更、時を戻すことは出来ない」
「……」
 それが、どのような意味を持っているのか。ディグルは父の心情をはかろうとした。父は近習に声をかけ、会食の終了を告げる。と、青ざめたままのスタシアがそそくさとディグルに近寄り、
「さ、早くお帰りあそばして」
 国王が怒らぬうちに、その逆鱗に触れぬうちに、と、ディグルに帰館を促す。ディグルは軽く頷き席を立つ。

 ――全ては、終わってしまったことだ。

 それが父の本心ならば、もう、自分は彼を父とも思わない。『血』の呪縛に狂った男。下賎な歌姫を捨て、由緒正しき血を持つ貴婦人を娶り、王国の基礎を整えようとした。それならば、それでよい。国王として、その行動は間違ってはいない。
 もしも、エリシアが側室であったなら。
 国王を後援者(パトロン)とする、一介の歌姫であったなら。
 あの悲劇は生まれなかったであろう。
 自分も妾腹の王子として、もう少し気楽に生きられたはずだ。エリシアの元で。
「ウィルフリートの婚姻の件、マリエフレド公女の後見人として、(そなた)を指名する」
 去ろうとするディグルの背に、父の言葉が投げられた。
 また、こうして政略の犠牲者が生まれることになる。
 ディグルは一瞬だけ父を振り返り、目礼を返した。それがどれほど無礼なことかを承知で、あえて行う。だが、父は何も言わなかった。近習たちは、それぞれ丁寧に頭を下げる。退室する王太子に――未来の国王に向かって。


 まったく、冷や冷やさせられました――離宮へと戻る馬車の中で、スタシア夫人は手巾(ハンカチ)を口元に押し当てながら声を絞り出した。
「陛下に向かって、あのような態度を取られるなど。ご不興を買ってしまいます」
 それは、運が悪ければ廃嫡に繋がるかもしれない。宮廷内では、気難しく人嫌いなディグルよりも、明朗で才気闊達なウィルフリートに人気があった。国王には王妃の他に愛妾はなく、子供はディグル一人である。ゆえに彼の王太子の地位はゆるぎないものではあるが、人気の点から行けばどうなるであろうか。
 ディグルの後ろ盾は、国王と、認めたくはないがアヤルカス王国、神聖帝国である。神聖帝国皇帝の姉である姫、彼女の存在がディグルの継承権を守るひとつの要素でもある。
 もしも、国王が急逝したならば。歌姫の子でしかないディグルの立場は危ういものとなる。
 国王もそれを慮って、彼の妃に大国の皇女を貰い受けたのだろう。
 つまらぬ親心だ。罪滅ぼしのつもりか。自分と、エリシアへの。



「王太子殿下」
 離宮に着くなり、迎えのものが血相をかけて走りよってきた。従者が扉を開くよりも早く、ディグルの元に駆け寄ろうとするのを
「なんですか、無礼な」
 スタシア夫人が扇で制する。すると、迎えの小者はその場に膝を付き、自身の非礼を詫びてから
「申し上げます、ルナリア様のお使い、と仰る方がお見えになられまして」
 火急の要件だと言うので、白亜宮まで使いを出そうとしていたところだったと、告げる。
「ルーラから?」
 彼女は今、クラウディアと共にアダルバード方面の国境地帯に向かっているはずである。彼女と共にかの地へ赴いたのは、侍女のリオラと護衛の近衛士官。そのふたりのどちらかを、使いに出したというのか。あるいは、皇女の我侭が高じて、体よく厄介払いをしたのか――どちらでも良かったが、そういうことならば興味はない。
「あとで、目通りを許す」
 端的に言い放つと、彼は離宮内へと足を踏み入れる。侍女のツィスカがそこに控え、深々と礼をしながら主人の帰館を迎えた。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさい」
 ツィスカの声に重なるようにして、深みのある声が聞こえた。男性とも女性とも付かぬ、不思議な声。しかし、ディグルはこの声に覚えがあった。
「おまえ……は、」
 ツィスカの傍らに寄り添うように佇む女性。舞姫独特の華やかな衣裳を身につけた彼女は、どこかの座敷の帰りなのだろうか。貴婦人の如く扇で口元を隠し、赤紫の瞳をすっと細めるところは、以前と変わっていない。
「覚えていてくださって、光栄ですわ。王太子殿下」
 腰を屈めて貴婦人の礼をとる彼女は、いな、彼女ではなく正確には『彼』になるのだが――忘れもしない。密偵のひとりにしてオルネラの舞姫、エルナであった。



「るきあるきあ、もう、あさ」
 起きて、と、愛くるしい声が耳元で囁かれる。もともと朝に強いほうではない。ディグルに比べれば、それでも幾分ましではあるが、片翼程早起き鳥なわけではなく。
「ごめん、もう少し寝かせて頂戴」
 クラウディアは獣の皮をなめした掛け布を頭からかぶり、寝返りを打つ。
 朝、というのは、アーシェルの民にとっての朝である。
 クラウディアにとっては、まだ夜中であった。夜中、――いな、黎明か。うっすらと空に赤味が差し、星が恥ずかしげにその姿を消していく。夜から朝へと変わる、曖昧な時間。
「そらがきれい、るきあのめみたい」
 暁の空を見上げて、リィルが声を上げる。
「空?」
 道理で寒いと思った。リィルが窓を開け放っているのだ。彼女は冷たい朝の風に、乳白色の髪を躍らせている。空を見上げるのは、瑠璃の瞳。神聖帝国において、皇帝よりも高貴とされた巫女姫の瞳。こうしていると、リィルが真の巫女姫のように思えた。
 アグネイヤの元にいる巫女姫を名乗る少女は実は偽者で、リィルこそが巫女姫なのではないのか。
 あらぬことを考えて、クラウディアは内心苦笑を浮かべる。
 そんなことはない。
 そんなことはないはずだ。
 しかし。
 どことなく、浮世離れしたリィルの様子は、明らかに普通の娘とは違う。彼女は人ならざる力を持っているのではないか、それは確かだとクラウディアは思う。村に帰還した際も、村人たちは真っ先にリィルを出迎えに来た。

 ――リルカイン様
 ――リルカイン様

 それこそ、城主の帰還とばかりに、その周囲に殺到し、皆が皆彼女の前に平伏する。

 ――リィルって、いったい、何者?

 そっとティルに尋ねたが、彼は笑って応えなかった。そのうちに、ティルの周りにも人が集まり、彼も君主宜しく人々の祝福を受けながら、自宅と思しき家にクラウディアとルーラを招待したのだ。

 ――好きに使っていい。

 言われたのは、家の離れにあたる部分であった。宮殿であれば、離宮だろうか。狭い村にあっても、ティルの家は比較的大きく立派であった。それは、彼の家が代々村長を務めてきたからだとティル自身が言っていたが、果たしてそれだけだろうか。飢えに苦しみ、飢饉に泣いたといっているが、彼の家はそれほど悲惨な思いをしていないように感じる。ティルは初めて会った折に、姉を殺してその肉を食べたといっていたが、それは本当だろうか。母屋に飾られた、古ぼけた肖像画、ティルの一族を描いたと思われるその絵の中に、彼の姉らしき女性の姿はなかった。あれは、アーシェルの悲劇を誇張して伝えるための、偽りだったのではないか。
「リィル」
 クラウディアは半身を起こし、少女を呼んだ。リィルは「なあに?」と小首をかしげ、彼女の元に寄って来る。どうせなら、窓も閉めて欲しいと思ったが、あえてそれは口にしなかった。
「ティルは? ティルの家族は、もう起きてるの?」
 問いかけに、リィルは頷いた。
 リィルはティルと共に暮らしているようで、母屋で寝起きをしていた。夕べは、ルーラと一緒に寝ると騒いだのだが、ティルに体よく説得されて母屋に戻った。この我侭な娘を良く手なずけていると、クラウディアはティルの手腕には感心する。
「ティルのご両親――ほかに、ティルに、おねえさまはいたの?」
 子供ならば、無邪気に答えよう。そう思ったクラウディアの考えは、幾分甘かった。
「おねえさま? てぃるの? げぇる?」
「げぇる?」
 なんだそれは。何の呪文だ。呪いだ。クラウディアは顔を顰めた。それとも『げぇる』とは、こちらの方言なのだろうか。
「って、なに?」
「げぇる――げいる……げーる」
 語句の活用形か。クラウディアは額を押さえた。痣が出来るかと思うほど強く額を抑えていると、リィルがちょこちょこと近づき
「だいじょうぶ? あたま、いたい?」
 無邪気に尋ねてくる。クラウディアはかぶりを振った。
「げーる、いなくなった。みずうみにいって。みんなでおいのりした」
「リィル?」
 やはり、ティルに姉はいたのか。湖に行って、いなくなって、皆で祈った。それはもしや。
「――遺書があったよ。自分の肉を役に立ててくれ、って」
「ティル」
 戸口に、赤い瞳の少年が佇んでいた。気配も無く、いつの間にやってきたのだろう。クラウディアは眼を見開いた。
「悪趣味だね、こんな子供に聞くなんて。ゲィル――オレの姉貴の名前だよ、確かに」
「ゲィル?」
「そう。アヴィゲイル。お貴族様みたいな名前だろう?」
 ティルが笑った。どこかしら、普段の彼とは異なる、空虚な笑みだった。
「なんだか知らないが、うちは代々ご大層な名前をつけられてきた。リィル――そいつも、本名はリルカイン。オレも……」
 ティルが言いかけたときである。
(おさ)
 廊下から、男性の声が聞こえた。アウリール――ティルの『側近』のような役割をしている彼の声である。
「狩りの準備が整いました」


 この時期、男たちは狩りに出て、女性は畑仕事に精を出す。極限の大地、といわれるアーシェルにも、作物はそれなりに育つのだ。寒さに強いといわれている薯類や雑穀を育て、北の大地でしか栽培できない薬草を栽培して、収穫したものを売りに出す。売れるものといえば、眼に良いといわれる紫色の果実『ブラゥエール』だけだが、その収益は村の重要な財源である。ブラゥエールの行商にと、首都へ赴こうとするアーシェルの民から法外な通行料をせしめていたのは、ラトウィス以下『関守』役人達であった。
「本当は、野生のブラゥエールのほうが良質なんですよ」
 畑にクラウディアを案内したティルの母は、そう言って苦笑した。
「でも、需要に供給が追いつかなくて。なんとか人の手でもそれなりのものを栽培できるようにして。やっと、今現在それが軌道に乗ったところなのです」
 フローリア、と名乗った彼女は、ティルとは異なり、北方特有の色の薄い髪をしていた。銀髪とも違う、リィルのような乳白色の髪に、灰の瞳。淡い春の雪を思わせる色彩が、彼女の穏やかな容貌に良く似合っている。ティルは、髪と瞳の色はともかく、顔立ちは母に似たのだろう。フローリアも若い頃は、引く手数多の美人であったに違いない。
 一方、ティルの父も、フローリアと同じ髪と瞳を持っていた。ティルは、本当に彼ら夫妻の実子なのかとクラウディアも疑問を持ったが、それは間違いないとティル自身が語った。なぜなら、彼の家系には、時折暁の瞳や黒髪を持つものが生まれるのだという。そういったものを持って生まれた者たちは、必ず村人たちから傅かれるのだ。
 瑠璃の瞳を持つものも、同じく崇拝対象とされるのであれば、それは間違いなく
(神聖帝国)
 その名残であろう。ティルは、かの皇帝の血を引いているのだ。その昔、北方に嫁がされた皇女、彼女の血が脈々と流れてこんにちまで繋がっているのかもしれない。本来であれば、宮殿で何不自由なく暮らせる立場であるのに、彼らはこの過酷な大地に追いやられた。どこが、自分とティルたちを隔てる『壁』なのだろう。
(『壁』か)
 クラウディアは南に視線をめぐらせた。神聖帝国が築き、フィラティノアが継承した『壁』、それを切り崩すものがあるとしたら、自分であろう。だが、できるであろうか。まだ、何の権限も持たぬ、王太子妃でしかない自分に。公式の場で意見を述べる機会すら、与えてはくれぬだろうに。
(継承権も、権限も、なにもない小娘)
 それが、自分。神聖皇帝の『姉』にして、アヤルカス王女でもあるクラウディア。けれどもそれは、あくまでも名目上のことでしかない。
 もしも、フィラティノアがかつての神聖帝国の権勢を得たいと思うのであれば。第二の神聖帝国として、大陸に君臨することを望むのであれば。クラウディアの扱いを変える必要がある。人質としてでも、同盟の道具としてでもなく――。
 それがわかる国王であったら、エリシア后の悲劇は生まれなかっただろう。
 クラウディアは自嘲と共に吐息を漏らした。
 そこに、リィルがとことこと駆け寄ってくる。
「るきあ」
 満面の笑みを湛える彼女の傍に、なぜかルーラの姿はない。思ってから、またクラウディアは苦笑した。いつもリィルがルーラに纏わり付いているわけではないのだ。ことに、アーシェルに帰郷した頃から、彼女はルーラから離れている。特に何かがあったわけではないだろうが。
 もしかしたら、気づいたのかもしれない。ルーラが、女性ではないことに。
(小さくても、警戒心だけはあるのね)
 リィルの中に片翼の面影を見たような気がして、クラウディアは目を細めたが、
「リルカイン様」
 フローリアが膝を折って彼女を迎える様を見て、奇異なる感情にとらわれた。リィルは、フローリアの血縁者、もしくはティルの血縁ではないのだろうか。ティルとリィル、このふたりの関係はどのようなものなのだろう。
「リルカイン様は、先代の末のお子様です」
 先代とは前村長(むらおさ)、その子供という意味なのか。では、ティルにとっては叔母に当たる存在なのだろう。
「いとこ、ですよ。先代は、主人の兄でしたの。――彼の子供です」
「そう。でも、なぜ彼女には敬語を使うの?」
「それは――代々の慣わしですから。それに、彼女、ではありませんよ」
 フローリアはその名の通り、花の如き笑みを零す。彼女ではない、ということは、つまり。
「リィル――リルカイン、て」
「はい。このような姿はしておりますが、男子です」
 そうか。そういうことか。
 ルーラの中に同じ気配を感じて、リィルは彼女に興味を持ったのだ。さらに、クラウディアに対しては、別の感情を抱いているらしい。
「あかいめ。てぃるとおなじめ。るきあ、りぃるのはなよめ」
 ぎゅっ、と足に抱きつくリィルは、愛らしいを通り越して少し怖かった。リィルは、自身の存在意義を知っているのだ。自身が瑠璃の瞳を持って生まれたことも、暁の――古代紫(むらさき)の瞳を持つものが『皇帝』であることも。
「ルキア様は、神聖帝国の血を引いていらっしゃる方なのですね」
 フローリアの言葉に、クラウディアは頷くしかなかった。末裔も末裔、正真正銘エルメイヤ三世の、そしてアグネイヤ一世の直系の子孫なのだから。本来であれば、自分が皇帝として神聖帝国を継承するはずであった。現在、偽りの皇帝が君臨しているあの玉座は、自分のものであった。
(エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤ)
 自身の、真実の名。封印した本名、二度と名乗ることのない、名前。『マリサ』はクラウディアとして、今後フィラティノアで生涯を終えるのだ。
「――形式だけでも、ティルの花嫁に、と。女子の姿をさせておりましたが。やはり、逆らうことは歪みを生じることなのでしょうか」
 フローリアの言葉が、クラウディアを現実に引き戻す。
 アーシェルには、古代紫の瞳を持つものと、瑠璃の瞳を持つものを娶わせる習慣があるという。今回はたまたま双方とも男子であったので、リルカインを女子として育てたのである。その風習は、まさに神聖帝国の皇帝と巫女姫そのもの。巫女姫を正室とすることによって、皇帝は俗世の長たりえるのだ。
「あの子は、(おさ)ではなかったようですね」
 呟く夫人の表情はどこか清々しかった。
「ティルはただのティルとして、生涯を歩むことになるでしょう」
 良かった、と、心底ほっとしたようにフローリアは顔を綻ばせる。息子が背負うであろう重責、それが取り除けたのだと、そう思っているのか、この女性は。運命の呪縛から放たれ、ただ一人の人間として、生きることを許される。それが、幸せだと思うのか。
 クラウディアには解らなかった。
「そういえば」
 ふと、心に蘇った疑念を彼女は口にする。
「ティルが言っていました。彼の家系は、代々貴族のような名をつけるのだと。彼の姉上は、アヴィゲイル殿、この子は、リルカイン、では、ティルは? 彼は、なんという名なのでしょう?」
 ある予感が、胸を過ぎる。クラウディアは先程聞きそびれたティルの真の名を、彼の母に問うた。フローリアは、一瞬躊躇うように視線を揺らしたが、
「アグネイヤ――エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤと申します」
 恐れ多いことです、と、聖者の名を語るかのように恐れ畏みながらその名を告げた。
 クラウディアは、最早驚きもせず。やはり、と小さく頷いた。
 ティルと、その名を聞いたせつな、心に浮かんだのはあの名前であった。まさか、と心の奥では否定しつつも、あるいはもしかしたらと怯えていた自分がいた。ここであの名を耳にするなど。しかも、目の前に瑠璃の瞳が存在するなど。
 これでは、まるで。
(まるで――)
 クラウディアに、『起て』と。皇帝として『立て』と。運命の女神が囁いているようではないか。
「ああ」
 脳裏を掠めるのは、片翼の姿。重すぎる帝冠に押しつぶされそうになっている、脆い皇女。
 クラウディアは、片翼を玉座から引き摺り下ろし代わりに自分がそこに座る悪夢を、ここ数日繰り返し見た。悪夢――あるいは、それは悪夢ではないのかもしれない。
 リルカインが見せた、予知夢、霊夢の類。
 自身の理性を蝕む都合の良い解釈を、クラウディアは苦笑と共に振り払った。振り払った、つもりだった。

 今までは。


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