AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
6.辺境(3)


「ラトウィスがいない?」
 正確には、見つからない。
 関守の屋敷、とはいえ、もとは正真正銘関所である。さして広いわけではない。無論、一般的な市民の住宅に比べれば広大ではあるが、中産階級の気の利いた別荘程度の大きさで、隠れるところも探すところもそれほどあるわけではない。あるわけではないのに。
「見つからない」
 そう。と、クラウディアは眉を寄せる。
 夜は、もうじき明けようとしている。ラトウィスがこの部屋に押し入ったのは、夜半過ぎ。それからすぐにどこかへ逃げおおせて、と考えて。
(ありえない)
 クラウディアはかぶりを振る。
 彼女の依頼で集まってきたアーシェルの民が、ずっと屋敷の周りを取り巻いているのだ。役人が――それこそ、ラトウィス自身が逃亡など図ろうものなら、すぐさま捕らえて血祭りにあげられるだろう。ラトウィスもそこまで愚か者ではない――はずである。
「どこか、隠し部屋があるのかもしれないわ」
 既に季節は夏。とはいえ、最果ての大地は寒さが支配している。しかも夜ともなればその厳しさは増し、太陽の昇る直前には、気温は著しく下がる。ラトウィスも長年この土地に暮らした男である。そのようなことは知っているであろうし、この寒さの中、屋外に何時間も身を潜めようとは思わぬだろう。必ずどこか暖かい場所で、機会を伺っているに違いない。
「オレが、探してくる」
 ティルが徐に扉に近づいた。
 ラトウィスの三人の側近達は既に捕縛し、部屋に集った数人のアーシェルの民に監視されている。彼一人、席を外したところで戦力が著しく低下することは無いと思うが。
「あなたはここにいて」
 わたしがいきます、そう言って、クラウディアは剣を手にした。
「おいおい、御自らむさくるしい屋敷を徘徊されるわけ、お嬢さん? やめたほうがいいんじゃない? ここは蜘蛛の巣だらけだよ」
 からかいとも本気とも取れぬ口調で、ティルはクラウディアを制止する。
「あなた、内部に詳しそうね? 何度か、忍び込んだことがあるのかしら?」
 ちくりと皮肉を投げれば、ティルは「かもね」と歌うように言いながら部屋を出た。全くつかみ所の無い男である。ある意味、あののらりくらりと絶妙の間合いで他者を交わす、処世術が羨ましかった。
「わたしが、行って参ります」
 ルーラはリィルを村人に預け、クラウディアの前で一礼した。
「わたしも、彼には聞きたいことがありますので」
 ルーラの青い瞳を暗い影が過ぎる。
「エリシア様のことね?」
「ルキア」
 ルーラは驚いたように睫毛を揺らした。第三者には決してはかれぬ表情の変化。しかし、クラウディアはそれを看破した。ラトウィスがラウヴィーヌを正妃とした功労者であれば、当然、前妃であるエリシアを失脚させた人物でもあるということだ。ルーラは、ディグルの密命を帯びて、エリシア前后の行方を捜索している。と、なれば。
「彼が何らかの手がかりを持っているはず。でしょう?」
「はい」
 ルーラは隠さず頷いた。
「わたしも、ディグルには借りがあるしね」
 クラウディアは笑い、夫からせしめた剣を軽く持ち上げる。ルーラは口元に笑みを滲ませ、深く頭を下げた。彼女がティルの後を追うように退室すると、二人の会話を遠巻きに聞いていた村人たちの一人が、おそるおそるクラウディアの前に進み出る。
「あのう、恐れ入ります」
 卑屈なわけでもない、媚びているわけでもない。ただ、ひたすら何かを恐れている草食動物の目をした若者は、背後の同胞にけしかけられるようにして、クラウディアに尋ねた。
「お嬢様は、どこかの貴族様のお嬢様ですか?」
 辺境では見たことのない、豪奢な装いをした少女。歳不相応に落ち着き、剣も使いこなす――幼い頃聞いた、異国の英雄姫の物語を彼らは思い出したに違いない。遠くアルメニアの初代皇后ルクレツィア、神聖帝国を支えた女騎士団エルシュアード、いまだに伝説となっている美貌の女海賊クローディア、アダルバードの姫将軍ラティーシャ。古のきら星の如き姫君を想像しているのであろうその若者は、まさに宝石でも見るような目でクラウディアを見ていた。
「正確には、『奥様』ですけどね」
 クラウディアが笑うと、若者達は驚いたようだった。
 確かに、クラウディアには人妻の色気も主婦の貫禄も備わってはいないが。あからさまに驚かれると、もう少し自覚をして置けばよかったと、流石にクラウディアも僅かばかり心が痛んだ。
 帰ったら、少しでも妃らしいことをしてみよう。
 ふと、そんなことを考えたクラウディアである。



「ここの見取り図は、頭の中に入っている。そんな感じだな」
 前を行くティルの姿を捕まえて、ルーラは尋ねた。彼はなんだそんなことか、といった表情をして頷く。
「オヤジがここの修復に借り出されたとき、オレも手伝いに来ていたから。大体は、頭の中に入っているよ」
 何が『大体』だ。ルーラは切り返そうとしたが、やめた。
 ティルの記憶はそんなあやふやなのもではなかった。彼は、しっかりと脳内に屋敷の見取り図を広げているのだろう。確たる足取りで、部屋を片端から確認していく。ルーラの眼から見れば、ここに隠し扉がありそうだと思える場所も彼は素通りし、逆に彼女がまるで気づかぬところに触れて、
「隠し金庫にはなるけれども、人間は入れないんだよね」
 閉ざされた扉を開いて見せた。彼の言葉通り、そこには幾つかの細工物が無造作に放り込まれているだけで、ひとひとりが隠れ果せるような広さは無く。ルーラはただ感心して頷くだけであった。
「隠れるとしたら、あの辺り。って場所はあるけど」
 棚から取り出した金細工の首飾りに指を絡めながら、ティルは何かを思い出すように目を細める。
「どうする、手分けする? それとも、一緒に行く?」
 試すようにルーラを見上げる。彼もまた、ルーラをか弱い奥女中だと思っているのだろう。リオラよりは肝が据わっているが、それでもおんなはおんな。侮りの色が強く赤い瞳に現れている。
「任せる」
 ルーラは投げやりに答えた。
 別にどちらでも良かった。確かにティルに同行していれば、無駄が無い。短時間に効率よく建物の内部を探すことが出来る。けれども、一人では何も出来ぬという年頃でもなく、なによりルーラはか弱き乙女などではない。装ってはいるが、立派な男子。言い切るには問題がかなりあるが――少なくとも、女性ではない。
「あの妃殿下の侍女なんかやっていると、それなりに危険な思いは何度もしてる。ってか」
 ティルは、からからと高い笑い声を上げた。
 侍女――それも違う、と訂正するつもりは無かったが、ルーラは僅かに眉を動かすのみにとどめた。自分はクラウディアの侍女ではない。彼女の夫であるディグル・エルシェレオス、彼の愛妾なのだ。
(側室)
 その名に、どれだけの意味があるだろうか。現在は、殆どクラウディアの侍女に等しい存在である自分。しかし、その状況を喜んでいる自分を、否定することは出来ない。
「じゃあ、侍女殿の勇気に免じて別行動にしようか」
 ティルは片目を閉じ、彼女に『心当たり』のひとつを話した。
 この屋敷に作った隠し部屋、機能しているのであれば、ふたつ有力候補がある。ひとつは屋根裏、ひとつは、地下。正確には半地下に当たる部分に隠し部屋がある。そのどちらかにラトウィスが隠れている可能性は高い。
「ちなみに、この部屋は二つとも繋がっている」
「……?」
「屋根裏に隠れていて、やばくなったら地下へ。地下に隠れていてやばくなったら屋根裏へ。直行できるような仕組みになっているんだなこれが」
 なかには、昇降機があるらしい。それを利用して、自在に逃亡を図るのだとティルは言う。
「だから、両方から挟み撃ちにするのが一番の有効策だと思ったんだよね」
 つまりは、はじめから彼は二手に分かれるつもりであったのだ。先程ルーラがそれを承知しなかったら、彼はどうするつもりだったのだろう。否、彼は信じていたのだ。わかっていたのだ。ルーラの答えを。
「オレは屋根裏。あんたは地下ね、侍女殿」
 幸運を祈る、と軽く手を上げて、赤い瞳の少年は身を翻した。後に残されたルーラが、自身も部屋を出ようと踵を返した。そのとき。
「……っ!」
 背後で重い音が響いた。壁が動いた――細工が入っていた棚、その棚ごと壁が動き、こちらに倒れ掛かってくる。ルーラがそれを交わすと同時に、壁板の向こう側から鋭い光の筋が延びてきた。
 剣だ。
 彼女が認識するのと、再び壁が襲い掛かるのと同時であった。ひとつ、またひとつと崩れた壁がルーラに襲い掛かり、彼女の退路を阻んでいく。剣を引き抜こうにも、この狭さではどうにもならない。彼女が反射的に唇を噛み締めると、
「よう似ている。よう似ているわ、エリシアに」
 愉悦に彩られた笑い声が、ルーラの耳に届き。崩れた壁の向こうから、眼をぎらつかせたラトウィスが現れる。
「貴様」
「そうだ、エリシアもそんな目で私を見たのだ。本当に、よく似ている」
 耳障りな声が、前妃の名を呼ぶ。ルーラは油断無く身構えながら、ラトウィスを静かに睨みつけた。


 いつのまにか、ルーラは部屋の隅に追い詰められていた。
 狭い室内では、長剣はまるで役に立たない。こういうとき、ティルのように短剣を使いこなすことが出来れば便利であろうと、どこか冷めた頭の片隅で彼女は考えた。
 目の前に佇む初老の騎士――ラトウィスは、狂気に満ちた目でルーラを見つめている。彼は、ずっとこの部屋で息を潜めていたのだろうか。ティルも知らない、第三の隠し部屋。そこに、彼は身を隠していたのだ。しかも、よほど工事がずさんであったのか、部屋とも呼べぬ板を張り合わせて作られた、柱の間に作られた空間である。よくぞこのようなところで耐えたものだと、ルーラは他人事ながら感心する。そんな彼女の表情から、彼は何を読み取っているのか。
「泣き叫んで見せい、エリシア。あのときのように。陛下の名を呼びながら、殿下の名を呼びながら、逃げてみせい」
 既に正気を失いかけた老人は、ルーラとエリシア前妃の区別も付かないのか。焦点の合わぬ眼をルーラに向けて、ぎらついた欲望に満ちた視線を彼女に叩きつけている。
「貴様……?」
 ラトウィスがルーラに向けるのは、歪んだ欲望。追い詰められたが故の自暴自棄の行動かも知れぬが、彼の言動には些か気にかかる部分があった。エリシア失脚に加担したラトウィス――否、実際は『加担』では済まないのではないか。彼が直接エリシアに何らかの危害を加えた、その可能性もある。ルーラは窓に背を預け、ラトウィスを凝視した。
「貴様、エリシア陛下に無礼を働いたのか?」
 そうとしか思えない。それしか考えられない。
 王宮を追放されたエリシア、彼女の身に、ラトウィスは――。
「いい女だったよ、お前は。ああ、いい女だ。陛下一人に抱かせておくには勿体無い、最高の娼婦だった」
 ラトウィスは両手を広げてルーラに迫ってくる。既に彼の中では、ルーラとエリシアが混同されているのだろう。過去と現在、妄想と現実が、彼の中では正確に分けられていない。先程、目の前で起こった悲惨な出来事が、彼の神経を焼ききってしまったのか。恐怖ゆえに脳が逃避を求めているのだ。
 獲物をいたぶる肉食獣の如く、舌なめずりをせんばかりにこちらに近づいてくるラトウィスを見据え、ルーラは更に言葉を投げた。
「そうして、どこに放逐した? エリシア妃を、どこに追いやった?」
「ああ」
 一瞬、ラトウィスの動きが止まる。彼は灰の瞳を細め、どこか遠くを見るような眼差しをして。
「タティアン大公領」
 うわ言のように呟いた。
「タティアン大公領」
 ルーラは彼の言葉を繰り返す。ラトウィスは自らエリシアを連行し、国外へと追放したのだ。その際に、前妃を辱め、弄び――
「人買いに、売却した、と?」
 そうとしか、考えられなかった。タティアン大公領付近は、いまだ、人身売買の商人が多く訪れている場所だと聞く。タティアン大公自体がその元締めをしているという噂も時々流れてい来るくらいであるから、それが真実ではないにしても、大公が黙認していることは確かであろう。タティアン大公といえば、カルノリア皇帝シェルキスの妹婿である。下手に踏み込めば、カルノリアとの国際問題に発展しかねない。
(やはり)
 エリシア前妃の手がかりは、カルノリアにある。ルーラが独自に得た情報でも、エリシア妃の消息はカルノリアへと続いているのだ。
(タティアン、そして、カルノリア)
 行かなければならない。そう、遠くない未来に。ディグルに代わり、なんとしてもエリシア妃を見つけ出し、彼女の汚名を雪がねばならない。そうして、ラウヴィーヌ、憎きレンティルグの毒婦を王妃の座より引き下ろさねば。
 それが、ディグルに救われた自分に出来る、たった一つの恩返しなのだから。
「エリシア妃を引き取った人買いの名は? 忘れたとは言わせぬ」
 幾分厳しい口調で尋ねると、ラトウィスは夢から覚めたように、はっとルーラを見つめた。けれどもその双眸はどこかあやしく焦点が合わず、ひたすらルーラの顔の辺りで視線を彷徨わせている。
「人買いの、名は?」
 重ねて問えば、
「――テオ、バルト」
 彼は掠れた声で応じた。
「テオバルト?」
「そうだ、テオバルト。ヤツだ。ヤツが、エリシアを横取りしおった。あの女に垂らしこまれて、ヤツは……」
 ギリ、とラトウィスが奥歯を鳴らす。よほど悔しかったのだろう、彼は固めた拳を壁に叩きつけた。と、板の軋む嫌な音と共に、壁がもう一枚脆くも崩れる。彼は正気を失っていてもなお、生への情熱を消してはいないらしく、凶器と化した板を紙一重の差で避けると、再びルーラに近づいた。
「淫売め、王妃の冠を戴いた、この淫売め」
 ディグルの耳に届けば、その場で骨まで切り刻まれるような暴言を吐きながら、ラトウィスはゆっくりとルーラに両手を伸ばす。その指先が肩にかかるが、ルーラは微動だにせず彼の行動を見つめていた。ラトウィスは無抵抗のルーラに最初戸惑った様子であったが、
「そうか。誘っているのか、エリシア」
 何を思ったか、愉悦の笑みを浮かべた。
「私は、良かっただろう。陛下と比べて、どうだ?」
 がっしりとルーラの肩を捕らえたラトウィスは、彼女の首筋に顔を埋めた。肌理細やかな肌に吸い付き、舌と唇でその感触を楽しみながら、ぴったりと身体を寄せてくる。が、完全に身体を重ねた瞬間、彼は魔物に魅入られた哀れな人間のように、びくりと身を固くした。
「そなた、は?」
 この期に及んで漸く気づいたのだろう。ルーラが女性ではないことに。瀟洒な衣裳の下にある肉体が、女性のそれではないことに。漸く、彼は気づいたのだ。
「情欲に狂う輩には、男女の区別も付かぬらしい」
 耳元に聞こえるルーラの冷笑に、ラトウィスは更に硬直する。無理もない。ルーラをか弱い女性と思い、いたぶりながら追い詰めてきた勝者の感覚が、一瞬にして敗者の絶望に変わったのだ。
「ひ、っ」
 驚いて逃げようとするのを、逆にルーラが捕らえた。彼女は彼の身体を抱きしめる形で、徐々に腕に力を込めていく。ぎしぎしと老躯を支える骨が軋み、ラトウィスは情けない悲鳴を上げた。
「どうだ、男の抱擁は? 心地良いか?」
 囁きに、ラトウィスは激しくかぶりを振る。それはそうだろう、同性に抱かれるなど嬉しいはずはない――ルーラは心の中で、再び彼に冷笑を浴びせた。
「さあ、これからどうされたい? ラトウィス卿。貴様がエリシア妃にしたことと同じことを、この場でするのも興味深いな」
 ルーラの言葉に、ラトウィスは震えだした。こんな男にエリシアが弄ばれたのだと思うと、どうしようもなく怒りが込み上げてくる。彼のせいでディグルはまともな感覚を持たずに成長してしまったのだ。人を嫌い、異性を嫌い、厭世的になってしまった。クラウディアのように素晴らしい妃を得ながらも、決して相容れようとはせずに、いまだ男色に逃避しようとしている。このままでは、フィラティノアの世継ぎは生まれず、万が一ラウヴィーヌが懐妊することがあれば、彼女の生んだ子供が王冠を戴くことになるのだ。
 それだけはさせない。
 レンティルグの毒婦にだけは、フィラティノアは渡さない。
 フィラティノアも、クラウディアの命も。全て、守ってみせる。
「……!」
 気がつくと、ルーラはラトウィスの首を締め上げていた。ラトウィスは弱々しく抵抗しながらも逃げる術もなく、ただ人形の如くルーラの手に自らの命を委ねている。既にぐったりとし始めたその老人の顔を見て、ルーラは不意に手を緩めた。ごとり、と、ラトウィスは受身を取ることもなく床に身を投げ出す。
 足元に横たわる老人は、大事な証人。エリシアが謀反人でないことを証明するための、証人の一人。ラトウィスを連行したからといって、ラウヴィーヌが簡単に尻尾を出すとは限らない。寧ろ、王太子妃の巡察に同行したオルウィス男爵令嬢の客死について、クラウディアを責めるかもしれない。オルウィス男爵夫妻も、ラウヴィーヌの権威がゆるぎないものであればこそ、クラウディアに対しては強気に出るであろう。曰く、娘を返せと。
 それでも、ここでフィラティノア王宮に潜む闇を、祓わねばならない。この国の未来のためにも、王太子夫妻のためにも。自分は、そのために身を捧げるのだと、決意した。命の恩人であるディグル、そして、唯一心を許した異性であるクラウディア。あの二人のために。


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