AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
5.后妃(5)


 アーシェルへの道のりは、決して楽なものではなかった。
 果てがないと思われる荒涼たる大地を抜けた後に、突如として現れる、深い森。なだらかな稜線を描く山並みに続くその森を越えると、漸く『壁』の一端が見えてくる。はるか昔、二百年以上も前に築かれた『壁』。噂では、帝国崩壊後修復もされず、朽ちるままとされており、蛮族の侵入を防ぐという当初の目的をまるで果たしていないと聞いていた。
 だが、現実は違っていた。
 『壁』は、『壁』としてそこにあった。
 文字通り、蛮族との境界線として、いまもなお、そこに威容を聳えさせている。
「こういうことね」
 盗賊団から馬を借り、それに騎乗していたクラウディアは、ここに至って漸く『壁』の意味を理解した。物質的な壁は、確かに崩れていた。石造りの建造物は、蛮族の度重なる襲撃により、ところどころ破られている。ティルらもそこを抜けてやってきたのだろう。
 けれども『壁』は、『境界線』としての役目を終えたわけではなかった。
 壁が崩れた場所、そこには関所が設けられている。中央より派遣された国境警備隊が、厳しく往来を監視しているのだ。彼らの監視をすり抜けなければ、フィラティノアとアーシェルの交流はありえない。
「やつらは、足元を見ているんだよね」
 傍らに馬を寄せて、ティルが囁く。
 役人どもは、アーシェルの民が『壁』を通過する際に、法外な通行料を要求するのだ。それが払えなければ、通ること叶わず。彼らは涙を呑まなくてはならない。そして、フィラティノアに出稼ぎに出たものが帰郷する際も、通行料は要求される。
「稼ぎは殆ど役人の懐に入っちまう。出稼ぎしたって、意味はねぇ」
 吐き捨てるティルに、しかしクラウディアは冷ややかだった。
「だからといって、盗賊をしていいことにはならないわよ」
「厳しいね、お嬢さん」
 ティルは苦笑を浮かべる。
 彼は後方からアウリールと共に馬車でやってくる、ルーラやリィル、リオラを一瞥して
「オレたちは強引に突破してきたけど、あんたらはどうするの?」
 単騎であれば巧い具合に壁越えをすることは出来るが、馬車で通ろうとすれば嫌でも役人達の目に留まる。そうなった場合、彼女らも通行料を支払わねばならない。果たしてそれを払う気はあるのかとティルは尋ねているのだ。
「決まりとあらば、仕方ないでしょう」
 言って、クラウディアは馬を進めた。関所、というにはお粗末な、簡易宿泊所のような建物に近づくと、人の気配を察したのか、数人の役人が現れる。皆、手に槍を持ってはいるが、その物腰から見て腕の程はたがが知れた。中央で使い物にならなくなったものを、左遷する場所。それが、ここであろう。
「アーシェルに、行きたいの」
 馬から下りることもなく、クラウディアは彼らに声をかける。兵士達は彼女の堂々とした態度に気圧されたのか、互いに顔を見合わせ、ひそひそとなにやら言葉を交わしている。相手によって、『通行料』の額を決めようというのか。
「あなたたち、聞くところによると、通行料なるものを取るそうだけど」
 クラウディアの言葉に、ひとりが顔を上げた。知っているのであれば、話が早い――そんな表情が見て取れる。が、クラウディアの堂にいった態度と、北方には珍しい黒髪、暁の光を宿した古代紫(むらさき)の瞳を見ると、不審そうな顔つきになった。
「相場は幾らなの、通行料の」
 質問には、別の兵士が答えた。
 クラウディアの身なりを見て即決したのだろう。彼の告げる金額は、とても飢饉に苦しむアーシェルの住民が支払えるような額ではない。
「それは、均一なの? フィラティノアの住民も、『壁』の向こうのアーシェルの民も」
 彼女の言葉に、兵士は同じだと答える。
 そんなはずはない。
 もしもそれが真実なのだとしたら、アーシェルとフィラティノアの交流は、まるで断たれることになる。アーシェルが異国であればそれはありえる話かもしれないが、アーシェルは地図を確認する限り、フィラティノアの国土の一部とされている。同じ国民なのに、なぜ、アーシェルのみを迫害するのか。かつて、北方民族と神聖帝国より虐げられてきたフィラティノア、彼らが自身の優越感を満足させるために、アーシェルという土地が生贄となったのではないか。アーシェルを傷めつけることで、蛮族と蔑むことで、自身の優位性を確認する。
 愚かしいことであった。
 クラウディアは肩をすくめ、眼下の兵士達を見下ろす。
 皆、一様に銀髪と青い目を持っているのかと思いきや、実はそうでもなかった。フィラティノアの住民は、銀髪青眼と思っていたのは、クラウディアが王族や貴族しか見ていなかったからである。実際、城下に出てみてわかったことだが、金髪や褐色、ごく稀ではあるが、黒髪の者もいた。瞳の色は、基本的には緑か青。貴族以外は緑色の瞳が多い、とはクラウディアの印象である。
 関所の兵士達も、金髪と銀髪、半々程度であった。瞳の色は、一様に薄い緑。微妙に青の混じった、緑青の瞳を持つものもいる。神聖帝国の旧領土の大半を制圧したフィラティノアは、かの国同様、決して単一民族の国ではなかった。
「じゃあ、お支払いするけど」
 クラウディアはあっさり言い、徐に腕輪を外した。婚礼の折に、アマリアより贈られた品である。オルトルートの手ではないが、それに匹敵する王宮御用達の職人の細工であろう、金の台に紫水晶と紅玉石、それに茜石をあしらった見事なものである。値段をつけるとすれば、どの程度か。おそらく、辺境の兵士どもの全ての家族を一年養える額であろう。
「わたしと、連れのものの代金」
 彼女は腕輪をちらつかせながら、背後を振り返る。少しはなれたところに、ティルと馬車が見えた。彼らには、こちらの会話は聞こえていないはず。しかしティルはどことなく楽しげな目でクラウディアを見ている。彼はクラウディアと兵士の会話を想像して楽しんでいるのだろう。
「と、いっても往復分にしても、あなたたちはお釣りも払えないでしょう? どう? 払えて?」
 挑戦的に尋ねると、役人の一人が顔を青ざめさせた。彼は手近な同僚を捕まえ、何事かを囁いている。彼女は様子がおかしい、普通の旅人ではないと、そのようなことを言っているのではないだろうか。尤も、どう見てもアーシェルに縁のないような裕福な貴族か商人の娘に見えるクラウディアが、『壁』を越えると言い出すこと自体、妙なのだ。普通であれば、何用あって、と尋ねるのが先ではないか。彼らはそれをせず、はじめからクラウディアに金銭の交渉を持ちかけてきた形となった。無論、それを先に言い出したのはクラウディアではあるが。
「ついでに、これを換金するには、王都に行かなければならないわね。一番高く買い取ってくれるのは、王宮かもしれないわ。行ってらっしゃい、そちらへ」
 彼女は腕輪を放り投げる。欲の皮の張った一人が、すかさずそれを受け止めた。ずしりと思い金の感触に、彼の顔に喜びが広がる。見てみろ、と同僚を振り返るが、それに乗ってきたのはひとりだけで、他は皆、薄気味悪そうに身を引いていた。
(意外と、気が小さいのね)
 弱いものにしか虚勢を張ることが出来ない。愚か者の典型だ。
 クラウディアは鼻で彼らを笑い、『関所』を通った。様子を窺っていたティルが馬車に合図を送り、御者を務めているアウリールがそれに従う。ゆっくりと関所を通過していく馬車を、役人達はぼんやりと見つめていた。車窓の中には、銀髪の麗人と、乳白色の髪を持つ瑠璃の瞳の娘、それに――典型的なフィラティノア貴族の容姿を持つ、妙齢の婦人。彼女は役人達と眼が合うと矢庭に立ち上がり、窓を叩いた。
「彼らは、盗賊です。わたしを捕らえて、アーシェルに連行するつもりなのです」
「……!?」
 役人は呆気に取られて婦人――リオラを見た。盗賊、と言う言葉に反応した彼らは、馬車を止めさせ、クラウディアにも向かっていく。
「その女が、その女が、盗賊の首領です」
 リオラの悲鳴に似た声が辺りに響き渡る。と、今まで建物の中に残っていた兵士達も、ばらばらと姿を見せ始めた。彼らは馬車を取り囲み、一斉にアウリールに槍を突きつける。
「助けてください、助けて」
 リオラが扉を押し開ける。ルーラが手を伸ばすが、間に合わなかった。彼女は兵士の一人に縋りつくと、今にも泣き出さんばかりに眼を潤ませて、
「あの女を殺してください、処刑してください。お願いします」
 言いながら、クラウディアを指差した。
「――馬鹿ね」
 槍を突きつけられたクラウディアは、半眼を閉じる。リオラがここまで愚かだとは思わなかった。報復をするにしても、もっと賢い方法があるだろうに。それすら思いつかず、感情に任せてことを運ぼうとするとは。
「不敬罪で処罰されるのは、あなたのほうだわ、リオラ・ナル・オルウィス」
 ゆっくりと侍女を振り返る。暁の瞳が放つ鋭い光に、リオラも、彼女を抱える兵士も、怯えの表情を見せた。リオラは悲鳴を上げて、更に強く兵士に抱きつき、奇声とも取れる罵声をクラウディアに浴びせた。
「殺して殺して。あの冷酷な南の狼を、殺して」



 僅か数日のうちに、二度も虜囚の憂き目を見るとは思わなかった。
 無遠慮に槍を突きつけた兵士は、盗賊たちとなんら変わることはない。態度も表情も、
「あなたたちには、誇り(プライド)ってものがないわけ?」
 思わずクラウディアが嘆息するほど、柄が悪かった。一方、ティルはクラウディアを庇うように常にその身を盾とし、リィルやルーラにも気を配っている。アウリールも上司の心を汲んでいるのか、ルーラの、否、ルーラの抱くリィルの元から離れようとはしなかった。ふたりとも、いたって紳士的である。
 これでは、どちらが盗賊かわからない。
 クラウディアは苦笑した。
 ちらりと視線を動かせば、『囚われの姫君』ということで、リオラは丁寧に扱われているようである。常に兵士の中から
「大丈夫ですか」
「お怪我は」
 そういった声をかけられているようであった。そのたびにリオラは優雅な都の姫君を体現し、ゆったりとした所作で彼らに応えている。時折、主人であるクラウディアを睨みつけながら。
 リオラは本心から、クラウディアを亡き者にしようと考えているのだろうか。
 そんなことをすれば、彼女だけではなく、彼女の実家であるオルウィス家もただでは済まされない。リオラの両親はもとより、一族全てが処刑されることだろう。良くて流刑だ。それを承知で、彼女は行動を起こしたのか。
(……)
 クラウディアは眼を細めた。どこか、腑に落ちない部分がある。
 リオラは何を思って巡察に同行したのだろう。普段からクラウディアの元に侍っているのは、リオラよりも寧ろツィスカのほうであった。ツィスカは国王の母方の遠縁に当たる娘で、名実共にクラウディアの監視となっている。その彼女が同行するのであればまだしも、何故にリオラが。出発のときに覚えた疑問が、再びクラウディアの中に蘇る。
 ツィスカは、なぜ、同行を申し出なかったのか。
 リオラは何を思って、同行したのか。
 同行した上に、辱めを受けたことで、クラウディアを逆恨みして――
(変ね)
 ありえない、とクラウディアは呟いた。ティルが「何だ」、という風に首を傾げる。クラウディアは兵士の目を盗み、そっとティルに耳打ちした。
「リオラが囚われていたときの、状況を説明して頂戴」
「なに?」
「アウリール、彼が呼びに言ったとき。リオラは、その」
 陵辱されている最中であったのか。そう聞こうとして、クラウディアは口をつぐんだ。形式だけは人妻とはいえ、流石に若い娘が口にする言葉ではないだろう。この先は察してくれ、と目で彼に訴えたが、
「その、何だって?」
 ティルはニヤリと笑い、続きを促す。こういうところ、食えない相手である。クラウディアは軽く肩をすくめ
「乱暴されているところだったの?」
 早口で問いかける。と、更に何か言うであろうとの予想に反して、ティルは一瞬真摯な眼差しに戻った。彼はそっとリオラを見、それからアウリールを見やってから
「――いや、確認は出来ていない」
 端的に答える。
 アウリールが出向いたとき、リオラはあられもない姿ではあったが、陵辱の痕は特に見られなかった。危ういところで助けられたのだろう、そうティルは思ったようだが。
「考えれば、変だな」
「どういうこと?」
「愛撫の痕がない」
 さらりと直接的な台詞を口にされ、クラウディアは赤面した。ああそう、と唇を尖らせてから、あることに気づく。
 ということは、リオラは穢されてはいないということになる。
 ならば何故わざわざ、辱めを受けたと、そんなことを口にするのだろうか。リオラの意図を想像し、眉を寄せるクラウディアを、兵士の一人が槍の柄で小突いた。
「ほら、たらたらしないでさっさと歩け」
 王太子妃に向かって、なんとぞんざいな。
 クラウディアが呆れて彼を見ると、ルーラが怒りに燃えた目でその兵士を睨みつけ、
「無礼者」
 鋭く声を上げたのだった。
「無礼者ぉ?」
 兵士は一瞬きょとんとしたが、やがて笑い出した。周囲の兵士も一斉に笑い出す。盗賊風情が何を抜かす、辺境訛でそんな野次が飛んできた。
「……!」
 更に何か言い募ろうとするルーラを視線で制し、クラウディアは兵士の長らしき壮年の男性に声をかける。
「こちらの『関所』の、一番上の方に面会したいのだけれど」
 唐突な申し出に、兵士長は目を丸くした。彼はクラウディアを頭の上から爪先まで、じろじろと無遠慮に眺め、それから下卑た笑いを浮かべる。そうだな、と彼女の顔を覗き込んで、
「夜伽でもすれば、早めにここから出してもらえるかもしれないな」
 ルーラにも一瞥を投げる。彼らは『関所』を通る者達から、法外な通行料をせしめていた。それが支払えなければ、旅人の妻や娘、姉や妹の身体を要求したという。どこまでも堕ちた輩だ、とクラウディアは溜息をつき、哀れみの眼を彼に向ける。兵士長はそれを誘いと受け取ったのか、舌なめずりをせんばかりの勢いでクラウディアの頤に手を伸ばす。
「おっと、職権乱用」
 ティルが彼の魔手からクラウディアを守ろうと身を乗り出したとき、か細い少女の声が聞こえた。リィルである。
「るきあ、あぶない」
 少なくとも、クラウディアにはそう聞こえた。彼女はリィルの姿を探し、薄暗がりのなかその瑠璃の瞳を捉えると、内容の説明を促すように首を傾けた。
「どういうことなの」
 目で問いかけるが、リィルは同じ言葉を繰り返すだけだった。
「リィル?」
 ルーラも訝しく思った様子である。不審そうに腕の中の白髪の娘を見つめ、眉を寄せる。
「るきあ、ころされる。ころされる。あおいめの、おんな」
 青い眼の女。
 自身のことを言われたと思ったのか、ルーラはびくりと身を硬くした。
(違うでしょう)
 青い瞳の女性は、もうひとりいる。この場に限定すれば、の話だが。それにルーラは厳密な意味女性ではない。クラウディアはリオラを見た。リオラはリィルの言葉を聞いたのか、聞かなかったのか。どちらとも取れるような態度であった。青ざめた顔に何かしらの決意を秘めて、じっとクラウディアを見つめている。『青い眼の女』――リオラは、逆恨みからクラウディアの命を狙っているというのか。本気で彼女を殺すつもりでいるのか。
(リオラ)
 リオラ・ナル・オルウィス。オルウィス男爵の令嬢。名門というほど名門ではないが、彼女の父は男爵という地位に相応しからぬ財産を所有しているとの噂を聞いた。その出自は、
(レンディルグ辺境候領)
 侯爵の遠縁に当たるという。レンティルグ辺境侯爵といえば、帝国以前の血、と呼ばれる古き血脈で、カルノリア帝室の祖となったエレヴィア家の縁者でもある。そして、現在のフィラティノア王妃は、レンティルグ辺境侯の従妹であり寡婦であったラウヴィーヌである。
(そういうこと、なのかしら?)
 クラウディアは、リオラに疑いの目を向ける。彼女が巡察に同行したのも、途中盗賊に遭遇したのも、偶然ではない。『関所』を抜けることになったのは、それこそクラウディアの気まぐれからであるが。
(もしかして……)
 クラウディアはティルに視線を戻し、小声で彼に尋ねた。
「最近、急に仲間になった、そういうひとたちはいるかしら?」
 ティルは察しが良かった。クラウディアの言わんとしていることを理解して、
「赤毛の男。あのお嬢さんを連れて行った奴がそうだ」
 即答する。
 赤毛の男は二人いたが、そのうちのひとりがつい最近仲間にして欲しいと出向いてきたのだという。それまでは、アダルバードにて職人をやっていたのだが、借金のかたに顧客も商売道具も全て奪われ、路頭に迷った末に盗賊となったと言っていたらしい。
「それから、もうひとり」
 密色の髪をした男。赤毛の男と行動を共にしていたが、こちらは目立たぬ風貌のせいか、クラウディアの記憶にも残ってはいなかった。
「蜜色の、髪」
 それは、レンティルグ地方の特徴でもある。蜂蜜色の髪と、緑青の瞳。王妃ラウヴィーヌも、まさにそのふたつを持っていた。
「やっぱり」
 クラウディアは頷く。闇に繋がる線が、見えてきた。リオラの不可解な行動、それはラウヴィーヌが関係しているに違いない。前王妃を追放した後、王妃の座を射止めたラウヴィーヌ。彼女は義理の娘の存在を快く思っていないのだろう。レンティルグの侯爵家は、『帝国以前の血』。大陸最古の高貴なる血脈といわれる、ミアルシァ王家と同じくらい古いといわれている。帝国が興る前は、レンティルグこそが北方の支配者として君臨していた時代もあった。ラウヴィーヌにも名門出身の誇りがあるのだろう。『帝国』の末裔であり、同時にミアルシァの血を引くクラウディアの存在を快く思わないことも理解できる。
(でも、それだけで?)
 義理の娘を抹殺しようと考えるだろうか。
 クラウディアは自身の考えを否定する。違う。王妃は別の理由でクラウディアを疎んじている。ディグルに対する邪恋か、もしくは宮廷内での自身の地位がクラウディアの輿入れで危うくなってきたと感じたか。そのどちらも根拠が薄い気がするが。
「彼女が私を抹殺しようとしていることは、事実のようね」
 青い瞳の女。――ラウヴィーヌも、緑青の瞳を持っている。青といえば、あお。リィルは何かを感づいたのか。リオラの行動から、気配から。
「彼女――? あの、侍女さんか?」
 ティルが眉を寄せる。クラウディアは
「違うわ」
 とそれを否定し。
「そうとわかれば、権力を行使させていただくわよ」
 ぽそりと呟き、徐に手近な兵士を捕まえて、その腕をねじりあげる。兵士は痛みのあまり蒼白になりながら、けれども声一つ発することが出来ずに、目を白黒させてクラウディアを見た。自身に苦悶を与えている、小さな少女を。
「きさま」
 同僚の危機に感づいた兵士が、クラウディアに槍を向けるが、すかさずティルがその穂先を捕らえ、逆に相手から得物を奪い取る。赤い瞳の盗賊は、槍を手の中で回転させると、器用にそれを構えた。彼が使える武器は短剣だけではないのかと、感心するクラウディアを背に庇うようにして。
「はい、お妃様。これからどうするの?」
 茶目っ気たっぷりの笑顔を振りまく。お妃様、との言葉に兵士達の間にざわめきが走る。

「お妃様」
「王妃様?」
「いや、まさか」

 妃といえば、王妃、としか頭に浮かばぬのかこの連中は、と。クラウディアは額に青筋を立てそうになる。権力とは行使するべきときに行使するのだと、かつて剣の師であるセレスティンも言っていた。クラウディアは、凛と顔を上げると一同を見回す。その鋭くも厳しい視線に気圧された兵士達は、おのずと彼女を遠巻きにした。兵士らの顔をひとりひとり確認するように見つめてから、
「フィラティノア王太子妃の名を、言って御覧なさい」
 鈴を転がす美声で問いかける。
 と、再び兵士達の間にざわめきが起こった。
「王太子妃の、容姿は?」
 重ねた問いかけに、ざわめきが大きくなった。
 王太子妃は、アルメニア帝国の――アヤルカス王国の姫。かの国から嫁いできた美姫は、濡れ羽の髪に暁の瞳を持つ。辺境にある兵士達ですら、その事実は知っている。彼らは目の前に立つ女賊の容貌を凝視した。
 結わずに垂らされた、腰丈ほどもある素直な黒髪。一同を見据えるのは、赤味の強い紫の瞳。これを、古代紫というのだと、彼らはこのとき初めて知ったのだろう。
「ああ」
 兵士の一人が悲鳴を上げる。
 クラウディアに囚われていた兵士は、驚愕に身を震わせた。

「妃殿下」
「妃殿下だ」

 その事実を認識してもなお、彼らは半信半疑であるのか。口々に畏怖の言葉を紡ぎながら、平伏もせずにその場に佇んでいた。ただ、その人垣の向こうでリオラだけが、更に顔色を失っていた。彼女は口元を押さえると、ひらりと踵を返す。クラウディアの正体が発覚して、自身の立場が危うくなったことを察したのだろう。
「あの娘を捕らえなさい」
 クラウディアの命令に、我に返った兵士達が動き出す。彼らに取り押さえられたリオラは、クラウディアの前に引き出され、悄然と項垂れた。
「造反、ね。わたしに対する」
 死の宣告にも等しい言葉を聞いて、リオラの身体が硬直した。彼女は肩を震わせながら、しかし何も言わず。クラウディアの視線を避けるように俯いたままであった。
「誰に頼まれたのか、は、大体わかるわ。王后陛下、でしょう?」
 びくん、とリオラの身体が揺れる。図星だったのだろう。クラウディアは口元に微笑を上らせた。わかりやすい。なんと解りやすいのだろう、この娘は。この娘だけではない。兵士達も。彼らの行動、思考、それらが手に取るようにわかってしまう。
「わたしを、亡き者にするつもりだったの? そのために、巡察に同行したの?」
 そうでしょう、と確認を取るように問いかければ、リオラは更に俯いた。言葉はなくとも、それが肯定の意であることは一目瞭然。浅はかな『刺客』は、いとも簡単に追い詰められていく。もしも相手が『大陸の狼』エルディン・ロウであったのなら、これほど容易く尻尾はつかめなかったであろう。アグネイヤに纏わりついていたふてぶてしい男の顔を思い出し、クラウディアは苦笑する。
「主人に背いた罪。何よりも重いわよ?」
 厳かに告げる。リオラは小さく首を振った。何かを否定するように。恐れるように。嫌がるように。そうして、一瞬。彼女の小さな身体が強張った。
「……っ!」
 反応したのは、ティルであった。クラウディアが気づくよりも早く、彼はリオラを抱き起こす。けれども時既に遅く、
「だめだ」
 ティルは緩くかぶりを振る。彼の腕の中にぐったりと身を投げ出したリオラの口の端から、つぅ、と一筋血が流れた。舌を噛み切ったのだ。自身に繋がる全てを守るためなのか。それとも、これから待ち受けている苦難から逃れるためか。徐々に硬直していくリオラの身体を床に下ろし、ティルは彼女の瞼を指先で閉ざした。

「妃殿下、ご無礼を」

 水を打ったように静まり返った廊下に、張りのある声が響いたのは、その直後であった。兵士達には覚えのある声、彼らが慌てて避けて作った道を足早にやってくるのは、初老の男性であった。レンティルグ特有の蜜色の髪と、うっすらと積もった雪を思わせる灰の瞳を持つ男性。騎士の正装をしているところから見ると、彼がこの『関所』の責任者なのだろう。クラウディアは顔を上げ、正面から彼を見据えた。
「妃殿下には、大変ご無礼を致しました。『砦』の主、ラトウィスにございます」
 彼がクラウディアの足元に跪くと、兵士達も一斉にそれに倣う。まるで芝居を見ているようだと、ティルがからかい半分に口笛を吹いた。
 そう、それほど、この光景は、滑稽であったのだ。


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