戻らぬかも知れぬ、そう言っていたカイラが逗留先の宿に現れたのは、明け方を過ぎた頃であった。ジェリオは扉の開く気配に、カイラの帰還を感じ取り、傍らに眠る女性の髪に口付けた。
「悪りぃ。時間だ」
一夜の契りを金で受け持つ女は、眠たげに眼を擦りながら身を起こす。彼女は大きく欠伸をしてから、戸口を振り返り。「あら」と小さく声を上げた。そこに佇む妖艶な美女に、自身との格の違いを思い知らされたのだろう。彼女は頬を赤く染めて、そそくさと身繕いをすると部屋を出て行った。
「お楽しみだったようね」
寝台の敷布に眼を落とし、カイラは皮肉めいた笑みを浮かべる。激しく乱れたそれをみれば、ジェリオがどれほど荒れていたか、おのずと分かってしまう。情事の様子を想像しているであろうカイラに、幾許かの不満を覚えながら、ジェリオは鼻を鳴らした。
カイラは寝台の端に腰掛け、不機嫌に歪んだジェリオの頬に手を添える。彼はそれを払うこともなく、カイラの限りなく黒に近い青い瞳を見つめていた。二人の間に、甘い空気は流れない。肉食獣同士の、互いの力量の測りあい――といった趣きがそこにあった。ジェリオはゆるぎない視線を彼女に向けていたが、彼女のほうがふと視線を揺らし、彼に口付けてきた。
「……?」
意外だった。
カイラにしては、意外な、ぎこちない口づけであった。まるで、何も知らぬ無垢な乙女のような、ただ、触れるだけの口付け。彼からの誘いを待つような、受身のそれにどうするべきか。どう応えるべきか。彼は一瞬判断に迷う。
「どう?」
唇を離し、カイラが尋ねる。
「どう、って?」
どうでもない。嫌悪も快楽も、何も感じない。無味乾燥な接吻である。
「思い出した?」
「なにを?」
「あの娘のこと」
あの娘――先程の娼婦のことを言っているのか。いや、そうではなく。別の誰かを指しているであろうカイラの台詞に、ジェリオは眉を寄せる。何が言いたいのだろう、彼女は。どこかおかしい。ジェリオが娼婦を連れ込んだことを非難しているわけではないことはわかる。が、彼女の感情はいつになく揺れていた。
いったい、どこに行って来たのだろう。
仕事だとは思うが、それ以上のことは明かさないのが、カイラである。長いこと自分と組んでいる、といっているものの、彼女に関する記憶もない。すべて、ある一点でジェリオの記憶は途切れてしまっている。
何のことか分からない、と肩をすくめて。ジェリオはもう一眠りしようと寝台に横たわる。その上に、カイラのしなやかな肢体が圧し掛かってきた。すっかり冷え切ってしまったジェリオの欲望に再び火を灯すつもりか。背にぴたりと頬を押し付け、火照った全身を彼に押し付ける。
「もう、疲れたの?」
若いのに、とカイラが挑発する。ジェリオは彼女の言葉を無視した。彼女を抱く余力はあるが、気が進まない。濃厚な赤葡萄酒と同じで、時々嗜むのは良いが、毎日毎晩だと胃にもたれる。カイラはいい女ではあるが、相性の面から行けば、それほど合うわけではない。
先程の娼婦も、カイラと同じであった。
一晩に二本。飲めぬ酒ではないが、少しきつい。
「……」
ジェリオが無視を徹底していると気づいたのか、カイラはジェリオの腕に口付けた。深い傷の残る、左手首。そこに触れられたジェリオは、びくりと身を強張らせる。彼の反応を見て、カイラは満足げに笑った。彼の心を弄ぶように、幾度か傷跡に唇と舌を這わせると、掌を合わせ、互いの指を絡める。
「さっき、会ってきたの。あなたの、昔の恋人に」
恋人、の言葉にジェリオは眉を動かした。
そんな存在があったのだろうか。カイラのほかに。
「覚えていない?」
耳元に囁かれて、ジェリオは息を止める。
断片的に蘇るものはあっても、それ以上は無理だった。それが、カイラの言う『恋人』の記憶であるかも定かではない。ただ、カイラとのものではない、甘美なる口付けの記憶はある。触れただけで全身に甘い漣が広がる、至上の口付け。控えめに香る植物系の香水と、指に絡まる柔らかな髪、正絹の手触りを持つ、滑らかな肌。それらがすべて同じ女性の持ち物なのかも覚えてはいない。かつて情を交わした相手の中の、それぞれの優れたところを記憶しているだけではないのかと、時々自嘲したくなることもあるのだが。
本当に、『彼女』が存在するのだろうか。
もしも、存在するのであれば。
(……)
会いたい。会って、確かめたい。その、唇を。髪を、肌を。
「相変わらず、お高くとまっている娘だったわ」
記憶を手繰り寄せるジェリオをあざ笑うかのように、カイラは冷たく言い放つ。ジェリオの心に広がり始めた甘い感覚は、一気に霧散した。
「だから、貴族の娘はいやね」
貴族。その一言に、更に心が冷える。『彼女』は、貴族の令嬢だったのか。それならばなぜ、自分とかかわりを持ったのだろう。仕事の依頼などでなければ、決して運命が重なる相手ではないのに。
嫌な予感を覚え、ジェリオは唇を噛んだ。
「その娘はね、散々あなたを弄んで利用して、そして」
捨てたのよとカイラが言った。
「捨てただけでは済まなかったのね。あなたを殺そうとして、毒の刃を向けたのよ」
これね、と彼女はジェリオの傷口に触れる。手首から二の腕にまで走る、醜い傷跡。毒に浸した刃が、皮膚を切り裂き、ジェリオは瀕死の状態にまで陥ったという。
「かわいそうに。その衝撃で、あなたは記憶を失ってしまったんだわ。信じて、愛していた人に裏切られて。――だから、わたしもそのことは言わないように努めていたのだけれども」
もう、限界。
カイラが彼の耳朶に息を吹きかける。媚薬の気だるい香りと共に、不快な痺れが全身を襲う。
「あの娘は、また、身体で男を誘惑していたわよ。女の武器の使い方を、よく知っている娘ね。清純そうな顔をして、――あの顔に、みんな騙されるのだわ」
これ以上、聞きたくなかった。
貴族に対する嫌悪、その理由は『彼女』にあったのか。
貴族は平民を人とも思わない。道端の雑草と同じく、使い捨てにする。裏切りなどではない、はじめから対等の存在としてみていなかったのだと、冷ややかな視線が告げる――。
許せない。
許さない。
暗い怒りが、身体の奥底から湧き上がる。
「あの娘を殺しなさい。めちゃくちゃにしたあとで。どんなに泣き叫んでも、それはお芝居だから。そうやって相手の心をあおるのが、あの娘の手管なのよ。騙されては、だめ」
脳が痺れる。媚薬のせいだ。カイラの愛撫に、徐々に身体が反応し始めている。ジェリオはカイラの肩を掴み、彼女を組み伏せた。野獣の如き双眸で、その全身を眺め回す。獲物を捕食する肉食獣の唸り声を上げて、彼はカイラの首筋に歯を立てた。
「かわいそうにね、ジェリオ。でも、復讐は自分で成し遂げるのよ」
怒りと絶望とが渦巻く中、カイラの声が無常に響く。
「神聖皇帝アグネイヤ四世。あなたを弄んだ女の名前よ」
アグネイヤ。
その名を耳にした瞬間、ジェリオの脳裏をひとつの映像が過ぎった。
清冽なる古代紫の瞳を持つ、美しい少女。
どこか物悲しげな微笑を浮かべた彼女の面影は、鮮やかに記憶の中に蘇って――消えた。
◆
目覚めは酷く重苦しいものであった。
夢の中で、アグネイヤはジェリオに抱かれていた。抗うことなく彼の愛撫を受け入れ、その情熱に身を委ねた。熱い息のなか、彼は幾度もアグネイヤの名を呼び、
『好きだ』
決して現実では口にしないような言葉を囁いた。アグネイヤは彼の頭を抱きしめ、快楽を押さえるためにその肩口に歯を立て――それでも、堪えきれずに嗚咽を漏らし、ジェリオの情欲を更にあおった。
だが、アグネイヤを抱きしめる腕が、途中から華奢な女性のそれに変わる。
濃厚な愛撫を繰り返す相手は、ジェリオではなく。あやしの笑みを湛えた美女――カイラへと変貌していた。
「いや」
アグネイヤは自身の声で目が覚めた。
掛け布を跳ね除けて起き上がれば、そこは彼女の寝室であり、傍らにはイリアが眠っていた。どくどくと脈打つ心臓を押さえて、アグネイヤは息を整える。淫らな夢をイリアに悟られてはいまいか、不安に駆られて妻の寝顔を見下ろすが、彼女はまだ夢の中にいるようであった。なにやら幸せな夢でも見ているのか、その横顔は微笑んでいる。
「……」
安堵の息をつき、アグネイヤは傍らの卓上から水差しを取り上げた。ひどく喉が渇いている。淫夢を見たせいだろう。肌に残る生々しい愛撫の感触は、夢の名残ともカイラとの行為の記憶ともつかなかった。彼女はそっと自らの肩を抱きしめ、気持ちを落ち着かせる。
(ジェリオ)
彼は、カイラと共にあるといった。ならば、彼がアグネイヤのもとに姿を現す日はそう遠くないということだ。
――今度あったときに、あんたを殺す。
彼もその宣言を忘れてはいないだろう。皇帝となったアグネイヤを暗殺する。それが、暗殺者としてどれほど名誉なことであるのか、アグネイヤには分からぬが。少なくとも、その世界で名をとどろかせることは出来る。
皇帝として即位をした今、彼に殺されても何の悔いもない。神聖帝国の系譜が完成し、それが揺るぎないものとなれば、アグネイヤの命など必要ないのだ。この国にとっても、誰にとっても。
傍らに眠るイリアは、アグネイヤよりもシェラに心を許している。ならば、シェラが傍にいれば、アグネイヤがいなくなったとしても寂しくはないだろう。あとは、ルクレツィアだ。帰る国を持たぬ彼女を側室として迎える。その手続きを取ってしまうまで、あと少し。せめて一日、時間がほしい。
ジェリオが来るまで。ジェリオが、神聖皇帝を陵辱して殺害するまで。
その、僅かな時間の間に、せねばならぬことがある。
アグネイヤは寝台から滑り降り、隣室へと足を運んだ。書斎に置かれた紙の束を一瞥すると、それを隅に押しやり、抽斗から公式文書に用いる紙を取り出した。しばしの間それを見つめてから、彼女は徐に筆を取る。
書き込んだ皇帝の通達は三条。
そこに自身の印章を押印して、アグネイヤは息をついた。
これで終わる。
これを発令すれば、自分の役目は終わる。
議会に通すまでもない。自身の最後の我侭として、これを公に認めさせねばならならい。
アグネイヤは呼び鈴を鳴らして侍女を呼んだ。夜通し次の間に控えていたのであろう彼女は、寝不足を感じさせぬ機敏な動きでアグネイヤの前に侍り、深く一礼した。
「これを、通達として触れを出してくれ」
かしこまりましたと書類を受け取った侍女は、一瞬その文面に眼を落として声を失う。これは、とアグネイヤを驚愕の目で見てから、それが酷く無礼な行為であったと気づき、慌ててこうべを垂れる。
「朝一番で、頼む」
皇帝の命令は、絶対である。侍女は足早に退室した。
もしも。数刻後に発令された皇太后名義の通達の方が先であったのであれば、神聖帝国の運命は少々変わっていたかも知れぬ。神聖皇帝アグネイヤ四世の名で発令された公文書は、
神聖帝国大公として、アヤルカス国王を指名する。
神聖帝国皇帝側室として、キアラ公女ルクレツィアを迎える。
そして。
同じく側室として、カルノリア第一将軍息女・シェルマリヤを迎える旨が、そこにはしたためられていた。
「また、勝手なことをしてくれましたな」
皇帝自身の発令を、苦々しく受け止めたのは、重臣達であった。彼らは早朝に発布された触れを一様に重く受け止めたのであろう。アグネイヤの独断で決められた事項は、どれも国の行く末を揺るがすものである。個人の感情や思惑だけで決めてよいことではない。皇帝の権力がどれほど絶対的なものであるとしても、独裁は好まれない。
「皇太后陛下の御意のままに」
リディアの召集した御前会議において、重臣達は彼女が審議に諮った要項をすべて無条件で受け入れた。反対するものは誰もいない。満場一致である。今朝のアグネイヤの独善的な行動がそれに拍車を掛け、神聖皇帝の立場は何よりも危ういものとなっている。
「それでは、本会議を持ちまして、神聖皇帝アグネイヤ四世の、帝国全土に関する統治権、行政への関与の権利をすべて剥奪することと致します」
宰相エルハルトの声が朗々と響いた。
皇帝不在の会議室には、厳粛なる沈黙が広がる。
このときをもって、アグネイヤ四世は名ばかりの皇帝とされた。戴冠式のときに花冠を戴いた皇帝は、文字通り飾り物とされてしまったわけである。
広間の端で、宣下を聞いていたリナレスは、悔しさに唇を噛んだ。
傀儡皇帝、無冠の帝王――今後アグネイヤへ向けられる揶揄は、数知れないだろう。神聖帝国の歴史書において、彼女の名に書き添えられる言葉は、『愚帝』。もっとも不名誉なるその呼称だけは避けねばならぬ。
リナレスは拳を震わせて、上座に佇む皇太后リディアを睨みつけた。
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