アグネイヤが席を外して、どれくらいの時間が過ぎたであろうか。
「ご気分でも、悪くなられたのかしら?」
ルクレツィアが彼女を気遣うそぶりを見せて、
「アガタを、呼んでちょうだいな」
給仕役の侍女に声をかけるのを、
「ああ、きっともうすぐ戻られますから。どうぞ、ご安心なさって」
イリアは声を上ずらせながら止めた。
(なったくもう、どこまで行ってるのよ、アグネイヤ)
まさか、自宅で迷子というわけではあるまい。アグネイヤ自身、それほど酒に強いわけではないが、まだ、蜜酒を二杯ほど口にした程度である。酔って動けなくなるほど呑んでいたはずは――と考えて。
もしや本当に酔って、どこかで唸っているのかもしれないと、イリアは一瞬青ざめた。
「あたしが、いえ、わたしが探してみますので、姫はこちらでお待ちになって」
出来るだけ平静を装い、ジェルファをちらりと振り返る。残念ながら、彼はルクレツィアには興味はないらしい。アグネイヤが席を外してからこちら、残されたイリアとルクレツィアには一瞥もくれなかった。それはそれでよいのであるが、少しはルクレツィアの相手もして欲しいと思う。
(あたし、このお姫様苦手)
まだ、シェラが傍にいてくれれば、彼女がそつなくあしらってくれたであろうに。野に育ったイリアには、深窓の姫君は手に負いかねた。
「すぐに、戻ります」
これでしばしではあるがルクレツィアから離れられる――そう思ったのもつかの間。
「わたくしも、お供いたしますわ」
ルクレツィアまで立ち上がったのである。
「え? あ、それは」
困ると言いかけて。イリアは素早く考えをめぐらせた。
ここにルクレツィアを一人で残す、彼女が侍女に命じてアグネイヤを探させる、侍女に発見されたときに、アグネイヤがシェラと密会――男装の姫君同士であるが――していたとなれば。ミアルシァに何を報告されるかわからない。その危険性を封じられるならば、同行したほうがルクレツィアを監視できるではないか。
(あたし、このお姫様苦手なのに)
イリアは泣きたくなった。何を話せば良いのだ、この姫に。何を話しながら、アグネイヤを探せばよいのだ。既に、気分は側室との会食をしいられる正妻である。いや、その状態は通り越してしまっているのだが。
「姫と、少し外でお話してきますわ」
ほほほ、と作り笑顔をアイリアナに向けて、イリアはルクレツィアを伴い、広間を出た。しかし、このとき彼女は、ひとつ大切なことを失念していたのだ。自身が、『神聖帝国の巫女姫』であることを。
――なるべく、ひとの輪の中にいたほうがいい。
シェラに、そう忠告されていたことを。忘れて、イリアは人の輪を離れた。
その彼女の姿を見て、帳越しに囁く者があった。
「巫女姫が、席を立たれた」
◆
「どちらに行かれたのかしらねえ」
アグネイヤの捜索から一転、彼女が行きそうもない場所へとイリアは足を向けることとなった。シェラの逗留している小宮とは反対方向へ、何気ない風を装ってルクレツィアを連れ出す。ねっとりと絡みつく夜風に息を詰まらせて、イリアはふと空を仰いだ。
星が、瞬いている。
地上の迷い人に、何かを必死に訴えるように。
「あ」
日輪のいとし子の訴えに、イリアは耳を傾けた。星々の煌きにその真意を見出せるものは多くはない。寧ろ、聖職にありながらも力を持たぬものは、ただ、なにやら不吉なる予感を抱くだけにとどまるのだ。
だがしかし、アンディルエの巫女は違う。
偉大なる先達が、人間に与えたもうた唯一の『伝達者』。巫女の言葉は、そのまま神よりの伝言となる。
「これは」
言葉ならぬ語りが、巫女の心に、身体に。直接降り注いでくる。
イリアのなかに、小さな漣が起こった。否、正確には、鏡面にも似た心の泉、波ひとつなき水面に、星の伝えが一滴もたらされ、そこを中心にいくつもの同心円が広がっていくような――常人には決して得ることのない、不思議な感覚である。
――変兆。
明確な言葉は、ひとつだけ。漣は、ちいさな事実の断片を、イリアの中に浸透させていく。
「どうか、なさいまして?」
口も利かぬ、微動だにせぬイリアに、ルクレツィアは不安を覚えたようである。じっと空を見つめる瑠璃の瞳は、何も映さず。ひとであるルクレツィアの声など、彼女の心どころか耳にも届かぬ様子であったから。異国の公女は、変調を来たした巫女姫の様子に、少なからず動揺していた。
「巫女姫」
もし、と肩に触れれた、そのせつな。ルクレツィアは見えぬ力に弾き飛ばされた。きゃ、という彼女の悲鳴に、イリアが我に返り
「姫」
慌てて、ルクレツィアを振り返る。
「ごめんなさい、あたし」
『交信』中の巫女姫に触れたものには、罰が下る。天と巫女姫の絆を断ったルクレツィアは、ひとならぬ力に咎められたのだ。
思わぬところで交信を始めてしまった自身にも非はある――イリアは幾度も謝りながらルクレツィアを助け起こした。
「ごめんなさい、少し、部屋で休みましょう」
釈然とせぬ表情のルクレツィアを、半ば引き摺るようにして、イリアは自室へと戻っていった。皇帝夫妻の部屋ではなく、イリアだけに――巫女姫に与えられた部屋である。こちらは、部屋付の侍女の数も少なく、傍に仕える巫女が二人ほど時々様子を伺う程度で、比較的落ち着いて過ごせる場所だった。巫女姫の精神を集中させるための房、そう考えられているところなので、特に呼ばない限り巫女達もやっては来ない。
神殿に程近い、別棟に設えられたその部屋に二人が入ると、驚いた巫女が気付のために弱い酒を用意してきた。
「悪いけど、国王陛下に宴は途中で失礼しますと伝えてきて」
「かしこまりました」
「ルクレツィア姫が気分が悪くなられたので、こちらで介抱しています、ともね」
巫女が退室すると、ルクレツィアはふっと息をついた。斜めに腰掛けた長椅子の上から、ひとしきり室内を見回して。
「殺風景なお部屋ですこと」
悪気はないのだろうが、ひとこと、呟いた。
「俗世間のものとは違って、巫女姫には物欲もないということですかしらね」
居間として利用しているこの部屋と、隣に続く寝室、そこに置かれている家具は、寝台と卓子、長椅子がふたつである。壁際に作りつけられた衣裳箱には、数枚の着替えが入っている程度で、それ以外は特に目立つものはない。
少女の喜びそうな花も、絵画も、彫刻などの飾りも、一切置かれていないその部屋を見て、ルクレツィアは何を考えているのだろうか。
「もともと、あたしは風の民だったから」
衣裳箱を開け、簡素で楽な衣装を選んで引き出しながら、彼女は背中越しに応じる。
「荷物もそれほどないし、持たないようにしているし」
特に欲しいものもない。
言って、彼女は重苦しい服を脱ぎ捨てた。ルクレツィアは、目の前に現れた少女の裸身に驚いたように、扇で顔を隠す。
「大切なのは、形あるものではなく、形のないものだ――そう、教わっているしね」
イリアは動きやすい服に袖を通し、今まで着ていた衣裳を籠の中に投げ入れた。と、右腕に嵌められた腕輪が、しゃらりと儚い音を立てる。ルクレツィアはそれに視線を投げて、
「仰るわりには、素敵な腕輪をなさっていらっしゃるのね。陛下からの、贈り物かしら?」
皮肉げに唇の端を吊り上げる。
「あ、これ?」
これは祝いの品として、オルトルートより送られたものだとイリアは答えた。
「その、見事な耳飾は?」
「え、と」
シェラから――彼女を通して、カルノリア皇帝から受け取った報酬。耳に揺れる瑠璃の飾りを指先で抑えて、イリアは逡巡した。
「占いの、報酬。以前は、色々な貴族からの依頼を受けていたから。そのときに、貰ったものなの」
嘘ではない。嘘ではないのだ。ただ、誰から貰ったかを言わないだけである。それだけなのだが、ルクレツィアの青紫の瞳が、どこかイリアを非難しているような気がして。イリアは脇に冷たい汗が流れるのを感じた。
「あなたの、瞳と同じ色ですのね。いえ、とても良く似ている色ですわ。そう、とても……綺麗」
「姫?」
瞳と同じ、と。その部分に微妙な音の違いを覚えて、イリアは眉を顰めた。そういわれれば、このピアスはイリアの瞳を知っていたかのように、よく似た色合いを持っている。カルノリアのとある地方の特産物らしいが、それがたまたまこのような色をしていたというだけで、深い意味はないのだろうとは思うが。
ルクレツィアの両耳を飾る耳飾は、彼女の瞳とはまるで違う茜石である。人形のように繊細なつくりの顔立ちには、どのような飾りも似合うと思うが――ルクレツィアの瞳が僅かに揺れたのを、イリアは見逃さなかった。
瞳の色。それは、幼い頃よりルクレツィアが抱き続けていた劣等感、その象徴なのではないだろうか。
赤みの混じった青い瞳――紫の瞳は、ミアルシァでは忌み嫌われる。ゆえに、彼女に許される飾りは、茜石なのではないかと。イリアは思った。奇しくも神聖帝国皇太后のミアルシァでの呼称が茜姫。そこにかけた、皮肉かもしれぬ。
「ああ、本当。あたしの目は、珍しい色をしているから。普通はなかなかあう色がないのにね。これもたまたま、こんないろがあったから、珍しいから、とくれたものみたい。姫にも似合う石が――ええと、やっぱり、青い石が綺麗かしらね?」
それ以上の言葉は続けられなかった。つい、うっかりいつもの口調で話しかけていたことに気づいたイリアは、相手が深窓の姫君であることに途中で気づき、あまつさえ彼女は自身の恋敵なのであると思い出したものだから、どうしても言動が怪しくなってしまう。
「いくつか、原石を持っておりますの。それを、お持ちしますわ」
急に声を上ずらせて、イリアはそそくさと退室した。表に控えていた巫女に、
「ごめん、ちょっと部屋に戻るわ。すぐに帰ってくるから、姫のお相手をしてさしあげて」
頼み込み、皇帝夫妻の居室へと走った。
(たしか)
この耳飾とともに、皇帝シェルキスより下賜された原石があった。あのなかに、ルクレツィアの好みそうな石はないか――あれば、加工して贈り物としてもよいかもしれない。正室としては、それくらいの寛大さを持ち合わせていなければ、と。イリアは急いで部屋に戻り、自身の少ない荷物の中から、件の箱を取り出した。
「あった」
ずっしりと重いそれを胸に抱えて、彼女は往路と同じく小走りに離れへと向かう。
夜半に近づいてきたせいか、途中近道をして抜けてきた裏庭にも、人目を忍ぶ恋人達の姿が見られるようになっていた。近衛兵士と奥女中、貴婦人と従者、どのような組み合わせかは推して知るべしであるが。ここまで奔放になられると、かえってこちらが恥ずかしくなってしまう。イリアはなるべくそちらのほうを見ないようにして、急ぎ巫女の房へと帰った。
「……?」
違和感を覚えたのは、扉の前に立ったときであった。僅かであるが、扉が開いている。開いているにも拘らず、なかの灯りが漏れていない。さては、変事が起こったかとイリアは用心しつつ廊下に掛けられていた燭台を手に取り、それを先に室内にかざした。
「姫?」
声をかけるが返事はない。人の気配も無い。
イリアは扉を大きく開け放ち、身構えつつ入室する。蝋燭の明かりに映し出された室内には、果たしてルクレツィアの姿はなかった。彼女の世話をしているはずの巫女も。二人ともいない。まさか、我侭な姫が急に帰ると駄々をこねて、それを巫女が送っていった訳でもあるまい。
「姫? ひ……」
室内を見回すと、長椅子の上に人が横たわっていた。ルクレツィアではない。巫女である。先程イリアがルクレツィアの世話を頼んだ巫女だ。イリアは燭台を卓子に置き、若い巫女に駆け寄った。
「大丈夫?」
どうやら、彼女は気を失っているだけのようであった。その事実に胸をなでおろし、イリアはパタパタと彼女の頬を叩く。叩くだけでは刺激がないと、ついでに頬の肉をぐにゃりと摘み上げた。流石にこれは効いた模様で、巫女はふっと目を開ける。
「巫女姫」
彼女は目の前にイリアがいることに気づくと、ひとつ深い息をついた。
「ご無事でしたか」
それはこちらの台詞だとイリアは思ったが、只ならぬ様子に油断なく周囲を見回した。
「姫、は?」
尋ねると、巫女の顔が見る見るうちに青ざめる。かどわかされました、と、巫女は椅子の背に縋りつつ起き上がり、
「陛下に、お伝えしなければ」
喘ぐように呟く。
彼女の言葉によると、イリアが退室してから程なくして、何者かがこの部屋を訪れた。中にいた二人は、アグネイヤからの使いだというその人物を信じて扉を開けてしまった――それが、過ちだったようである。取次ぎに出た巫女はそこで当身を喰らい、意識を失った。
「曲者が、姫を連れ去った模様です」
申し訳ございません、と巫女は床に伏した。イリアは奥歯を強く噛み締め、入り口を見やる。彼らの狙いは、ルクレツィアではない。イリアだ。巫女姫であるイリアを略奪し、いずこかへ連れ去ろうとしたのだ。ルクレツィアは、取り違えられた。
(そう)
巫女姫は、黒髪に青い瞳。ルクレツィアも、同じ。黒髪に青い瞳だ。昼の屋外ならいざしらず。夜の室内、燭台の灯りのもとでは瞳の色の区別もつかぬだろう。瑠璃と青紫、その色がどれほど酷似しているのか、イリアにはわからぬが。
――なるべく、人の輪の中にいたほうがいい。
シェラの忠告が、今頃思い出された。シェラは、知っていたのだ。巫女姫が、略奪の危機にあることを。あの言葉は嘘でもはったりでもなかった。シェラ自身が首謀者なのではなく、彼女の元にいる部下達が、その密命を受けていたに違いない。
「陛下に、アグネイヤに伝えて。陛下でなければ、リナレス殿か……」
それでも駄目なら。
「シェラを。シェラを呼んで」
彼女なら。彼女なら、なんとかしてくれるに違いない。理由はないが、そんな気がするのだ。
「シェルマリヤ、様ですか?」
巫女も不審そうな顔をする。よりによって、カルノリアの姫などに――そう思っているのだろう。イリアは自身も立ち上がり、巫女を促した。
「早く。こうしているうちにも、姫がどこかに連れ去られてしまうわ」
巫女を追い出し、扉を閉めた後。イリアは手早く髪を束ね、衣裳箱の奥から短剣を取り出した。うまく使える自身はないが、セルニダを訪れてから護身術程度は習い覚えている。アグネイヤやシェラのように強ければ問題はないのだが。いまひとつ、自身の腕が信じられぬイリアである。
彼女も巫女のあとを追うように外に飛び出した。
略奪の犯人がカルノリアの手のものであれば、向かう先はシェラの逗留先か、もしくは城下である。人目を憚りつつ、そのどちらかに向かうのであれば、必ず通らねばならぬ道筋がある。イリアはそこに向かって走り出した。相手の人数は何人かわからぬが、とりあえず食い止めるなり、行き先を突き止めるなりはしておこう。
(姫も、アグネイヤの大事な妃のひとりだもの)
まだ、決まったわけではないがアグネイヤのことだ、ルクレツィアの身の上を考慮すれば、決して断ることなどできぬだろう。あの冷淡な叔父とは異なり、アグネイヤは甘いと思われるほどに人が良いのだから。
(そんなところが、好きなのよね)
思って、イリアは頬を染める。本当に、アグネイヤが神聖皇帝でよかったと、しみじみ思うのだ。
と。
がさり、と近くで物音がした。イリアは警戒心も露わに、足を止める。傍らの木の陰に身を寄せて、様子を伺うと。
「早くしろ」
押し殺した男性の声が聞こえた。
月明かりに透かして見える、男性の姿はふたり。ひとりは、腕に何かを抱えている。なにか――人形にも思える、小柄な少女を。
「姫」
ほかならぬ、それはルクレツィアだった。ぐったりと男の胸に頭を預けた彼女は、失神しているのだろうか。ピクリとも動かない。せめて彼女に意識があれば。声をかければ暴れてくれそうだったのに。
(肝心なときに使えないお姫様ね)
ムッとして、イリアは一歩踏み出した。その足元で小枝が音をたて、男達は一斉にこちらを振り向いた。
「何者」
それは、またしてもこちらの台詞であった。イリアは覚悟を決めて、彼らの前に躍り出る。出口に通ずるほうの路を塞ぎ、両手を大きく広げた。
「無駄な抵抗はやめて、姫を置いて帰りなさい!」
凛と響く声に、男達は一瞬怯んだかに思えた。しかし、姫を抱えていないほう――ほのかに光る金髪の青年が、一歩前に進み出て。
「侍女には用はない。ケガをせぬうちに、おまえこそそこをどけ」
威圧的に言い放ったのである。
(侍女)
そう思われても仕方がない。ルクレツィアの纏う、宴用の華やかな衣裳に比べれば、イリアの纏う服は雲泥の差である。侍女に間違われても仕方がない――というか、これでは自身が真実の巫女姫だといっても、彼らは聞く耳持たぬだろう。
いま、イリアにできることは、時間を稼ぐこと。アグネイヤが、リナレスが、もしくはシェルマリヤが到着するまで、かれらを城外に出さぬことである。
「……」
イリアは覚悟を決めて、短剣を抜き放つ。月光を受けて白銀の光を放つそれは、威嚇には不十分な小さな牙でしかなかった。
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