AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
2.初夜(6)


 眠れなかった。
 否、眠ることは出来た。けれどもそれはひどく浅い眠りで。悪夢に追いかけられては、悲鳴を上げて目を覚ました。――長い、ながい夜だったと思う。
「妃殿下」
 呟き、ルーラは床のなかで身じろぎした。春まだ浅い時期だというのに、じっとりと夜着が汗ばんでいる。首筋に纏わりつく後れ毛を解し、彼女はひどく気だるい思いで身を起こした。身体が重い――ひとつ、息をつき彼女は傍らの水差しに手を伸ばす。夕べ、侍女が酒を注ぎ足してくれていた、そのことを思い出したのだが。
「……」
 (コップ)には、僅かに数滴、酒の残りが零れただけであった。寝付けぬままに、杯を重ねてしまったのだろう。彼女は杯を置き、床から降りた。朝の空気に染められた、冷ややかな絨毯の上を音も立てずに歩くと、窓を開ける。暁の光に目を射られ、思わず顔を背けた。赤みの強い紫、王太子妃の清冽なる双眸によく似た光――ルーラはそこにかのひとの面影を描き、そっと瞼を押し上げる。異国の皇女、いな、いまはアヤルカス王女とされたかのひとは、今頃夫となった王太子の腕の中で、最初の朝を迎えているのだろうか。
 男色家であり、女性はまるで受け付けぬ体質である、ディグル。その彼が、花嫁を抱くといった。彼は自身の言葉を裏切る人ではない。なれば、もうクラウディアは生娘ではないのだ。正真正銘、ディグルの妻となっているはず。
 女性との交渉を得たディグルには、自分は必要ない。
 側室ルナリアは、用済みなのだ。
「おいとまを」
 暇乞いを、願い出てみよう。婚礼の儀式がすべて終わったら。ひとり、城を出よう。城を出て――どこに行こうというのか。また、オルネラへ逆戻りなのか。それだけは、嫌だった。けれども、ルーラが生きる場所は、この大陸にはない。ディグルの元しか、彼女の居場所はなかった。
「わたしは、どこへ」
 ふと、唐突に思い出す。クラウディアと同じ顔。同じ瞳。同じ声を持つ少女。
 いまや、神聖帝国皇帝アグネイヤ四世となった、クラウディアの片翼。
 彼女に、もう一度会ってみたい。皇女として生まれながら、どこか、暗い影りを持つあの少女に。真実の、アルティナ・ティアーナ・クラウディア・エミリア・ルクレツィアである少女に。



「クラウディア、という名は良くないな。そうは思わぬか?」
 朝の謁見で、国王の前に立たされたクラウディアは、開口一番国王の口にした言葉に顔をしかめた。当人を前にして、いきなり何を言うのだこの蛮族は、と。思わず口走りそうになるのを必死に堪えて。クラウディアは柔らかく微笑み、軽く膝を曲げた。
「アルメニア王女クラウディアは、神聖帝国を滅ぼした不吉なる姫。滅びの娘、と呼ばれるそうだな、神聖帝国後継国には」
 クラウディア一世以後、アルメニア帝国にはクラウディアの名を持つ皇女は存在しなかった。それはひとえに、グレイシス二世の言葉通りの理由からである。フィラティノアへ輿入れすることとなったアルメニア第一皇女は、呪詛をこめてクラウディアの名が与えられた。北の蛮族・フィラティノア。彼らが、神聖帝国の如く滅びるように。
 それを、当のフィラティノアが気づかぬはずはない。
「フィラティノアの名を、そなたに与えようと思うが。異存はあるまいな」
 問いかけではなく、命令である。
 クラウディアは丁寧に礼をしながらも、
「ございます」
 はっきりと抗議の声を発した。
「わたくしは、国を捨ててこちらに嫁いでまいりました。故国の名残を持つものは、この身とこの名だけでございます。それまで取り上げられてしまいますれば、わたくしはどうなりましょうや。名もなき人形でございますか。ただ、世継ぎを生むだけの道具でございますか。同盟の架け橋たる役目を果たすためには、この身のほかにアヤルカスの――神聖帝国の名を持つ必要があると思われますが」
 淀みなく投げられた言葉に、国王グレイシスは返す言葉を失ったようであった。異国の皇女、それもまだ幼い小娘だと思っていたのだろう。これほど物怖じせず、しかも弁が立つとは思ってもいなかったに違いない。
「わたくしの名は、アルティナ・ティアーナ・クラウディア・エミリア・ルクレツィアにございます。その名のなかより、アルティナでもエミリアでも好きにお呼びくだされば宜しいでしょう」
 彼女は国王を見つめた。まっすぐに、視線を逸らさずに。
 国王はしばしの間彼女の暁の瞳を見つめ返していたが。漸く何か得心したのだろう。小さく頷き、
「そうか。では今よりそなたをルクレツィアと呼ぼう」
 笑みとともにそう告げたのである。
「陛下、それは」
 帝国建国の礎となった皇后、敢えてその名で彼女を呼ぶと。そういうのか、国王は。クラウディアは暫時息を止めた。彼女に、否、本来アグネイヤに与えられたこの名前。そこに篭められた意味に、国王は気付いたというのか。
「これならば、異存はないな」
「陛下」
「そなたの申し出は一度聞いた。二度はない」
 取り付く島もなく、クラウディアは退室を促された。


「不機嫌そうだな」
 私室に戻ると、既に朝食の支度が整えられていた。本来であれば、朝食後に国王の前に出るはずであったのだが。クラウディアの目覚めを待っていたのか、

 ――国王陛下がお呼びでございます。謁見の間にお越しください。

 徐に声をかけられ、簡単な支度をした後にクラウディア一人が国王の前に引き出された。それは無論、王太子夫妻の契りの様子を早く知りたいとの国王の意向であろう。彼の傍らに常に佇む王妃の姿はなく、国王とその側近のみに迎えられたクラウディアは、異様な緊張感を持ちながら、彼の問いを待ったものだが。

 ――クラウディア、という名は良くないな。

 開口一番、国王はそう言ったのだ。
 これはこれで不愉快ではあるが、夕べのことをあれこれ聞かれるよりはましである。
 不快感を隠そうともせず、クラウディアは侍女のリオラが促すままに朝食の席に着いた。
「初夜の契りについて、継母からしつこく問われたのか?」
 先に着席していたディグルが、皮肉めいた笑みを浮かべているのが気に入らない。
「王后陛下は、ご同席されていませんでした」
「ほう?」
「国王陛下は、今日よりわたしのことを『ルクレツィア』と呼ぶと仰っています」
「アルメニアの女狐か。相応しいな、お前に」
 言い置いて、ディグルは食前酒に口をつける。
 父が父なら、子も子だ。
 クラウディアはむっと口を尖らせる。リオラが差し出した食前酒を一気にあおり、
「これじゃなくて、もっときついのを頂戴」
 言って侍女の顔色を変えさせた。
「おそれながら、このあとにはお披露目の儀式が控えておりますので」
「赤ら顔の花嫁は、お呼びではない?」
「いえ、そのような」
 リオラは慌てて口をつぐむ。ディグルは面白そうに二人のやり取りを聞いている――そのためか、一向に食事に手をつけようとはしない。もっぱら、食前酒を少しずつ口に含むだけである。彼もルーラの如く、食の細い人種なのかと横目で様子を伺いつつ。クラウディアは大袈裟に溜息を吐いた。
「解ったわ。早くお皿を用意して頂戴」
 投げやりに命じると、侍女はそそくさと前菜を差し出してくる。アルメニアと異なり、皿には豪快に蒸した野菜が盛られていた。緑濃き野菜のひとつを指先でつまむクラウディアに、
「セルニダとは違って、野蛮だろう。この国の食事は」
 嫌味とも皮肉ともつかぬ言葉を投げかける。
「あら。わたしは好きよ。こういう食事。食べた、って気がするでしょう?」
 言うが早いか、彼女は早速前菜を口に運び始めた。北国らしく、それぞれにつけられた味は濃く、しっかりとしている。咀嚼すればするほど、野菜の旨みが感じられ、クラウディアは満足げに目を細めた。
(わたしって、単純)
 不機嫌は、旨い酒と食べ物で綺麗に解消される。これでは、普通の小娘と同じではないか。自身に嘲笑を浴びせて、クラウディアはふと隣のディグルを見やる。彼はクラウディアとは逆に、皿にはまるで手をつけた様子はない。
「食べないの?」
 尋ねれば、彼は面倒くさそうに視線を揺らした。
「だったら、頂戴」
 クラウディアは侍女が止める間もなく、ディグルと皿を交換し、彼の料理に手をつけた。侍女は目を白黒させ、ディグルは興味深そうに彼女を見つめる。
「ルーラも食が細いから。彼女の分も食べていたわ。――問題ありまして?」
 半ば挑戦的な問いかけを、侍女はおろおろと見守るだけである。ルーラの如くクラウディアを窘めようともしなければ、『含みのある』傍観をすることもない。それがどこかしら味気なくも居心地が悪くて。クラウディアは
「次のお皿をお願い」
 侍女に声をかけた。
「少し冷めてしまいましたので、温めなおしてまいります」
 次は鹿肉を煮込んだ汁物(スープ)であるという。リオラが給仕の小間使いに手配をしているのを見て、クラウディアはふと思いついたように。
「南方の調味料があるかしら? 香辛料とか。それがあるほうが美味しくいただけるのだけど」
 給仕の小間使いが退室し、リオラ一人となったところを見計らって命じる。侍女は「はい」と答えたものの。いま、彼女が席を外してしまえば、室内には王太子夫妻のみが取り残されてしまう。――そう危惧したのか。何事があっても夫妻の傍を離れてはならない、そうとでも言い含められているのか。クラウディアの侍女としてまだ日の浅いリオラは、自らがとるべき行動を図りかねている節がある。
「大丈夫よ。すぐに戻ってこられるでしょう? 何も不自由はないから、行って来て頂戴」
 駄目押しのようにクラウディアが声をかけると、リオラは慌てて部屋を出て行った。
 残されたのは、ディグルとクラウディア。ふたりである。
「――役者だな」
 ディグルが笑えば。
「皮肉か嫌味しか言えないのかしら、その口は」
 扇で口元を隠して、クラウディアも冷笑する。
「ルーラの、ことだろう?」
 前置きもなくディグルが口を切る。クラウディアは頷いた。
 今朝、起き抜けに聞いた、ディグルとルーラの秘密。男色家の王太子と、その愛妾。ルナリアは、側室といえど色小姓と同じ存在であった。男性として生まれながら、その機能を奪われ。女性と同じ扱いを受けながら同性の寝室に侍ることとなる存在。
 憐れ、というにはあまりにも生々しすぎる。
「あれを、汚らわしいと拒絶するか」
 質問にクラウディアはかぶりを振った。なぜ、今更彼女が『彼女』でないことを知ったからといって、拒絶できようか。ルーラはルーラである。クラウディアの中で、彼女の存在の大きさは変わらない。
「ルーラとは、今まで通りお付き合いして宜しくてよ」
「そうか」
「その代わり、わたしも彼女とは今まで通り過ごさせて頂きます。これから、国内の視察を色々したいの。お目付け役には、彼女が適任でしょう?」
「それはどうかな」
「どういうこと?」
「あれは、おまえに懸想している。いつ、身体を奪われてもおかしくないぞ」
「――生々しいことを言うのね」
 クラウディアは彼女にしては珍しく顔を赤らめた。
 ルーラが、自分を異性として意識している――そのようなことがあるのだろうか。あくまでも、ルーラにとって自分は恋敵であり、異国の姫であり、主君の正室である。異質なものに対する嫌悪はあったとしても、欲情は覚えないのではないか。
「それは、おまえが生娘だからだ」
「……」
「一度、快楽を覚えたものは違う。ルーラにも、男性としての欲求がないとはいえないからな。あれは、好きで男色の道に堕ちたわけではない」
 ディグルは残った食前酒を飲み干した。空になった杯を見つめ、細く息をつく。
「仮におまえがルーラに身体を開いたとしても、俺は何も言わないつもりだ」
「ディグル」
 クラウディアが目を吊り上げたときである。侍女が戻ってきたのは。
「お待たせいたしました」
 伏し目がちに礼を取る彼女に遅れることしばし、温めなおした汁物を給仕が運んでくる。そこで二人の会話は途切れ、冷たい沈黙だけが残った。リオラは、不在の間に二人に何が起こったのか、気を揉んでいる様子であったが。クラウディアはわざと無視をした。
 北の離宮にて、時折ルーラとともにした朝食が懐かしい。クラウディアは汁物を匙でかき回しながらちらりと横目で夫を見た。

「明日から朝食にはルーラも呼ぶことにして頂戴。そのほうが、楽しいでしょう?」


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