AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
2.初夜(4)


 東の離宮、と呼ばれることになるその新居には、人の気配がなかった。
 無論、無人というわけではない。使用人が数十人、絶えず詰めているはずである。しかし、彼らの存在は妙に希薄で、よそよそしさを感じさせるのだ。異国からの花嫁を、彼らは受け入れるどころか、無視をしているのではないか。
「……」
 ディグルに手をとられたクラウディアが、入り口の広間に姿を現すと、整列した使用人たちは無言で頭を下げた。
 婚礼の華やかさはここにはない。
 光の中から一気に闇へと突き落とされたような、薄ら寒さを覚える。
「まずは、湯浴みを」
 進み出た侍女頭が、クラウディアの前に膝をつく。彼女の後ろに回ったリオラとツィスカもそれに従った。三人の侍女に取り囲まれる形となったクラウディアに関心を向けることはなく、ディグルは別の侍従に案内されて、私室へと向かうところだった。ルーラは一瞬迷ったようであるが、クラウディアの方に付き従おうと一歩踏み出そうとしたとき。
「ルーラ」
 ディグルに呼ばれ、身を硬くした。
「……」
 青い瞳が、不安に揺れる。クラウディアと一瞬だけ交錯した視線は、常のルーラにはない、一抹の寂しさが宿っているような気がした。ルーラは命ぜられるままにディグルに従い、その場を去っていく。心はクラウディアの元に残したまま。
「妃殿下」
 侍女頭に促され、クラウディアもその場を離れる。
 北の離宮での暮らし、グランスティアでの暮らし。それらを思い出し、クラウディアは息をついた。もう、あの日々は戻らないのだと思うと、胸が苦しくなった。これからどうなるのだろう――それは、故国を発つときにも思ったことであるが、今の不安はそれとはまた異なる。取り返しのつかないことをしてしまった、と。形のない喪失感だけが力なく脈打つ心臓をその冷ややかなる掌で握り締めているような。

 ――僕が、クラウディアだから。

 本来のあるべき姿に戻ろうと、片翼がやってきたとき。なぜ、素直にその言葉に従わなかったのだろう。彼女が言うままに、アグネイヤとして、アグネイヤに戻って。皇帝となるべく故国へと帰還すればよかったのに。
 なぜ、自分はそれをしなかったのかと。
(この期に及んで、情けない)
 脆くも崩れそうになる自身の心をあざ笑い、クラウディアは顔を上げた。この道を選んだのは、自分。そして、片翼。今更過去をあげ連ねても、惨めになるだけである。



 真新しい扉が開かれ、室内に明かりが灯される。新郎新婦の閨となる、個室。そこにはじめて足を踏み入れるのは、ディグルと正室クラウディアのはずであった。けれども、いま、ここにいるのは側室である自分。ルーラは苦いものを口にしたように眉を寄せた。
「どうした?」
 ディグルの声が耳元で聞こえる。
「入らないのか?」
 ルーラは、いいえとかぶりを振った。自分はここに入ることなど出来ない。ここは、王太子夫妻のための寝室である。側室であり――女性ではない自分がこの場所に足を踏み入れることなど、許されるべきではない。
「あれが戻るのを待たないのか?」
 湯浴みに出向いたクラウディア、彼女の顔を見てから帰りたいのだろうと。ディグルは笑う。それまで、ここでディグルと二人過ごすことを考えると、ルーラは再度それを否定した。自分はここにいるべきではない。存在してはならない人間なのだと。身を引く形で、退室しようとする。
「怖いのか?」
 踵を返したところで、腕を掴まれた。細く華奢に見えるディグルの手が、これほど力強いのだということを、今夜、新婦も知ることになるのだろうか。ふと、あらぬことを考えて、ルーラは面に朱を散らした。
「なにを、仰られます」
 赤みの差した顔を見られぬよう、顔を伏せて。ルーラは静かに応える。ディグルはそれを許さず彼女を抱きよせ、耳朶に唇を這わせながら言葉を重ねた。
「あれの身に、今夜何が起こるのか。考えるだけで、気が狂いそうだと。素直に言ったらどうだ?」
「殿下」
 軽く弾んだ息が、ルーラの朱唇から漏れる。その息を奪い取るように、ディグルは乱暴に唇を重ねてきた。何もかも、奪いつくす――貪り尽くす。獣が、獲物をいたぶるさまを思い起こし、ルーラは低く呻いた。ディグルの身体を引き剥がさんと、その胸を両手で押しやる。
「いけません。今宵は、殿下の婚礼の日」
 漸くのことでディグルの間合いから脱出した彼女は、上がった息を落ち着かせてから主君を窘める。
「御身を汚すようなことをなされては、なりません」
「身を汚す? 裏巫女と寝ることで、世の穢れが落ちるのではないか?」
 覆すことの出来ぬ過去を突き出され、ルーラは声を失う。この言葉のもとに、どれだけの同性の愛撫を受け入れてきたか。どれだけの屈辱を与えられてきたか。
 ただ、貧しい生まれだったというだけで。
 ただ、容姿が他に比べて秀でていたというだけで。
 望みもせぬ生き方を押し付けられたのに。
「殿下」
 喉が、掠れた音を立てる。
 あの終わりなき苦悶の世界から救い出してくれたのは、ディグルであるはずなのに。そのディグル自身が、いま、ルーラを責めようとしている。
「殿下は、わたしを」
 貶めて楽しまれているのですか――血を吐く思いで、訴える。初めて自分を、一個の人間として見てくれた。商品でもなく、人形でもなく。使い捨ての道具でもなく。ルナリア、という存在そのものを受け入れてくれたのが、ディグルだと思っていた。信じていた。それは、すべて偽りだったのか。所詮は、貴族の遊びでしかなかったのかと、暗い憤りがこみ上げてきたそのとき。
「――俺を貶めて楽しんでいるのは、お前のほうだ」
 ディグルが彼女を壁際に追い詰めた。とん、と頭の脇に置かれた手に、らしくなく身を震わせた彼女が視線を上げれば。そこにはディグルの真摯な瞳があった。
「なぜ、俺だけを見ない? なぜ、あの小娘に肩入れする?」
「殿下?」
「俺に誓った忠誠は、偽りだったのか? 小娘の色香に迷い、言動に翻弄されて、忠誠心を失っているのはお前のほうだろう?」
「そのようなことは」
 ない、と。果たして言い切れるだろうか。
 以前の自分であれば、即答が出来た。いまは、どうなのだろう。命の輝きに満ちた古代紫の双眸に、強い憧れを抱いたことはなかったか。あの瞳を汚したくないと、そう思った自分がいたことは間違いない。異国で孤独に怯える小さな少女を守ってやりたい――それは、偽らざる本音である。
「殿下、わたしは」
「おまえは、あれに懸想している」
「いいえ」
「気づかぬと思うか。俺の目を疑うか」
「違います、わたしは」
 否定の言葉は、またしても口づけに奪われた。舌を絡められると同時に、強く抱き寄せられる。彼の手が、昼間の続きとでも言わんばかりに、胸を、下肢を、まさぐってくる。
「いけません、今夜は」
 逃れようとする身体を、強引に寝台へと引き摺られ、ルーラはほぼ無抵抗のままに『初夜の床』に身を投げ出した。

「ああ」

 妃殿下。
 高貴なる覇王の瞳が、侮蔑の色をたたえて自身を見つめている――その幻覚にルーラは声にならぬ悲鳴を上げた。幻覚の中のクラウディアは、やがて困惑気味に視線を揺らし、見るも哀れに白き面を朱に染めて――
「お邪魔、だったかしら?」
 常になく消え入りそうな声を発していた。
「ひ、でんか?」
 ルーラは自身の目を疑うように幾度も瞬きを繰り返す。これが、自身の想像なのか、それとも幻覚なのか。解らなくなっていた。首をめぐらし、次の間へ通じる扉を見やれば。確かにそこには、かのひとがいた。

 純白の薄い夜着も悩ましい、異国の皇女クラウディアが。



 湯浴みの際、付き添いの侍女たちを遠ざけようというクラウディアの目論見は見事に崩れた。何を言っても耳を貸そうとせぬ侍女頭は、二人の侍女にクラウディアの衣裳を脱がせるように言いつけると、手早く支度を整えていった。湯桶に大量の花と香油を注ぎ、花嫁自身の身体に刷り込む香油も手元に用意すると、
「失礼させていただきます」
 クラウディアの許可も得ることなく、その身に触れ、
「確かに。生娘でいらっしゃいます」
 安堵したように笑みを浮かべる。彼女の無礼な行為に、クラウディアは眉を吊り上げたが、あえて何も言わずそのまま彼女に背を向ける。と、左の腰から右肩にかけての醜い創傷が侍女頭の目に留まり、彼女は低く声を上げた。
「妃殿下、これは」
 花嫁の身体に傷が、と。スタシア夫人であれば卒倒せんばかりに騒ぐであろう。ツィスカとリオラも、案の定顔を引きつらせている。若い娘の柔肌に走る尋常ならざる傷――初夜の床のなかで、花婿はどう思うであろうか。
「刺客に斬られたのよ。この国の人かもしれないわね」
 唇の端を吊り上げて、クラウディアは湯桶に足を踏み入れる。
「妹の身体には、これほど大きくはないけれども、もっとたくさんの傷があるわ。フィラティノアの刺客につけられた傷が、ね」
 応えるものはなかった。傍らに跪くリオラが、湯を掬い、自身の手で柔らかくクラウディアの肌を洗い始める。滑らかに肌を行き来するその手は、特別な意味を持って微妙な動きを繰り返す。クラウディアの反応を探るように少しずつ指の位置が、掌が、変えられているのを感じて
「なにしているの?」
 クラウディアが尋ねると。
「いいえ」
 なにも、とリオラが応える。彼女は何気ない風を装っているが、どうやらクラウディアの身体を調べているようであった。どうすれば、クラウディアがどのような反応をするのか。その証拠に、クラウディアが居心地悪そうに身動きすると、そのときに触れていた場所を更に強く、確かめるように擦りあげる。
「気持ち悪い。身体を洗うくらい、自分で出来るから。やめて頂戴」
 クラウディアが手を払うと、侍女頭が前に進み出る。
「これも大切なお役目です」
 妙に毅然と言い放たれれば、それも正論かと思えてしまうあたり始末が悪い。しかしクラウディアは彼女の言葉には耳も貸さず、素早く立ち上がると湯桶から飛び降りた。そのまま、ツィスカの手にしていた布を奪うと手早く身体を拭き、更に傍らにおいてあった夜着を纏い始める。
「下着もないのね」
 必要なし、ということか。クラウディアは顔をしかめ、三人を見渡した。
「ご希望通り、ディグルの元に向かいます。ついてこないで頂戴。わかったわね?」
「それはできません。しかと、おふたりの閨の晩をさせていただくのが、わたくしのお役目にございます」
 侍女頭も負けじと口を挟んでくる。クラウディアはそれを完璧に無視して、ひとり湯殿をあとにした。背後でひそひそと交わされる会話の内容に、少しは興味を覚えたが。あえて振り返ることなく彼女は用意された『寝室』へと向かう。
 湯殿へ来る途中、王太子夫妻の部屋は、三階建ての建物の、三階すべてであると聞かされた。そこには、王太子、王太子妃の専用の居間、それぞれの侍女たちの部屋、侍医の部屋、小間使いの部屋なども用意されているそうだが。どの扉を開けば目的の場所に着くのであろうとつまらぬことを考えつつ、クラウディアが三階に足を踏み入れれば。
「お帰りなさいませ」
 先触れであろう侍女が進み出て、クラウディアの手をとり、寝室へと導いてくれた。次の間の扉を開け、そこにクラウディアを案内すると、先触れは慎ましく先に退室する。あとに残されたクラウディアは、
(勢いで来ちゃったけど)
 どうしたものか、と。そこでしばしの間思案に暮れた。
 寝室の扉を開けるということは、当然ディグルと夜を共にするということである。ディグルが先に休んでいてくれれば問題はないのだが。そうも行かぬであろう。彼も、さしてクラウディアには興味を持たぬはずであるから、さっさとことを済ませようとしているに違いない。
 できればそのほうが、クラウディアにとっても好都合である。
(よし)
 覚悟を決めて、彼女は扉を開けた。
 開けた、のだが。

「いけません、殿下」

 そこで彼女が目にしたのは、寝台の上で睦み合う王太子と側室の姿であった。
「……」
 一瞬、頭の中が白くなった。悦楽に悶えるルーラの艶かしい顔がこちらに向けられ、夢見心地にクラウディアを見つめている――そう思った刹那、理性が蘇る。
「お邪魔、だったかしら」
 言って慌てて扉を閉めようとするクラウディアを、ルーラの声が制した。
「妃殿下」
 何かを訴えるような声。クラウディアは扉越しにもう一度、取り込み中の二人を見つめる。無粋なことをしているのは自分だという、奇妙な罪悪感が心に芽生え始めたのは、そのときか。
「いや、気にしないで続けて頂戴」
 言ってから、自分がひどく間抜けなことを言ったような気がして、クラウディアは自己嫌悪に陥った。なにが、「気にしないで」か。気にするだろう、先方は。現にクラウディアの姿を見てからのルーラの反応は早かった。ディグルを振り払ったかと思うと、脱兎の如くその腕から逃れ、風もかくやの勢いでクラウディアの脇をすり抜けていく。その目尻がかすかに光っていたのは、涙のせいか。
「ルーラ?」
 ルーラが、涙を流すのか。つまらぬことを考えたために、彼女はルーラを捕まえそこなった。側室は、乱れた服装の前をかきあわせながら、こちらを振り返ることなく去ってしまう。
 追いかけたほうがよいか。それともそっとしておいたほうが良いのか。考えあぐねて、クラウディアは唇を噛み締めた。そんな彼女の背に、ディグルの冷めた声が掛けられる。
「そんなところにいないで、入ってきたらどうだ」


 乱れた寝床の上にしどけなく寝そべる夫の姿に、クラウディアは侮蔑の笑みを投げかけた。
「ケダモノね、まるで。ルーラが嫌がっていたでしょう」
 ぽん、と自身は寝台の端に腰を下ろす。ディグルはつまらなそうに眉を動かし、無機質な瞳を花嫁に向ける。
「でも、ちょうど良かったわ。初夜であるにもかかわらず、新妻ではなく側室のほうに興味を持っていたということは」
「……」
「当然、私のことは眼中にないというわけね?」
「好きにとればいい」
 投げやりなディグルの態度に、クラウディアはかえって安堵する。それであれば、――夫が、そのような考えであれば。これはまさに、クラウディアの理想形ではないだろうか。
「世継ぎが欲しいのであれば、ルーラに生ませると良いわ」
 世継ぎ、の言葉にディグルの眉が動く。クラウディアは構わず言葉を続けた。
「ルーラのほかにも側室が欲しいのであれば、何人でも侍らせて頂戴。わたしはそれに対して、一言も文句は言いません」
「ほう?」
 初めて、ディグルが興味を覚えたように身を乗り出す。
「寛容な正室だな」
 それでも、嘲るような笑みを浮かべるディグルに、クラウディアは最後に一言――これが自身の思いすべてだと言わんばかりに力を込めて言い放った。

「そのかわり、私には指一本触れないで頂戴。わたしは、処女のままでいさせていただきます。よろしくて?」


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