AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
2.初夜(2)


 ルーラと初めて会ったのは、五年ほど前のことになるか。
 療養の名目で、オルネラに赴いたとき。一人神殿に向かったディグルは、そこで銀髪の裏巫女を見かけた。アルードを爪弾きながら、異国の歌を口ずさむその姿に、遠い記憶の中の母后の面影を見たような気がして。思わず声をかけたのが、馴れ初めであった。

 ――おまえは、遊女か?

 問いに、彼女はなんと答えたのだろう。
 はい、か。いいえ、か。その、どちらでもなかったと記憶している。ただ、無機質な瞳をこちらに向けて、小さくかぶりを振っただけで。彼女はディグルにはまるで興味を示さずに、再びアルードを奏で始めたのである。

 裏巫女がどういう存在なのか。知ったのは、その後のことであった。男性でありながら、その機能を奪われてしまった者たち。男性としてではなく、女性として。女性の代わりとして。旅人をもてなす道具なのだと聞いたとき、ディグルは軽い衝撃を覚えた。
 あの、初めて会ったときの、ルーラの目が忘れられない。
 すべてに絶望し、すべてを拒絶したものだけが持つ、虚無の瞳。
 洞の如くぽっかりとあいた空間に浮かぶ、青い宝石は、何も映してはいなかった。そう、ディグルの姿さえも。
「ルーラ」
 けれども、今。かの瞳に映りこむ人物がいる。あの氷の歌姫の心を溶かすものが存在する。それが、よりによって自身の花嫁となる娘とは。滑稽すぎて笑いも浮かばぬ。
 ディグルは自室の書斎に掛けられた、花嫁の肖像画を前に溜息をつく。椅子に腰掛け、幾分微笑みを湛えた顔をこちらに向けている、気の強そうな美少女。アルメニア皇女――いな、今はアヤルカス王女となったそのひとに向けて、彼は徐に剣を抜いた。
「……」
 切っ先は、迷わずその心臓を貫く。
 絵の中の少女は、それでも笑みを絶やさない。まるで、ディグルを愚弄するかのように。



「ルナリア様をお連れいたしました」
 侍女に声をかけられたのは、依頼をしてからどのくらい時間が経った頃だろうか。そろそろ、廟のほうへと促すスタシア夫人に
「あと少し」
「もう少し」
 時間を延ばすよう言いながら。クラウディアはルーラの到着を待ちわびていた。
「遅くなりました」
 侍女のツィスカとともに現れたルーラは、女官の礼装をしていた。おそらく、着替えに手間取っていたのだろう。側室といえど、扱いは妃なのではなく、女官――臣下でしかないと。ディグルの、ルーラに対する扱いはそのようなものかと。思うと、クラウディアは夫に対する怒りを禁じえなかった。
「スタシア夫人」
 クラウディアは、王太子の女官長を振り返ると、
「わたしの衣裳(ドレス)のなかに、ルーラに着られるものがあるかしら? 探して頂戴」
 鋭く言い渡した。一瞬呆気に取られていたスタシアと侍女たちだが、クラウディアの言わんとしていることを理解すると、途端におろおろと彼女を見上げる。
「妃殿下。それは、あまりにも」
 言いかけるスタシア夫人を制して、
「ルーラも、ディグルの妃です。妃に女官の姿で式に臨めというの? ちゃんとした礼装を用意させなさい。それくらい、ディグルに言えないのかしら?」
 クラウディアは幾分目を吊り上げて一同を見渡す。が、当のルーラは軽くかぶりを振り、クラウディアの前に進み出て騎士の如く膝を屈した。
「恐れながら、妃殿下。わたしは、このままで。このままでよいと、殿下にも申上げました」
「ルーラ?」
「式典には出席しませんゆえ、どうぞ、わたしのことはお気遣いなく」
 深々とこうべを垂れるルーラに、クラウディアは不満の色を隠さない。
「ディグルはそれで良いと言っているの? 無粋な男ね」
 とても花婿に対するものとは思えぬ言葉に、スタシア夫人は目をむいた。おろおろと手巾(ハンカチ)を揉み絞る彼女の背を、侍女が無言でさすっている。その光景を横目に、クラウディアは、胸高に腕を組んだ。花嫁らしからぬ更なる行動に、スタシア夫人は今にも泣きそうに目を潤ませている。この異国の姫君は、これ以上何を言い出すのか――あれやこれやと想像するだけで、彼女の血圧は相当上がっているに違いない。が、クラウディアはそのようなことはまるで気にも留めていなかった。ちらり、とルーラの姿をもう一度眺めると。今度は侍女を――ツィスカを扇で招き寄せる。
「これから私の言うものを、すぐに用意できるかしら?」
 器量を問うような挑戦的な物言いで、クラウディアは彼女に命ずる。その内容を耳にしたルーラは目を見開き、スタシア夫人は声にならぬ悲鳴を上げた。
「妃殿下」
「妃殿下、それは」
 けれども命を下されたツィスカは、淡々と頷き。
「それでは、早速用意してまいります」
 一礼するとスタシア夫人が止める間もなく、退室していった。
「スタシア夫人は、ここで支度をして頂戴。これは、お願いではなく命令です。ルーラも、わたしの言葉に従うように。わたしは、王太子の后ですから。わたしの言葉は、殿下の言葉と思って従うこと。宜しくて?」
 びしりと言い放つクラウディアには、ルーラですら言葉を返せない。彼女が何を考えているのか。理解しようとしても、誰も出来ぬだろう。スタシア夫人は、花嫁は奇矯な姫だと、内心嘆いているのか、ぶるぶると唇と指先を震わせながら、すがるようにルーラを見つめている。この側室ならば、我儘な姫君の態度を改めさせることが出来るかもしれない――そんな、愚かしい期待を抱いているのか。
「そろそろ、時間になりますね」
 クラウディアはスタシア夫人を振り返る。夫人は、はっと視線を揺らし、不躾にも小さく喉を鳴らす。
「先に、廟に詣でてから、神殿でしたね? ああ、侍女が案内をしてくれますから大丈夫。夫人はこちらで、ルーラの支度を手伝って頂戴」
 彼女は婦人の返答を待つことなく、先ぶれの侍女と共に部屋を後にした。



 神々と祖先への報告を終えた花嫁が衆目の前に現れるのは、日がだいぶ傾いてからのことである。夕闇迫る時分に、篝火の明かりに照らし出される花嫁――その幻想的な図式をフィラティノアが重んじているからか。それとも、かつては蛮族として異国の娘を掠め取り、獲物を誇示する感覚で、花嫁たる女性をみなの前にさらした名残なのか。その、どちらとも言えぬが。
 国王夫妻を始め、諸侯居並ぶ中にアヤルカス王女クラウディアが登場したとき、そこにはざわめきが起こった。

「なんだ、あれは」
「どういうことだ?」

 花嫁の介添えは、女官長と決まっている。もしくは、花嫁の母国から招かれた、親代わりに当たる貴族。そうなっているのだが。
 クラウディアの手をとり、粛々と厚い絨毯の上を歩むのは、見慣れぬ若者――いな、近衛士官の礼装を纏った、男装の麗人であった。
「陛下」
 国王の隣、后ラウヴィーヌも眉を顰めて、夫に囁く。扇で口元を隠しつつ、
「あれは、どのような?」
 どのような意図で、王太子の側室を介添えとして、正室たる花嫁が入場してくるのか。そのわけを知りたいのは、国王夫妻だけではないであろう。しかしその質問に答えるものはなく。夫妻の正面、一段下の席にて花嫁を迎える王太子自身も、また。答えを知らぬ人物の一人であった。
「アルメニア皇女、アルティナ・ティアーナ・クラウディア・エミリア・ルクレツィアにございます」
 ルーラの手を離れ、花嫁が花婿の前に膝を屈する。よく通る声で名を告げた彼女のもとに、ディグルは静かに進み出て。彼女の顔を覆う被り(ヴェール)を捲りあげた。

「おお」

 列席者の中に、別のどよめきが起こる。
 現れた花嫁の容貌、その麗しさにみなが見惚れてのことであった。美男美女揃いで知られるフィラティノアにあっても、これほどの美貌の姫君はそういないであろう。一同の感想は、ほぼ同じであった。白い貌のなか、生き生きと輝く古代紫(むらさき)の瞳。あれぞ、神聖帝国皇族の証、覇王の瞳と、人々は囁きあう。
 これで漸く、フィラティノアは神聖帝国の血を得ることが出来たのだと。
 先程まで不審の対象であった側室の存在すら忘れてしまったように、一斉に人々の中から拍手が沸き起こった。



「どういうつもりだ?」
 王太子夫妻に用意された席に着いた際、真っ先にディグルが掛けた言葉がそれであった。祝辞を述べにやってくる諸侯を適当にあしらいつつ、彼は冷ややかな目で新妻を見やる。
「ルーラを介添えにするために呼びつけたのか?」
 それは、何にも勝る彼女への侮辱だと。暗に仄めかしながらディグルは言葉を続ける。
「あてつけか?」
「さぁ?」
 クラウディアは扇で口元を隠し、涼やかに笑った。彼女の傍らには、介添えであるルーラが控えている。俯いているためにその表情は見えぬが、無表情ではないことは確かである。握り締めた指先が、色をなくしている。おそらく、ルーラは苦悶しているのだろう。主人であるディグルと、心を寄せてしまったクラウディアとの間で。
「それよりも、『滅びの娘』を花嫁として迎えた感想は、如何?」
 揺れる睫の下から、古代紫の視線がディグルを射抜く。
「『クラウディア』は、神聖帝国を滅ぼしたアルメニア最後の王女。わたしは、アルメニア帝国最後の皇女。アヤルカス王女とされているけれども。アルメニア皇女には変わりはないわ」
「ほう? では、俺はいずれ暗殺されて。おまえに王位を簒奪されるのか」
「そういう可能性も、無きにしも非ずね」
 楽しい毎日になりそうだと、クラウディアが笑う。ディグルはまるで感情をあらわすことなく。クラウディアにも不吉なる伝説にも興味がないのか、ふっと彼女から視線をそらした。その、端正なる横顔に視線を向けたクラウディアも。やがて、彼から興味を失ったように顔を背ける。

「おめでとうございます」
「おめでとうございます、両殿下」

 何も知らぬ人々は、祝福の言葉を二人に投げていく。いつ果てるとも知らぬ言葉の波にうずもれるようにして。時だけが無常に過ぎ去っていった。


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