AgneiyaIV
第二章 輝ける乙女 
1.黎明(2)


 城下を駆けるのは、何日ぶりだろうか。
 長らく離れていた愛馬を厩舎から連れ出し、一人馬上の人となったアグネイヤの背に
「気をつけて。我が君」
 いたずらっぽく微笑むイリアの声が投げられた。アグネイヤは近衛騎士の略式礼をとると、馬の腹をこすり上げ、一気に城門を駆け抜ける。槍を構えた番卒も、まさか傍らを走り去った少年騎士が神聖皇帝とは思うまい。騎士に対する礼をして、その姿を見送って。平素の如く愛想の無い顔で任務を続けるのだ。
 早朝、と言ってもおかしくないこの時刻。朝靄に包まれた街は眠りについているかと思えば、さにあらず。既に広場には市が立ち、行商人が忙しなく行き交っている。辻々で花や果物を売る露天商も、街の住民を起こす勢いで呼び込みの声を張り上げていた。
「手土産も必要か」
 呟いてアグネイヤは市の前に馬を止めた。暫くぶりに尋ねる相手である、土産のひとつも無ければ格好が付かないかもしれない。アグネイヤはオルトルートの好物である、アリカの砂糖漬けと北方産の蜜酒を購入すると、再び馬へと戻った。
「兄ちゃん、これもおまけしとくよ」
 彼女のところに行くんだろう? と訳知り顔の商人が、香り豊かなバルナバの実をひとつ、投げてよこした。目にも鮮やかなその実を懐に入れて、アグネイヤは「ありがとう」と礼を述べる。述べるついでに、小銭を指ではじいた。器用にそれを片手で受けた商人は、にやりと笑い
「成功を祈る」
 意味ありげに口元をゆがめ、片目を閉じた。その彼に軽く会釈をして、アグネイヤは目的地に向けて馬を走らせる。
 オルトルートは偏屈で有名な細工師ではあるが、その住居は意外にも郊外でも森の中でもない、セルニダの一等地であった。貴族の館が立ち並ぶ整然と区画されたその地区に、ひとつだけ古びた小さな神殿がある。その地下が、彼女の仕事場兼住まいであった。既に誰も神を祀ることの無くなった、今にも崩れそうな建物の下に、大陸中の乙女のみならず王侯貴族をも魅了する、『神の手』もしくは『魔性の手』を持つ細工師がいるとは、誰が思うのだろうか。それでも、噂を聞きつけ、彼女の所在を突き止めた貴族たちの使いが、列を成して押し寄せてくるのだ。
「ああ、やっぱり」
 今日も例に漏れることは無く、神殿の前は人であふれていた。正確にはあふれるほど人は存在しないのだが、その表現のほうがしっくり来るほど、狭い入り口に人が殺到している。
「はいはい、順番ね。整理札を配りますから、あわてず騒がずお並びください。ご要望は、番号順に承りますからね。おっと、ずるはいけないよ、ずるは」
 陽気な声とともに、木札を配布しているのは、亜麻色の髪に青灰色の瞳を持つ、ヒルデブラント生まれのエーディトだった。数年前にオルトルートの元に弟子入り志願をしたのだが、いまだ認められず小間使いに徹している、自称『乙女のごとき』少年である。歳はアグネイヤと同じか、もしくはひとつ下か。若いうちに苦労をしているだけあって、世慣れている上口が巧い。細工師としてよりも、商人としての才覚のほうが彼にはあるのではないかと、オルトルートに言ったことがあるのだが。

 ――さすがは未来の皇帝陛下。人を見る目があるね。

 見事に茶化された覚えがある。
 けれども、今のエーディトの立場を見てみれば、アグネイヤの見解があながち間違いではなかったことがうかがえて。オルトルートの返事は茶化しでは無く、素直な回答だと思えるのだ。
「エッダ」
 彼を愛称で呼ぶと、自称乙女のエーディトは、くるりとこちらを振り向いた。そして、そこに佇む人物がアグネイヤであることに気づくと、芝居がかった仕草で驚きを表現し、
「これはこれは、若様。宜しいんですかい、こんなときにこんなところをほっつき歩かれて。ご自身の結婚披露宴の最中でしょうわわわ」
 大仰に騒ぎ出すのを、アグネイヤはあわてて口を塞ぎに走った。
 突然の闖入者に、秩序を乱す不届きものと冷たい視線を一斉に向けた貴族の使いどもは、一層その目を厳しくして、アグネイヤを見つめている。どう見ても一介の騎士、それも良くてまだ見習いと思われる年端も行かぬ少年が、知り合いだからと順番を飛び越して工房へと足を踏み入れてしまうのではないかと危惧しているのだ。その気配をひしひしと感じて、アグネイヤは
(ふだ)をよこせ、エッダ」
 幾分不機嫌な面持ちで、エーディドから番号札を奪い取る。そのまま最後尾へと歩こうとする彼女を、「おやおや」といった目で彼は見つめていたのだが。はた、と気づいたように辺りを見回し、ことさら大きな声で。
「アヤルカスの若様、ああ、すっかり忘れていましたよこのエーディト一生の不覚。師匠に言われてお約束の品を届けに行くところだったのです。けれども、折悪しく接客に気をとられ、肝心のお役目が果たせずじまい」
 芝居の口上もかくやと朗々と語り始めたのだ。
「エッダ」
 眉をひそめるアグネイヤ、表情を険しくする使いどもをまるで意に介さず、エーディドは自身の世界に入り込んでしまったのか、己の身を抱き、(おもて)を覆いながら更に言葉を続ける。
「まさか、若様ご本人が催促に来られるとは、お詫びしようにもしきれません。ああ、愚かなるわたくしをお許しくださいますか若様。許すと一言仰られるならば、わたくし早々に師にご来訪をお伝えしてまいりましょう」
 よよよと今にも泣かんばかりのまなざしを作り、エーディトはアグネイヤの手から土産の品を掠め取った。ごそごそと袋を漁り、アリカの砂糖漬けを一つ摘まみ出すとそれを口に放り込み。満面の笑みを持って踵を返す。その後姿を呆気にとられて見送ったアグネイヤに、先に並んでいた使いのものが声をかける。
「直接の知り合いの方ですかな?」
 幾分、不機嫌な物言いである。アグネイヤは曖昧に頷いた。エーディトととはもちろん、オルトルート本人ともかなり長い付き合いである。アグネイヤの誕生祝にと、クラウディアと揃いの指輪を頼みもせぬのに作ってくれたのは、先代のオルトルートだが。現在のオルトルート――実質上二代目に当たるのだが――とも、面識がある。この国の皇女であったのだから、それは当たり前のことなのだが。彼ら異国の貴族の使者にしてみれば、その『特権』が気に障るらしい。オルトルートは権威・権力に屈しない、例え君主の依頼でも、先の約束を優先すると言われている。よもやその理を曲げてまで、自国の貴族の依頼を先にまわすようなことはせぬだろうが、とその使者は不審がっている様子である。
 あのオルトルートに限って、そのようなことは無い。あくまでも、先着順。話を聞くだけ聞いて、気がむけば受ける。気が乗らなければ断る。根っからの職人というよりも、芸術家である。そもそも、現在のオルトルートは、依頼の品を依頼通りに作らぬことで有名なのだ。自身の気のむくまま、好きに変更して見事な造形美をそこに描き出す。その見事さに、依頼通りでなくとも良い、オルトルートの手がけたものであるならば、何でも欲しいと希望する貴族が殺到するのである。
「まったく、これだけ待たされて、気が向かないの一言で追い返されたのでは我が身の立つ瀬が無いな」
 ぼやくのは、その更に前に佇む使者である。北方よりやってきたのか、燃え立つような黄金の髪をした、そばかすだらけの青年である。彼は不遜に腕を組み、壁に寄りかかりながら天を仰いでいた。どこぞの令嬢からの使者であろうか。アグネイヤは「気の毒に」と心の中で呟いたが、それが表情にも出てしまったのだろう。彼は目を吊り上げてアグネイヤに迫った。
「貴様、今俺を笑っただろう?」
 胸倉を掴まんばかりの勢いのその男の腕をするりと逃れて、アグネイヤはかぶりを振った。
「いいや、笑った。自分が贔屓されているのを知っているんだろう、この小倅が」
 旅先で出会った無頼漢同様、彼もアグネイヤに掴みかかってくる。相手がならず者であれば、有無を言わせず剣で白黒をつけるところだが。彼は違う。異国の貴族――下手をすれば、王族の使者である。滅多なことは出来ない。
「僕は何も」
 こういうときに、神聖皇帝の名は重苦しい枷となる。身を引いたアグネイヤの手首を掴み、彼は彼女を引き寄せた。反射的に身をかわそうとする彼女の指に、オルトルートの指輪が嵌められているのを見て、彼は更に形相を険しくする。
「この指輪も、オルトルートの手だな」
 地獄の底から響くような。陰鬱な声にアグネイヤは眉を顰める。指輪ひとつでそこまで怒ることも無いだろうにと、呆れ顔を作ったところで再び男が手に力を込めた。
「また、俺を馬鹿にしたな」
 この男、かなり単純に出来ているらしい。アグネイヤは息をつき、軽くその手をねじり上げた。すると彼は先ほどまでの威勢はどこへやら。情けなくも悲鳴を上げて、彼女の手を振り解こうともがき始める。
「待ちくたびれるのは解るけど。人に当たるのは良くないな」
「なに?」
 彼は目を尖らせたが、そこまでだった。周囲の使者たちが
「大人げない」
「子供相手に何をやっている」
 それぞれ彼を宥めはじめたのである。さすがに彼も分が悪いと悟ったのか、アグネイヤから手を離した。いな、離すことが出来た。アグネイヤは指の跡が付いてしまった手を、二、三度振ってから面々に礼を述べる。
「いやなに、ちゃんと貴殿は順番を守ろうとした。無礼なのは、こやつのほうだ」
 前に立つ使者は、言って親指で件の男を示す。
「なにせ、いきなり皇帝陛下と国王陛下の即位だろう。献上の品が間に合わず、方々の国が右往左往しているらしい」
 苦笑を浮かべる彼に、アグネイヤはもう一度頭を下げる。彼らをいらだたせる原因は、自分にあったのだ。しかも。
「では、もしかして。ご依頼の品の宛先は、神聖帝国の……」
「皇帝陛下と巫女姫にだ。揃いの指輪を奉るよう、我が主君から命ぜられてな」
「こちらもだ。陛下は男子の扱いを受けていらっしゃるが、女性とのことですからな。姫君に人気の高いオルトルートの作品を何か献上できればと」
「おお、わたくしも」
 ざわめく使者たちの言葉に、更に胸が痛むアグネイヤである。彼らの依頼品の行く先は、すべてアグネイヤの元らしい。それがわかってしまうと、もう、何も言うことは出来ない。ひたすら身をちぢ込めて、俯くだけである。けれども、件の青年だけは違っていた。そばかすだらけの顔をわずかに赤らめて、つんとそっぽを向くようにして。
「神聖帝国だかなんだか知らないが。おままごとに付き合わされるこちらの身にもなって欲しいものだ、皇帝陛下も。女同士で婚礼? 笑わせてくれる」
 はっ、と乾いた笑いを投げ捨てた彼は、何を思ったのかそのまま踵を返し。呆気にとられた人々を尻目に、その場を去っていったのであった。
「彼は」
 いいのか、と瞠目したアグネイヤに、傍らに立つ中年の男性がかぶりを振った。
「カルノリアの、近衛の士官だ。だれか、懸想した夫人に贈り物をしたいらしい」
 恋に溺れた男の、哀れな姿だと彼はアグネイヤに囁いた。
 レンシス、という名だけは聞いているが、その他のことはここにいた使者たちも誰も知らないらしい。アグネイヤは遠ざかる彼の姿を見つめ、無意識に手首をさすった。そこへ。
「おお、お待たせいたしました、アヤルカスの若様。ささ、ご依頼の品をお渡しいたしますので、ずずいっと中へ」
 お調子者のエーディトが鼻歌まじりに現れたのである。アグネイヤはよほど彼を殴ろうかと思ったが、周囲の
「受け取りであるなら。仕方なかろう」
 の声に押されるようにして。恐縮しながらもエーディトに従い、オルトルートの元へと向かうのであった。


「おや、陛下。御自らお運びとは恐縮だね」
 地下に通じる階段、それに足をかけたときに下から声が湧き上がってきた。階下(そこ)に佇む声の主は、赤毛の女性である。炎を思わせる深紅の髪、きらりと光る猫のごとき琥珀の瞳。人が彼女を魔女と呼ぶのが、なんとなくわかる気がする。そんなことを考えながら、アグネイヤは小走りに彼女に近づいていった。
「すまない、仕事中に」
 詫びを入れれば、
「ああ、あたしも陛下に会いたかったんだよ。ちょうど良かった」
 目を細めて、くいくいと手招きをする。アグネイヤは首をかしげて、促されるまま奥へと向かう。通されたのは、工房の手前。彼女が居間として使用している部屋である。密閉された空間であるのに、息苦しさを感じさせないのは、なぜだろう。天窓からわずかに光が差し込むせいか、それとも、がらんとしているせいか。アグネイヤは獣の皮の敷かれた椅子の上に腰を下ろすと、改めて辺りを見回した。
「変わっているのかいないのか」
 先代オルトルートが愛用していたものは、そのままそっくり残っている。壁に描きこまれた、工芸品の図案。神殿の名残である女神の浮き彫り。二代目である彼女――ティルデは、ものに頓着するほうではないので、師の思い出を残しているというのではなく、どちらかというと面倒なのでそのままにしているといったほうが正しいのであろう。
 アグネイヤは差し出された(カップ)を受け取り、礼を述べてからティルデを見上げる。
「僕に、会いたかったというのは?」
 尋ねると。
「何をお言いだ、陛下。即位とご婚礼のお祝い品だよ」
 彼女は、きししと笑う。その笑い方が、また魔女の二つ名に相応しい。
 ティルデはなにやら戸棚から取り出すと、それをアグネイヤに放り投げた。
「え?」
 反射的に受け止めたそれは、三連の指輪であった。白金を三つ重ねたようであるが、そこはティルデ。普通には無い細工が施されている。ひとつひとつの指輪に描かれたものをぴたりと合わせると、そこにはアグネイヤの名が現れた。

 ――エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤ

 その更に後ろに刻まれた文字。それは、神聖皇帝を意味する言葉であった。
「ティル……オルトルート」
 顔を上げれば
「帝冠を頼まれたんだけどね、どうも気が向かなくてね。小さくなったみたいだね。ああ、ケチったわけではないよ。それもなかなかどうして、面倒なものだ。裏っ側を見てみな、陛下。ちゃんと神聖帝国の紋章を刻んどいたよ」
 ティルデがニヤリと笑う。言うとおりに裏を覗くと、そこには、双頭の竜――失われた神聖帝国の紋章が透かし彫りにされていた。
「そいつが、即位の祝い。で。こっちが、婚礼の祝い」
 投げ渡されたのは、腕輪(アームレット)である。イリアと揃いのつもりなのか、まるで同じものが二つ、光の筋を描いて、アグネイヤの膝の上に落ちた。
「それから、これは巫女姫に」
 彼女が懐から出したもの。それは、銀の腕輪(ブレスレット)だった。銀の輪が幾重にか重なった、繊細な腕輪。そこに小さな鈴がみっつ。つけられている。軽く腕輪を振ると、鈴はしゃらしゃらと儚く音を立てる。今までの細工の中で最も丁寧に作られているのではないかと思うほど、それは精巧に出来ていた。ティルデは自らを神聖帝国の末裔と称しているだけあって、やはり『巫女姫』に対する思い入れが深いのであろう。
 に、しても。
 彼女の即位が決まってからのわずかな期間に、これだけのものを作り上げたというのか、ティルデは。アグネイヤは半ば唖然としながらも、その繊細かつ優美なる造形にしばし見入っていた。
「国王陛下からも、なんやかんやと頼まれてたけどね。まあ、陛下のほうが長い付き合いだ。気が向いたついでに作っといたよ」
「オルトルートは、順番を守ることに定評がある職人じゃなかったのか?」
「なにをお言いだ、陛下。それは注文じゃなくてあたしからの祝いの品だ。いつも世話になっているからね。陛下と皇女殿下は、あたしの一番のお客だよ」
「ただでこれだけのものを僕にくれるのか?」
 さすがにそういうわけには行かないだろう。この指輪ひとつとっても、それこそ貴族が所領をひとつ手放さなくてはならないほどの代価を支払うべき価値があるものである。普通に購入したならば、それこそ莫大な金額となるはずだ。それを、祝いとはいえただで受け取るのは心苦しい。アグネイヤが困惑の表情で
「だったら、これは返す」
 言おうとするのをオルトルートは手で制して。
「受け取っときなよ、陛下。それとも、あたしの細工が気に入らないのかい?」
「そんなことはない」
「だったら、黙って受け取るんだね。二度は言わないよ。ほれ、身につけてみな。似合うだろう、陛下には」
 言われるまま、アグネイヤは指輪を左手の人差し指に嵌めてみる。なるほど、彼女が作成しただけあってアグネイヤの指にそれはぴたりとはまった。腕輪も二の腕に吸い付いたのかと思うほど大きさがあっている。きちんと採寸をしたわけでもないのに、この仕上がりはどうだろう。
「さすが」
 言いかけて、アグネイヤは口をつぐんだ。玄人をほめてはならない。客の要求をすべて呑んでこそ、それ以上のものを提供してこそ、玄人なのだ。彼らをやたらと賞賛することは、その自尊心を傷つけることにもつながる。アグネイヤは自身の指を見つめて、ただ
「ありがとう」
 礼を述べるだけにとどめた。左手にもうひとつ嵌められた指輪、これは初めて彼女がこの工房で購入したものである。それもティルデの手によるものだと聞いたとき、アグネイヤは驚きの声を上げたものだった。
「――大切に、するよ」
「ああ、そうしてくれるだろうよ。陛下はあたしの一番のお客だ。これから、陛下に献上する装飾品を山と作らないといけないけどね。陛下が使ってくれると思うと、腕の揮いがいがあるよ。何が欲しいか、今のうちに言っておいてくれると助かるけどね。それ作るからさ」
 片目を閉じるティルデに、アグネイヤは苦笑を返す。そうなのだ。表に並ぶ使者たちは、これからアグネイヤその人に献上するための品をティルデに、オルトルートに依頼するのだ。思い出すたびに申し訳なさで一杯になる胸を押さえて、アグネイヤはゆっくりと辺りを見回した。
 棚の上には、ティルデが手慰みにこしらえた装飾品が無造作に転がっている。どれひとつとっても、かなりの値がするものなのだが、当の作者はそのようなことには無頓着らしい。アグネイヤが、つと立ち上がってそのひとつを手に取ると、ティルデは
「ああ、それ」
 きしし、と再び魔女の笑いを浮かべた。
「欲しいかい? 陛下。それなら、あんたに似合うと思うよ」
 赤みの強い紫水晶を使用した、耳飾(ピアス)である。アグネイヤの手の中で、小さな光を放つそれは、双子に良く似合うと思われる細工物であった。白金の土台に映える、小さな三粒の水晶――その散りばめ方が、ティルデらしく洗練されている。
「僕じゃないんだけどね」
 人にあげたいのだと彼女が言うと、ティルデは
「皇女殿下にかい?」
 にんまりと笑う。この地下の工房にも、クラウディアの婚儀の噂は届いていたのだと思うと、ずきりと訳も無く胸が痛んだが。アグネイヤは小さくかぶりを振った。
「違う。クラウディアには、別に頼みたいものがある」
「おや?」
 ティルデは琥珀の瞳を見開いた。
「クラウディアへの祝いの品は、ティルデの好きなように作って欲しい。あとで、僕がとりに来るから。この耳飾は、別で。――幾らになる?」
 代価を問うと、ティルデは喉を鳴らした。陛下から代価は取れないよ、と小悪魔的な笑みを向けられるが、はいそうですかと引き下がることは出来ない。どのような貴族も王族も、一般市民と同じ扱いをするオルトルートだが、なぜかアグネイヤにだけは甘いのだ。それは、彼女がアルメニアの君主――現在は神聖帝国皇帝なのだが――であるからに違いない。そう思うのだが。
「了解だよ、陛下。その耳飾の代金と、皇女殿下への贈り物の代金は、一緒に請求するから。そのときに支払っておくれ」
 さて、時間がなくなってきた、と。ティルデはアグネイヤを追い出すように仕事場へと戻っていった。本当に、アグネイヤには祝いの品を渡すだけが目的だったのだろう。久方ぶりの再会だというのに、ろくに話もせずにそっけなく去ってしまうところがティルデらしいといえばティルデらしい。それに、詰め掛けている依頼人の数を思えば、そうそうアグネイヤと雑談に興じている時間も無いのだろう。
「また、来るよ。ありがとう」
 工房へと消える小さな後姿に声をかけて、アグネイヤも踵を返した。結局、品物を受け取るついでに先に注文までしてしまう形となったのが外で待つ貴族の使者たちには申し訳なく。彼らに合わせる顔が無いのだが。あいにく、入り口も出口も同じ場所、一箇所のみである。アグネイヤが気まずさを隠せないまま表に出ると、そこに佇む使者たちは温かな湯気の立つ香茶とアリカの砂糖漬けを振舞われ、一息ついているところであった。
「おお、これは、馳走になりました」
 使者の一人がアグネイヤの姿を見つけると深々と礼をする。それに倣ってほかの人々も次々に頭を下げた。何事かと思いきや、どうやらエーディドが

 ――あちらの若様からの差し入れです。

 とばかりに、先程手土産として持参したアリカの砂糖漬けを、香茶とともに配ったらしい。それに気を良くしたのか、使者たちの態度はアグネイヤに対してかなり好意的であった。
 ついでに、エーディドがアグネイヤのことを『さる高貴なお方』であると人々に紹介したらしい。皇帝陛下の顔見知りでもあるとも告げているようで、使者の中には
「陛下に良しなにお伝えください」
 あからさまに媚を売るものもあった。そんな彼らに曖昧に頷きながら、アグネイヤは先程自身の前に並んでいた壮年の男性を見つけて、問いかける。
「すまないが、あのレンシスという青年の逗留先が解るものがいたら教えてはくれないか?」
 名前くらいしかわからぬ、と彼らが言っていたことは覚えている。けれども、何かしら情報を得ているものがいたら。藁にすがる思いで尋ねたことが功を奏したのか。先頭近くに並ぶカルノリア人らしき男性が、
「シュティラセンの辺りに宿を取っていると聞き及んでいますが」
 自信は無いけれども、といった不安げな表情で情報を提供してくれた。アグネイヤは彼に礼を言い、繋いであった愛馬にまたがると
「シュティラセンか」
 繁華街に当たるその通りの名を呟いて。軽く馬に鞭を当てた。


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