AgneiyaIV | ||||
断章 白薔薇の乙女 | ||||
美姫 |
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部屋には、シェラとツィスカ、それにアリチェとアロイスのみが居た。アロイスは、 「表の様子を、見ていてください」 アリチェに指示を出す。彼女は優雅に一礼し、扉の傍に立つ。まるで置きものの如く、彫像の如く、美しき女は瞬きもせずに此方を見つめている。その不気味さに、シェラは気分が重くなった。アロイスとアリチェ、この二人が前面に出てきた事態は、決して歓迎されることではない。アリチェはともかく、アロイスは『敵』だ。カルノリアを食い物にする、性質の悪い蟲。彼のせいで、ハルゲイザは失脚した。 アロイスの背後で糸を引いているのは、タティアン大公だとばかり思っていたのだが、どうやら違うらしい。彼はいったい何を思って、カルノリアを蝕み始めたのだろう。長らく疑問に思っていたのだが、漸くひとつ、確信が持てた気がする。 「アインザクト」 背後の寝台に眠る、ツィスカ。彼女と同じ容姿を持つアロイス。人種の坩堝たるユリシエルだからこそ、特に気にもとめなかった。金糸の髪と緑の瞳。アインザクトの大公家に多く見られる容姿である。亜麻色の髪に黄昏の瞳も、アインザクトの特徴であると、シェラはつい最近知った。 そう、黄昏の、青灰色の瞳。 あの瞳は。 「色々と、説明しなければならぬことがございますね、シェルマリヤ姫」 アロイスが含み笑いを漏らす。 「そこのお喋りなお女中が、中途半端に漏らしてしまっていますが――ユリシエルやカルノリアといった、小さな小さな世界しか知らなかったシェルマリヤ姫、側室といえど神聖皇帝のお妃となられた今は、さぞや見聞を広められたでしょうね。私の言葉に耳を傾けられるのが、その証拠です。ああ、私もかなりお喋りですからね。私の話に付き合うとなれば、一晩以上かかってしまうのかもしれません」 滑らかな弁舌に、シェラは辟易した。口数の多い男は嫌いだ。ティルと言いエッダと言い、このアロイスと言い。最近、自分の周りに現れる男は、口数が多すぎる。 「あなたは、愚かではない。アリチェの言葉で、もうお判りでしょう。私たちは、あなたのご両親とは、長く親しくさせていただいております」 嘘だ、とは言い切れなくなっていた。 嘗て、皇后の傍に侍るアロイスに関して、父は皇帝に苦言を呈したことがある。皇帝は、心身不安定なハルゲイザのため、アロイスのことは見逃してくれるように父に言っていたはずだ。だから、シェラも自然、父も母もアロイスを快く思っていないのだと考えていた。宮廷における催しの際も、形ばかりの会話しかアロイスとは交わさなかった。アロイスも進んで第一将軍夫妻の元に来るようなことはせず、目が合えば、廊下ですれ違えば、挨拶を交わす程度であったに違いない。 もしも、父の瞳が緑であったなら。シェラはもっと早く、この思惑に気づいていただろう。父の瞳が、青灰色であったから、――というのは、最早言い訳でしかないかもしれぬが。 口にすべきではないことだ。自分もはっきりと確信してしまっている。 「私は」 鴉の娘ではない。アインザクトの末裔なのだ。 アインザクトとスヴェローニャ、カルノリアに恨みを抱く二つの血を受け継いだ娘。おそらく、二人の姉はそのことを知っていたのだろう。知っていて、次姉はダルシアに嫁いだ。 「今更、それを教えて、私にどうしろと?」 「下手に動かないで戴きたい、シェルマリヤ姫。神聖皇帝の側室にして、カルノリア皇帝の姪御である貴方の存在は、大きすぎますので」 「シェル、マリヤ?」 背後で、ごそりと何かの蠢く気配がした。シェラが振り返るよりも、アリチェが動くよりも早く、それはシェラの首に巻きついてきた。ぐっ、と、呻き声を上げるシェラ。彼女の首を締めあげているのは、ツィスカだった。気を失っているとばかり思っていたのだが、いつの間に覚醒していたのか。 「シェルマリヤ……シェルマリヤ……巫女姫ではない……鴉の娘……わたしを、誑かして……」 耳元で繰り返される呪詛に、シェラは血の気が引く思いがした。騙したのではない、言い返そうとして、続く言葉を失う。騙したのだ。自分はあのとき、ツィスカを騙したのだ。罪悪感がシェラの動きを鈍らせる。行動を阻害する。 「シルマリア姫」 遠のく意識の向こうで、アリチェの声が聞こえる。視界に闇が落ち、シェラはそのまま沈みそうになったところで、不意に解放された。一気に流れ込んでくる空気が、肺に痛い。喉を押さえ、重い咳を繰り返しながら膝を折る彼女を支えたのは、アロイスだった。大丈夫ですかとの呼びかけに、小さく頷く。その背後で、ツィスカの押し殺した悲鳴が聞こえた。 涙で滲む目をそちらに向ける。と、脇腹を抉られたツィスカが、床に崩れるところだった。アリチェの手に光る刃には、血糊が付着している。彼女がツィスカを刺したのだ。 「この娘」 止めを刺そうとするアリチェを、シェラは止めた。ツィスカは、アインザクトの娘だ。『同胞』を殺めてはいけない。アリチェの刃がツィスカの胸に振り下ろされる寸前、 「やめなさい」 アロイスもアリチェを止める。二人の制止に戸惑ったアリチェの隙をつき、ツィスカが彼女の手から短剣を奪い取った。それを逆手に構え、獣の如き咆哮を上げながらシェラに突進してくる。さながら、手負いの狼。アインザクトの紋章を彷彿とさせる攻撃に、シェラは死を覚悟した。が。 「やめなさい、と言っているでしょう」 どす、という肉を断つ重い響きに、叱咤の声が重なる。同時に上がる血飛沫、その生温かい命の片鱗を浴びて、シェラとツィスカは呆然とアロイスを見た。彼は自らの手を盾として、ツィスカの凶刃を受け止めていた。白い装束は派手に裂かれ、右腕からおびただしい量の鮮血が溢れている。 「あ……あ……」 それに怯んだか、ツィスカが凶器を取り落とした。かつん、と虚しい音が室内に響き渡る。 「あ……アロイス、殿」 ツィスカの血の気を失った唇から、神官の名が零れた。美貌の神官は、そっとシェラから離れると、ツィスカの前に立つ。大きく見開かれた緑の双眸が、同じ色の瞳を見つめる。やはり、この二人は顔見知りだったのだ。シェラが息を整えて身を起こす、その前で。 「生きていましたか。さすが」 アロイスが呟いた。シェラに向けられた優しさも慈愛も備わっていない、嘲るような、蔑むような声で、彼はツィスカに――『同胞』に呼び掛ける。 「鴉の姫」 と。 「から……す?」 「鴉?」 ツィスカとシェラは、それぞれに怪訝な面持でアロイスを見つめた。 ことにツィスカは何を言われたのか理解しがたいらしく。患部を押さえることもせず、呆然と立ち尽くしている。 「シェルマリヤ姫を手にかけようとするなど、やはり穢れし鴉の末裔か。浅ましい。誰を犠牲に生き延びた?」 間髪を入れぬアロイスの言葉に、ツィスカはただただ目を見開くばかりであった。何を言われているのか判らない、そんな眼をしている。それは、シェラも同じだった。アリチェも。アロイスはツィスカの右腕を捩じ上げ、苦痛に歪む彼女の鼻先に自身の顔を近づけてから、 「答えよ、ルフィーナ・イルザ・ソフィア・イリーナ」 ありえぬ名で呼びかける。 小刻みにかぶりを振るツィスカの耳元で、『巫女姫の星石』が儚く揺れていた。 ◆ 名を呼ばれたような気がして、ソフィアは顔を上げた。 「姫様?」 傍らに居たリナレスが、不審げに目を細める。それに何でもないと答えて、彼女は再び、手にした竪琴を爪弾き始めた。自然と口から零れるのは、『黄昏の戦乙女』。シェラの母、カルテュエラらより聞き覚えたその歌を、リナレスはアインザクトの戦姫を歌ったものだといった。何故、カルテュエラがアインザクトの歌など知っていたのだろう――考えてから、ああ、と納得する。この歌は、先にシェラの父・第一将軍が歌っていたのだ。シェラの誕生を祝いに、父帝と共に第一将軍の屋敷を訪れたとき、シェラの眠る揺り籠を前に、将軍が何処の国の言葉とも判らぬ歌を歌っていたことを思い出す。この曲調は、あの歌と全く同じだった。 ――叔父様? 黄昏に煙る、柔らかな眼差し。彼は、第一将軍は、よくソフィアを抱きあげてこう言っていた。 ――我らが姫。 と。 その台詞が、アロイスのそれと重なる。 我らが姫。カルノリア皇女なれば、当り前のことを言う、とそのときは思っていたのだが。 「我らが、姫」 ソフィアの手が止まる。 ある種の予感が、脳裏を掠める。もしも、彼女の想像が正しいのだとしたら。 自分はいったい、誰なのだろう。 ◆ 赤子のすり替えというものが行われることを、知らないではなかった。鳥に托卵という行為があるように、人間もこっそりと違う夫婦に自身の子供を育てさせてしまう――本人たちは知らぬまま、本当の親子と思って時を過ごす。こうして、知らされることがなければ。 「そんな」 ツィスカの唇は震えていた。違う、と幾度も彼女は繰り返す。 けれども、アロイスは無情に否定する。彼女の呟きの数だけ。 「おまえは、同胞ではない。アインザクトの娘ではない。無論、大公殿下の末裔でもない。お前に流れる血は、鴉の穢れた血。お前こそが、カルノリア皇女ソフィアだ」 カルノリア皇女ソフィア――ツィスカがそうだとしたら、セグに嫁いだソフィアはいったい何者なのだろう。彼女こそが、ツィスカなのだろうか。アインザクト大公の末裔にして、かの家の現当主となるひとなのか。 だとしたら。 (何と惨い) シェラは顔を顰めた。 ソフィアは――現セグ大公妃は、愛する夫と、侍女を殺され、義兄とその愛妾に辱めを受けていたのだ。本来であれば、その辱めはこの目の前の女が受けていたはず。あの優しいソフィアが、理不尽な苦しみを背負うことはなかったのだ。そう思うと、怒りが込み上げてきた。自身を庇ってくれた恩も、偽りを言ってしまったことも、綺麗に頭から吹き飛んだ。シェラはツィスカと呼ばれていた女の胸倉を、力任せに掴んで引き寄せる。 「貴様、貴様のせいで、ねえさまは……!」 昂る感情のせいで、上手く言葉が出てこない。呻り声に等しい声を上げ、シェラは激しくツィスカの頬を張った。小気味良い音が響いて、ツィスカの身体が弾き飛ばされる。負傷し、抵抗力の無くなった華奢な身体は、呆気なく床に転がった。 「大切な人たちを殺され、辱めを受けて……ねえさまは、ねえさまは……」 声が出ない。拳を震わせるシェラを、ツィスカは傷ついた瞳で見上げる。その被害者めいた反応が、シェラの神経を逆撫でした。 「それくらいにしておきなさい、シェルマリヤ姫」 そっと、肩に手が置かれる。アロイスだ。 「お召し変えと……その前に、湯浴みを。我らが姫のもとで、あの方を慰めてください。このままでは、本当に人形になってしまう」 彼に促され、シェラは部屋を出た。扉が閉まる前に、ちらりと室内を一瞥する。床に倒れ伏したままのツィスカは、どうしようもなく悲哀の籠った眼でこちらを見ていた。何かを訴えるような、悲痛な眼差し。それが、シェラの心に棘を刺す。が、 「早く」 アリチェに手を取られ、シェラが廊下に踏み出した途端、扉は閉められた。中に残ったのは、アロイスとツィスカ。あのふたりは、どのような会話をするのだろう。一抹の不安を抱きながら、シェラはアリチェについて石畳に靴音を響かせた。 ◆ 公都騎士団の屯所を訪れたジェリオは、いかにして中へと侵入するか、考えあぐねていた。あの様子では、ツィスカはかなりの傷をおったであろう。彼女を連れて逃げるのは、至難の業だ。シェラに体力が残っていれば救いはあるが、シェラもそれなりに痛めつけられている。どうしたものかと、門の前を彷徨っていた彼の前を、 「どけ」 蹄の音も荒く駆け抜けていく一団があった。先程、シェラたちを連れ去った男たちである。これから出掛けるのではない、何処かから戻ってきたふうであった。しかも、シェラもツィスカも連れてはいない。 (なんだ?) あの二人は、別の場所に連行されたのだ。ジェリオは舌を打つ。騎士たちがやってきた方向を見れば、そちらにあるのは――公宮だった。まさか、二人は公宮にいるのか。そうだとしたら、願ったりかなったりなのだが。どんな目にあわされているか、地下牢にでも繋がれていては、助けるのにも骨が折れる。 とりあえず、夜を待って公宮へと近づこうと考え、彼は付近の居酒屋へと足を向けた。 時刻は夕暮れ、朱に染まる西の空を目指して、烏が群れをなして飛んでいく。その下を家路に急ぐ者、仕事を終えて歓楽街へと足を向ける者、様々な人が入り混じり、雑踏を作り上げている。宵の明星を横目に、手近な居酒屋の扉をくぐった彼は店の隅に席を取り、軽い葡萄酒を注文した。気さくに答える店主の向こう、彼同様早めに店にしけこんできた一団が、傍の卓子に陣取った。 (御同業、か?) ちらりと横目に様子を伺う。粗末な身なりを装ってはいるが、皆、それなりに品の良い顔立ちをした男ばかりである。青年から壮年まで、五人ほどの男たちは、おちつかぬ様子であった。誰かと待ち合わせをしているのだろうか、それともなにやら密談でもしようというのか。 「大丈夫でしょうな」 「いや、こういう場所の方が、意外に人目につきにくい」 「娼婦館、という手もありますが……」 「娼婦は信用できん」 息を潜めた会話が聞こえる。やはり、思った通りの人々だ。ジェリオは皮肉げに口元を歪める。 「しかし、殿下ももう、我らの言葉には耳を貸さぬでしょうな」 「このあたりが、限界か」 「せめて、カルノリアに落とされる前に……」 「鍵は、ソフィア姫でしょうな」 思わぬ名に、ジェリオの肩が揺れる。 (へえ?) 彼女の名をこうも簡単に口にするとは、余程の地位にあるものなのだろう。もと、大公の側近といったところか。とんだ大物が市井に降りてきたものだ。この分では、大公自身と何処ぞの娼婦館で鉢合わせしないとも限らない。そうなれば、暗殺もしやすいのだが。この男たちが暗殺者を求めているのであれば、話に乗ろう。等とジェリオが呑気なことを考えている間に、彼らは更に濃い密談を始めた。折悪しく他の客たちも押し寄せてしまったため、店内の喧騒で彼らの声が聞き取りにくくなった。それでも、単語の端々を拾い集め、情報を収集する。暗殺、の言葉が出たときは、心が躍った。上手くして、渡りをつけねば。思う彼をよそに、話を纏めた男たちは、それぞれ時間差を以て店を出て行った。最後に残った男が離席するのを、そっと距離を置いて追尾する。 が。 「やめておきなさい」 ふらりと路地から現れた影に止められた。灯り始めた歓楽街の明かりに、亜麻色の髪が艶やかに輝いている。一瞬、エーディトかと思ったが、違った。もっと年齢のいった、成熟した男である。腰に剣を下げている処を見ると、流れ者の剣士か、傭兵か。この顔は記憶にない、と、ジェリオが視線を鋭くすれば。 「エーディト様と蔓薔薇の女将の命で、かの娘を追尾していた者です」 青年は、軽く頭を下げた。表向きは娼婦館の護衛、その実、エルディン・ロウの一人だという。彼が追尾していたのは、ツィスカ。かの二人の命令で、とは言われてもピンとこない。そもそも、追尾をしていたというのであれば、ツィスカがならず者に捕らえられた際に救いだせばよいのではないか、そう思ったのだが。 「かの娘が捕らわれた娼婦館に、客として逗留しました。あなたに、先を越されましたけれどもね」 苦笑が聞こえる。 それにしても、エーディトとは。嫌な名前を聞いてしまった。 「で? 今はなんでやめろって?」 ジェリオは顎をしゃくる。彼がつけていた男は、人ごみに消えてしまっていた。もうこんな好機は巡って来ないであろうと思うと、目の前の男が腹立たしい。余計なことをしやがって、と心の中で吐き捨てたのだが 「余計なことはしないでください」 なんと件の青年も同じことを言う。 「我らの動きを妨げるようなことは、おやめ下さい。あなたも……」 青年は、声を落とし 「アインザクトの身内であるならば。察してください」 ジェリオの右腕に目を向けながら諭した。酒を呑んだせいであろう、紋章が浮き上がっている。袖の端から僅かに覗いたそれを、ジェリオは何気ない風を装い、掌で隠した。 「それだけです」 では、と青年はジェリオに背を向けた。細身の身体は、雑踏に紛れ込んですぐに消えた。ジェリオも追う気もなく、その場に佇んでいた。ツィスカは監視をつけられていた。同じ、アインザクトから。彼女は、何者だったのだろう。傷ついた、何かに縋るような緑の瞳が心に焼き付いて離れない。頼りなげな、猫の目。サリカと何処か似通った、温もりを求めている瞳。 (ツィスカ) あのとき、抱いてやればよかったのかもしれない。サリカと呼んでも、ソフィアと呼んでも、ツィスカは唯、誰かの温もりがあればよかったのだろうから。 ◆ 人気の途絶えた回廊、そこを静かに進む者があった。靴音はしない。その者は、裸足であったから。ただ、ひたひたと教えられた目的の場所に向かって歩く影は、ゆったりとした黒衣を纏っていた。その上にかかるのは、見事な金髪。だが、手入れをされていないそれは、無造作に束ねられ、背中で跳ねていた。 ――自分が、ソフィアではないと言い張るのであれば。 脳裏に、美貌の神官の声が響いた。 叔父だと、そう信じてきた人物の声だ。彼は、自分を身内ではないと言った。姪でもなんでもない、と。お前は鴉の娘だと無情に告げたのと同じ声で、口調で、彼は命じる。 ――アインザクトの誇りがあるのなら、遣るべきことは判りますね? やるべきこと。 彼女は心の中で繰り返した。遣るべきこと、とは。 『叔父』は、彼女に彼女自身の血に濡れた短剣を渡し、にこりと微笑む。昔のように。 ――さあ、ツィスカ。あなたは、ツィスカ、なのでしょう。 だから、と。続く言葉に、彼女は頷いた。そうだ、自分はツィスカだ。アインザクトの末裔にして、ヴィーカとクラウスの妹。叔父の命令は、姉の命令。ツィスカは微笑んだ。それから。 こうして、セグ大公の部屋に向かっている。 大公の私室の前まで来ると、衛兵が驚いた表情で此方を見た。暗がりなので、ツィスカの顔は判らぬだろう。だが、掲げられた燭台の明かりに、ツィスカの金髪が明るく映えて―― 「大公妃殿下?」 彼らは声を上げた。この宮で、金髪の女性は一人しかいない。ソフィア大公妃、かのひとだけだ。 「通しなさい」 圧し殺してはいるが、澄んだ響き気を持つ声だった。衛兵らは、迫力に負けて道を開ける。大公妃の夜分の訪問、なれば大公が呼び付けたに違いない。供も連れずにやって来るのは奇異ではあったが、大公夫妻の営みを制止する権利が、衛兵ごときにあるはずもなく。彼らは扉を開き、大公妃を奥へと導いた。中へと進んだ『大公妃』、その背後で扉が閉められる。彼女は奥へと足を進めた。静かに、冷ややかな石の床を滑るように歩く。と、人の気配に気づいた大公らしき人物が、こちらを振り返った。 「ソフィア?」 訝しげな声が聞こえる。 ツィスカは、激しくかぶりを振った。ソフィアではない。ソフィアなどではない。鴉の娘ではない。 「違う」 絞り出すような声を上げ、ツィスカは服の下に隠し持った短剣を腰だめに構えた。 「ソフィアでは、ない」 それはある意味、血の叫びだった。凶器の存在に気付いた大公の目が、大きく見開かれる。恐怖ではない、驚愕に。ツィスカは勢いをつけて、大公のもとに身体ごとぶつかっていった。 |
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