AgneiyaIV
断章 白薔薇の乙女 
寵妃


 ツィスカ、そう名乗った娘と共に娼婦館に留まって、数日が過ぎた。シェラには使いを走らせ、暫くここに滞在する旨を告げる。
 傷を癒すためには、少し休まなければならない。ならば、このまま客として居続けをするしかないだろう、とのジェリオの言葉に
「すまない」
 猫目の『娼婦』は、殊勝に詫びた。
 抱けない女を傍に置いて、代価のみを払い続ける。我ながら、愚かだと思う。少なくとも、以前の自分であれば絶対にしなかったことだ。そもそも、厄介事には関わりたくない性質であったし、関わったとしても、すぐに逃げた。
(サリカのお人好しが、移ったか)
 彼女ならば、きっと躊躇いもなくこうしていただろう。思って、苦笑する。成熟した女性と添い寝をして、劣情を覚えないといえば嘘になる。けれども、それを押さえる術を彼は知っていた。知らぬうちに教えられていたのだ。他ならぬ、サリカに。


 荒療治だが、と、ツィスカの脱臼を直すついでに傷の手当てをしたジェリオは、彼女の身体に刻まれた、無数の歯型や痣に顔を顰めた。辱められた痕だ。やはり、かどわかされたときに――と、ジェリオの表情が険しくなったことに気付いたか、
「それとは違う」
 ツィスカが小さく笑う。
「エランヴィアの魔女を知っているか?」
 問われて、頷く。エランヴィア国王を唆し、アヤルカスとの戦端を開かせた女。エランヴィアを破滅に導いた魔女が処刑されたとは、聞いていたが。もしやそれが、このツィスカか。尋ねると彼女は笑みを寂しげに凍らせる。火刑に処されたはずの魔女は、生きてここに居るのだ。殺されなかった代わりに、彼女は。
「乱暴されたのか?」
 一人や二人ではないだろう。この痕を見れば判る。
 正直、気分の良い話ではなかった。
 以前、サリカが襲われかけたときのことを思い出す。クラウスといったか、カルノリアの士官。あの男が嫌がるサリカを組み伏せ、蕾を手折ろうとしていた光景が脳裏に蘇る。それに重なるようにして、琥珀楼でサリカを手籠めにした自分の姿が、サリカの涙に濡れた顔が、鮮やかに目の前に浮かび上がった。
 きつく唇を噛みしめるジェリオの姿に、何を思ったか。ツィスカは彼の拳を優しく両手で包み込む。
「気に病むな。私も、もとをただせば娼婦だった。ゲルダ街の……ここよりも少しだけマシな娼婦館に居た」
「だから、って」
 娼婦だからといって、理不尽に弄んでよいわけではない。それは、幼いころから教えられていた。最下層の娼婦、街娼に対しても無体な要求をしてよいものではない。

 ――娼婦は、一夜だけの妻だと思って抱きなさい。

 初めての夜、ヴィーカに言われたことをジェリオは律儀に守っていた。無論、素人娘にちょっかいを出すことなど考えたこともなく――サリカはあらゆる意味で、彼にとっての『例外』なのだ。
「いい、男だな。お前は」
 ツィスカの呟きに、心が疼く。そんなものではない。自分は、そんな男ではない。
「お前が『客』で、よかった」
 心底安堵したような息をつき、ツィスカはジェリオの胸に頭を預けた。柔らかな猫を思わせる髪が、甘い香りを漂わせる。張りのある肌に、柔らかな肉の感触に、身体の芯が疼く。
「抱いてくれないか?」
「ツィスカ」
「いや、抱いて欲しい」
 細い腕が、ジェリオの首にまわされる。ツィスカは彼の頭を抱き寄せると、そのままゆっくりとジェリオに圧し掛かる形で寝台に身を横たえる。ちろりと伸びた舌が湿らせた唇が、静かにジェリオのそれに重ねられる――前に。
「よせ」
 ジェリオは彼女を引き離した。どうして、と。ツィスカの唇が微かに震える。
「これ以上、傷つく必要はないだろうが」
 緑の瞳に、濃い影が走った。ツィスカはかぶりを振り「違う」と繰り返す。
「そうじゃない」
 訴えた声は、曇っていた。彼女はジェリオに縋りつき、その身をぴったりと彼に圧し付けながら
「穢れを、払ってほしい。忘れさせてほしい。悪夢から、解放して欲しい」
 懇願する。
 ジェリオに抱かれることで、辱めを受けた記憶を消し去りたいのだろう。優しい男に『愛された』記憶で上書きがしたいのだろう。ツィスカの気持ちは、痛いほど判る。クラウスに襲われたときのサリカが、そうであったから。あのとき傷さえ負っていなければ、サリカはジェリオに愛されることを望んでいた。
「駄目だ」
「ジェリオ」
「いま、あんたを抱いたら、あんたを違う名前で呼ぶかもしれない」
 自分は、優しくはない。冷ややかな褐色の双眸を、ツィスカに向ける。ツィスカも顔を上げ、ジェリオを見つめた。曇りなき、鮮やかな緑の瞳。ソフィアと同じ色の瞳。ここでツィスカを慰めたら、自分は誰の名を呼ぶだろう。サリカか。それとも、イルザか。
「それでもいい、と言ったら?」
 棗型の目に涙が盛り上がる。女の涙は、この上なく強力な武器になる。ジェリオは親指でそれを拭った。美しい女は、どんな表情をしても綺麗だ、とぼんやりと思う。頼りなげに揺れる視線に重なったのは、遠い日のソフィアではない。
「サリカ」
 うわごとのように兄嫁の名を呼び、ジェリオはツィスカを抱きしめた。身体を反転させ、彼女の豊満な肉体を敷布に縫い付ける。ツィスカは全てを彼に委ね切ったように、目を閉じた。

 そのとき。

 表の通りから、わぁっという怒号とも歓声ともつかぬ声が聞こえた。ふとある種の予感を覚え、ジェリオは窓辺に駆け寄る。そっと細く開けた窓、そこから見た光景は
「――シェラ?」
 彼女が、公都騎士団に捕らえられるところだったのだ。人目を欺くために娼婦の姿をしていた彼女は、常のように帯剣することができなかった。組み手もそれなりの自信を持っていたのだろうが、いかんせん、あの姿は丸腰と同じ。短剣一振りでは、集団で攻めかかって来る騎士団を相手に、苦戦必至である。結果、武器を取りあげられ、槍で押さえつけられた彼女は地面に倒れ伏すことになり、四肢を投げ出した形で仰向けに倒れた彼女に、野次馬の好奇の視線が集まった。
「くそっ」
 助けなければ。ジェリオが窓枠に足をかけようとした刹那、強く突き飛ばされた。何事かと思う暇もなく、
「巫女姫」
 叫んでツィスカが階下へと飛び降りる。ここは三階だ。幾ら身軽な者であっても、降り方によっては無事では済まない。自身の無謀さを棚に上げ、ジェリオは呆れた。
「あの、馬鹿」
 しかも、ツィスカはなんと言った? 巫女姫、と。シェラに呼び掛けなかったか。
 何を勘違いしているんだと目を細めるジェリオの前で、案の定半端に着地に失敗したツィスカは、足を痛めたらしい。よろめきながら群衆の合間を縫って、シェラに近づこうとしている。
「巫女姫、巫女姫」
 それは、狂おしい叫びだった。狂信者とも思える、悲痛な声だった。驚いた野次馬どもは自然に道を開け、ツィスカは足を引きずりつつも漸くシェラの元に辿り着いた様子だった。
「って。ありゃ、嫁じゃねえ。妾のほうだって」
 ジェリオのぼやきなど、聞く者はいない。
 ツィスカは騎士たちをも掻き分け、シェラに手を伸ばしていたが。

「貴様、この女の仲間か」

 無情にも行く手を阻まれた。彼女の前で槍が交差し、隊長らしき青年が抜き身をツィスカの喉につき付ける。答え如何では、すぐにでも彼女の喉を切り裂くことだろう。
「ツィスカ?」
 シェラが彼女に気付いたらしい。肩を庇いながら起き上ろうとするところを、
「動くな」
 やはり槍で押さえられる。患部を打たれたらしく、短い呻き声が雑踏の中に溶けて消えた。
「無礼者。巫女姫から離れよ」
 ツィスカが騎士たちを睨みつける。公都騎士団の面子は、呆気にとられた様子で互いの顔を見合わせていた。何を言っているのだ、この女は。一様にそんな表情をしている。
「この者も、ひっ立てよ」
 隊長の指示で、ツィスカもシェラも捕縛され、共に馬の後ろに括りつけられた。鞭を入れられた馬が走りだすと同時に、ふたりも走らざるを得なくなる。傷を負っているシェラ、足を痛めたツィスカ、ともに満足に動けないというのに、騎士たちは馬の速度を緩めようとはしなかった。やがて、ツィスカが転倒し、ずるずると石畳の上を引きずられる形となった。
「ツィスカ」
 悲痛なシェラの声が聞こえる。
 ジェリオは歯を食いしばり、拳を壁に叩き付けた。公都騎士団。彼らの目的がなんにせよ、その行為に腹が立つ。ジェリオは踵を返し、勢いよく件の娼婦館を飛び出した。



 シェラとツィスカが連行されたのは、公都騎士団の屯所かと思いきや、そうではなかった。公宮、そのものだったのである。二人は取り調べられることもなく、騎士団から別の役職と思しき人物に引き渡された。神殿に属するものなのか、白い衣に紫の縁取りのある上衣を纏い、額に銀の輪を留めたかのひとは、部下に二人を地下に置くよう命じていた。
 服が裂け、肉も弾けた状態で血まみれとなったツィスカを見ても、神官らしき男は眉一つ動かさない。常人と同様、歩かせようとする。
「彼女は怪我をしている」
 シェラの声に、漸くそのことに気付いた、とでもいうふうに
「ああ」
 彼は声を上げ、
「医者を呼んだ方がいいですね。蛆でも湧かれたら、迷惑極まりない」
 それが、神職に携わるものなのか、と言いたくなるような言葉を平気で吐いた。目を吊り上げるシェラの傍らで、力なく座り込んでいたツィスカは、それでもなお気丈に立ち上がろうとしていた。どれほど傷ついても、アインザクトの本能なのだろう。巫女姫を守ろうとするのは。それに気付いたシェラは、自身がその傷を受けたように表情を歪めた。
 違う、と一言いえばよいのかもしれない。自分は巫女姫ではない、と。
 巫女姫どころか、自分は彼女が忌み嫌う、鴉の末裔なのだと。
「ツィスカ、立てるか?」
 肩を貸そうとするのを、ツィスカは断った。畏れ多い、と掠れた声が聞こえる。ツィスカの様子を伺っていた神職は、その傷の深さを漸く理解したのだろう、背後に佇んでいた使用人に命じ、ツィスカの介添えをさせた。血と砂に塗れた身体を抱きあげ、
「こちらへ」
 その男はシェラを促す。シェラもおとなしく言葉に従った。望んだ形ではなかったが、公宮に入ることはできた。かつて遠く眺めたその建物を、今一度見上げる。あの宮殿のなかに、ソフィアはいない。従姉が居るのは、別棟と聞いた。それは、あの陰気な塔なのか、それともまた別の建物なのか。シェラが知るのは、意外に早い段階でであった。


 『地下』と神職が呼んでいた場所は、文字通り半地下の部屋だった。が、牢獄、拷問室の類ではない。ごく普通の部屋であった。非衛生的なわけでもなく、つい今日までシェラが滞在していた宿よりも、勿論清掃も管理も行き届いている。作り自体も宮殿の一部ということで、粗雑ではない。ただ、ここが何のための部屋なのか。考えると寒気がしてきた。それは、室内に置かれた巨大な寝具を目にしたときに更に強くなる。もしやここは、と嫌な予感を覚えたシェラだったが、かといって直ぐに脱出することはできなかった。
 なにより、ツィスカをこのままにしておくことはできない。
 使用人の手により寝台に横たえられたツィスカは、襤褸布同然の姿だった。自慢の金髪はほつれた糸のようにぼろぼろで、見る影もない。それを手櫛で整えれば、
「巫女姫」
 すみません、と詫びる声がした。
 呼びかけられるたびに、ずきりと胸が痛む。ツィスカは、自分を巫女姫と、イリアと勘違いしたままなのだ。だから、危険を顧みず公都騎士団に刃向った。結果、このような姿になって――謝らねばならぬのは、自分の方だ。自分は、イリアではない。
「私は」
 シェラが口を開きかけたときだった。背後の扉が開き、女性が入室してきた。飾り気のない、黒い衣裳を纏った女である。その後ろには、小間使いらしき少女が控えていた。
「負傷されている、と聞き及びましたけれども」
 セグには珍しい、黒髪と黒瞳を持つその女は、艶然と微笑む。このような処で色気を振りまくのも何かと思ったが、シェラはツィスカを示した。この女が、先の神職が言っていた『医者』なのだろうか。
「これはまた、酷い仕打ちを。妙齢の娘に対する礼儀を、改めて教えなければなりませんわね」
 ツィスカの様子に、女は眉を顰めた。どうやらこの女には、人並みの感情が宿っているらしい。そう思いながら改めて女を見る。彼女は小間使いに指示を出し、小間使いは小間使いでてきぱきとツィスカの介抱を始めた。汚れた服を脱がせ、運び込ませた湯で身体を拭き、弾けた肉を
「痕が、残ってしまいますけどね」
 熱した油で縫合する。天地を揺るがすようなツィスカの悲鳴に、シェラは耳を塞ぎたくなった。飛んだ荒療治だ。とはいえ、これより他に手当てのすべはない。
 流石に、顔を焼くことは躊躇われたのだろう。擦り剝けた頬には、油紙が当てられ、その上から厚切りの鹿肉が乗せられていた。存外手当ては的確で、丁寧なことにシェラが驚いていると、
「あなたも、怪我をなさっているのでしょう」
 黒服の女がにこりと笑う。こちらは、彼女が自らシェラの腕に湿布を貼り、添え木を当て、包帯を巻いてくれた。その手つきは、並の医者よりも手慣れていて、
「貴殿は?」
 シェラは不信の目を向ける。
「アリチェ、と申します」
 女はシェラの耳に唇を近づけて
「お初にお目にかかります、シルマリア姫」
 南方訛りではあるが、はっきりとシェラの名を呼んだのだ。シェラは思わずアリチェを凝視したが、
「貴殿は、大公の……」
 この女が大公ルドルフの愛妾であることに思い至る。
「やはり、第一将軍の姫でしたか。ようございましたわ。先に、わたくしの元に保護することが出来まして――光栄ですわ」
 どういうことなのだ。自分を捕らえさせたのは、大公か、もしくはアロイスだと思っていたのだが。その二人のどちらかであれば、拷問の末に殺害されるだろう。ソフィアにまみえることなく。
「過日お迎えに上がろうとしたところ、逃げられてしまいましたものね。もう少し早くお会いできていたらと思うと、残念でなりません」
 芝居がかった風でもなく、アリチェは目を伏せる。先般、シェラを庶子として城に上げようとした貴族は、どうなっているのか。今の口ぶりから行けば、アリチェが全てを指揮していたようだが。
「彼らは、暫く保養地に行って戴いています。公都に居ては危険ですしね。ああ、殺めるつもりはございませんので、ご心配なく。姫君も、頃合いを見て妃殿下にお引き合わせいたしましょう」
「ねえさまに?」
 思わぬ言葉に、シェラは驚いた。アリチェは初めから、シェラを捕らえてソフィアの元に連れていくつもりであったというのだ。ならば、これほど苦労をせずとも、あのとき素直に縛についていれば、すんなりソフィアに会うことが出来たと思うと、全身の力が抜けた。
 アリチェは、そんなシェラを見て「ふふ」と含み笑いを漏らす。
「シーラ姫もまっすぐで剛毅な方でいらっしゃいますけど、妹姫もよく似ていらっしゃいますのね」
「シーラ? 姉を、ご存じか?」
 三姉妹の中で『シーラ』と呼ばれるのは、次姉シェルニアータだ。アリチェは噂通り、シルヴィオの出身。ルカンド伯の息のかかったものなのだろう。
「ええ。ようく存じておりますわ。姉上だけではなく、貴方様の父君も母君も。一番上の姉君も」
 存じております――アリチェの口角が吊りあがる。美しい女だけに、その笑みはどこかしら薄気味悪かった。魔女というのは、このような女のことを言うのかもしれない。シェラは一瞬心に生まれた怯えを悟られぬよう、目に力を込める。
「偽りの黒き羽は、いずれ抜け落ちることでしょう。けれども、まだ、時は至っておりません。時至るまで、我らが姫君の傍で、あのかたのお心を癒してくださいませ」
「あの方?」
 我らの姫君、とは。
「無論、ソフィア姫ですわ」
 くす、と少女のような笑みが零れた。ソフィア、の部分に妙な抑揚がついている。
「ええ、ソフィア姫――そろそろ、姫君にも偽りの名を捨てて戴いた方が宜しいかもしれませんわね」
 どういうことだ。シェラが問い返そうとしたところに

「お喋りは、そのくらいにしておきなさい。まったく、あなたは口が軽すぎる」

 忘れもしない、忘れることのできぬ声が聞こえてきた。シェラは戸口に佇む影を、驚愕の眼差しで凝視する。そこにいたのは、白皙の美青年。幾歳を経ても老いを感じさせない、女神に愛された青年と人々に噂された美貌の神官、
「アロイス」
 彼に他ならなかった。


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