AgneiyaIV
断章 白薔薇の乙女 
娼婦


 カルノリアの軍勢が、タティアン側の国境に迫っている。その報せが公都セグディアへともたらされたとき、大公が真っ先に召喚したのは他でもない、アロイスであった。宰相も譜代の重臣らも差し置いて、新参者を呼び寄せるなど――と、眉を顰める者は多かったが。誰も不満は口にしなかった。
 表立っては。

「どういうことですかな」
「アロイスとは何者でしょうや」
「もとは、カルノリア帝の気に入りの側近だとか」
「そのような人物が、何故にセグに」

 回廊の隅で、また、広間の一隅で交わされる会話。
 そこには必ず別の一人が加わり、

「アロイス殿は、カルノリア皇帝の寵臣」
「此度のことも、アロイス殿が内通して、カルノリア軍を呼び寄せたのかもしれませぬ」

 人々の不安を煽って去っていくのだ。
 それは、貴婦人であったり、いずこかの子息の様であったり、または老獪な重鎮を思わせる壮健な紳士であったり、様々だった。ただ一つ言えることは、彼らが現れる前に噂話に興じる貴族らの傍を一人の貴婦人が通ること。その貴婦人は、大公ルドルフの寵姫、公宮に上がることを許された唯一の娼婦・アリチェであることだが。そこに気付いた者が、果たして存在するかどうか。



「ええ、ほんとうに」
 困ったものですわ、とアリチェが苦笑する。珍しく彼女自身が噂話の輪に加わった――呼びとめたのは、これまた名の知れぬいずこかの令嬢である。彼女は数人の貴婦人と談笑に花を咲かせていたが、
「そういえば、カルノリアが……」
 一人が不安そうに口を切るのを待っていたかのように、
「ああ、そうですわね。最近では、アリチェ殿よりもアロイス殿の言葉をよく聞かれるようですしね、我が君は」
 くすくすと笑いながら、
「ねえ、左様でございましょう? アリチェ殿」
 たまたま通りかかった、他の者の目にはそう映ったアリチェを強引に話題に引きずり込む。今までの会話を何となく察したアリチェは、
「アロイス殿は、寵臣の域を越えてしまっているかもしれませんわね」
 声を潜めて語った。
「まあ、どういうことですの」
 別の夫人が先を促せば、アリチェは一瞬口ごもり
「下世話なお話になってしまいますけど、宜しくて? 最近は、殿下からのお召しがないのですわ」
 ほう、と息をつく。
 黒い瞳が憂いを湛え、一同を見回せば。貴婦人たちは口々に驚きの声を上げる。あれほど寵愛していたアリチェ、彼女よりもアロイスを愛でている。それはつまり、
「男色、ということでしょうか」
 先程の夫人が扇の下で声を潜める。
 南方ではいざ知らず、北方諸国では男色は忌まれる行為である。男色に限らず、同性同士の交わりは、近親間におけるそれと同じく、禁忌であった。子を為すことが出来ぬ、ただ快楽を追求するだけの同性の情交は汚らわしいもの――貴族のみならず、庶民にまでもその考えは浸透している。例外としてオルネラの裏巫女や、公的に認められぬ男娼の存在はあったが、一国の主がその道に走るなど
「まあ、汚らわしいこと」
 夫人らの言葉に、嫌悪が滲みでるのも当然であった。
「わたくしは、男に追い落とされた、哀れな女ですわ」
 目を伏せるアリチェ、その殊勝な態度に優越感を覚えた夫人らは、今までの態度とは裏腹に
「ああ、そのようにご自分を卑下するものではなくてよ?」
「そう、お心を強く持って」
 慰めの言葉をかける。
「ありがとうございます」
 アリチェの力ない微笑みの下に、魔性の色が隠されていることも知らずに。

 やがて、大公ルドルフと寵臣アロイスの噂は、宮廷内にとどまらず、城下へも流れていくことになる。



「男色家、かよ」
 セグディアの繁華街、そこに軒を連ねる私娼窟の一つに入ったジェリオは、敵娼となった女から市井の情報を聞き、盛大に溜息をついた。ディグルといい、セグの大公といい――高貴なる人物の趣味だとでも言うのだろうか、男色は。ディグルの場合は、そうと知って自身の弟を寵愛していたわけだが。セグの大公はと言えば、
「アロイス、ねえ」
 皇后ハルゲイザの寵臣であった男にうつつを抜かしているのか。会ったことはない、けれどもその美貌と弁舌の爽やかさは、幾度か冬薔薇でも耳にしている。冬薔薇の娼婦たちが挙って語る

 ――わたくしたちよりも数倍美しくて、数倍上品な殿方。

 の言葉は、何処までを信じてよいのやら。
「あら、アロイス様を知っているの?」
 飲み物の用意をしていた娼婦が、驚いたように振り返る。胡桃色の瞳の中に尊敬にも似た色が含まれていることに気付いたジェリオは、「まあな」と軽く答えた。
「まえに、ユリシエルに行ったことがある。そこで、色々噂を聞いた」
「噂? どんな?」
「って。皇后ハルゲイザと出来ているとか。エルメイヤの父親はアロイスに違いない、とか」
 ソフィアも、アロイスの子供ではないか、そう言われていたそうだ。アロイスの容姿は、ソフィアに似通っていると、当の皇女も言っていた。髪と瞳の色だけではない、その顔立ちもどことなく、と。
「ああ、それ。聞いたことあるよ。ソフィア皇女とエルメイヤ皇子、もしかしたらアロイス様の、っていう話」
 ジェリオは眉を寄せた。他人の口からソフィアの名を聞くのは腹立たしい。
「そのせいもあるかなあ? 最初は殿下もソフィア姫にご執心だったけど、最近は違うみたい。公宮からも出されちゃって、離縁させられちゃうのかしらねえ」
「離縁? 誰が?」
「やぁだ。ソフィア姫に決まってんじゃない。綺麗な人だって言うけど、飽きちゃったんじゃないの? 美人は三日見れば飽きるっていうし。ほら、大国のお姫様でしょ、つんけんしているんじゃないのぉ?」
 それは違う。否定したかったが、ジェリオは言葉を呑みこんだ。
「大体、大公殿下には、お気に入りの女の人がいるしね。元高級娼婦だったとか、舞姫だったとか言われるけどさ。まあ、あたしらみたいな玄人に、箱入りのお姫様が勝てるわけがないのよねえ」
 放っておけば喉を仰け反らして笑いだしそうな娼婦を一睨みして、ジェリオは寝台に寝転がった。確かに、閨の技法は娼婦の方が断然上だ。お嬢様お姫様に同じことをしろ、とは望めない。だが、男女の関係はそれだけではないだろう。身体の相性や愛撫の優劣、顔の美醜ではない。もっと違う、もっと根本的に異なる何かで結ばれている気がする。それが『愛』と呼ばれる安っぽいものの場合もあれば。
「……」
 壁に立てかけた剣を見やり、苦笑を浮かべる。
 双子の両親、ガルダイアにリディア。あの二人のように、愛や恋ではない、何か別の、同志じみた絆で繋がっている夫婦もあるのだ。
 娼婦は相変わらず、大公夫妻のことで彼是と私見を交えたことを語っていたが、最後に気になることを口にした。
「――って言ってたからね。ああ、そうか、もしかしたらソフィア姫って偽物なんじゃないのかなぁって。だから、大公様は怒って追い出しちゃったのかもね」
 跳ね起きたい衝動を堪えるのがやっとだった。知らず、敷布を強く掴む。
 ソフィアが、偽物? セグに嫁いだ皇女が。本物は、カルノリアに、ユリシエルにいるというのか。だとしたら、何故。
「ま、噂でしかないけどね」
 ぽん、と寝台に衝撃が走る。娼婦がジェリオの傍らに腰を下ろしたのだ。飲む? と差し出された酒を断り、彼は半身を起こす。
「帰る」
 ちょっと待ってよ、という娼婦の焦った声を背で断ち切り、ジェリオは足早にその部屋を後にした。


 宿へと戻る道すがら、考える。
 シェリル――ソフィアの侍女。アシャンティ近くで何者かに殺害されたあの娘には、見覚えがあった。記憶が戻った今だから断言が出来る。彼女もソフィアの付き添いで、幾度か冬薔薇を訪れたことがあった。無論、直接顔を合わせたこともなければ、会話をしたこともない。窓越しにその姿を垣間見ただけだった。

 ――皇女殿下ともあろう方が、こんな、娼婦館にいらっしゃるなんて。

 乙女の幻想、潔癖な令嬢の嫌悪だったのだろう、シェリルは冬薔薇の前で眉を顰めていた。娼婦館、如何わしい場所、という式が彼女の中で出来上がっていたのだろう。確かに女性が身を売るその場所は、如何わしいと言えば如何わしかったが。冬薔薇は、高級娼婦館である。勤める女性は全て、元は名家の令嬢、貴族の庶子、故あって娼婦に身を落とした貴婦人たち――もしくは、市井にあっても相応の器量と教養を備えた娘たちだった。
 客も貴族である。ときに、帝室ゆかりの者たちを迎えることもある。
 他国の賓客がカルノリアを訪れた際、もてなしをすることも多々あった。それらは全て、閨で行われるものではなく、時に歌であったり、舞であったり、政治的な議論でもあれば、占い、もしくは古典の語りや楽曲を奏でることでもある。
 身体のみを売る歓楽街の下級娼婦や街娼とは異なる、ある意味『高貴な人々』の愛玩人形のような存在だったのだ、冬薔薇等の高級娼婦館の女たちは。
 高級娼婦館は、冬薔薇のような公娼館だけではない、私娼館にも存在した。私娼館とはいっても、あくまで公的に認められていない、国家の保護が受けられていないだけで、公娼館となんらその内容は変わることはない。公娼館にも庶民向けの下級娼婦ばかりを置いている店もあれば、私娼館とはいえ、冬薔薇に負けず劣らず優れた娼婦を擁している店もある。
 というようなことを、シェリルに説明しても判るまい。いや、判ろうともしないだろう。あの娘は。
 忠義者の騎士宜しく、『姫様には私がついております』とばかりに、ソフィアを守ろうとしていた口うるさく頭の固い姑じみたあの娘は、どうにもこうにも好きになれそうにはなかった。
 そんな、シェリルが、である。
 偽物のために命をかけるだろうか。
 アシャンティ付近で出会ったときのシェリルの表情、あれに嘘偽りはなかった。あの堅物のことである、偽物の命令など鼻で笑って却下することだろう。
(イルザ)
 セグディアに居る彼女は、本物だ。本物の、ソフィア皇女だ。
 だが、何故彼女が偽物である、と。そんな噂が流れ始めたのだろうか。誰かが意図的に流しているとか――ふと、大陸の狼の名が頭を過ぎる。エルディン・ロウ。彼らが、セグの混乱を招くために、不穏の種をまいているのではなかろうか。
 その混乱に止めを刺すのが自分だ。自分が大公の首を取れば、セグは潰れる。潰される。我先にと冠に群がる諸侯によって、また、混乱に乗じて介入する他国によって。この国がその細い命を長らえる方法は唯一つ、ソフィアを女大公として、カルノリアの属国となる道だけだ。


「遅かったな」
 逗留していた宿に戻ったジェリオを迎えたのは、シェラだった。旅の遊び女を装ったその姿は、華麗にして艶やかである。初めて出会ったときの、武官らしい固さは影を潜めていた。彼女を連れて歩けば、皆が振り返る。羨望の眼差しでジェリオを見つめる。それが少し、心地よかった。
「伝手は、出来たのか?」
 互いに尋ね、互いにかぶりを振る。やはり、と嘆息するのも同時だった。市井で得られた情報も、
「ソフィアが偽物だという噂が、あちこちにばらまかれているな」
「聞いた」
 同じものである。
 ソフィアが偽物であれば、カルノリアに対する人質にはならず、かの大国は雪崩を打って攻めてくるだろう。その恐怖が、徐々にセグディアに浸透し始めている。市民は少なからず浮足立っていた。
「遠からず、カルノリア軍が国境を越えるだろう」
 それは、カルノリア密偵との接触を図って得た情報だとシェラは言う。彼女は彼女で、公宮に潜入する手段の他に、自国の密偵とも接触していたらしい。祖国との絆を完全に断ったわけではないのだ、とジェリオは驚いた。
「使えるものは何でも使うのが、密偵だ」
 自嘲気味に吐き捨てる横顔が、切なかった。
「あんたは、カルノリアのために動いているのか?」
 これをシェラは否定した。はっきりと。
「わたしは、陛下のために動いている」
 陛下――アグネイヤ四世のため。アグネイヤ四世となった、マリサのため。決してサリカのためではない。
「貴殿は、誰のために?」
 改めて問われると、何とも答えようはない。セグへ向かったのは、自分の意志だ。セレスティンの代わりではあるが、あくまでも自分で申し出た。それは、過去との決別の意味もあるが。実際自分を雇っているのは。
「皇太后陛下、か?」
 リディア、彼女に他ならない。後にも先にも、剣を捧げた女性は彼女しかいないのだから。
「皇太后陛下」
 シェラは驚いた様子だった。はぁ、と息をつき、まじまじとジェリオを見つめる。彼が持つ剣、そこに視線を止め、それから何事か納得した風に頷いた。一介の剣士が持つには過ぎたる剣だと思っていたのだろう。それがリディアの名を聞いて得心したらしい。
「食えないおばちゃんだよな、あのひとは」
「おばちゃ……」
 今度は目を白黒させる。
「あのおばちゃんに、サリカを守ると約束させられた。だから、俺は」
 サリカの傍にいなければならなかったのに。
「成程。貴殿ならば、――ルクレツィア妃殿下、いや、ルクレツィア一世陛下というべきか――あの方に相応しいかもしれないな」
 シェラが微かに笑った。
 彼女は、細く開けられた窓から忍び込む月光を掌で弄びながら、
「あの方は、優し過ぎる。ひとは、あの方に甘え過ぎる」
 半ば独り言のように言う。
「あの方の与えてくれる癒しを、皆が貪り食うのだ。あのままでは、あの方は、枯れてしまう。誰かが守らないと」
 誰か。その単語を口にしながら、シェラはジェリオを一瞥した。
 確かに、サリカの存在は癒しだ。サリカは知らず知らずのうちに、人を救おうとしてしまう。自分の身を削ってまでも、人に尽くそうとしてしまう。そこに付け込まれて、痛い目を見るというのに。その痛みすら、笑って受け止めてしまうきらいがある。
 そんなサリカを双子の片翼は怒り、ルーラは嫌う。エルナは嘲笑し、ティルは侮蔑する。
 ディグルはただひたすら、サリカの優しさに甘えている。サリカも、母性本能からディグルを保護しようとする。
 ぼろぼろになったサリカを最後に支えるのは、誰か。
 その誰かを、リディアはジェリオと見たのだろう。そうして今、シェラも同じようなことを言っている。
「俺は」
「身分とか、生まれとか、立場とか。考えない方がいい。結ばれずとも、傍にあるだけで、心を通わせるだけで、貴殿はルクレツィア陛下の支えになる。違うか?」
 否定はできなかった。肯定することも躊躇われたが。
「――あんたにも、いるのか? そういう相手が」
 シェラの答えはなかった。ただ、青い瞳が揺れただけである。ジェリオは敢えてそれ以上は訊かずに、立ち上がった。
 シェラは、「何処へ」とは問わない。二人の間の暗黙の了解で、夜は部屋を別にしている。娼婦とその客を装っている手前、同じ部屋を用意してもらっているが、実際、シェラを抱く気はない。ソフィアの従妹とはいえ、髪の色も瞳の色も顔立ちさえ異なる娘である、それなりに美形とはいえ、根本的に好みとは違った。シェラも求められれば密偵という仕事上、営みの要求を受けはするだろうが。そんなことはしたくなかった。なにより、シェラはアグネイヤ四世の妃である。あの魔王とも称される狂気の皇帝の『女』に手を出すなど――命がいくらあっても足りない。


 さすがに先程の娼婦館に戻るのもばつが悪い、と、ジェリオは別の店を訪ねた。そこそこ小奇麗な私娼館の扉をくぐれば、そこに居たのは気だるげな娼婦上がりの案内女であった。彼女はジェリオの容姿、身なりを見て、一瞬で所持金を判断したらしい。が、彼女が口を開く前に、
「そこそこ、いい女を頼む」
 言って財布を帳場に投げ出した。その膨らみ具合に、案内女の表情が変わる。彼女は別の使用人に声をかけ、三階に案内するよう伝えた。
「ありがとな」
 階数によって娼婦の階級が異なるこの辺りの私娼窟では、三階に置かれた娼婦となればまずまずの女であることが多かった。さすがにサリカやシェラ並の美形はいないが、ヴィーカ辺りの女は抱ける。サリカへの後ろめたさはあったが、
(寝るところがないんだしさ)
 シェラには手を出していないんだからと自身に言い訳し、案内された部屋の扉を開ける。と、そこには。
「ここ、こういう趣味の店か?」
 中を指差し、ジェリオは案内の男を振り返った。男は苦笑いを浮かべ、
「いや、まあ、そういう趣味のお客様もいらっしゃるので」
 とかなんとか曖昧に言葉を濁し、ジェリオの脇をすり抜けて中へと入った。衝立の向こうに寝台がある、ただ睦み合うだけの部屋、その衝立の前に下着姿の女が横たわっていた。ご丁寧に両手足を縛られ、猿轡まで噛まされている。奇特な趣味を持つ客に当たったのか、それとも実は騙されてここに売り飛ばされ、抵抗されたので縛められたのか。理由は判らぬが。
 案の定、猿轡を外された女は、案内の男に唾を吐きかけた。
「下衆め」
 どれほど悲鳴を上げたのだろう、掠れた声が喉から零れる。ジェリオは男の肩越しに彼女の顔を見、軽く口笛を吹いた。汚れてはいるが、なかなかの美女である。しかも、この辺りの男性が好む、金髪娘だ。声も若いし、これは意外に良いかもしれない――かどわかされた娘でなければ。
「ああ、あとは俺がやるから」
 言って使用人を追いだし、ジェリオは後ろ手に扉を閉めた。蝋燭の細い灯りの下、娘が身じろぎする。こちらを真直ぐに見上げる瞳は、何色なのだろう。蝋燭のせいで、色は判らない。青か、緑か――ふと、ソフィアの面影が脳裏を過ぎる。
「売られたのか、それともかどわかされてここに来たのか」
 彼女の脇にしゃがみ込み、その顎を持ち上げる。もう一度唾を吐きかけようとする口を塞ぎ、
「結構、痛めつけられたって感じだな」
 彼女の身体に触れながらひとりごちた。
 肩は脱臼し、頬も若干腫れている。脇腹も蹴りを何度も入れられたのだろう、僅かに熱を持っていた。幾ら抵抗したとしても、商品たる娼婦にこのような真似をするとは。いったいこの店の主人は、どのような経営方針をしているのだろうか。店の作りは小奇麗だが、内情は薄汚い。目の前の娘も、こんな下賎な下級娼婦館ではなく、高級娼婦館で貴婦人のような扱いをされれば、どれだけ輝くことか。
 思わず「冬薔薇に来ないか」と声を掛けそうになり、苦笑で誤魔化した。冬薔薇は、もう、自分たちのものではない。看板は、皇帝に、国に返上した。
 ジェリオは自身の服の裏地を破り、女の汚れた顔を拭いた。彼女は幾分驚いたように彼を見上げる。大きく見開かれた眼は、綺麗な棗型をしていた。猫のような眼だ、と刹那に思う。長い睫毛が微かに揺れ、唇が物言いたげに動いたが、
「切れてんじゃんよ」
 その端をそっと拭えば、彼女は顔を顰めた。幾度か、頬も張られたのだろう。改めて見ると、非常に痛々しい。抵抗の素振りを見せなくなった彼女の縄を解き、ジェリオはそっとその身体を抱き上げた。犯されると思ったのか、身を固くした女が逃げ出そうとする前に、衝立の向こう、寝台の上に彼女を横たえる。女が起き上がるよりも早くその上に覆いかぶさり、体重で自由を奪った。
「いや……」
 娼婦らしからぬ拒絶の言葉を発する女の身体を軽く抱きしめて、
「いいから、寝てろ。休め。その身体で暴れても、いいこと一個もねぇだろ?」
 耳元に囁く。またしても、女は驚いた様子で彼を凝視する。
「俺も、寝る」
 言って、女の隣に身を置いた。さすがに狂犬のような女に背を向けることはできない。鞘ごと抜いた剣を抱えて、壁に寄りかかる。こうした姿勢で寝ることにも慣れていた。今日は外れを引いたと思えばいい。
「抱かない、のか?」
 女が尋ねてきた。
「抱いて欲しいのか?」
 問い返すと、沈黙が返って来る。
「娼婦館に来て、抱かないってのもあれだけどな。あんた、娼婦じゃないだろう? 生娘でもないけどな」
 最後の一言に、女の気配が固くなる。
 遊び人の特権か、触れただけで判る。その女が既に異性を知っているか、否か。この女は、処女ではない。人妻――とも思えぬから、良家の娘が婚姻前に恋人と逢瀬を重ねたか、好奇心から火遊びをしたか。結果、騙されて娼婦館に売られたか。抵抗して、暴行を受けたのだろう。あるいは、複数の異性に組み敷かれ、行為を無理強いさせられたのかもしれない。客を取らせればあきらめもつくだろう、そんな意図からこの部屋に放り込まれたのか。
 真相は判らない、けれども、当たらずとも遠からずだろう。
 見下ろすと、女はこちらに背を向けることはせず、胎児のように身体を丸めて横たわっていた。まだ、ジェリオに対して警戒心を持っているのか、完全に寛いではいない様子である。まるで、出会ったころのサリカのようだ。ジェリオは苦い笑みを噛み殺し、目を閉じる。

「不覚だった」

 女の声が聞こえ、目を開ける。
「立ち寄った店が、悪かった。薬を飲まされ気を失い、気がついたら、ここへ」
 やはり。旅の途中、かどわかされたのか。この娼婦館、随分と阿漕な商売をしているようだ。
「何をさせられるのかは、すぐに判った。だから、逃げようとして」
「ボコられたのか。気の毒にな」
 溜息と共に吐き捨て、そっと女の髪に触れた。柔らかな髪の感触は、やはり猫を思わせる。
「おまえは……変わっている」
「そうか?」
「男はみんな、もっとぎらぎらしているものだと思った」
 女と見ればむしゃぶりつき、思うように弄ぶ、と。
 ジェリオは再び苦笑を噛み殺す。自分もそういった男の一人だ。神経が高ぶったときは、女を抱かずにいられない。
「男色家なのか?」
 思わぬ言葉に、
「はぁ?」
 頓狂な声が出る。
「その、耳飾。女物だろう」
 あ、と耳朶を押さえた。これが見えたのか。この女も、闇視が出来る――と、なると。ジェリオは今一度、彼女を観察した。先程は気づかなかったが、彼女の左耳。そこに揺れる耳飾は。
(何処かで見た?)
 灯りを含むと星型の輝きを放つ、星石。これと同じものを身につけている女を知っている。サリカと同じ顔同じ声の、狂気の皇帝、――大陸の覇王。
「アグネイヤ四世」
 ジェリオの呟きに、女が目を見開いた。
 この女も、アグネイヤ四世の縁者なのか。あの、シェラと同じく。だが、アグネイヤ四世の傍に、金髪の娘がいたという話は聞いたことがない。金髪に緑の瞳、それにこの巫女姫の加護があると言われる星石の耳飾。
「あんた、は」
 この女は誰だ。いったい、誰なのだ。


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