AgneiyaIV | ||||
第四章 虚無の聖女 | ||||
8.双生(5) |
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暫くはセグディアに滞在する、そのアロイスの言葉は偽りではなかった。 カルノリア副宰相を名乗る件の男に使いを送ったセグ大公ルドルフは、 「某に御用とは」 不遜な笑みを浮かべて参内する、美貌の青年に鋭い視線を投げかける。 「シェリルと言ったか、ソフィアの侍女は」 正確には、侍女であった娘だ。伯爵か子爵の令嬢で、ソフィアの学友との触れ込みであった。ソフィアが嫁ぐ際、同行すると言ってきかず、婚約を解消してまでセグにやってきたという忠義者だと聞いている。いま、セグにおいて大公妃として存在している姫君が、実は皇女ではなくその侍女であったら――ルドルフの疑心暗鬼は日々、募っていた。以前は、「寂しいのです」の一言で容易く寝所へと足を運んだのだが、アロイスの言葉に惑わされてからは、大公妃の部屋を訪れることはない。代わりに愛妾であるアリチェに溺れている。もしも本当にあのソフィアが一介の侍女の身代わりに過ぎなかったら。アリチェを使って、殺害するつもりでもあった。 「そうですか、疑われているのですか、ご自身の妃殿下を」 アロイスの喉が鳴る。 謁見の間に侍る側近らは、一介の臣下の傲岸な態度に苛立ちを隠さない。主君の命があれば、すぐにでもこの男を捉え、相応の罰を与えんと息巻いている様がありありと見える。それを悟ったか、それとも何か思惑があるのか。 「殿下、どうぞお人払いを」 アロイスが静かに促した。ルドルフは一瞬、息を呑んだが。 「下がっていろ」 側近及び壁際に控えていた侍女らに、命じた。侍女らはすぐに従ったが、側近の中には若干渋る者も居り。ルドルフは重ねて命ずることになる。そうして、室内には彼とアロイスのみが残ることとなった。アロイスが帯剣をしていないことは、先程確認済みである。そうでなくとも、このような優男、斬りかかって来たとて一合と剣を交えることなく錆にしてくれる自信はあった。ルドルフは、茶褐色の双眸を眇め、アロイスを見つめる。妻と同じく、鮮やかな緑の瞳、そこには一点の曇りもない。けれども、優しげな美貌の裏にはどのような黒さが隠されているのか。ルドルフは警戒を怠らなかった。 「やはり、気になられますか、お妃さまのことは」 アロイスの微笑に、神経が逆撫でされる。 「別に良いではないですか、貴方のお妃さまが、まことソフィア姫でなかったとしても」 何を言うのだ、この男は、と。ルドルフは目を剥いた。この期に及んでまだ愚弄する気かと、思わず剣に手をかけようとしたとき。音もなく傍に歩み寄ったアロイスのたおやかな指が、ルドルフの手を押さえていた。軽く添えられているだけだというのに、払いのけることが出来ない。どうしたことだとルドルフは、内心の焦りを隠しつつアロイスを睨みつける。 「セグには、カルノリアの皇女が嫁いでおります。その事実は、変わりません。覆せません」 当り前のことを、アロイスは言う。今更、あれは偽物であったとは、さすがにカルノリアも言いだせぬだろう。もしくは、嫁いできたソフィアが途中で侍女と入れ替わり、旅路の半ばで落命していたとしても。セグに残っているのは、ソフィア皇女に他ならぬ。 そう考えて、ルドルフははっとした。 「やはり、新大公殿下は、賢くていらっしゃる」 彼の考えを読み取ったであろうアロイスが、満足げに目を細めた。翠の瞳の奥で、愉悦の光が踊るのが見える。 「あなたは、ソフィア皇女の夫君であらせられるのですよ、大公殿下」 低く耳あたりの良い声に、ルドルフは頷いた。否、頷かされた――という方が正しいか。 「お妃様を大切に思われている、手放したくない、離縁など以ての外。そう思われるのでしたら、お妃さまの手を放さなければよいのです」 「どういう、ことだ?」 「たとえ、カルノリアが嫁がれた皇女の継承権を認めなかったとしても。後継者がいなくなれば、否応なしにソフィア姫に帝冠が巡って来るでしょう」 それは、妖しくも甘い、魔性の囁きだった。 皇太子エルメイヤが夭折すれば、継承権は姉のアレクシアに移る。が、アレクシアがもし、不幸にして亡くなったとしたら。エルメイヤはもとより病弱と言われる少年である、皇帝の政務に耐えられず、即位したとしても数年持たずに命を失うだろう。ならば、先にアレクシアを殺害しておれば。また、降嫁した二人の皇女も同様に――ルドルフの脳裏を昏い想像が駆け巡る。ソフィアが即位すれば、自身は大カルノリアの女帝の夫となれる。セグのような小国の大公ではない、皇帝の夫だ。ソフィアが死ねば、自分が皇帝になることも可能なのだ。 「賢き大公殿下、ソフィア殿下の継承宣言をなさいませ。皇女の継承権を主張なされませ」 「だが……」 「ご案じ召されますな。『我ら』は、貴方様の強い味方となりましょうぞ」 我ら、の部分を強調し、アロイスは深く礼をした。同時にルドルフの剣を引き抜き、驚く彼の前で切っ先を自身の喉元に押し当てる。美貌の副宰相は、艶然と微笑み、 「さあ、もしも某を信ずることが出来ぬと仰るのであれば、ここで喉を切り裂かれるがよいでしょう」 若き大公に決断を促す。 ここで、この美貌の男の言葉に従い、権力を望むのであれば。自分は何処までも上り詰められるだろうか。アリチェの背後に在るルカンド伯、その存在と目の前の男を秤にかけながら、ルドルフは薔薇に彩られた未来を想像する。大国のはざまでその影に怯えながら生き続けねばならぬ小国の、苦悩を捨て去ることができるかもしれない、それは、甘美な誘惑だった。カルノリアの皇女を迎えると決まったときに抱いた夢、その夢が実現されようとしている。 「御身を、信じよというのか。アロイス殿」 「強制は致しませぬ。ただ、殿下が望まれるのであれば、我らは協力を惜しまぬでしょう」 『我ら』とは、いったい何者なのか。気になるところである。それを訊かねば、彼の手を取るか否か判断しかねる。 「この国を、強国にしたくはございませんか、殿下」 誘惑は、甘美だった。だが、これだけは譲れない。 「御身の言う『我ら』とは? それを聞かねば、是とは言えぬ」 ルドルフの言葉に、 「ご尤も」 アロイスは頷く。彼はルドルフの耳元に唇を寄せ、そっとある名前を囁いた。 「なんと」 それは、ルドルフを納得させるに足る『名』であった。 暫しの間、呆然とアロイスを見つめていた新大公は、やがて小さく微笑み、手にした剣を静かに引いた。アロイスの申し出を受け入れる、その合図である。アロイスもルドルフの前に膝をつき、 「我が君、某は貴方のしもべの一人となりました」 深く首を垂れる。主従の誓いを為した二人は、やがて互いの目を見交わし、口元を緩めた。そこに漂うのは、決して清浄なる空気ではなかったが、奇妙な静寂があった。 それでは、とアロイスは目を細め 「嘗ての主君の令嬢に、ご挨拶をしてまいります。ソフィア姫は、いずこに?」 有無を言わせぬ口調で要求する。拒絶の理由も言葉も見つけられぬまま、ルドルフはアロイスの要求を呑んだ。 ◆ 「お客様、ですか?」 先触れの侍女が、大公妃の私室を訪れる。てっきり大公がやって来るのかと思いきや、そうではなく客が来たという。自分に客が――と、訝しく思うソフィアの傍らに控えたリナレスが、 「いったい、どちらさまでしょう?」 機転を利かせて問いかけてくれた。彼が傍にいて良かった、と、ほっとするソフィアの耳に 「カルノリアの副宰相閣下、とのことにございます」 思わぬ答えが届く。 「副、宰相?」 カルノリアに、そのような役職はない。父帝の補佐をするべきは、宰相ただ一人。他に、第一将軍、第二将軍等の武官が侍るだけで、副宰相など存在する訳がない。少なくとも、自分が国を出るまでは、そのような存在はなかったはずだ。 訝しげに眉を顰めるソフィアを、不安げにリナレスが見つめる。「お断りしますか」と彼が助け船を出してくれたが、 「お会いしましょう。懐かしいですわ」 ソフィアは 「大丈夫ですか、姫君?」 リナレスの労わりの言葉に、ソフィアは頷く。大事ない、応えてから、思いを巡らせる。 いったい、今頃になって誰がここに来たというのだろう。捕らえられ、日夜責め苦を負わされていたときは、頼りの一通も寄こさなかった祖国が、今更何を。と。僅かながらに怒りも覚える。シェリルも失い、自身も誇りと貞操を失った。冠を戴く娼婦となり果てた自分の前に、よくものこのこと顔を出せたものだ――誰が訪れるにしろ、恨み事の一つも言ってやろうか、そう思ってしまう。 (わたくしは……) 随分と、荒んだ。以前はそのようなこと微塵も考えたことなどなかったのに。ただ、笑っていればよかった。笑顔を向けるだけで、他人も笑顔を返してくれた。夫の死と共に、平凡で温かな日々も失われ、ここに居るのはただの淫婦だ。毒婦だ。後世の歴史家は、自分のことを悪し様に書くだろう。それでも構わない。 自分は、汚れたのだ。 日々やつれていく顔を薄布で隠し、毒に朽ちていく指先を手袋で覆う。既に自分は閨でしか生きられぬ、抱き人形だ。こんな形でしか復讐を遂げられぬ自分を、冥府で夫は迎えてはくれまい。 「ご無沙汰しておりました、皇女殿下。ご機嫌麗しく……」 侍女に導かれて現れたのは、見知った顔だった。自身と同じ鮮やかな金髪、生命溢れる翠の瞳。この色彩を以てして、自分と弟は彼の子であると、母の不義の子であると囁かれていたのだ。 「アロイス」 かの人の名を、ソフィアは呟いた。 背後に控えたリナレスも、そっとその名を繰り返す。「ご存知ですか」と殆ど聞こえぬ声で投げられた問いに、ソフィアは頷いた。 母の気に入りの神官であったこの男が、今は副宰相を名乗っている――母は失脚したはずなのに、これはどういうことなのだと、ソフィアは薄布越しに件の男を睨みつける。この男のために、彼女の家族はあらぬ噂の的になってしまったのだ。 「母が失脚して、あなたは国を追われたというのですか、アロイス神官」 神官、リナレスが驚いたようにアロイスを見やる。 「居場所を失い、今度はわたくしを頼ってきた、と。随分、都合の宜しいこと」 厭味を投げつければ、 「おやおや」 美貌の神官は大袈裟に天を仰いだ。 「これは、嫁がれてから大分乱暴になられたようですな、ソフィア姫。ユリシエルにいらした折は、優雅でたおやかな、両陛下に対しても口答え一つされない、理想的な姫君であられましたのに」 芝居がかった嘆きが、ソフィアを更に苛立たせる。久方ぶりに訪れた故国の使いが、よりによってこの男などと。父はいったい何を考えているのだろうか。 「シェリル殿は、如何なされましたか?」 ソフィアの傍らに控えるリナレスを見、続いて室内を見渡したアロイスは、何気ない風を装って問いかける。常にソフィアの傍に侍っていた侍女が見当たらない、そこに違和感を覚えたのだろう。 「亡くなりました」 隠すこともない。ありのままを告げる。ことによれば、誰に殺されたのかも告げるつもりであったが、 「そう、ですか」 彼はそれ以上は追及してこなかった。かわりに、リナレスに興味を持った模様である。そちらの黒髪の侍女殿は、と、女性であれば誰もが心を蕩かされてしまうであろう官能的な笑みと共に問いかけてきた。 「リーラ、です。この国の男爵令嬢です」 黒髪に青い瞳で、セグ人とは――あからさまな嘘に、アロイスはどうでるか。今回も予想に反して彼は追及はしてこなかった。しかし、 「シェルマリヤ姫と似ていらっしゃいますね。髪と、瞳のお色が」 そう言ってにやりと笑う。何やら含みのあるところが、気に障る。彼が何用あってソフィアを訪ねてきたのか、その旨を尋ねると、彼は単なる機嫌窺いだと答えた。更には、 「某は、暫くこの国に滞在する所存にございます」 意外なことを口にする。やはり、国を追われて亡命してきたのか、しかも副宰相などと偽りを口にして。怒りのあまりソフィアが扇を投げつけそうになるのを、リナレスが必死で制した。思い止まり、唇を噛みしめる彼女に対して 「ルドルフ大公殿下にお仕えすることになりました。大公妃殿下にもご挨拶を申し上げねば、と思いまして」 怒りを煽る言葉を放ったのだ。 退室する際、洗練された動きで礼をしたアロイスは、一瞬憐れみの籠った目でソフィアを見た。その視線が意味するものが何なのか、理解しかねたソフィアであったが。 「いずれ、お救い致します。我らが、姫」 先程よりも深く、深く。頭を下げた。 「アロイス?」 訝るソフィアに、彼は憐れみに似た目を向ける。まるで全てを知っている、そう言わんばかりの視線に覚えたのは、怒りではなく哀しみだった。アロイスの言葉に、視線に、慈愛を感じたのは気のせいであろうか。祖国の香りを運んで来た彼に、懐かしさと同時に甘えすらも覚えてしまった、と。そんな自分を恥じて、ソフィアはそっと薄布の下で目尻から溢れた涙を拭った。 ◆ 東の離宮は、初めから捨て石だった。アーディンアーディンに兵が集まるまで、それまでの間、もてばいい――そんな思いがあった。だから、 「お引きください、妃殿下……いえ、王后陛下!」 王太子の間に駆け込んできた血まみれの兵士を見ても、サリカは別段、驚くことはなかった。 階下は全て、国王派の兵士に制圧されていた。離宮を守っていた兵士は、その大半をアーディンアーディンに――エリシアとディグルの元へと送っている。ここに残るのは、僅か数十。それも、あと数人を残して全て、打ち果てたとその兵士は告げた。 「もうすぐ、ここにも」 言いかけて、彼は事切れる。まだ若い、入隊したばかりの兵士だった。サリカと幾らも変わらぬその兵士の死を嘆く者は、沢山いるだろう。彼の両親、兄弟、そして、幼馴染。 「よく、報せてくれました」 彼の亡骸に歩み寄り、サリカは開いたままであった目を、そっと閉ざす。 「王后陛下」 傍らで悲痛な叫びを上げるアデルを振り返る前に、サリカは短く祈りを捧げた。 「陛下、早くお逃げください」 呼びかけに、小さく頷く。 自分は、逃げなければならない。引かねばならない。ここで捕らわれてはならない。フィラティノア王妃ルクレツィアは、無様な姿を晒してはならない。 (そう) そして。死んでもならない。生き延びなければ、ならない。 サリカは兵士の遺体から離れると、 サリカはすらりと剣を鞘ばしらせた。アデルもそれに倣い、護身用にと手にしていた短刀を抜き放つ。 「ぐずぐずしてちゃ駄目ですよ、陛下にお女中。さっさとずらかりますからね、表に馬を用意してあります」 暖炉の煉瓦と格闘しながら叫ぶのは、エーディトだった。彼は、ディグルよりこの部屋に設けられた隠し通路の場所を教えられている。暖炉から通じる抜け道は、城の裏手の森に繋がっており、そこにジェリオが馬を用意して待っているのだと彼は言っていた。 「迷惑をかけるわね、エッダ」 労いの言葉をかければ、 「ええ、全くですよ、全く」 煤に塗れた顔を上げ、エーディトは小姑宜しくぼやき始める。 「ほんとーに手際悪いですよね、王后陛下。もー、もう少しこう、さくっと逃げられるように何とかしておかなかったんですか。てか、もう、衣裳なんて着ちゃって。こういうときこそ、男装でしょう」 「男装は、やめたの」 サリカの言葉は、エーディトには届かない。それを承知でひとりごちたサリカは、うっすらと微笑み、 「さあ、アデル」 侍女を促した。 「陛下、陛下が先にお行きくださいませ」 自分が先に逃げる訳にはいかないと、アデルは激しくかぶりを振る。それをまたもどかしそうに見やったエーディトは 「あああ、遠慮しないでお女中さん。てか、あんたシンガリ出来ないでしょう、後ろから敵が来たときにどうするんです、そっちはわたしの務めですから、ほらほらずずずいっと、先に入った入った」 無造作に彼女の背中を突き飛ばす。きゃあ、という悲鳴が上がっても彼は気にせず、さっさと行けとばかりにサリカの手も掴んだ。 「ここでしくじったら、全て終わりですよ。いいですね、『王后陛下』」 黄昏の瞳に潜む怒気を目の当たりにし、サリカは強く頷いた。 王宮奥深く幽閉したはずの国王は、どういったつてを辿ってか、翌日には国内の国王派を呼び寄せていた。白亜宮は血で汚れ、その先頭に立つウィルフリートは、王太子の廃嫡と、王太子妃の捕縛を命じたのだ。彼の存在を失念していたのは、サリカの失態である。彼はもとより、病弱なディグルを廃し、自身が次の王たることを夢見ていた。更には、 ――謀反人なれど、ルクレツィア王太子妃殿下、次期国王たるわたくしとの婚姻を望まれるのであれば、そのお命長らえることも可能ですぞ。 愚かしい提案をして来たのだ。 当然、サリカは蹴った。 幸いだったのは、エリシアとディグルはイリアと共に先に静養の名目でアーディンアーディンに移していたことか。彼らを人質にされては、もしくは、殺害されては元も子もない。サリカは再びディグルの王位を宣言し、自らを王妃と公言した。そのうえで、東の離宮へと移り、そこに兵を集め、立て籠もったのである。 小競り合いは、一月ほど続いたか。 国王派も、サリカの派手な挑発に気を取られ、アーディンアーディンにおける動きを把握してはいなかった。先程、アーディンアーディンのエリシアより報告があり、あちらの体勢は整ったという。 ――早く、脱出するのです。 その言葉を届けに来たのは、エーディトである。ここ一カ月の間、東の離宮とアーディンアーディンを結ぶ伝令となっていた彼は、何処までも損な役回りだと文句を言いながらも、機敏に任務をこなしてくれた。彼がいなければ、今のサリカも存在はしなかったろう。 アデルが抜け道に消え、サリカもそこに足を踏み入れたとき、背後の扉が破られる音がした。王太子の間に、敵が押し寄せたのだ。早く、とエーディトの声が聞こえる。サリカは一瞬躊躇ったが、アデルを追った。 「じゃあ、無事に逃げてくださいよー」 間延びした声が聞こえ、背後で煉瓦の扉が動く音がした。 「エッダ?」 叫ぶサリカの目の前で、無情に扉が閉ざされる。再びこじ開けようと手をかけるが、女性の力ではびくともしなかった。 「王后陛下」 アデルの声が聞こえる。サリカは唇を噛み、扉に拳を叩きつけた。どうか無事で、と。エーディトの無事を心の中で祈り、身を屈めたままアデルと共に細い道をひたすら進んだ。もとは使用人用に作られた通路なのか、思ったほど歩きにくくはない。左右の壁は息苦しいほどに間近に迫ってはいるが、天井はところどころ低く感じられる場所はあるものの、サリカやアデルの身長では無理せず普通に進むことが出来た。 「長剣は、やっぱり似合わないわね」 この狭さに、長剣は不利だ。やはり自分は、短剣使いだとサリカは自嘲する。 「エーディト様は、ご無事でしょうか」 薄闇越しにアデルの心細げな声が聞こえ、サリカも不安が過ぎったが 「大丈夫」 彼に限って、抜かりはない。そう信じて、先を急いだ。この通路を抜ければ、ジェリオが待っている――やがて何処かの古井戸らしき場所の底に出た二人は、つるべを伝って壁をよじ登った。 「あーあ。これが、大国のお妃様かねえ」 ざまはねぇな、と笑うのは、ジェリオである。木々の一つに背を預け、草を食む馬の首筋を撫でながら彼は皮肉げにサリカを見やる。彼はその手に自身の剣があることに気付くと、僅かに表情を変えた。怒ったような、照れたような、不可解な百面相をしてから 「早く乗れよ」 二人を促す。 が、彼が連れている馬は一頭だった。如何に鍛えられた軍馬とはいえ、、三人も乗ることはできない。 アデルが一歩身を引いたとき、 「ばーか。俺がそんな間抜けだと思ってんのか?」 失礼な、と子供のように口を尖らせる。同時に、 「サリカ!」 明るい少女の声とともに、森の奥から今一頭の牡馬が登場した。それを駆るのは、イリアである。漸く伸び始めた黒髪を一つにくくり、簡素な従者の服を纏った巫女姫は、「お待たせ」とサリカの前に降り立った。 「イリア、馬に乗れるようになったの?」 驚く彼女の前で、イリアは「ふふ」と舌を出した。 「教わったの。この」 とジェリオを一瞥し 「変態好色男にね」 つんと顎を上げる。ジェリオが、と若干驚きはしたものの、彼は意外に人の好い処がある。好青年とは間違っても言い難いが、それなりに親切ではある。 「だーれが好色男だ」 拳骨を振りかざす彼から逃げるように身を交わしたイリアは、サリカに早く乗れと馬を指差した。サリカとアデル、ジェリオとイリアが各々馬に跨り、離宮の森を後にする。振り返れば、壮麗な館が焔に包まれていた。誰かが火を放ったのか、それとも打ちこまれた火矢から燃え広がったのか。かつてディグルとクラウディアが暮らしていた王太子の『城』は、黄昏の光の中、静かに朽ちようとしている。 「『落日』、か」 神聖帝国最後の日を思い出し、サリカが呟く。同じく館を振り仰いだアデルは、目を潤ませていた。彼女も、この館が作られた当時から、ここに勤めていたのだ。はじめは台所の下働きに、次は、幽閉されたハンナの監視役に、最後には王太子妃の侍女として。仕えた期間は数年であるが、それでも感慨深いに違いない。 「クラウディア妃殿下……ツィスカ様……」 唇から零れる名に、サリカは首を傾げる。 ツィスカとは誰なのだろう、サリカの心の声を悟ったのか、 「王太子殿下付きの、侍女殿です」 アデルが小声で答えた。王太子夫妻の信頼厚く、マリサからハンナの世話を命じられていた。そのツィスカは何処に居るのだと問えば、もう此処にはいないという。ウィルフリートがアヤルカスに赴いた際に同行し、そのままかの国で知り合った異性のもとに嫁いだという。 「そう」 だとしたら、今頃はマリサと再会しているかもしれない。サリカは穏やかな気持ちで目を細めた。 こうして身は離れていても、自身はマリサと共に、アグネイヤ四世と共に、戦っている。ちっぽけな存在に過ぎないが、狗の牙に等しいが、自分の行動は片翼の援護になっているだろうか。 (アグネイヤ) 一度は自身の名となっていたその名を、心の中で呼ぶ。 ――わたしは、ここにいる。いつもそばにいる。 片翼に、語りかける。 寄り添う心は、常に一つ。サリカは手綱を取りながら、遠くセルニダの地に思いを馳せた。 ◆ やれやれ、と。エーディトは溜息をついた。 もう一体何人、手にかけたのだろう。 血に滑る手には、既に力は残っていない。疲れた――脳裏を巡る言葉は、それだけである。 「馬鹿ですねえ、わたしも」 フィラティノア兵士の屍に足をかけ、エーディトは乾いた笑いを漏らす。 自分の目的は、あくまでも復讐だったはず。復讐を遂げるために、手を汚してきたはずだ。今までも、そしてこれからも――だが、もう、どうでもよくなってきた。ぽて、と血だまりに腰を落とす。先程まで、雲霞のごとく群がって来た敵の気配はすっかり途絶えた。火の手が広まったことを察したのだろう、彼の他に気配はない。見れば、壁という壁が赤く彩られている。綺麗だ、と。彼は思った。 神聖帝国の『落日』にみる光景は、このようなものだったのかもしれない。 「ああ、これで少しは、エーディト姫に近づけますかね」 宰相の娘であった、エーディト。女性騎士エーディト。西の大公の姪でもあるかの姫は、落日を生き延びた。だが、そのあとの戦禍で、その純潔と命を失った。アインザクトを滅ぼしたカルノリア大公は、毒杯を煽った大公夫妻の遺体の首を刎ね、晒し首にし、捕らえた姫君を兵士の慰み物とした。飢えた兵士の閨に放り込まれた気高き姫君は、どのような思いで己を凌辱する者たちを見ていたのだろう。従軍したカルノリア兵全ての欲望を満たした――と、伝えられている――エーディト姫の、最後は誰も知らない。そのまま娼婦に落とされたとか、我が身を嘆いて命を断った、とか。伝承は幾つもあった。だがどれも、確たる証拠はない。真実は、歴史の闇に葬られてしまっている。 「多分、姫君はね」 死んではいない。娼婦にもなっていない。きっと、名を捨て、性別を捨て、復讐に生きたのだと同じ名を持つ彼は思う。 かのひとの想いを背負って、自分も鴉への復讐を遂げるのだと思っていた。信じていた。だが、どうやらそれは間違いらしい。 自分は、ここで終わる。 剣を置き、その場に跪いた。らしくはないが、最後くらいは祈りを捧げよう。 「美しき姫君のために、我が身を犠牲にする――ああ、美しいですねえ。ルクレツィア姫も、わたしのことを歴史家に伝えてくれますかねえ」 愚にもつかぬことを呟き、目を閉じようとした。刹那、 「殿下」 焔が周囲を舐めつくす不気味な音に混ざって、女性の声が聞こえた。気のせいか、とも思ったが。破られた扉の向こうから、一人の女性が飛び込んできたのを目の当たりにしては、現実を認めぬわけにはいかぬだろう。 流れる金髪、鮮やかな翠の瞳は、一瞬ソフィア皇女を思わせた。 「鴉の……姫君?」 現に、エーディトはそう呟いたが――彼女に重なったソフィアの幻影は、焔の中に霧散する。片耳に揺れる瑠璃色の星石、その鈍い輝きの記憶を最後に、エーディトは意識を失った。 |
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