AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
8.双生(4)


「や。どーも。お久しぶり」
 呑気な声を上げながら黒衣の辺境伯が登場したのは、その日の夕刻であった。
 謁見と軍議を終え、漸く一人の時間が持てる――と、私室に当たる皇帝の間へと戻ったアグネイヤは、窓辺で聞こえた小さな音に
「サディ?」
 あの鷹が書簡でも携えてきたのかと、大きく扉を開いてしまう。自身の迂闊さに気付いたのは、次の瞬間だった。烏の濡れ羽を思わせる光沢のある黒髪、それに合わせたかのような漆黒の衣装を纏った少年が、「やあ」とにこやかに手を上げている。
「お久しぶり。さようなら」
 無表情で棒読みの挨拶を投げつけ、扉を閉めようとしたところを
「ちょっとちょっとちょっと。そりゃないでしょうよ、冷たいなあ」
 黒衣の騎士は、押しとどめる。つんと唇を尖らせる様は、まるで子供であるが。全然可愛らしくもない、可愛らしさの欠片もない。そもそも、女性の私室に押し入ろうとするのは何事か。それも、窓からなど。他人が見たら一体なんと思うか――世間体というものを恐ろしいほど気にかけぬアグネイヤではあるが、流石にこの行為は見逃すことはできぬ。如何に神聖帝国宰相とあれど、不敬罪で即捕縛である。しかも、自室に入ったのだからと気を許し、服を緩め、胸元を若干露わにしたこの時を狙ったかのような登場は、計算尽くとしか思えない。
「変態。衛兵を呼ぶわよ?」
「言うよねー。まだ何もしていないでしょうに。あ、それとも何か期待しちゃってた? オレに?」
 力にものを言わせて窓を押しあけ中へと踏み込んだ少年、宰相ティルはにやりと笑った。つん、と額を突かれそうになるのを紙一重で交わし、アグネイヤはそれと判るように目を吊り上げる。
「わたしに興味もないくせに、よく言うこと」
「およよ?」
 ティルは目を丸くし、それから口角を吊り上げるようにして厭味な笑みを形作った。
「いやー、それは心外だなあ。初めて会ったときから、お嬢さんのこと気に入ってたのに」
「そう。ありがとう」
 素っ気なく言い放ち、アグネイヤは彼に背を向ける。と。徐に手首を掴まれ、引き寄せられた。軟弱少年を装ってはいるものの、そこは男性、力の差は歴然としている。為す術なく壁に背を押しつけられた状態で、アグネイヤはティルを見上げていた。彼はあいている方の手を壁に付き、斜め上から彼女を見やる。赤みの強い紫の瞳が、夕陽の中で、揺れた。
「興味がなくても、抱くことはできるけどね」
 彼の眼が伏せられる。僅かに傾いた顔がゆっくりと近づいてきて、アグネイヤは焦った。
「ティル? あなた、なに血迷ってるの?」
 声が掠れている。自分らしくない、そう思ってはみるものの、抵抗することが出来ない。間近に迫るティルの唇を避けるように顔を背け、きつく目を閉じたアグネイヤの耳元で
「なーんてね」
 軽い声が聞こえた。同時に、ぷっと吹き出した音。目を開ければティルが肩を震わせて笑っている。からかわれたのだと思うと、無性に腹が立ってきた。アグネイヤは彼の手を乱暴に払い、その腕の中からすり抜ける。ティルはまだ、壁に手を付いたままの姿勢で笑いを堪えていた模様だったが、
「意外に反応可愛いんだもん、期待しちゃうでしょうが」
 腹を押さえながら彼女に向き直る。期待――何を期待したのだか。アグネイヤが何か言い返そうとする前に、
「皇帝陛下に手を出したら、怖いお仕置きが待っていそうだからね。遠慮しておくわ」
 軽く肩を竦め、視線を動かした。
「?」
 それに従い、背後を振り返ると。
「ルーラ」
 いつからその場にいたのか。ルーラが陰の如く佇んでいた。彼女は、青玉石(サファイア)を思わせる目に負の感情を揺らめかせ、ティルを睨みつけている。噛みしめた唇は色を失い、ともすればすぐにでも剣を抜きそうな勢いであった。事実、彼女の手は剣にかけられている。
(まったく)
 アグネイヤは溜息をついた。ティルがからかったのは、ルーラだ。アグネイヤではない。ルーラの気配に気づいた彼は、彼女をからかうために――。
「馬鹿ね」
 アグネイヤは横目でティルを睨む。ティルは「なんのことやら」と鼻の頭を掻いていた。どうもこの少年、ルーラのことが気になって仕方がないらしい。よもやそちらの気があるのではないか。アウリールのティルに対する忠誠と庇護欲の異常さを考えれば、さもありなんと思ってしまう。
「で? ルーラを弄るために来たのではないでしょう、アーシェル辺境伯?」
 厭味を投げるアグネイヤに、
「あー、そうそう、そうなんだよね」
 ティルは全く悪びれずに形ばかりの挨拶を述べ、簡単にフィラティノアの現状を報告する。それは先日、セレスティンから聞き及んだものとほぼ合致していた。状況は、然程変わっていないらしい。サリカの傍には、エーディトとアデルが居る、だからいいだろうとティルは言い。
「意外にやるんだよね、あのお姫様。まあ、危なっかしいことこの上ないけどさ。先にエリシア妃とディグルをアーディンアーディンに逃がして、自分は東の離宮に立て籠もって、国王派を一手に引き受けてたからね」
「サリカが」
 アグネイヤは驚いた。
 ティル曰く、アーディンアーディンは近衛師団と嘗てかの地を治めていた一族によって固められているという。それだけではない、かの地を拠点として、反国王派が集結しつつある模様だ。てっきり、サリカもアーディンアーディンに在ると思っていたのだが、どうやら違うらしい。彼女は東の離宮に残り、そこで。
「王宮を囲む指揮を取っている」
 ティルが、にやりと笑った。
 『王太子妃ルクレツィア』であるサリカと彼女に味方する者が、白亜宮を包囲しているのだ。内部に立て籠もるのは、国王と宰相、その配下のみ。
 アグネイヤは、離宮と白亜宮の位置関係を頭に描いた。白亜宮から東の離宮を経た直線上に、アーディンアーディンがある。丁度良い配置図だ。
「やるじゃない」
 アグネイヤが呟くと
「でしょー?」
 ティルは己のことのように自慢げに胸を張る。
「オレもちょっと血が騒いでさあ。残っちゃおうかなあ、と思ったんだけどね」
「じゃあ、残りなさいよ」
「えー。でも、こっちのお嬢さんに付いていた方が面白そうだし? やっぱり、オレの立ち位置としては、真の皇帝の傍が相応しいでしょ」
 ね、と片目を閉じるティル。
「残念ながら、神聖帝国には宰相がいるわ。優秀なるエルハルトがね」
 彼がいる限り、ティルは神聖帝国宰相とはなれない。無論、エルハルトが引退するか、死去するか。そののちであれば、宰相の椅子を得ることも可能だが。
「じゃあ、オレ次期宰相候補ね」
 ちゃっかりその旨、申し出る辺りが彼らしい。アグネイヤは苦笑を隠せなかった。確かに、エルハルトの後継として、ティルほど相応しい人物はいない。エルハルトも、喜んで彼を手元に置きたがるだろう。容易く人望を得ることができ、しかも頭の回転の速いティルである、アグネイヤにとっても得難い人材だ。なにより、彼の背後にはアーシェルがある。
「あっちのお嬢さんが頑張っている間に、こっちはこっちで、国内の地固めをしないとね。騎士団の再構成とか、内政の整備とか。色々あるでしょ」
「それは、エルハルトに一任しているわ。そうね、あなたも手伝ってくれないかしらね、今日から」
「今日から? 人使いあらいでしょ、それ」
 ぶぅとむくれるティルを無視し、アグネイヤはルーラを通して侍女を呼んだ。現れた侍女は、そこに見知らぬ少年を見て驚いたようであったが、態度には出さずに神妙な面持ちでティルを表へと促す。アグネイヤの命令は、ティルを宰相エルハルトの元へと案内すること。彼がアーシェル辺境伯であることを伝えると、侍女も幾分安心したように表情を和ませる。
「ご案内いたします」
 淑やかに頭を下げるこの侍女――黒髪と青い瞳が特徴の、ミアルシァ娘だ。確か、エルハルトが幽閉中に側仕えをしていた娘だと思ったが。退室していく二人の姿を見送るアグネイヤ、彼女が
「フィオレラ、といったかしら?」
 かの侍女の名を呟いたとき、壁際に在ったルーラの眉が僅かに動いた。
「ミアルシァ宰相の縁者、だったわね」
「はい」
 それが自身に向けられた問いであることを認識したのか、ルーラが小さく頷く。
「調べてくれたのでしょう?」
 ミアルシァ宰相の庶子である、との触れ込みでアシャンティへと送り込まれた娘・フィオレラ。少しぼんやりした処はあるが、気立てのよい娘であるとエルハルトは評していた。確かにおっとりしすぎであると思えるが。果たしてそれが、彼女の本来の姿なのか。
 時折漂う、空虚な雰囲気。冷めた眼差しが違和感を覚えさせる。エルハルトほどの切れ者が、気付かない訳はないとは思うのだが、疑わしき者は徹底的に調査せねば気が済まない。とはいえ、この数日で得られる情報など限られている。期待以上のものは出てこないと踏んでいたのだが。
「フィオレラ殿は、キアラ公夫人の侍女を務めていたそうです」
 ルーラが得たその情報に、正直目を見張った。何処で仕入れたのか、とは訊くまでもない。おそらくエルナが齎したのだ。
「キアラ公――ルクレツィア姫の実家ね」
 正確には、養女に出された家、か。
 フィオレラという娘は嘘偽りなくミアルシァ宰相の庶子で、キアラ公令嬢シルヴィア及びラヴィニアの学友でもあったそうだ。ルクレツィアの輿入れと共に多くのミアルシァ貴族が紫芳宮へと乗り込んできた。そのときはまだ故国におり、アヤルカスが完全にミアルシァの支配下に置かれたのちに送り込まれたらしい。よもや皇太后及び宰相に向けて放たれた暗殺者ではなかろうかと疑っていたのだが、
「密偵の役割を果たしていた模様ですね」
 ルーラの説明に、若干拍子抜けする。密偵とは言えど、シェラの如く情報収集から暗殺、撹乱まで幅広くするものではないらしい。ただ情報を得るだけの、ほぼ素人に近い密偵か。それならば、逆に此方からあらぬ情報を流して欺けばよい。尤も、彼女の存在を隠れ蓑に、他の密偵が動いている可能性もある。それをあぶり出すために、フィオレラはもう少し泳がせればよい。
「フィオレラ殿に関しては、エルナが目を光らせております」
「そう。流石ね」
 幾分、皮肉が混じった言葉ではあるが、エルナに対する賛辞には変わりない。
 アヤルカス国内の混乱は、徐々に静まりつつある。これで、神聖帝国再興の宣言をし、アグネイヤ四世が頂点に君臨することを公にすれば、アヤルカスという国は無くなる。広大な旧アルメニア領土を全て整備するには時間が必要だが、それでも推し進めねばならぬ。
 皇后失脚で揺れるカルノリアは、当分表には出てこないだろう。内乱を抱えるフィラティノアも然り。セグもシェラとリナレスが協力してソフィアを動かせば、味方にならぬまでも最悪、中立を保つはず。
 あとは、エランヴィアとミアルシァだ。ここをどう抑えるか。ツィスカが存命であれば、王家が健在であれば。エランヴィアは何とかなったはずであるが。
「そのことです、陛下」
 ルーラの述べるところによれば、エランヴィアにはアンディルエの巫女たちが侵入を果たしているという。それは、現在アシャンティに詰めているユリアーナという名の巫女が明言している、と。
「驚きね」
 アンディルエが、そこまで積極的に動くとは。考えてもみなかった。
 アグネイヤの脳裏に在るアンディルエは、イリアに象徴されている。子供じみた巫女姫、それがアグネイヤにとってのアンディルエそのものであった。
「巫女姫、といえば」
 ルーラが幾許か口ごもりながら告げる。ティルと共に、リィル――リルカインも紫芳宮を訪れている、と。乳白色の髪と瑠璃に似た瞳を持つ、ある意味紛い物の巫女姫。我こそが真の巫女姫と言って譲らないリィルが、今ここに居る。
 それならば。
「巫女姫を手にする者が、皇帝たる権利を得る。正義は我に在り。――ってね」
「陛下」
「サリカの援護もあることだし、わたしたちも闘いましょうか。目の前の敵と、ね」
 身は遠く離れていても、片翼は傍にいる。同じ方向を見て、同じものを目指している。そう確信すれば、怖いものなど何もない。アグネイヤにとって、片翼こそが最高の、掛け替えのない『伴侶』なのだ。サリカも同じことを思っているはずだが、
(今は)
 思春期の娘だからだろうか、異性にうつつを抜かしているらしい。迫られてその気になった、もしくは、同情を恋慕と勘違いしているのか、そのどちらかであろうに。必死にその偽りの感情を追い掛けているところが、愚かしくも微笑ましい。
 何があっても片翼の帰るべき場所は、自分の処しかない。それを彼女がはっきりと認識する日は、いつになるだろうか。
「長い、戦になりそうね」
 呟くアグネイヤ。ルーラは小さく肯定する。


 その後暫く、中央諸国に大きな動きは見られなかった。
 小競り合いは其処此処で起こってはいたが、大きな衝突もなく。嵐の前と思われる静けさを内包したまま、南方諸国は新たな年を迎える。少し遅れて、北方の暦を使用している神聖帝国にも新年が訪れた。
 が。普段であれば華やかなはずの祝賀会も、各国に不穏な空気が漂っているせいか、この年は例年になく質素なものだった――と思う。ここで国力の差を見せつけるにこしたことはないが、神聖帝国を名乗るアヤルカスにとっては、行事よりも内政の整備が優先であった。
「で、オレが神聖騎士団総帥?」
 若輩でありながら、重要な役割を与えられたアーシェル辺境伯ティルは、譜代の重鎮から奇異の目を浴びることとなる。騎士団長なれば、他に相応しい人物がいるものを、と進言する者もあったが、神聖皇帝アグネイヤ四世の一言でそれは却下された。
「役職の配置に関して、口出しは無用」
 厳しき言葉は、とても十七歳の乙女のそれとは思えず。広間に列席した重臣たちは一様に息を呑んだ。かつてこの国に在ったときのアグネイヤ四世とは、比べ物にならない。同一人物とは思えない。その立ち居振る舞い、発言、身に纏う威圧感、全てが。

「まるで」
「皇太后陛下」
「リディア皇太后を見ているようだ」

 人々は囁き合う。そして、リディア皇太后のほかに今一人。本来皇帝として国を背負うべきであった人物を脳裏に浮かべ、

「いや」
「まさか」
「そんな」

 その想像を打ち消し合った。
 そんなはずはない。マリサと呼ばれていた皇女は、アグネイヤ四世を名乗るべき姫君は、クラウディアの名を与えられ異国へと嫁いだ。現に今、かの姫君はフィラティノア王妃を名乗り先王となったグレイシス二世に弓を引いている。如何に夫のためとはいえ、あの心優しきサリカに謀反を画策し、あまつさえ義理の父に刃向う気概などあるわけがない。あれは、間違いなくマリサだ――諸侯はそう信じていた。
 だが、帰還後のアグネイヤ四世の変わりようはどうだろう。

「みんな、驚いているみたいだね」

 広間を退室したのち、エルナがアグネイヤの耳元で囁いた。なにが、と首を傾げれば、エルナは「うふふ」と笑う。
「ここ一年足らずで、アグネイヤ四世が変わったってさ」
「ああ、そのこと」
 本当に、人物が入れ替わっているのだから、当然である。
 逃亡先より帰還したアグネイヤが、以前とはまるで違う君主たる器に相応しい人物となっていることが驚きだったのだろう。ついに皇帝としての自覚に目覚めたのだと喜ぶ家臣もあれば、戸惑いを隠せぬ者も多い。
「サリカもあの母上の娘だし、わたしの双子の姉妹でもあるのよ?」
「ご尤も」
 くすりと笑うエルナ、ルーラは答えず渋い顔をしている。エルナは、近衛を動かして反乱を起こしたサリカを、少しは見直したらしい。以前ほど悪し様には言わなくなってきている。ティルと同じだ。けれども、ルーラは。
「……」
 相変わらず、サリカを否定している。サリカという存在そのものを厭うている。
 それが、アグネイヤの心に刺さる棘となることを知っていて。


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