AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
8.双生(3)


 セグ新大公夫妻の間に、夫婦の営みはない。そんな報告をしている自分が、馬鹿らしく思えてくる。偽りの書簡は過たず師の元に届き、師は――師であるセレスティンは、それをもとに状況を判断し、次の手を打ってくるであろう。
(申し訳ありません)
 リナレスの詫びは、誰に向けたものなのか。
 師か。それとも、君主たるアグネイヤ四世か。
 今の自分の行動は、間違っている。それは、判りすぎるほど判っている。密偵となったからには、心を殺し、非情に徹せねばならぬ。関わった相手に情を移すことは、最もしてはならぬ愚行。だが、今の自分は。

「リーラ」

 自分をそう呼ぶ美しき皇女、かつてユリシエルの華と讃えられた悲しき毒婦に、あらぬ想いを抱いてしまっている。
 身を清めるために湯を使いたい。情事のあと、そう希望する彼女のために寝室へと浴槽を運ばせた。薄暗い部屋の中、他の侍女を全て下がらせ、リナレスはソフィアの介助をする。もともと、ソフィアは一人で湯を使うことはできない。幼いころから、全てを人任せにして来た深窓の姫君である。塔に捕らわれていた際も、小間使いがその身の世話を全て任されていた、とはいえ、心を閉ざし、一言も口を利かぬソフィアを気味悪がり、通り一遍のことしかしていなかった模様だったが。
「灯りは嫌い」
 もう自分は、陽光の下に出ることもできない、それがソフィアの口癖であったが、ここ数日はリナレスの手にする燭台の灯りすらも嫌っていた。
「姫君の美しいお姿が、泣きますよ」
 冗談めかして言うと、ソフィアは悲しげに俯く。
「この穢れた身を美しいと、お前はそう言うの」
 嘆きの言葉に、返答ができなかった。
 ゆっくりと持ち上げられた左手、その薬指に嵌る指輪が、虚しく回る。本来であればぴたりと指に添うはずのその指輪は、今はソフィアの指の倍近くの太さがあった――つまりは、それだけ痩せたのだ。薄闇の中で煌く金、そこに宿る鴉に目を向けたソフィアは、ふ、と静かに笑う。
「ソフィア姫」
 リナレスは思わず呼びかけたが、後が続かない。何を言えばいいのか、かけるべき言葉を見失い、彼はうろたえた。軽く唇を噛み、ソフィアの肌に香油を纏わせる。指先に、掌に、感じる温もり。滑らかな白磁の肌。これを、あの男は――大公は、先程まで貪っていたのだ。思うと、遣りきれなくなると同時に、怒りが込み上げてくる。
 ここまでやつれて、心まで闇に捕らわれて。挙句、夜ごと愛なき凌辱に自ら進んで身を投げ出す皇女が、哀れでならなかった。復讐のために身に纏った毒は、ソフィア自身も冒しているのだろう。色の濃い染料で染めているから判らぬが、彼女の爪は既に健康な色を失っていた。指先もおそらく変色しているだろう。だからこそ、彼女は灯りを避ける。醜く爛れていく自身の姿を、光の下に晒すことを、忌む。
 それだけではない。
 ソフィアの身体には、痣があった。本人は気づいているのかどうか――裸身を鏡に映すことがあれば、目に留まるかもしれない。が、姫君がそのようにはしたない真似をすることは皆無であろう。だから、気づいても敢えて口にはしなかった。ほんのりと光沢を放つ桃色の真珠に似た肌に、浮き上がるのは蔦か、それとも、蔓薔薇か。まるで刺青のようにはっきりと妙齢の婦人の左肩を飾るその痣を、発見したのはつい先日であった。それまではまるで気付かなかった、というのも奇妙な話である。
(蔓薔薇? いや、葡萄か?)
 今も、痣ははっきりと見て取れた。暗いので目をこらさねば、はっきりとした形は判らぬが。
(痣じゃない)
 紋章だ。意図して刻まれた、紋章である。葡萄の葉と蔓、それに果実だった。痣に見えたのは、この果実であろう。赤く鮮やかに、一際目を引くこの意匠が、偶然出来たはずがない。しかも、これはただの刺青ではなく、体温が上昇したときのみに現れる特殊な加工を施されたものだ。
 いったい、何を以て大国の皇女の身にこのような曰くつきのものを刻んだのか。
 否、問題はそれだけではない。
「葡萄?」
 葡萄は、自己犠牲の象徴であると同時に、とある家の紋章でもあった。
「まさか……」
 リナレスは、ソフィアの肌を凝視する。
「どうしました?」
 ソフィアも驚き、リナレスを振り仰ぐ。光り乏しき部屋の中、陰りを帯びた青の瞳と、新緑の瞳がぶつかり合う。二人はその距離があまりにも近いことに気付き、互いに顔を赤らめた。ソフィアは何気ない仕草で胸を隠し、
「なんですか、なにか、痣でも?」
 ぎこちない口調で尋ねる。はい、痣がありましたとも答えられぬリナレスは、曖昧に言葉をぼかし、ソフィアの背を布で覆った。
「――ソフィア姫、ハルゲイザ皇后陛下のご実家の紋章は、蔦ですか? それとも、蔓薔薇とか」
 自分でも何を訊いているのだと思いつつも、適当なことを口走ってしまう。ハルゲイザの実家である侯爵家の紋章は、問わずとも知っていた。百合である。ソフィアも怪訝そうな顔をしながら、リナレスの知る答えを返してきた。
「姫君の身近に、葡萄の意匠を好んで使われる方は……」
 いるはずがない。カルノリアで葡萄の意匠など、忌まれるだけだ。
 案の定、「いいえ」とかぶりを振るソフィア。リナレスは、唇を噛む。
 赤い葡萄。それは、既に失われた紋章。西の大公と呼ばれたアインザクト大公家、かの家の紋章を、カルノリアが容れるはずがない。ソフィアに刻まれたアインザクトの刻印は、何を示すのか。彼女の背後に蠢く闇の気配を感じ、リナレスは身を震わせた。



「離縁、だと?」
 セグ新大公ルドルフは、カルノリアの使者を前に怒りを露わにしていた。
 カルノリアが女帝を認める触れを出したのが、つい先日。その報せは日を置いてセグにも齎された。但し、肝心の嫁ぐ際には継承権を放棄する、その部分だけが伝えられておらず、それを知った新大公は愕然としたものだ。自身の妻ソフィアにも継承権が生じた、そう思っていた矢先の出来事である。燃え上がった野望は、一瞬にして灰と化した。そこに追い打ちをかけるようにして、この依頼だ。

 ――大公妃ソフィアを、離縁するように。

 カルノリア皇帝直々の依頼――というよりも命令である。使わされた人物も、小物ではない。カルノリア副宰相を名乗る人物である。かのひとは、今すぐにでもソフィアを連れ帰る、そんな構えも見せていた。
「認められるか。ソフィアは我が妻だ」
 側近に向かい吐き捨てる大公、それを遠く見つめる使者は、静かな笑みを湛えていた。ちらりと様子を伺えば、彼は悪びれもせずに優雅に一礼する。田舎貴族にしては洗練されたその態度に、大公は苛立ちを募らせた。目にも鮮やかな金髪と、春の日差しを受けて輝く若葉を思わせる緑瞳は、彼の麗しき妻に似通っていた。その顔立ちはまるで違うものの、副宰相なる男性も、妻に引けを取らぬ美貌を備えている。全くカルノリアという国は美形の宝庫であるのかと、更に忌々しくなり――大公は危うく舌打ちしそうになるのを堪えて、男を睨みつけるにとどめた。
「アロイス殿、と仰られたか」
 殊更威圧的ととれるような尊大な態度で、使者に声をかける。
「義父でもある皇帝陛下のお言葉なれど、受け容れがたし。ソフィアは既に我が妻であり、セグの国母であると皇帝陛下にお伝え願いたい」
 離縁など以ての外、最後に付け加えることを忘れない。
 と、大公の言葉をこうべを垂れて聞いていた『副宰相アロイス』は、ふわりと柔らかな笑みを浮かべ、
「お言葉、確かに承りました」
 先程同様、慇懃に礼をする。
「しかし、お忘れなきように今一度申し上げます。我が国は、女帝を認めることと相成りました。ですが、それはあくまでも未婚の皇女殿下に限るのです。お分かりでしょうか」
 ソフィアには継承権はない。妻にしておいても、まるで意味はない、そういうのだ、この男は。
「おそれながら、ソフィア姫を妃としておく意味を見出すことが出来ぬのですが。それでも危険を承知で、このままかの姫君をお傍に置かれたいと仰られるのでしょうか」
「危険を、承知で?」
 どういうことだ。
 大公は眉を顰める。彼は玉座より微かに腰を浮かせた。随分ときな臭い話となりそうではないか。
 ここでこの命令を拒絶すれば、カルノリアが軍を差し向けるとでも言うのか。たかが、皇女一人のために?
(いや)
 大公は油断なくアロイスを見やる。
 彼は何も言っていない、今のところは。だが、その目は何かを訴えている。自分は知っているのだ、と。
 知っている――第二公子シリウスを殺害した犯人が誰なのか、知っているのだと。彼はそう告げているのではないか。
(馬鹿な)
 ソフィアの子飼いの侍女は、その手紙を他人に渡す前に殺害した。逃亡中の侍女が接触した人物は、皆アリチェが始末をしてきた。よもや、ソフィアの窮状を、第二公子暗殺の真実を、知らぬ間に第三者に漏らしていたのか、あの侍女が、と。思うと嫌な汗がにじみ出してくる。
「我が君」
 傍で、近侍が不安げに視線を揺らしていた。それがまた、大公の焦りを誘う。証人であるソフィアをセグから連れ出し、合わせて弟殺しの罪と父殺しの罪を告発させて自分を滅ぼすつもりかもしれぬ、カルノリアは。まさに、鴉のやりそうなことだ。
 そうか、この国が欲しいのか――それが、カルノリアの本心か、と、今更ながらに思う。ソフィアとの縁談があったときから、カルノリアはセグ併合を視野に入れていたのだ。現皇帝が温和な哲人皇帝だという噂を真に受けていた自分もかなりの愚か者だが。大国の掌の上で踊らされていたことを思うと、情けなさに笑いが込み上げてくる。
 隣国フィラティノアは、内乱の中に在る。神聖帝国との戦いも半ばで放棄した模様だ。その火の粉が自らに降りかからぬよう、セグを盾にする気ではないか、そんな風にも思えてしまう。
「そもそも、ソフィア姫を手元に置かれていたとしても、貴方に利はない。それをご理解頂きたいですな」
 麗人は、静かに笑う。訛りのない流暢な公用語が、神経を逆撫でした。顔立ちは違う、けれども、この緑の瞳、まるで妻が、ソフィア自身が、自分を愚弄している気がしてならなかった。
「どういうことだ」
 怒りながらも、挑発に乗る。言葉遊びは、嫌いだった。
「貴方がソフィアと呼んでいる娘。その者が、カルノリアの皇女ではないとしたら? どうされますか?」
「それは」
 どういうことだ、と尋ねようとして。一瞬、息を止めた。
 あのソフィアが、『ソフィア』ではない? それは、彼が常日頃疑っていたことではなかったか。
 婚礼のためにセグを訪れたソフィアは、侍女を一人携えていた。同じ年頃の、幾分口やかましい快活な侍女を。彼女は、ソフィアの隣に佇むと影が薄れたが、ひとり庭園を散歩しているとき、露台から月を眺めているとき、その姿は、はっとするほど美しかった。すれ違えば、確実に人の視線を奪う、印象的な娘だったのだ。髪の色は金褐色、瞳の色は淡い翠、影が薄いと思えたのは、ソフィアの色彩の鮮やかさに対して、か。
 背格好も年頃も同じ、ただ、顔立ちは当然のごとく全く違う。それでも、セグの公子二人は、ソフィアの顔を知らなかった。肖像画すら、見たことはなかった。それでいきなり婚礼とは――と、笑ったが、美少女と名高いソフィア姫、目の前に現れた本人と侍女のどちらが

 ――わたくしが、ソフィアです。

 そう名乗ったとしても、愚かしくも信じていただろう。
 そもそも、ソフィアはあのような顔立ちだったか。記憶がぼやける。彼女と会うのは、寝室でばかり。義妹であったときも、ソフィアはあまり公宮どころか公都セグディアにすら訪れることなく、第二公子の領地でばかり過ごしていた。時折、名代としてあの侍女が顔を出したくらいである。
「あの、侍女が」
 呻きに似た声が自身の口から洩れるのを、新大公は他人事のように聞いていた。
 第二公子シリウスが死去したのち、侍女が機転を利かせて入れ替わっていたとしたら。遠からず主人を襲うであろう運命を察知し、立場を入れ替え、皇女を逃がす算段をしていたのだったら。

 アリチェが殺害したのは、ソフィア皇女ではないのか。
 いま、大公妃として自身の妻におさまっているのは、ひと欠片の価値もない、一介の侍女なのか。

「よくお考えくださいませ」
 アロイスの言葉に、我に返る。ルドルフは固めた拳を震わせ、異国の青年を睨みつけた。
「わたくしは、暫しセグディアに滞在いたします。今日はこの辺りで失礼致しましょう」
 またしても優雅に礼をして、件の副宰相はその場を辞した。残された廷臣たちは、アロイスの姿が消えると同時に不安げな目を新大公に向ける。彼らもやはり、同じことを考えているのだ。本物のソフィア皇女は既にこの世に居ないのではないか、と。
「アリチェ! アリチェを、呼べ」
 大公の声が広間に響く。
 それを扉越しに聞いたアロイスの口角が僅かに上がったことを、知る者は誰一人としていなかった。



「葡萄、ですか」
 手ずから香茶の支度をしながら、ルーラは主君に問い返す。
「そう、葡萄」
 窓辺に設けられた席、そこに深く腰をかけ、行儀悪く脚を高々と組んだ若き皇帝は、手にした布を軽く弄んでいた。窓から吹き込む風にあおられ、ルーラの目にもそこに描かれた模様が見える。それは、アグネイヤの言葉そのまま、葡萄を図案化した紋章だった。葡萄の果実の上に双頭の龍が立ち、それを守るように蔓が囲んでいる。これは、主家たる神聖帝国帝室に対する忠誠を表しているのだ、とアグネイヤは言った。
「一瞬、蔓薔薇にも見えますね」
 茶器を卓上に置き、ルーラが手元を覗きこむと、アグネイヤは「やあね」と笑う。
「蔓薔薇なんて。腐った大国を思い出すわ」
 その言葉に、ルーラは目を見開いた。腐った大国――言うに事欠いてこの人は、と。半ば呆れながら苦笑を浮かべる。蔓薔薇は、王冠を抱く鷲と共にミアルシァ王室の紋章でもあった。

 ――こうして色々な国に触手を伸ばして、一つずつ潰していっているのよ。
 ――だから、薔薇はいつまでも瑞々しく、美しいの。

 かつて、かの国の紋章を示しながら、クラウディアと呼ばれた王太子妃が嗤っていたことを思い出す。
「この紋章が、アインザクトの?」
 首を傾けるルーラ、アグネイヤは頷いた。
「そう。双頭の龍を抜かした紋章を、刻んでいるそうよ。目印として、ね」
 あのアウリールの腕にも、刺青は施されているという。アインザクトの幹部は、その刺青の有無で敵か味方かを判別しているそうだが。
「あまり周囲にばれてしまうと、偽りを施す者が現れそうですね」
 ルーラの危惧に
「でしょうね」
 アグネイヤは溜息をつき、
「だから、所以と判別方法は特定幹部しか知らないみたいよ? アインザクトの一派も、自分に何が彫られたのか、正確には判っていないみたいだし」
 再び布を目の前に翳す。
 先般、セレスティンが言っていた。酒を飲ませれば判る、と。つまり、体温があがったときに初めて浮き上がる『符』であり、普段は一切見ることができぬのだろう。

 ――酒を呑ませるか、湯を使わせるか、もしくは、抱くか。

 にやりと笑うセレスティンの端麗な顔を思い出し、ルーラは僅かに顔を顰めた。あの男は、アグネイヤの前で品のない冗談を口にしすぎる。アグネイヤはアグネイヤで気にしていないようであるが、これがもし、彼女の片翼たる心だけは無垢な娘が相手だとしたら。
 ルーラの脳裏で、耳まで真っ赤に染まったサリカが、うろたえていた。
 それが、苛立たしくもあり、微笑ましくもあり――と思った刹那、
(微笑ましい?)
 自らの想像に、怒りを覚えた。何故、あの娘を微笑ましいと思えるのだろう。流されるだけ、異性を釣ることしか能のない、愚かな娘を。
「ルーラ、どうしたの?」
 怪訝そうに此方を見つめる古代紫の瞳に、なんでもありませんとかぶりを振る。まったく、同じ顔同じ声だというのに、この双子の差はなんだろう。


 翌日、ティルとその一行がシャン・ティイーに到着したとの報せが、紫芳宮に届いた。同時に、アグネイヤ四世は、師であるセレスティンをフィラティノアに向かわせる。セレスティンは形式的な挨拶を述べただけで、あっさりと皇宮を後にした。シェラとは大きな違いである。
「ほんとに素っ気ない男だねえ」
 腕組みをしたまま、エルナがその背を見送る。やれやれ、といったような呆れた言葉とは裏腹に、その瞳がどことなく甘く揺れているのをルーラは見逃さなかった。よもやエルナは本気であの男に心を奪われているのかと、此方も少々呆然となる。セレスティンの心には、いまだ住み続ける女性が存在するというのに――だからこそ、彼は率先してフィラティノアへと戻ったのだ。
「セグからも、フィラティノアをひっかきまわす気なんだよね、うちの皇帝陛下は。綺麗な顔して、おっそろしいことやるよねえ……」
 ぶつぶつとぼやきながら、エルナはまだ未練たらしくセレスティンの去った方向を見つめている。人気の途絶えた廊下に、かのひとの靴音だけが虚しく響く、その音を追っているのだろうか。傍らに立つルーラの気配に気づきつつも、エルナは此方を見ようともしない。
「あんたは?」
 視線もくれず、半ば独り言のような問いかけに、ルーラは一瞬躊躇した。
「エルナ?」
「あんたは、どうする? って、訊くだけ野暮だよね」
 何も返答する前に、勝手に答えを導き出す。エルナの悪い癖だ。
「生涯、あの皇帝陛下の傍から離れないつもりなんだろう? それがいい、そうしなよ。それが、あんたの道だから」
「エルナ?」
 思わず、目を細める。友の横顔に無言で問いかけるが、彼女は答えない。先程の『問い』からして、真実『問い』であったのか――エルナは、それきり押し黙る。
 気まずい沈黙が支配する空間、そこに現れたのはサディアスを肩に乗せたアウリールであった。彼は側近ともども足早にルーラらの脇を通り過ぎ、皇帝の在る広間へと急いでいた。この様子では、何処からか早馬でも到着したのだろう。ルーラは直感的に思った。アウリールのことである、主人の迎えに行きたいなどと皇帝に願い出るような真似はしない。行きたければ断りもなく勝手に紫芳宮を離れる、それが彼のやり方だった。
 案の定、アウリールが広間に消えてからすぐ、ルーラとエルナにも声がかかった。下座に控えたアウリールに倣い、ルーラもその傍に膝をつく。玉座に身を置くアグネイヤ四世は、「ふ」と小さく笑った。
「カルノリアが、女帝を認めたそうよ。但し、未婚の直系皇女に限り、ね」
 簡潔に結論だけを述べるアグネイヤ。エルナの肩がピクリと揺れ、ルーラは軽く眼を見開いた。
「同時に、ナディア大公妃と既に嫁いでいる三人の皇女からは継承権が消える。病弱なエルメイヤ殿下に何かがあれば、アレクシア殿下が次期皇帝となる」
 そういうことだ。
 過日、アレクシア及びエルメイヤの姉弟が襲われ、アレクシアは重傷を負ったと聞く。暗殺の首謀者とのことで、ハルゲイザは失脚、その庇護を受けていた神官アロイスも行方知れずとなり、エルメイヤは非常に危うい立場にある。ただでさえ身体の弱い彼が、この重圧に耐えられるか。守り手のいない、冷え切った宮廷の中で精神を保つことができるのか――既に幼い皇太子の首には、冥府の使者の鎌がかかっているのかもしれない。
「一応、タティアン大公はこれを認めたそうだけど。セグの大公はどう動くのかしらね? 折角手に入れた、カルノリアの皇女をみすみす無駄にする気はないでしょうし。ひとこと、物申しに行くのかしら?」
 これを、揺さぶりをかける好機と取るか、この皇帝は。ルーラは真直ぐに主君を見つめる。
 弟を手にかけてまで望んだ、大国の皇女。いつか継承権を主張できる日が来る、と。そう信じていたからこそ手元においていたはずなのに。彼女にまるで価値がないと判ったら、新大公はどうするか。
「ええ」
 ルーラの視線に、アグネイヤが応える。
「ソフィア姫が、危ないわ」
 必要なし、と判断すれば、新大公は彼女を切り捨てるに違いない。離縁などと生易しい手段はとらぬはず。
「けどさ、いきなり殺すことはしないでしょうよ」
 エルナがいつもの彼女らしくなく、思慮深げに口を挟んだ。
「ちょっとあがいてみて、それでもだめなら……とか。往生際悪そうじゃない、その新大公ちゃんは」
「勿論、すぐに命を狙われるなんてことはないでしょうね。ただ、気になることがあるのよ」
 閉じた扇の端に顎を乗せ、アグネイヤが目を閉じる。彼女がそういうことを言い出すときは、必ず何かがある。理論派のはずのアグネイヤだが、何故か、直感も鋭い。
「サリカが前に言っていたのだけど。新大公――ルドルフ、だったかしら――彼の愛妾は、ダルシアの出身だったはず。ダルシアの、シルヴィオの」
「シルヴィオ? ルカンド伯、の?」
 エルナの目が光った。彼女は軽く唇を噛み、何事かを思い巡らせるように、とんとんと指先で己の頬をつつく。ルカンド伯といえば、カルノリア第一将軍の娘を妻としている。もとより、二人は通じていて、カルノリアを掌握する企みを持っていたのではなかろうか。
「背後に居るのは、第一将軍?」
 シェラの父レオニード・エミル・スロフ、彼が一連の事象を操っているのであれば、説明がつく。現にシェラ自身もそのような疑念を口にしていた。が、一介の将軍にそのような大それたことが可能なのか。傍に有力な王族、貴族があれば、判らぬでもないが。
「逆に、ダルシアが第一将軍を利用しているのかもしれないしね」
 エルナの発言に、アグネイヤも頷いた。そちらの方が可能性が高い。とはいえ、ルカンド伯も現在はダルシアの一貴族に過ぎぬ。その一貴族に過ぎぬ者たちが手を組み、徐々に大国を蝕んでいくとしたら。
「諸侯の力を、侮ってはいけないわけね」
 扇の先で軽く掌を叩きつつ、アグネイヤが呟く。
「絶対君主の必要性がある、ということ。いつでも簡単に君主の首のすげ替えが出来ると思われているようでは、駄目ね」
 臣下の力を押さえ、君主の権力を更に強める。アグネイヤの言葉は、近い未来に実現されることになる。


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