AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
7.相克(4)


「あの、小娘が」
 王宮の奥深く幽閉されたグレイシス二世、かのひとの漏らした言葉に、付き従っていた衛兵は何の反応も見せなかった。老獪と言われた国王も、只の老いぼれになり果てたか、と蔑んでいる様子もなく。単に興味がないだけであろう。地位を追われた国王に。
「……」
 グレイシスとて、騒ぐつもりはなかった。見苦しい真似はしない。無論ここで事を荒立て再び王の間へと取って返し、そこで王妃の座についている小賢しい小娘をその地位から引き摺り下ろすことも不可能ではない。失脚したとはいえ、それはあくまでもルクレツィアと近衛の謀反によるものだ。諸侯は、他の家臣は、彼を裏切ってはいないはず。
(いまに、見ているがいい)
 グレイシスは口元を歪めた。不敵なる微笑、それに衛兵が気付いたかどうか。
 王冠を失った国王は、心の奥底に暗い焔を揺らめかせながら、与えられた終の棲家へと静かに足を踏み入れた。



 ヒルデブラントが軍を撤退させた、その報せはアグネイヤ四世のもとにも届いていた。
「何があったのか、理由は訊かない方がよいかしらね?」
 軍議の中で、アグネイヤはセレスティンを一瞥する。師は軽く肩を竦める仕草をし、
「マリエフレド公女が身罷った」
 一言だけ答えた。それだけで、充分である。アグネイヤは頷いた。事実上、フィラティノアとヒルデブラントとの同盟は、消滅したのだ。もしもヒルデブラントがフィラティノアに未練があるとしたら、再び王族の姫君を送りつけてくるだろう。その気配もなく、あまつさえ前線から軍を撤退させるということは。ヒルデブラントはこれを機に、盟約を破棄したのだ。
「公女の死は病死とされておりますが、暗殺との噂もあります」
 付け加えたのは、アウリール。彼もまた、自身で情報を得てきたのか。アインザクトの残党は、横目でセレスティンを見やる。
「更には、フィラティノアが異国の姫を嫌って、公女の命を奪ったという噂も流れておりますが」
「流した、の間違いではなくて?」
 くすりとアグネイヤが笑う。アウリールの顔に僅かに朱が散った。
 やはり、彼らの企みか。ヒルデブラントにフィラティノアへの反感を抱かせるための。
 エルディン・ロウもアーシェルも、アインザクトも、敵に回せば厄介な存在だとことあるごとに痛感させられる。ことに、大陸暗部に巣食うエルディン・ロウ。彼らは手中に収めればこれ以上はない頼もしい味方であるが、一度でも叛意を持たれてしまえば獅子身中の虫となる。
(扱いには、気を付けなければね)
 思うものの、彼らに媚を売る気はない。ともあれ、利害関係が一致しているあいだは、彼らは自分につき従ってくれる。
 こうして、シャン・ティイーのを砦として籠ることになった今も、寝返ろうと思えば幾らでも寝返ることが可能だ。数で圧倒的に劣る神聖帝国軍を見限り、アグネイヤの首を持ってフィラティノアに投降すれば、彼らは傷つくことなく相応の地位を手に入れることができる。その後フィラティノアを足掛かりとして、新たに神聖帝国の再興を目論むことも可能だ。何故なら、かの国にはルクレツィアがいる。今現在、神聖皇帝を名乗っている、正真正銘の女帝が。
 彼女の存在は、あらゆる意味で自分の枷になる。野望を阻む壁となる。それでも、その存在を疎ましいと思ったことはない。確かに、皇帝の地位を横合いから奪われた感はあったが――それは、愛情から生まれたすれ違いだ。片翼の本意を判らぬほど、自分は愚かではない。
 コツコツとアグネイヤが指先で机を叩く、それが軍議の終わりを示していた。セレスティン以下主だった者たちは、起立し、礼をしながら退室していく。これから砦の守りを固めつつ、迎撃の準備をするのだ。

 ――この土地は、挟撃に最も適している。

 地図を見ながら漏らした、セレスティンの微笑が頭から離れない。もともと奇抜な作戦を好む彼のことだ、今回も奇襲を考えているのだろう。どのような手法を取ってくれるのか、その手並みを是非とも間近で確認したい。机の上に指を組み、その上に顎を乗せる。アグネイヤは一人残された広間で、己の思考に埋没しようとしていた。
 シャン・ティイーを守り切れるか落とされるかで、今後の運命は決する。サディアスを通して齎された報告によれば、フィラティノア軍の先頭は、シャン・ティイーに接近しているそうだ。その体勢が整わぬうちに横合いから攻撃を仕掛ける――人道には反しているが、それが勝利への最も近い道筋であった。

 ――戦を始めるのも、終わらせるのもアグネイヤ。
 ――平安の世を築くのは、アグネイヤ五世。

 リィルの予言めいた言葉が耳に蘇る。彼女の言葉は当たっていた。戦を始めたのは、アグネイヤ四世たる自分だ。自分が始めた戦は、自分の手で終結させなければならない、そういうことなのか。それとも、アグネイヤ四世が死んで、この戦は終わるのか。どちらにしろ、長き平安の世の礎を築くのは、自分ではない。
(アグネイヤ五世)
 その存在に、心当たりがある。よもや、とは思っていたが、アグネイヤ五世たりえるのは、只一人しかいない。否、まだ、存在すらしていない。男子なのか女子なのか、それすらわからぬ未来の皇帝の姿を思い描き、アグネイヤ四世は嘆息する。かのひとこそ、自分よりも、片翼よりも、重い宿命を背負った存在なのだ。その未来を思うと、決して笑顔になることはできない。
「アグネイヤ、五世陛下」
 いずれ誕生するであろう、選ばれし魂。いまは存在せぬ者に向かい、せめてその心だけは平安たれと祈らずにはいられなかった。



 まだ、夜が明けきらぬうちから兵士となった人々が砦を出発していく。露台から彼らの姿を見送るアグネイヤに、
「祝福を、与えないのかい?」
 エルナが不躾に声をかけてきた。その彼女を振り返ることなく、
「わたしが祝福したところで、どうということもないわ」
 淡々と答える。それでもねえ――エルナがまだ何か言い募ろうとしたところに、ばさりと大きな羽音がした。サディアスである。気高き鷹はその大振りの羽を抑揚させ、露台の柵に華麗に着地した。二、三度翼をはためかせた彼は、ちょこんと首を傾げてアグネイヤを見やる。セレスティンかアウリールか、どちらかからの書簡だろう。アグネイヤに代わって、エルナがサディアスの足に括りつけられた布を外す。
「おや、まあ」
 そこに書かれている内容に素早く眼を通した彼女は、眼を見開いた。何が書いてあるのか、問うアグネイヤに。
「エランヴィアで、反乱が起きているみたいだよ。誰が煽ったんだか。アヤルカスの兵士が、そこここで攻撃されているらしい」
「そう」
 特に驚くことではない。過日、セレスティンはアヤルカス軍のことは何とかすると言っていた。おそらく、エランヴィアに潜伏しているエルディン・ロウに働き掛け、かの地に混乱を招いているのだろう。
「てか、ほんとにやっちゃうんだねえ、あの色男。ああ、顔だけじゃないんだねえ」
 エルナが驚いていたのは、そこか。うっとりと眼を細める彼女を横目に、サディアスは羽繕いを始めていた。大きく広げた翼をしげしげと眺め、気に入らぬ箇所があると思うとそこを重点的に手入れする。和毛が数枚風に舞い、鳥臭い匂いが鼻をついた。アグネイヤは彼の腹を撫で、首筋を撫でる。ちょうど耳の辺りは掻きづらいこともあるのだろう、サディアスは心地よさげに眼を閉じ、若き皇帝に身を委ねていた。
「ここからが、正念場ね」
 アグネイヤの呟きは、サディアスにもエルナにも聞こえてはいまい。彼女は古代紫の瞳を、ひた、と北に向ける。その視線の先に広がる平原、そこでこれから繰り広げられるのは――血の饗宴だった。



 右手から、新たなる太陽がゆっくりと生み出されてくる。山の端を染める、原初の光。藍からやがて菫に、そして古代紫へと変化していく空を見上げ、シェラは馬の歩度を緩めた。冷ややかな朝の風が彼女の髪を払いのけ、するりと隊列の間をすり抜けていく。
「如何されました、シェルマリヤ姫」
 シェラでいい、と何度も言ったにもかかわらず、アウリールは相変わらず彼女にシェルマリヤと堅苦しく呼びかける。古の戦乙女と同じ名で、鴉の娘を呼びたくないのは判るのだが。いい歳をしてそこまで意固地になることはあるまいに、と思う。上層部がこの調子でぎくしゃくしていては、部下にも動揺が伝わってしまう。この大切なときに、幹部の足並みが揃わぬのは致命的だ。
「ここから、我々は西へ向かう」
 太陽と反対の側から、攻撃を仕掛ける。ここを分岐点としよう、声をかけるとアウリールは頷いた。
「では、セレスティン殿」
 シェラはセレスティンに一礼し、馬首を巡らせた。彼女に続く兵士は、三百余り。決して多いとは言えぬ数である。だが、全てが精鋭ぞろいだ。一人で十人分の働きをすると、セレスティンが豪語していたことを思い出す。
「では、私も」
 アウリールがシェラに続いて馬を進める。彼はセレスティンに同行するとばかり思っていたのだが、
「どういうつもりだ」
 よもや、自分に従うとは。監視のつもりか、と、軽く彼を睨みつける。
「どう取って戴いても構いません」
 涼しげに答えるアウリール。彼はアグネイヤ四世に対しても、この調子なのだ。彼が跪くのは、主人と認めているあの偏屈な黒衣の辺境伯と、真実の巫女姫たるリィルだけだという。どちらにしろ、アインザクトの末裔であるこの男、下らぬ自尊心だけは高いと見える。シェラは
「好きにすればいい」
 投げやりとも思える言葉を彼にかけ、そのまま馬を進めた。
 辿り着いたのは小高い丘で、セレスティンに与えられた地図によれば、ちょうどこの真下をフィラティノア軍が通過するはずであった。どれほどの大軍であれ、脇を攻められればそれなりの打撃を被る。シェラは背後の兵士に目で合図を送った。答えはないが、背後で人の動く気配がする。彼らは一斉に配置についた。と同時に、持参した丸太を大地に置き始める。
(風向きは、良好か)
 風は南から吹いている。フィラティノアにとって、向かい風だ。戦に赴くときは、向かい風を避けるべし――そう言っていたのは、父だったか。それとも、父の副官だったか。
 やがて大地を揺るがす音とともに、一隊の軍勢が左手から姿を現した。国境を越え、勢いづいたか。このまま一気に首都を陥落させる勢いで、先鋒隊が馬を操っている。大きく翻る旗印は、間違いなくフィラティノアのものだ。報告通り、ヒルデブラントのそれはない。時折混じる見慣れぬ旗は、諸侯のものだろう。なかに、レンティルグの紋章も見当たらぬ処を見ると、侵攻はフィラティノア一国だけにとどまったのか。
「予想より、数が少ない」
 シェラの呟きに、アウリールが頷く。
「けれども、油断は禁物」
 そんなことわかっている、と言いたかったが。無駄口をきいている暇はない。シェラはそっと右手を上げる。と同時に、兵士は丸太に火を付けた。油を沁み込ませていたそれは、一気に焔に包まれる。その前に、兵士らは一斉に丸太を平原に向かって転がり落としていた。

 燃えた丸太がフィラティノア軍の行く手を阻む、そのことに驚いた馬たちが棹立ちになった。高い嘶きが、辺りに響き渡る。背後から次々と訪れる騎馬隊も前が閊えているせいか、その場に足止めされた。そこを狙って。

「撃て」

 シェラの声が響く。
 待機していた長弓隊が、敵に向かい矢の雨を降らせた。肉を貫く鈍い音が、其処此処で聞こえる。重なるように溢れる悲鳴、取り乱して馬首を巡らした者、落馬してその蹄にかかる者、此方に気づいて抜刀し、丘をあがろうともがく者――多くの者たちが血の海の中で蠢いていた。なかの一人が気合とともに丘を駆け上がり、兵士の一人に斬りつけようとするが、
「――っ」
 逆に、あっさりと斬り捨てられた。その遺体を下に蹴落とせば、続いて来ようとする者たちに当たり、纏めて数人が転落する。
 下品な戦い方だ、と思う。けれども、こうしなければ、勝てない。卑怯は百も承知だった。
 続いてくるだろうと思っていたフィラティノアの後方隊の姿が見えない。そちらはそちらで、セレスティンらの襲撃を受けているのかもしれぬ。
 こちらも壊滅は無理だとしても、一時撤退を決意させる程度には傷めつけなければならない。シェラは兵士の士気を鼓舞しつつ、自身も剣を抜いた。
 血を見るたびに生まれる高揚感、やはり自分は武官なのだ、軍人の娘なのだと痛感する。
「続け」
 声を上げ、彼女は一息に丘を駆け降りた。背後から何騎かの蹄の音がする。シェラは兜の庇を上げ、周囲を見回した。先鋒隊の隊長、その人物を仕留めるか捕らえるか。彼女は旗手を斬り捨て、その背後にいた壮年の男性に切っ先を向けた。
「隊長殿は、いずこか?」
 問いかけに、男はすっと身を引く。この態度、恐らくこの男こそが隊長なのだろう。部下の影に隠れるとは臆病な、と、シェラは更に身を乗り出す。と、横合いから突き出された槍が肩を掠めた。鎧越しではあるが、かなりの衝撃がシェラを襲う。そちらを見れば、有り得ないほどの巨漢が槍を手に佇んでいた。自分の相手をしろと言っているのか、シェラは舌を打った。
「アウリール殿!」
 背後に向かって呼びかける。が、彼はそこにはいなかった。なんと、丘の上で腕を組んだまま此方を見下ろしている。文字通り高みの見物というわけか。彼にとっては、鴉の血を引くシェラがどうなっても構わぬらしい。敵は身内に在るとはよく言ったものだ。シェラは仕方なく件の巨漢に向き直る。
「若造が」
 そんな意味のティノア語が巨漢の口から洩れた。シェラのことは、少年と思っているのだろう。それはそれで構わない。女だからと手加減されても気分が悪いだけだ。繰り出される槍の穂先を交わしながら、シェラは巧みに彼を追い詰めた。巨漢はすぐ足もとに燃え盛る丸太があることに気付くと、
「この」
 シェラを強く睨みつける。本来はこのような相手に関わっている場合ではない、早く先鋒隊を壊滅に追い込まなくては――焦りが、隙を生んだのかもしれぬ。
「うっ」
 巨漢は得物を回転させ、柄でシェラの身体を薙ぎ払ったのだ。重苦しい痛みが全身を駆け巡り、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。驚き暴れる愛馬の蹄が、強くシェラの腹を蹴り上げる。鎧に守られてはいるものの、その衝撃は決して小さくはない。シェラは呻き声を上げ、身を負った。その鼻先に槍が突き立てられる。
「女、か」
 落馬の衝撃で、兜が飛んだのだ。紐が切れてばさりと広がった艶やかな濡れ羽の髪に、巨漢は興奮を隠さない。戦場において昂った血が、異性を求めるのだろうか。血走った眼がこちらに注がれる。シェラが剣へと伸ばした手を長靴で踏みにじり、男は嗜虐の笑みを浮かべながらぶつりとその髪を切り落とした。
 次は、首だ――彼の眼がそう言っている。シェラは僅かに動く左手で、今一振りの剣を探る。右手は潰されたが、左手が残っている。せめて相手に一撃加えてから、そう思った刹那。

 巨漢が吠えた。

 咆哮と思える声を上げ、彼は槍を取り落とし、そのまま此方に倒れてきた。冗談ではない、この身体に潰されては、無事では済まない。身体を反転させ、逃亡を試みたシェラの身体は、何者かにふわりと抱きあげられていた。
「あなた、は……」
 予想外の人物がそこに居た。朝日に映える銀糸の髪、深く青い神秘の双眸。愁いを湛えたその表情は、間違いなく。
「ルナリア殿」
 シェラは、半信半疑で彼女の名を口にする。
 何故、ここに。
 何故、いま。
 様々な疑問が浮かんでくるが。
「フィラティノアが、退却していきます」
 問うより先に、ルーラが戦場と化した平原を目で示す。シェラもその視線を追った。彼女の言う通り、フィラティノア軍が押されている。完全撤退とはいかぬまでも、基地とした場所くらいまでは押し返せただろう。そう思うと、安堵からか全身の力が抜けた。
 遠のいていく意識の向こうで、アウリールの声がする。彼に対してルーラが二言、三言答えていたようだったが、よく聞き取れなかった。


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