AgneiyaIV | ||||
第四章 虚無の聖女 | ||||
7.相克(3) |
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「陛下」 扉の向こうの人物は、近衛師団師団長側近を名乗った。先刻使いを出していたが、漸く接触を図ることが出来たのだ、ほっと胸を撫で下ろす。ここで自分がフィラティノアを押さえねば、片翼にもディグルにも、エリシアにも、無論自分にも。未来はない。サリカは居住まいを正し、件の人物を待った。 が。 「ひ……」 アデルの押し殺した悲鳴が聞こえ、ぺたりと彼女が尻もちをつくのが見えた。一体どうしたのか、身を乗り出したサリカの視界に映ったものは。 「残念でしたな、妃殿下」 国王側近の、歪んだ笑みであった。彼に続いて入室してきた人物、その姿を見てサリカは声を失う。先程、師団長側近を名乗ったのはこの青年だろう――そう思われる青年士官が、両脇を兵士に取り押さえられる形で連行されていた。 サリカの企みは、国王側に知られていたのだ。彼女は拳を握りしめる。 「陛下」 弱々しいアデルの声が聞こえた。サリカがそちらに目をやれば、アデルも近衛士官同様衛兵に捕らわれている。強烈な既視感に眩暈さえ覚えた。同じだ、先程と。違う処は、完全に謀反が――謀反と取れる行為が、露見してしまったことか。今度こそ、処罰を下される。幽閉などという温いものではなく、エリシア前妃同様、王太子妃としての地位を剥奪され、国外追放か。それとも、断頭台に上ることになるのか。 (いいえ) 殺すことはしないだろう、追放も、地位の剥奪もないだろう。フィラティノアにとって、ルクレツィア一世は、神聖帝国の権利を主張するために大切な駒だ。みすみす手放すことはしない。そう思うからこそ、賭けに出たのだ。ただ、今回は。握りつぶすにしては、大きすぎる反逆だった。 「陛下の御前に、いらして戴きましょうか」 国王側近に促され、サリカは頷いた。アデルとも引き離され、ひとり周囲を衛兵に囲まれた状態で国王の謁見の間へと連れ出される。冷ややかに響く靴音、その反響が心に暗い影を落とす。迫る夕闇、黒く染め上げられていく空と同様、サリカの心も得体の知れぬ色で塗りつぶされていく。負けてはならない、そう思っても、握った拳は震えていた。恐怖なのか、それとも興奮なのか。どちらともつかぬ感情の高ぶりを、サリカは必死で堪える。 謁見の間に在る国王グレイシス二世は、目の前に引き出されたサリカを侮蔑の目で見つめた。自分を裏切った娘、愚かなる王太子妃。彼の眼は、そう言っている。愚劣な義理の娘は、ついには謀反まで画策した。 「どうなるか、判っておるだろうな」 他者を威圧することしか知らぬ者は、すべからく似たような台詞を口にする。サリカは、心の中で苦笑した。ここで謝罪すれば、相手は満足なのだろう。完全に自分の下に掌握した、と喜ぶのだろう。幼いころから、様々なやり取りで似たような場面を経験してきた。 君主に逆らったらどうなるか、――しかし、答えは一つではない。 「どうにも、出来るものではありませんわよね?」 サリカの、ルクレツィアの言葉に、周囲の空気が凍った。跪くことなく、しゃんと首を上げて国王以下を見据えるのは、か弱い一人の娘ではない。彼女は口元に微笑すら湛えながら、ゆっくりと周囲を見回した。 「わたくしを手放すのは、得策ではないでしょう。そういったことも判らぬほど、フィラティノアは愚者の集まりでしたか?」 くすり、と声を立てて笑う。逆に国王の視線が揺れた。彼は青い目を見開き、サリカを見つめる。まるで異質な生物を見るような眼だ。失礼な、とは思ったが、取り立てて何を言う気にもなれない。 「神聖帝国が欲しいのでしょう、陛下。神聖帝国の権利ですか、権威ですか。それとも、わたくしをお望みですか、この神聖帝国女帝たるルクレツィアを」 この挑発を国王はどう受け止めるか。宰相及び側近は、色を失っている。恐れ気もなく国王を威嚇する王太子妃、その小鳥の嘴に等しい攻撃を、哀れと見ているのか。 けれども、サリカの言葉が一同の動揺を誘ったことは確かであった。神聖帝国女帝は、諸刃の剣。取り込んでおくにこしたことはないが、意のままに操ることが出来ぬのであれば、最早邪魔者でしかない。非力な小娘と侮っていた相手が、よもやその権威をかさにフィラティノアを脅そうとは思ってもみなかった、否、実際その覚悟はあったのではなかろうか、とサリカは思った。片翼の人望は、端ではない。彼女の纏う帝王の威厳、それをフィラティノアは警戒していただろう。国民にあれだけの人気を誇る彼女に対し、国王以下重臣たちは恐怖すら覚えたに違いない、との想像は、片翼に対する買い被りではないはずだ。 静まり返った広間に、衣擦れの音が響く。サリカが前に進み出たのだ。衛兵が慌てて彼女を押さえようと一歩踏み出すものの、その堂々たる足取りに威圧され、それ以上動くことはできなかった。 「残念ですがアグネイヤ四世陛下が帰還された今、わたくしは皇帝ではありません。わたくしを立ててかのひとを落とそうとしても、それは天の理に適うことではありません」 「矛盾しているな、ルクレツィア」 サリカの言葉を、国王が遮る。 「先程そなたは自身を神聖帝国女帝と言った。その女帝を手放すことの愚を語っておきながら、今度は自らを皇帝ではないという」 ぐ、とサリカは言葉に詰まった。他者を説得する、その行為において自分は恐ろしく未熟なことは承知している。しかし、誠意をもって語れば、必ずや思いは通じると。そう信じて順を追って語りかけているつもりであった。 「そなたを賢いと思っていたのは、買い被りだったか」 国王が苦笑を漏らす。同時に今まで動けなかった衛兵が、サリカの両脇に並んだ。国王の命が下り次第、捕縛できるように。 「いや。ルクレツィアは乱心した」 国王が一同を見渡す。皆が一様に深く首を垂れた。ルクレツィア妃、乱心。それは周知の事実となる。 「離宮にて蟄居を命ずる」 同じだった。ラウヴィーヌ后と。ルクレツィアは事実上、失脚したのだ。今後は、形骸化された飾り物の王太子妃として、ただ片翼を蝕むためだけの旗印として利用されることになる。 「陛下」 それだけは許されない――サリカが更に踏み出そうとするのを、衛兵らが押さえた。ふたたび、目の前で槍が交差する。今度こそ、自分は表舞台から消される。下手をすれば、薬を盛られて廃人にされてしまうかもしれない。いっそのこと、そうなってしまった方が楽なのかもしれぬが。それでも、片翼の枷となり続けることには変わりがない。 「ならば、乱心した王太子妃を処刑されますように」 公の場で命を断たれれば、ルクレツィアの存在は名実ともに抹消される。 国王はサリカの叫びに冷笑で応えた。 「先程、自身で申したではないか。そなたを手放すのは得策ではない、と」 最悪だった。最悪の捕らわれ方であった。サリカは強く唇を噛む。何処までも未熟だと、己の無力さを痛感させられた。 「ルクレツィアを、ひっ立てよ」 国王の命令が無情に響く。拳を震わせるサリカ、両脇の兵士が槍を収め、彼女に退室を促す――と思いきや。 「妃殿下、お下がりください」 鋭い囁きが片方の兵士から投げられた。反射的にサリカは一歩後退する。それに合わせて兵士二人がサリカを守るように前進し、同時に扉が大きく開け放たれ、廊下の警護に当たっていたであろう衛兵らが中へと傾れ込んで来たのだ。 何事か、と不機嫌そうに口元を歪める国王、その背後で近侍がゆっくりと抜刀していた。 「不埒者が」 言いかけた国王の首筋に、件の近侍が刃を突き付ける。驚き君主に駆け寄ろうとする宰相もまた、近侍に取り押さえられていた。それは、先程サリカを広間へと連行した国王の側近である。 謁見の間は、混乱を極めた。 国王を始め、宰相、その他臨席していた主だった者たちは全て取り押さえられていた。彼らは席から引き摺り下ろされ、下座へと引き立てられる。呆然と成り行きを見守っていたサリカに、 「妃殿下、さあ、こちらへ」 国王近侍の一人が声をかけた。彼が指し示す場所、それは王座だった。 「あなたこそ、あの玉座に相応しき方です」 国王らを捕らえている者たち以外、全ての近侍、兵士がサリカの前に跪く。 「これは……」 戸惑いを隠せぬサリカの前に 「そういうことですよ、妃殿下。近衛も側近たちも、ほぼ取り込んでいますからね」 現れたのは、亜麻色の髪の少年だった。近衛の略装を纏った彼は、にやりと口の端を吊り上げる。シェラの為していた工作は、成功したのだ。師団長の側近たる青年も捕縛を解かれ、サリカの前に膝を屈している。 「我らが君主、我らが母、ルクレツィア一世陛下」 優雅に礼を取るエーディトの声に、皆が一斉に敬礼した。エーディトの導きで玉座に辿り着いたサリカは、そっと手を伸ばしその肘掛に指先を触れさせる。フィラティノアの王座。かつて、片翼が望んだもの。サリカはくるりと振り返り、室内を見渡した。一様にサリカに敬礼している中で、国王と宰相のぎらついた視線だけが異彩を放っている。サリカは暫しの間、義父を見つめていた。 「謀反人が」 彼の唇が呪詛の言葉を形取る。サリカは彼から目を逸らすことなく、 「わたくしは、玉座には就きません。王冠も戴きません」 はっきりと口にした。ざわり、とどよめきが上がり、傍らのエーディトも「何言っちゃってるんですか」と焦った様子を見せるが。 「王位につくのは、我が夫。国王は、ディグル・エルシェレオスです」 自分は后として夫を支える。サリカはそう宣言した。 国王失脚――その報を、早馬で報せた先はアヤルカス、及びそちらへと向かっているはずのフィラティノア軍だった。グレイシス二世の御代は終わり、王太子ディグル・エルシェレオスが即位する。その旨を、早速周辺諸国へと知らせる。 「こういうとき、サディアスがいると便利なんですけどねえ」 ぼやくエーディトの言葉を聞き流しながら、サリカは王妃としての対応に追われていた。即位すべき王太子は、病床にある。彼を離宮より引きずり出して人前に立たせることはできない。かといって、国王不在の戴冠式など前代未聞である。そこをどうするべきか。 「……」 出るものは、溜息ばかりである。フィラティノアを手に入れようと決意したときに、既にこのことは念頭に置かねばならなかった。 「妃殿下が戴冠すればいいでしょうに」 侍女の姿に戻ったエーディトは、相変わらずサリカの周囲に纏わりついている。そうして、ああでもないこうでもないと余計な茶々を入れてくるのだ。流石にサリカも気が立っている、煩いと怒鳴りたくなったことも一度や二度ではないのだが。 「私に、女王になれ、と?」 この一言は聞き捨てならぬ、と彼女はエーディトを睨みつけた。エーディトはしれっとした顔で軽く首を振る。違いますよぉ、とのんびりした口調で応える彼は。 「陛下が、エルシェレオス一世として冠を戴けばいいんですよ。殿下の代わりに」 あ、と思わず声を上げた。名代ということか。戴冠式の名代など、それこそ後にも先にも聞いたことがないことであるが、それくらいしか方法は残ってはいないだろう。 「てか、妃殿下。そういうことも考えずに、ことを起こしたんですか?」 エーディトは呆れ顔である。サリカは何も言葉を返せない。そうだ、いつも自分は思いつきで行動をしてしまう。良かれと思い、勢いだけで突き進んでしまう。思いこみが激しいのではないか、との指摘は宰相エルハルトにも師であるセレスティンにもよく言われた。かつて、自身がアグネイヤになると言ったときも。あれも、感情から発した言葉だった。誰よりも大切な人を守りたい、その気持ちだけが先行していた。その一言にどれだけの重要な意味が込められているとも知らず―― 「私は、愚かだわ」 変わっていない。十四歳のあの頃と、少しも変わっていないのだ。 「そこで落ち込まないでくださいよ、妃殿下」 両手を腰に当て、エーディトは居丈高にサリカを見下ろす。ずい、とサリカの座す王妃の椅子に身を近づけて、彼は頬を大きく膨らませた。 「止まっている暇があったら、次の手を考えてください。ぼーっとしてちゃ、駄目です」 それは叱咤か激励か。サリカは小さく笑った。そうだ、止まっている暇はない。今は、前に進むことだけを考えなければならない。 決意をしたのちのサリカの行動は、早かった。 神殿に使いを走らせ、神官長を呼びだすと同時に、戴冠式の手配を指示する。王宮内での一幕を知らぬ神官長は、何事かと目を剥いたが、 「お静かに。騒がれても、御身に利はございません」 近衛士官に凄まれ、何も問うてくることはなかった。 戴冠さえしてしまえば、サリカによる王位簒奪劇は幕を閉じる。閉ざしたあと、何がやって来るのか――考えぬ彼女ではなかったが。 「戦を、やめさせるのでしょう、陛下」 この期に及んで、アデルはまだサリカを陛下と呼ぶ。もう自分は神聖皇帝ではないのだというが、 「いえ、王后陛下です」 アデルはきっぱりと言い切った。王后陛下、その耳に馴染まぬ単語を口の中で繰り返し、サリカは虚空を見つめた。君主の妃とは、もう少し歳を重ねてからなるものではないか。弱冠十七歳の自分に、荷は重過ぎぬのか。考えてから、可笑しくなった。自分は皇帝であったのだ。僅かな期間ではあったが、神聖帝国に君臨した。皇帝として認めてはもらえなかったが、それでも一度は冠を頭上に戴いたのだ。 「あ」 冠、と。サリカは眼を見開いた。 「陛下?」 「若様?」 アデルとエーディトが、不審そうに眼を細める。サリカは何でもないとかぶりを振ったが、 「私は、一度も」 冠を得たことはなかった――小さく呟いた。 イリアより与えられたのは、花冠。帝冠ではなかった。あの時点で、自分は皇帝ではない、皇帝になってはいけない人物だと天が示していたのだ。それに気づかず、無駄にあがいていた自分が滑稽で、哀れで。込み上げる笑いを堪えるのに、サリカは苦労した。 「私は、無冠の皇帝だったのか」 漏らす呟きが、今までの人生の全てだった。冠に執着したことはない、それでも、皇帝たらんとした自分は、ただの道化であったと気付いた瞬間、何もかもが色褪せて見えた。虚しく思えた。 神聖帝国からは、必要とされていなかった自分。そんな自分の居場所は。 「ここ、かしらね」 サリカはゆっくりと立ち上がる。付き従うアデルを振り返ることなく、そのまま窓辺へと歩みより、街を臨んだ。王宮の前から続く街道、うねりながら枝分かれしていく道、雑然と立ち並ぶ建物。冬の香りを孕む晩秋の風に包まれた黄昏の街並みこそが、自分の居場所なのかもしれない。 遠く山脈を隔てて存在するアヤルカス、そこへの想いを手繰り寄せるように、サリカは己の胸元を両手で押さえた。 |
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