AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
5.混迷(4)


 アシャンティが何者かに制圧された――その情報は、夕刻に紫芳宮へと齎された。伝令を労った宰相側近は、
「如何いたしましょうや?」
 主人たる宰相に伺いを立てる。立てた処で、どうすることもできない。アヤルカスの主力部隊は、エランヴィアに向かっているのだ。今頃は、かの国の領土を貪り喰らい、勝利に酔いしれていることだろう。エランヴィアを手に入れたら、その土地に離宮を建設し、生母アイリアナの領地とするのだと国王ジェルファ一世は宣言していた。その建設予定の土地を物色しているに違いない主君の姿を想像し、宰相は天を仰いだ。
「おお」
 よもやアシャンティを攻められるとは思わなかった。攻めたのは、旗印もない、何処の誰とも判らぬ一団である。百年、二百年前のエリシュ=ヴァルドの時代ならともかく、無頼の一団が一国の離宮を攻めるなど考えられぬ。これは、エランヴィアの謀りごとか、それとも。
「フィラティノアですか?」
 王妃の座に就いていたアイリアナ、彼女が青ざめた顔で問うてくる。
「判りません」
 これから斥候を放ち、確たる情報を得なければならない。
 幸いなことは、アシャンティが避暑を目的とした別邸的造りであることか。あれほど攻めやすく守りにくい城はない。城、とも言えぬ只の屋敷だ。帝室の持ち物であったからこそ、『離宮』という名がついただけのこと。いざとなれば、奪還すればよいだけの話だ。
 だが。
「皇太后陛下と、エルハルト殿は?」
 無事か、それとも殺害されたか。答えが前者であれば、敵は間違いなくフィラティノアであろう。同盟を破り、国境を越えてきたのだ。そのことに対し、抗議をしなければならない。また、ミアルシァ及びダルシアに使者を送り、援軍の要請もせねばならぬだろう。
「このようなときに……」
 国王不在とは何事か。王自ら討って出てどうするのだ、と。あれほど諌めたのに。宰相は苦い思いで空席の玉座を見やる。国王代行として王妃の座にある生母アイリアナ、彼女など在ってなきが如しだ。先程から震えるばかりで何もしない。果てには、
「ああ、ミアルシァに、ミアルシァに帰らねば」
 己の保身を口にする始末である。
「逃げてもはじまりませぬ、ご生母様」
 宰相の言葉にも、アイリアナは耳を貸さない。ああ、これがあの茜姫の姉君なのか――宰相は絶望の溜息を漏らす。
「皆を集めよ。対策を練らねば」
 命を受けた側近は、慎ましやかに退室する。残された宰相と国王の生母は、重苦しい沈黙の中に佇むしかなかった。



 巨大な鳥が、悠々と滑空していた。獲物を探しているのか、先程から同じ場所を旋回している。やがて鳥は何かを見つけたか、一気に降下を始めた。そうして、目標であるところの人物の腕にばさりと舞い降りる。鋭い爪はかのひとの皮膚を切り裂くこともなく、腕に巻かれた鎖に食い込んでいる。こうして、人は自身を守りつつ、伝令の着地点をも務めるのだ。
「よしよし」
 鷹の喉を撫でるのは、金髪の青年だった。彼は翠の瞳に慈愛の色を宿し、鷹の頬に口付ける。普段の彼を知る者が見れば、何事が起きたのかと目を剥くことだろう。それほどに、彼の笑顔は珍しく、――ある意味、恐ろしかった。
 御苦労さん、そう言いながら、金髪の青年・アウリールは鷹の足に結び付けられた布を外した。『主君』からの書簡は、相変わらず簡潔で愛想の欠片もない。それがまた彼らしい、そう思いながらアウリールは文面に目を通した。もうすぐ到着する、その旨を確認し、彼は今一度笑みを浮かべる。アーシェル辺境伯は、彼が主君と敬う、唯一無二の存在である。その言葉に逆らうことはない。だから、今も彼の言う通りに動くつもりでは、いる。不本意だ、とは思うけれども。
 アダルバードの南端、かの国では辺境とされる地に彼は――彼らは、いた。アヤルカスの攻撃を受けているエランヴィアは、目と鼻の先である。この山を下れば、エランヴィアの首都・ルサまでは馬で半日とはかからない。あの国がそれだけ近いというのか、それとも小さいと言えばいいのか。どちらでもあるだけに、アウリールは苦笑を禁じ得ない。
 先日から頻りに上がる煙、霞む空に閃く焔、それが徐々にエランヴィアの西半分を覆い尽くそうとしていることに、彼は気づいていた。アヤルカス軍が、王都を囲む日は、そう遠くない。
(愚かな)
 国王は、まだ決断をしていないのか。巫女らの言葉に耳を傾けないのか。暗愚な主君を持った国民は哀れだ。なれば、いっそのこと滅びてしまった方が幸せだろうに。彼は、ふと思う。
「アウリール」
 呼びかけに、彼は現実に帰った。物見の上から、声をかけている者がいる。彼と同じく、アインザクトの血を引く同胞だ。アダルバードの果て、この集落に住みついていた残党は、ひっそりと『時』が来るのを待っていた。今、皇帝の来訪で、彼らは舞い上がっている。それが滑稽と言えば滑稽であるが、
「どうした」
 問いかければ、見張りの青年は「誰かが来る」とだけ言った。単騎、此方に向かってくるものがあるらしい。アウリールは警戒した。この集落にわざわざやって来る者など存在する訳がない。来るとしたら、身内か、アーシェルの者だけだ。警戒心を露わにするアウリール、彼の心情に合わせて、鷹も激しく羽を打ち鳴らした。

「開門」

 集落を守る塀の向こう、声を張り上げるのは栗毛に騎乗した青年だった。全身をすっぽりと旅衣で覆い、顔は被りものによって隠されている。僅かに覗くほつれ毛が陽光を反射して、黄金に輝いているのを見ると、西方の人物か。アウリールは、彼が一人であることを確認すると、自ら門の外に足を運んだ。
「危険です」
 同胞が止めるが、
「サディアスがいる」
 彼は鷹の腹を撫でた。並みの剣士よりも、余程頼りになる、翼ある同胞である。サディアスは甘えた声を出し、彼に嘴を擦りつけた。
「この村に、何用だ?」
 進み出たアウリールに、旅の青年は応えない。下馬をする様子も、被り物を取る素振りもなく、
「サディ」
 ごく自然に、鷹の名を呼んだ。彼の肩の上で、サディアスがばさばさと羽を動かす。サディアスも答えているのだ。両者の様子に、アウリールは眉を上げる。まさか、と低く声を上げた。
「セレスティン――様?」
 アウリールが声を上げると同時に、サディアスが飛び立つ。馬上の青年も被り物を取った。彼が差し伸べた腕に、鷹は舞い降りる。大切な人の腕を傷つけぬように、爪の位置を調節しながら。
「久しいな」
 顔の半分を仮面で覆った青年。セレスティンは口元を歪めるようにして笑った。何故ここに、とのアウリールの質問に
「黒宰相よりの使いだ」
 流浪の剣士は、おどけて答える。見れば、彼の馬には若干大きめの荷物が括りつけられていた。それを届けに来たのだろうか、とアウリールは推測する。
「マリサは元気か?」
 逆に訊かれ、アウリールは戸惑う。マリサ。そんな名の女性が、此処に居たろうか。訝しげに眉を寄せる彼に、「悪い悪い」とセレスティンは豪快な笑いを投げつける。マリサではない、皇帝だ――セレスティンの説明に、アウリールは「あ」と声を上げた。アグネイヤ四世、かのひとの幼名が、マリサなのだ。
 月の名か、アウリールは低く唸る。確かに、暁に相応しい。月の精霊と言うが、事実上『マリサ』は朝月を指している。そして、南の方では知らぬが、この名は――。
「マリサに会いたい。会えるか?」
 セレスティンの依頼に、アウリールは頷いた。ばさり、と大きな羽音を立てて、セレスティンの腕からサディアスが飛び立つ。生まれたての空に、鳥の羽が数枚、舞った。



 この村――というか、集落に来てからどれだけ経つのだろう。初めのころは日付を数えていたが、途中から飽きてしまった。その様子を見ていたエルナが、
「あんたらしいねえ」
 あははと笑うのを聞き流し、ルクレツィア一世ことマリサは、手作り感満載の玉座に深く座りなおした。ここでの彼女の呼称は、『アグネイヤ四世』である。集落の住民は、『ルクレツィア一世』の存在を認めない。あくまでも皇帝は男子。そして、帝国を復興させるのは、アグネイヤと決めつけている。
 それは、二百年以上前に滅びた神聖帝国の、最後の大公がアグネイヤだったからだ。最後の皇帝の落胤、かのひとがアグネイヤ四世を名乗って帝国を再興する。ただひたすら、その時を待っていた。アインザクトの民は。
(一途なのは素晴らしいと思うけどね)
 マリサは溜息を吐く。
 過日、アインザクトの頭目との接触を図るためにとある街を訪れた彼女らは、そこでアウリールに再会した。彼こそが、アインザクトの残党の一人、それならばと協力を申し出たところ、彼には断られた。曰く、今のアインザクトは一つではない、と。けれどもその後、オリアへと戻ろうとした彼女らの前に、否、アウリールの前に巨大な鳥が舞い降りたのである。鷹だった。

 ――サディアス?

 そう呼ばれた鷹の足には、布が巻きつけてあり、それを外して中の文面に目を通したアウリールは、一瞬顔を強張らせ、それから。ゆっくりとマリサらを振り返り。

 ――長旅になりますが、宜しいでしょうか?

 アインザクトの残党が暮らす場所に、彼女を導くことを仄めかしたのだ。これを断る手はない。マリサは頷いた。エルナは渋い顔をしたが、結果的にマリサに従うことになる。また、同行するにあたって、アウリールは条件を突き付けてきた。

 ――但し、お連れするのは『アグネイヤ四世』陛下に限りますが。

 躊躇いがなかった、と言えば嘘になる。逡巡は、あった。それでもマリサは是と答える。あの日、離宮を後にしたときから、サリカに身代わりを頼んだその瞬間から、こうなることを予期していたのかもしれない。事実上、アグネイヤはいなかった。存在したのは、ふたりのルクレツィア一世。その名を片翼に戻すのならば。自分は。

「アグネイヤ四世陛下」

 このような形で、その名を呼ばれることになるとは。
 集落の中心に佇む、もとは集会所であった処を改造した『皇宮』の、皇帝の間――とはいえ、広めの食堂程度なのだが――にあるマリサのもとに、来客を伝える声が届いたのは、その日の昼だった。丁度今後についての簡単な打ち合わせが終了したところである。アインザクトの面子曰く『議会』なるそれは、皇帝の日課の一つに組み込まれていたが、毎回議題は似たようなものであった。最近よくのぼるのは、エランヴィア救援についてである。かの国に潜入したアンディルエの巫女、彼女らからの連絡が入り次第、ルサに駆け付けることになっているのだが、その報せがまだだった。
「それ、かしらね」
 エルナを見やると、
「かもねぇ?」
 彼女は気がなさそうに首を傾ける。
 だが、謁見を申し出たのは、アンディルエからの使者ではなく。
「セラ?」
 双子の剣の師であるセレスティンであった。彼の顔を見るなり、エルナの様子がおかしくなる。普段の彼女らしくなく、あうあうと意味もなく口を動かし、時には恥じ入るように『玉座』の後ろに隠れようとする。まさかと思うが、本気でセレスティンに懸想をしているのではあるまいか。
(男同士なのに?)
 夫といい、エルナといい。よく判らぬ趣味の持ち主である。お陰で貞操の危機を感じることはないから、それはそれで好いことなのかもしれない。
「久しぶりだな」
「ええ、本当に」
 元気そうで良かった、マリサは素直にそう思う。この気まぐれで自由な師は、いつ何処で果ててもおかしくない生き方をしている。毎回別れるたびにこれが今生の別れになるのではないか、と妙な想像をしてしまう。だからこうして、元気な姿を見られるのは、嬉しかった。
 しかし、セレスティン自らここを訪れるとは、一体何用なのかとも思う。王都で何かあったのか、もしや夫の身に何か、と訝る彼女に、師は簡単にオリアの現状を語った。
「――尤も、俺が知っている処までだけどな」
 最後に付け加えて、彼は使用人に差し出された葡萄酒を啜る。胡椒が利き過ぎている、と顔を顰める彼は、少年じみていて可笑しかった。
「それで? 何かわたしに用があったのでしょう?」
 尋ねるマリサに、使用人がセレスティンの持参した包みを差し出した。一抱えもあるそれは、
「絨毯?」
 だろうか。眉を顰めるエルナは、「開けるよ」と太腿から引き抜いた短剣で包みを封じる紐を切った。と、包みの中からころりと転がったのは、巨大な旗。双頭の龍が描かれた、
「神聖帝国の?」
 書物でしか見たことがない、伝説の紋章だった。どうやって作成したのか、は、訊くだけ野暮である。アーシェルは巫女姫の妹が逃れた土地。彼女が旗を持っていたとしても、おかしくはない。
「黒宰相からお前への、出陣祝いだ」
 黒宰相――ティルの顔を思い出し、マリサは吹き出す。それと同時に、出陣の言葉が妙に現実味を帯びてきた。ここは、皇帝自ら陣頭に立って指揮をとるべきか。アインザクトの民を鼓舞するために、アグネイヤ四世の名を前面に出し、自分が行くべきなのか、と。
「そうね、わたしが倒れたとしても、サリカがいるものね」
「陛下」
 エルナの目が吊り上がる。彼女はまだ、サリカを認めてはいない。マリサは苦い微笑を浮かべる。
 そこへ。
「皇帝陛下」
 側近を名乗るアインザクトの民が、転がるようにしてマリサの前に躍り出た。相当慌てていたらしく、今までにも何度か転んだのだろう、服の彼方此方が汚れている。何があったのか、答えを許可した途端、
「エランヴィアが、エランヴィアが、暴挙に出ました」
 王都ルサから伝令が来たのだ。国王が、民に触れを出した、と。
 エランヴィア国王は、アヤルカスに和議を申し出た。人質同然で末の娘をアヤルカス国王の愛妾に差し出すことと、国土の自治権を条件に。それだけではなく、今回の戦の発端は、魔女の仕業だと、これは自分の本意ではなかった許して欲しいと懇願したそうだ。
「魔女?」
 それは、ツィスカのことだろう。あの色惚け国王は、ツィスカに唆されてアヤルカスに攻撃を仕掛けたなどと、愚かなことを言いだしたのか。

「馬鹿ね」
「馬鹿だわ」
「馬鹿だろう」

 三人が異口同音に述べる。今更何を言っても、アヤルカスは攻撃の手を緩める筈はない。ツィスカの首を差し出したところで、ジェルファ一世は眉一つ動かさぬだろう。それどころか、魔女に誑かされた愚かな君主として、エランヴィア国王を追放するよい口実にするかもしれない。
 これで、エランヴィアが第二のアインザクトとなることは決定した。
 そうならぬよう、アウリールに縋ったツィスカの情けを踏みにじった――罰だ。


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