AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
5.混迷(2)


 東の空に火の手が見える。砦がまた一つ、落とされたのだろう。
「ああ、陛下」
 窓辺に凭れ、その様子を見つめていたエランヴィア国王、彼の傍らに身を寄せた王妃が、震える声で進言する。
「和議を。和議を申し出ましょう」
 これ以上、被害が増えぬうちに。
 大国アヤルカスは、エランヴィアを嬲るように、少しずつその砦を陥落させていった。一時に攻めるのではなく、時間をかけて、じわじわと苦しめながら手足をもいでいく。侵攻の黒き手は、舐めるように東から広くはないエランヴィアの国土を冒していく。徐々に、徐々に。攻められ、潰された町や村は、どれほどあっただろう。アヤルカスはこの国を焦土に変えるつもりなのではないか。国王は危惧した。この分では、数日のうちにアヤルカスが王都に攻め入って来る。守りを全て失った、無防備な王都に。
 いっそのこと、周辺の砦や街には目もくれず一気に王都へ通じる街道を攻めのぼってくれればよいものを――エランヴィアの思惑とは異なる戦法に、国王以下重臣らの気持ちは焦るばかりである。エランヴィア王都ルサは、大きく蛇行する川に囲まれた、天然の要害である。攻め込むにはかなりの労苦を要するのだ。アヤルカスがルサを囲んでいる間に、フィラティノアが背後を突いてくれれば。アヤルカス軍は殲滅できるだろう。
 その考えが甘かったと気付いたのは、最近になってからだ。
 再三の要請にも、フィラティノアは援軍を出そうとはしなかった。表立ってアヤルカスとぶつかりたくないのか、それともエランヴィアは初めから捨て石としてしか見ていなかったのか。嵌められたとしても、今更何ができよう。妻の言葉も尤もであった。けれども、国王は頷くわけにはいかない。和議を申し入れた処で、アヤルカスが聞きいれるとは思えぬ。人質として嫁がせるべき美姫は、この国にはいない。賠償金を要求されたところで、支払えるはずもなく。領土を求められれば、この国全てをアヤルカスの属国にするほかないのだ。
「フィラティノアめ」
 エランヴィアを弄んだかの国に対する怒りと憎悪が、国王の心を黒く染め上げた。
「ツィスカ! 誰か、ツィスカを呼べ」
 愛妾の名を叫ぶ国王に、廷臣らは一様に表情を強張らせる。このようなときに、愛妾を召し出すなど――傍らの王妃も、渋い顔で夫を見上げた。
「陛下」
 諌めの言葉を口にされる前に、国王は王妃を抱きしめていた。驚く王妃に、
「許してくれ」
 彼は絞り出すような声で詫びる。
「陛下?」
「騙された……騙されていたのだ。あの、魔女に。フィラティノアの遣わした魔女に」
 寵愛を通り越して溺愛していた愛妾を魔女呼ばわりとは――王妃は信じられぬと言った表情でかぶりを振る。王妃にとっては憎い女だが、ツィスカ自身は美しさもさることながら品も良く自身の分を弁えたしっかりした娘だと思っている。市井の出だと言っていたが、実は貴族の娘、もしくは大貴族の妾腹の姫なのではないかと思われるほど気高い美貌を誇るツィスカに、魔性は感じられなかった。

「陛下」

 お連れしました、と。近衛の一人がツィスカの来訪を告げる。国王は広間に彼女を通すように言い、今一度、王妃を強く抱きしめた。
「やはり、そなたしかいない。信じられるものは、そなたしか」
「陛下」
 王妃も夫を抱き返す。臣下の前であることを忘れたか、温かな抱擁を繰り返す国王夫妻に、控えた臣下が複雑な表情をする。国の存亡がかかっているときに、何を悠長な――愛妾を呼び出したその口で正妃を口説いている、と。彼らの目には映ったことだろう。また、小国の分を忘れて、大国に牙を剥いた哀れな道化、その犠牲になる自身らの身の上を嘆いていたのやもしれない。


 広間には、ツィスカと彼女に従う侍女、それに警護の兵士のみが在った。近衛を従えて入室した国王は、控えたツィスカに歩み寄り、その前でぴたりと足を止めると。
「よくも、騙してくれたものだ」
 恨みごとを投げる。
「面を上げよ、ツィスカ。どの顔で、私を見ることができるのか」
 許されて顔を上げたツィスカ、彼女の緑の瞳は何の感情も持たぬまま、国王を見つめている。吸い込まれそうで恐ろしい、国王はそう思った。考えてみれば、昼間に彼女を見たことは、数えるほどしかない。このような顔立ちの娘であったのか、と、しみじみ思う。改めて対峙してみれば、彼女は美しい娘だった。王妃もそれなりに美しかったが、年齢を重ねてしまった今は、往年の美も色褪せてしまっている。
 いかん、と国王はかぶりを振った。二度と、この美しさに誑かされてはならない。
 彼は近衛にツィスカを捕らえるよう命じた。命を受けた兵士らは一瞬、躊躇したが。主命に従う。一方のツィスカは取り乱すこともなく。黙って兵士に両腕を押さえられている。これが、若い娘の反応か――国王は寒気を覚えた。と、当時に怒りも。ツィスカは想像通りフィラティノアの犬なのだ。エランヴィアを破滅に導く魔女なのだ。だからこそ、この事態を覚悟していた。今更騒いだところでどうにもならぬ、と観念しているのだろう。
「弁明はせぬのか、ツィスカ」
 それでも一言くらいは口にするだろう、思って尋ねたが、彼女は無反応であった。
 国王は唇を震わせ、はしたなくも彼女を指差し、
「殺せ。この魔女を、処刑しろ」
 幼稚な言葉で喚き立てる。まるで、捕らえられているのは自分であるかのように、その声は悲壮感を孕んでいた。
 ほほ、と場違いな笑い声を漏らしたのは、ツィスカにつき従っていた女だった。侍女を与えたつもりはない、けれども、侍女然とした様子でツィスカと共に現れた女性は、すっくと立ち上がり、国王の前に進み出る。淡い金髪と青い瞳を持ったその婦人は、
「一時的な感情に流されて、大切なものを見落としてはいらっしゃいませぬか?」
 恐れる風もなく主君に問いかける。無礼な、と剣に手をかける兵士たち、それを手で制した国王は、蔑みの目を彼女に向けた。
「命乞いか? 愚かな」
 もう騙されない、国王は繰り返す。それをまた、女性が笑う。可笑しい、と声を立てて。
「確かに、フィラティノアのような大国が、こんなちっぽけな辺境の国に、何の見返りもなく援軍を送ることなどしないでしょうね。それは初めからわかっていたことではないでしょうか、国王陛下。判っていて、罠にかかった。国土と国民を脅かした責任の一端は、貴方にございますよ、陛下」
「黙れ。この期に及んで、何を言うか」
 目を吊り上げる国王、彼の前で女性は容赦なく言い放つ。エランヴィアは捨て駒なのだと。初めから、潰すつもりで同盟を持ちかけたのだと。そのようなこと、今更言われずとも判っているというのに――改めて口に出されると、非常に腹が立つ。国王の杓を持つ手が震えた。
「フィラティノアは、既に出兵しておりますよ、陛下」
「なんと」
「但し、エランヴィアではなく、アヤルカスに向けて」
「……」
 国王は愕然とした。ふらりと倒れそうになるのを気力で堪え、彼は唇を強く結ぶ。やはりそれが狙いだったのだ、フィラティノアは。エランヴィアという餌をアヤルカスが貪っているその間に、かの領土に侵攻する。何と狡猾で、何と卑劣な。
「ツィスカ……!」
 自分はまんまと騙された。東の砦全てを落とされたのちに王都を囲まれれば、物資の輸送もままならない。孤立無援の王都を、誰が救うというのだ。こんな、辺境とも言えるちっぽけな国を。否、小国だからこそ、餌として使われたのだ。その屈辱――国王は握りしめた拳を、ツィスカの頬に叩きこんだ。
「乱暴な」
 件の女が眉を潜め、ツィスカは無言でくず折れた。この生意気な侍女も、と国王は彼女に向かって拳を振り上げるが、当たったと思った瞬間それは虚しく空を切り、逆に激痛が右腕から肩を駆け上った。
 ぎゃあ、と。耳障りな声が彼の口から洩れる。
 突き出した腕は捕らえられ、侍女に捻りあげられていたのだ。たおやかな女性とは思えぬ強い力に、国王は情けなくも悲鳴を上げ続けた。兵士らはツィスカを放り出し、主君を救出しようと周囲を取り囲むが。
「女性に手を上げるなど、何と野蛮なこと。折角、お救い申し上げようと思いましたのに。愚かな国王の暴力で、この国は滅んでしまいますのね」
「なにを、馬鹿な」
 苦しい息の下、国王が侍女を睨みつける。
「選択権はございますよ、陛下。今なら、まだ間に合います。我らの言葉に耳を貸すか否か、貴方の判断一つで、エランヴィアは生きるも死ぬも決まるのです」
「陛下、ご決断を」
 腫れあがった頬を押さえ、ツィスカが立ちあがる。緑の瞳はいつになく燃え立ち、食い入るように国王を見つめている。そこにあるのは、強い意志。彼女は口元に溢れた血を吐きだし、
「第二のアインザクトとなりたくなければ、我らの言葉に耳を傾けてください」
 毅然と言い放つ。
 アインザクト。その名に国王は、近衛兵士らは、息を止めた。そうして、国王は凝視する。ツィスカの顔を。豊かな金の髪に縁取られた白き面、その中で一際眩しく輝いている、鮮やかな緑の瞳。この容姿は、もしや。
「アインザクト……」
 呆けたように呟く国王、いつの間にか彼は侍女から解放されていた。彼女は国王の前に膝をつき、
「神聖皇帝アグネイヤ四世陛下が臣、ロエラにございます。数々のご無礼、お許しください」
 名乗りと共に今までの非礼を詫びる。
「我が主君に従う、と。一言お言葉を戴ければ、悪い様には致しません」
 エランヴィア国王は、ツィスカとロエラを見比べていた。



 ルキア、と呼ばれて。シェラは振り返った。呼びとめたのは、フィオレラである。現アヤルカス宰相の血縁の娘。シェラの貴重な情報源の一つである。
「手が空いていたら、手伝って戴きたいことがあるの」
 葡萄酒を厨房から運び出したい、彼女はそう言った。力仕事など従者か他の使用人に任せればよいのだ、そうシェラが言っても
「いいえ、直々に宰相閣下より依頼されてしまったの」
 困ったように笑って譲らない。ここで彼女の言う宰相とは、この離宮に幽閉されている神聖帝国宰相エルハルトのことである。シェラは成り行き上、宰相付きの侍女の一人となっていたが、実際は今でも公の場には顔を出さず、隠された通路を移動しながら諜報活動を続けていた。流石に潜入期間がここまで長期にわたるとは思わず、今ではフィオレラとの接触を多少悔いていた。いかなお嬢さん育ちのお人よしといえど、フィオレラも馬鹿ではない。ばれるのは時間の問題である。長く彼女と接触しすぎた――悔んでいた矢先に、隠し部屋から廊下に出た処を見られてしまった。なんとかその場は取り繕ったものの、
「ねえ、いいでしょう?」
 この依頼である。
 正直、人目に触れることはなるべく避けたい。何処で誰の目が光っているか、誰に疑いをもたれるか。より緊張を強いられることになる。だから、この時も断るべきだったのだ。
 フィオレラが一人だったということも、油断を招いた原因かもしれない。
 シェラは彼女と共に厨房へ赴き、そこで樽から出したばかりの葡萄酒を、瓶に移し替えた。盆に載せたそれを静々と運ぶ道すがら、
「ねえ、ルキア」
 前を行くフィオレラが無邪気に振り返る。転んだら危ない、と顔を顰めるシェラに構わず、
「その名前、本名なの?」
 さらりと問いかける。シェラは一瞬動きを止めた。
「ルキアは、侍女なんかするような下級貴族の娘ではないでしょう? 大貴族のお嬢さんなのではなくて?」
「フィオレラ」
「本当の名前は、ルクレツィア、というのかしらね?」
 ふ、と拍子抜けした。何を言うのかと思えば。
 確かにルキアはルクレツィアの愛称である。平民、及び下級貴族であればルキアとそのままの名前を付けられるが、爵位が上になると、庶民的なその名は嫌われ、殆どが『ルクレツィア』と命名される。過日、フィオレラに名を尋ねられたおりに、咄嗟に「ルキア」と答えてしまったが、どう考えてもカルノリア――北方の言葉に慣れてしまっているシェラには、ルクレツィアの名は発音しにくい。幾ら容姿がミアルシァのそれとはいえ、自身の名をきちんと発音できなければ怪しまれるだろう。
「まさか、と思うけど……処刑されたルクレツィア姫、の訳はないわよね」
 フィオレラの言葉に、危うく盆を取り落とすところだった。処刑された? あの、アグネイヤ四世の妃、
「ルクレツィア姫が?」
 思わずその名を口にしてしまう。アグネイヤ四世の代わりに処刑されたのは、やはりルクレツィア公女だったのだ。愕然とするシェラの耳に、フィオレラの悲しそうな声が届いた。
「ねえ、貴方は本当は誰なの? 今の発音、アヤルカスの人ではないわね。勿論、ミアルシァでも」
 刹那、シェラは背後に向かって葡萄酒の瓶を投げつけた。同時に、ぐわっ、と悲鳴が上がり、刃を握りしめた男が階段を転がり落ちていく。声を上げそうになるフィオレラを引き寄せ、シェラは窓を背に踊り場に立った。

「フィオレラ殿を放せ」

 数人の男たちが、階上から階下から、抜き身を手に迫って来る。シェラは派手に裳を捲りあげ、太腿に括りつけてあった短剣を抜き放つ。それを怯えるフィオレラの首筋に押し付け、不敵に笑った。
「遅いな。気づくのが」
 低く太い声に、フィオレラが身を竦ませる。
「放せと言っている、薄汚い間諜が」
 一人が怒鳴り、再び剣を向けてきた。それをフィオレラを盾に危うく交わす。ひい、と細い悲鳴が聞こえた。切っ先がフィオレラの髪を切り裂き、ぱらぱらと緑の黒髪が床に落ちる。結っていた髪が解け、視界を奪われた彼女は、恐慌状態に陥って派手に暴れた。殺される、本能的に思ったのだろう。
「いやぁ」
 手足をばたつかせて泣き叫ぶ彼女が邪魔で、兵士らはシェラを攻撃することはできない。それを良いことにシェラは更に窓に近寄り。
 体重をかけて窓を押し開き、宙に身を躍らせた。同時にフィオレラを兵士らに向けて突き飛ばす。彼女を傷つけまいと剣を引いた、それがシェラに逃亡の機会を与える。シェラは階下へと着地すると、素早く身を翻した。そろそろ限界だと思っていたが、こんな形で正体が暴かれるとは。舌打ちしたい気分で、裏庭を駆け抜ける。放たれていた犬が、不審者を捕らえようと数匹こちらに向かってきた。
「くそ」
 短剣では、どうにも応戦できない。シェラは追いすがる犬たち、離宮から続々と流れ出す松明の灯りに、今度こそ鋭く舌を打った。
 と。
「――マリヤ姫」
 闇の中から自分を呼ぶ声がする。
「シェルマリヤ姫、こちらに」
 はっきりと歯切れのよい公用語、カルノリアの者ではない。シェラは不審に思いながらも、暗がりから伸びたその手をとった。同時に強い力で引き上げられる。いつの間にか塀の傍まで来ていたのだと、その上に乗って初めて気付いた。堅牢な石塀にぺたりと座りこんだ彼女は、近づく灯りを振り返る。犬の声が一層激しくなった。
「休んでいる暇はありません、こちらへ」
 謎の声に導かれ、シェラは塀の下に飛び降りる。何という周到さであろう、そこには馬が二頭、繋がれていた。共に闇に紛れんとする青鹿毛である。そこに乗るように促され、シェラは躊躇なく騎乗した。馬は嘶くことなく軽く前掻きをして耳を立てる。シェラは踵で馬の腹を擦り上げ、
「ついていらしてください」
 先に走り出した馬に従い、夜を疾走した。アシャンティの離宮が、見る見る遠のいていく。僅かに首を巡らせば、皇太后の、宰相の部屋には灯りがともっていた。まだ、彼女らは無事なのだ。ほっと安堵の息をつき、シェラは多々ひたすら馬を走らせる。二騎が向かったその先は、街道から逸れた窪地であった。そこで馬を止め、身軽に下馬した人物は、シェラの前に膝を折る。
「言葉を発するご無礼、お許しください。わたくしは、アグネイヤ四世が臣下、バディールにございます」
 優雅に騎士の礼を取る青年は、名乗りを上げたのち、シェラに目を向けた。月明かりの下、優美なる面差を持つ青年は、作法に則りシェラに手を差し伸べる。シェラがそれを断り、一人で下馬するのを、彼は苦笑と共に見守っていたが。
「シェルマリヤ姫、こちらをご覧ください」
 ごく自然な流れで、自身の背後を指し示す。つられて視線を動かしたシェラは、思わず息を止めた。銀の月明かり注ぐなか、そこに静かに佇んでいるのは、百をくだらぬ群衆だった。それはおそらく、
「エルディン・ロウ?」
 シェラの呟きに、バディールが満足げに頷く。
「今宵、星が動きます。星が動き、暁を呼ぶのです」
「暁を、呼ぶ?」
 首を傾げるシェラ、バディールは微笑み、空を見上げた。


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