AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
4.暗転(4)


 ――さる高貴な方よりの依頼だ。
 ――アルメニアの皇女を殺めて欲しい。

 セグの外れの娼婦館、その一室において対面したかのひとは、驚くほど母に似ていた。よもや自身の素行を調べて、彼女が自ら乗り込んできたのではないか。一瞬愚にもつかぬことを考えてしまうほど、そのときジェリオは動揺したのだ。常はにこにこと笑みを絶やさぬ母、少女の如く表情豊かな彼女が、時折見せる孤独、悲哀、そして虚無。ふと表情を消し去ったとき、恐らくそれが母の本来の貌なのだと思われる表情に、彼女は――ルナリアは、とてもよく似ていた。
 密談に相応しい場所と言えば、娼婦館の客室である。依頼主の使いが女性であるならば、上手いこと言いくるめてその身体も手に入れようとしていた下卑た心は、ルナリアの鋭利な眼差しの前に霧散した。ジェリオは内心の揺らぎを必死で隠しながら、平静を装い『商談』を纏めたが。
 あのときは、ただ「似ている」と。そう思っただけだった。
 彼女の――『彼』の中に、自分と同じ血が流れているとは。全く考えもしなかった。


「ルナリア」

 王妃を含めた目の前の光景から、すう、と色が消えた。唇から洩れたのは、『兄』だと。無情にも、仇から教えられた人の名前。ジェリオの動揺を誘えたのが嬉しかったのか、王妃の笑みが一層濃くなった。狂気の王妃ラウヴィーヌは、ジェリオの首に腕を回し、煤けた顔を近づけて、
「おぞましいであろう。実の兄弟の睦み合いは」
 とどめの一撃を放つ。ジェリオは低く呻き、喉元を押さえた。
「……っ」
 生温かい胃液が、口中に広がる。突きつけられる事実の汚らわしさに、耐えきれなかった。口元を覆った手の、指の間から溢れだす汚物を押さえることもできず、彼はその場にくず折れる。醜い。何処まで醜いのだろう、貴族という連中は。王族という存在は。母を弄び、捨て、その子らを世にもおぞましき化け物に変えた。それだけではない、ルナリアは、『彼』は、男性としての機能まで奪われて――。
 ごぼっ、と。唇をこじ開け、掌を押しのけ、吐瀉物が零れ出す。
「呪われた子らよ。エリシアの、穢れた血を持つ子供たちよ」
 衣裳の裾が汚れるのも構わず、王妃はそこから動かない。どころか、屈みこみ、ジェリオの頭を愛おしげに抱えながら、呪文の如く繰り返す。焼け爛れた指が、零れる言葉とは裏腹の官能的な動きでジェリオの髪を優しく梳き続ける。
 その手を振り払いたいのに、
 拒絶の言葉を投げつけたいのに。

 何も出来ない。

 ただひたすらに、込み上げてくる汚物を吐き出し、息を整えまた吐き出し、それを繰り返すだけだった。
 だからだろうか。
 いつの間にか、この部屋に彼ら以外の人物が存在していたことに気付かなかったのは。
「なんと……?」
 王妃の愛撫が止まる。彼女の意識がジェリオから逸れた。ジェリオは吐瀉物に塗れた右手を伸ばし、王妃の衣裳を無造作に掴む。そのまま、立ち上がろうとしたところに、
「なんと……来たか、呪われた子よ」
 喜色に溢れた王妃の声が聞こえた。呪われた子、ディグルか。彼がこの部屋に辿り着いたのか。ジェリオは、彼を振り返る。手を出すな、これは自分の獲物だと。そう言おうとして、激しく咳込んだ。
「先に、弟が来ておったぞ」
 くす、と無邪気な笑い声が聞こえる。弟――ラウヴィーヌは、ジェリオがエリシアの息子であると認識していたのか、いや、そんなはずはない。思考が薄れゆく頭でぼんやり考える。
(まさか、ルナリア?)
 彼女も、ここを訪れたのだ。ジェリオよりも先に。そして、今。この部屋にいるのは。
「ディグル」
 兄の名を、呟く。

「弟?」

 やはり、ディグルだ。背中越しに聞こえる声は、ルナリアのものではない。まごうかたなく、ディグルの声だった。低く、太く、深みのある、それでいて威圧的ではない。耳当たりの好い、声。これが支配者の声なのだと、否応なく思い知らされる。この声が、サリカを翻弄した。サリカを誘惑した。ジェリオはゆっくりと振り返る。
 そこに佇むのは、騎士の略装を纏った青年だった。結わずに垂らした銀糸の長髪、その毛先が赤黒く染まっている。詩人に歌われる白皙の美貌は色を失い、まるで蝋細工のような無機質感を見る者に抱かせる。衣装のところどころにこびり付くシミは、血痕。強く固められた両の拳も、腕さえも、血に汚れていた。此処に辿り着くまでに、幾度発作を起こしたのか、発作を堪えての行程は、並大抵のものではなかったろうに。
 それでも。
 心に秘めたる思いを支えに、彼はやってきた。自ら、継母を手にかけるために。
「どけ」
 ジェリオに向けて、ディグルは端的に命じる。彼はすらりと剣を抜き放った。薄暗い部屋に煌く銀光、それが迷わずラウヴィーヌに向けられる。王妃は可笑しそうに喉を仰け反らせて笑った。
「王太子自ら、暗殺者の真似事か。下賎な。やはり、卑しき歌姫の子よ」
 揶揄にも動じず、ディグルは王妃に近づく。一歩、また一歩、と。その足取りは決して軽いものではない。身体を引きずるかの如く、生命の残滓を燃やしつくそうとするが如く。一足ごとの動きが、彼の全てを顕わしているようだった。
「乱心したか、王太子」
 ほ、と王妃が笑う。乱心しているのはどちらだと言いたいのを堪え、ジェリオは目を眇めた。現在のディグルの体力では、王妃を殺害するのは難しい。無理だ、と微かにひとりごち、立ち上がろうとしたジェリオの身体を、王妃が徐に引き寄せる。
「ならば、共に逝こうではないか」
 止める間はなかった。王妃はジェリオの腰から剣を奪い取り、切っ先をディグルに向ける。
「妾の命は、くれてやる。その代わり」
 そなたの命が欲しい。王妃はうっとりと目を細めた。ディグルは何の応えもせず、無言で剣を振りあげる。凶刃が、迷うことなく王妃の首筋を狙った。

 赤い花が、舞う。
 いや、赤い翼か。

 王妃の首筋から放たれた鮮血が、真直ぐ天井に伸び、そこを朱に染める。ぐらりと傾いだ華奢な身体はジェリオの上に倒れかかり、力の抜けた手から零れた剣が、
「つっ」
 回収しようとしたジェリオの腕を傷つけ、床に落ちた。そのとき。

「失礼致します」

 扉が叩かれ、侍女らしき婦人が顔を覗かせた。王妃の様子見にやってきたのか――彼女は大きく眼を見開き、
「あ……あ……」
 血の海に沈む王妃と、彼女を抱えるジェリオの姿に恐怖を覚えたか、口元を押さえたままじりじりと後ずさる。その目が、血刀を下げたディグルの姿を捕らえた瞬間、
「ひ、い……」
 侍女は高く喉を鳴らし、その場にぺたりと尻もちをつく。ディグルが、王太子が、王妃を手にかけた。その現場を見てしまったのだ。大それた罪を目の当たりにし、侍女はがたがたと震えだす。ジェリオは王妃の身体を乱暴に跳ねのけ、床に転がる自身の剣を拾い上げて。
「王妃をやったのは、俺だ」
 低い呻り声と共に、ラウヴィーヌの心臓に剣を突き立てる。彼女は既にこと切れていたが、それでも、なお。心臓を貫き、抉りだし、それを踏みつけねば居られぬほどの感情が、全身を支配していた。ジェリオはラウヴィーヌを踏みつけ、転がし、鋭く侍女を睨みつける。彼女は再び「ひぃ」と喉を鳴らした。
「ありがとよ。こいつに邪魔されそうになったけど、あんたのお陰で王妃を殺ることができた。感謝するぜ」
 凄味を利かせた笑みを侍女に向け、ジェリオはディグルに斬りつける。彼の腕を浅く切り裂き、ジェリオは困惑に目を見開く『兄』の、その耳元で囁いた。
「ルナリアは、あんたの弟だって。王妃が言ってたぜ」
 自身だけが抱えるには重苦しい澱み。罪を被る代わりに、同じ苦悶を味わわせたい――そのジェリオの思惑は、しかし。

「知っている」

 ディグルの一言に打ち砕かれた。
 知っている。ディグルは知っていて、ルナリアと関係を続けていたのだ。
「初めから、そんなことは知っていた」
 乾いた兄の声に、ジェリオは気が遠くなった。なんという男なのだろう。なんと汚らわしい存在なのだろう。ルナリアを血の繋がった弟と知って、抱いた。
「ああ」
 目の前に立つ男が、人間には見えなかった。美しい人間の皮を被った、汚らしい生き物に見える。ジェリオは咆哮をあげ、ディグルを殴りつけた。華奢な身体は、ジェリオの拳に耐えきれず、あっさりと吹き飛ぶ。王太子の無残な姿に、侍女が悲鳴をあげた。それを聞きつけたのであろう、複数の足音が響き、こちらに人が向かう気配がした。


 それから、どうなったのだろう。
「うあ……」
 目の前に迫る、血まみれの女の顔。苦悶に歪みながらも哄笑を絶やさぬ彼女の顔が鼻先に触れる、思った瞬間声をあげ、ジェリオは弾かれるように身を起こした。二日酔いのように、ずきずきと頭が痛む。燃えるような熱さを覚えて触れた額から、ぽとりと何かが落ちた。
「……?」
 濡らした、布だった。既に乾きかけていたせいだろう、それは彼の額に張り付いていたのだ。ジェリオは布を手に取った。その手には、包帯が巻かれている。お世辞にも綺麗とは言えぬ、不器用な巻き方だった。少し動くだけでばらばらと解けてしまうそれの、片方を歯で押さえながら巻き直す。ふと気づいて己を見れば、服は全て脱がされ、下穿きだけを身に付けた姿で寝台に置かれていた。ここは、王妃の幽閉先か――思ったが、部屋の調度に見覚えがある。この寝台、これは
「ルクレツィア、一世?」
 フィラティノア王太子妃にして、神聖帝国女帝たる彼女の寝台――寝室だった。いま、そこの主人と言えば。
 彼は、部屋の主を探した。と、暫しのちに扉の開く気配がし、人影が入室してきた。ふわりと漂う、薫衣草の香り。サリカ、とそう呼びかけると、件の人物は驚いたように動きを止める。
「気がついたか?」
 尋ねられ、頷く。サリカはおそるおそる、といった様子で寝台に近づくと、ジェリオを見つめた。
 仄かに、湯の香りがする――と同時に、彼女の髪が濡れていることに気付いた。湯浴みをしていたのだろう。サリカの身体越しに外を望めば、開かれた窓から差し込むのは、月明かりではなく夕陽であった。琥珀の蕩けるような落日の光が、静かに室内を満たしている。まだ、休むには早い時間だ。
「……」
 無言でサリカを見つめれば、彼女は
「覚えていない、のか?」
 怪訝そうに首を傾ける。ジェリオは素直にそうだと答えた。サリカは一瞬顔を歪め、それから、
「本当に?」
 繰り返し、尋ねる。
 覚えていない。それは本当だ。王妃の幽閉先に侵入し、そこでディグルと見えた。彼が王妃を殺害し、その罪を被り、彼を殴って――それから? それから先の、記憶がない。何処をどうやってあの屋敷を出たのか。この東の離宮の、ルクレツィアの私室に辿り着いたのか。まるで覚えていない。
「『王妃を、殺った』」
 サリカの台詞に、びくりと肩が揺れる。
「そういって、ここに来た――露台から、有無を言わせずに、部屋に入ってきて」
 サリカの唇が震える。その端に僅かに痣があった。見れば、首筋にも。貫頭衣から伸びた二の腕にも。何者かに貪られた痕がある。何者か――考えるまでもない。
「俺、が」
 昂る感情のまま、サリカを強引に。
 理解すると同時に、心臓がずきりと痛んだ。いきなり襲われて、サリカは抵抗しただろう。嫌だと泣き叫んだのだろう。それを無視して。踏みにじって。自分は、あの汚物にまみれた手で、彼女を抱いた。
「サリカ」
 すまない、と。言ったところで罪が消える訳ではない。悲しみに曇る暁の瞳が、晴れる訳ではない。謝りたくて伸ばした手は、彼女に触れる前に敷布の上に落ちた。
「手当て、してくれた、のか」
 それだけ酷い扱いを受けたのに、サリカはジェリオの傷を放ってはおかなかった。吐瀉物に汚れた服を脱がせ、身体を拭き、寝台まで運んでくれた。少女一人の力では、大変な作業だろう。しかも、ジェリオの欲望を受け止めた後に。
 サリカは、優しい。優し過ぎるから、甘えたくなる。付け込みたくなる。自身の傷を癒す道具にしたくなる。
 それに気づいているから。気づいていた、から。サリカはなかなか彼に全てを許そうとはしなかったのだ。今更、サリカの気持ちが判った処で、どうなるものでもない。自分はサリカを汚し、彼女の初恋を無残に潰したのだ。
 そして、今も。
「ジェリオ」
 呼ばれて、視線をあげる。古代紫の瞳が、困惑に揺れながらこちらを見つめている。愛おしい、ふとそんな気持ちが湧きあがり、ジェリオは苦笑を浮かべた。
「何があった?」
 けれども、サリカの問いかけに、瞬時に心が凍りつく。脳裏を過ぎるのは、王妃の言葉。ディグルの台詞。ぞくり、と背筋を悪寒が這い上がる。
「何も」
 声が掠れた。敷布を握りしめる手に、サリカのそれが重なる。剣を使う者の、武骨な手。だが、サリカのそれはしなやかで柔らかい。柔らかいと、そう思える。
「何もないわけがない。前も、僕を……抱いたときは」
 ディグルが兄だと判ったときだった。やり場のない怒りを、ジェリオはサリカにぶつけた。サリカを冒すことで、ディグルに復讐している、彼に勝っている、そんなつまらぬ思いのためだけに、彼女の純潔を奪った。彼女のことなど、ひと欠片も考えてはいなかった。ただ、自分のため。自分の憤りを抑えるためだけに――同じ理由で自分は、幾度サリカを傷つけたことだろう。
「ディグルのことか?」
 最も聞きたくない名前を、サリカの唇が紡ぐ。
「ディグルが、どうかしたのか?」
 サリカは、ディグルに淡い想いを抱いている。異性として意識している。思うと、消えかけていた怒りの炎が再び燻り始めた。罪悪感を灰にして、それでも飽き足らずサリカをも呑みこもうとしている。
「ディグルが、王后陛下を……」
 言いかける唇を、己のそれで塞いだ。腕に抱きしめた華奢な身体は、逃げようともがいている。細い腕が必死になってジェリオの胸を押しのけようと、力任せに叩きつけられる。唇を離したジェリオは、サリカの耳朶に舌を這わせながら、熱い息と共にそこに言葉を吹き込んだ。
「王妃をやったのは、俺だ。ディグルじゃない」
「ジェリオ」
「信じないなら、このまま犯す」
 サリカの身体が強張った。ジェリオは冷笑を刻む。やはり、彼女は嫌なのだ。自分に抱かれることを望んでいない。と、思ったが。不意に彼の胸を押し戻していた手から力が抜け、逆に柔らかな身体が圧し掛かって来る。サリカに押し倒される格好で寝台に倒れ込んだジェリオは、全身に覚えた彼女の感触に、思わずごくりと喉を鳴らした。
「抱けばいい」
 好きなだけ、抱くといい。彼女は繰り返した。自棄になっているふうでもなく、ジェリオの胸に頬を寄せたまま、
「それでジェリオが楽になるのなら」
 はっきりと言い切った。本気でそんなことを考えているのか、この『姫君』は。愛撫が慰めになるのだと、教えたのは自分だというのに。何故か心が痛かった。
「同情か?」
「かも、しれない」
「だったら、ごめんだ」
 ジェリオはサリカを押しのける。
「舐められたもんだな、俺も」
「ジェリオ」
「あんたにそんなこと言われるまで、落ちぶれちゃいねえよ」
 くしゃりと前髪をかきあげ、身を起こす。全く、どうにかしている。こんな少女に感情をぶつけるなど。判っていても、どうすることもできない。自分の感情を制御することができない。それほどに、王妃に打ち込まれた楔は心の奥深くまで達していた。今もどくどくと流れる血は、何によって止められるのだろう。


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