AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
3.駆引(3)


 父は、貿易商だった。
 と、母からは聞いている。無論、真っ当な商売をしていたとは思わない。元は海賊であったという父は、陸に上がった後もそれなりに後ろ暗いことに手を染めていたはずだ。でなければ、あれほど裕福な生活は送れなかった。母を囲うことはできなかった。
 夫婦、とは言っているが、母は愛妾だったのだろう。父の多くいる愛人の一人。けれども、最も大切にされていた、妻に等しい存在だったのだ。だからこそ、父はセグの屋敷を母子に与え、何不自由ない生活をさせていた。

 そう。あの日までは。

 ジェリオは、目を閉じた。遠い記憶が蘇る。
 深夜、寝ている処を母に叩き起こされた。「逃げなさい」かのひとは、いつになく真摯な目を向けて、息子を抱きしめ、「逃げなさい」その言葉を繰り返していた。やがてまた人の気配がし、

 ――セシリア。

 父の声が聞こえた。母の身体越しに見た父の姿に、ジェリオは恐怖を覚えた――父は、抜き身を下げていたのだ。しかも、そこには

 ――血?

 鼻を突く、鉄の匂いが血のそれであることを、本能的に感じ取り、ジェリオは母に縋りつく。父は人を殺した、殺してきた。そうして、これから母と自分を殺すつもりなのだ。だから母は逃げろと言うのだ。漠然とそんなことを考えて、彼は幼いながらも母を守ろうと両親の間に身を割りこませる。と、父は剣を鞘におさめた。それでも警戒するジェリオを安心させるかのように、膝を屈めて目を合わせ

 ――坊主。ちゃんと、お袋を守るんだぞ?

 ぽん、と彼の頭を叩く。そのあと、母に何か言っていたようだったが、それはジェリオの知る言葉ではなかった。公用語ではない、何処かの国の言葉。父の言葉にも、そう言えば訛があった――そんなことを考えながら、彼は両親を見上げた。どうやら父は母を説得しているらしく、母は頑なにそれを拒否している模様だった。ぐずぐずしている暇はない、そういって父はジェリオを抱きあげ、母の腕を掴み、階下へと駆け降りる。そこでは使用人らが何事かと燭台を手に右往左往していたが、父の只ならぬ形相と

  ――馬を。早く。

 その指示に慌てて厩舎へと向かった。父も母の手を引いてその後に続く。「逃げて」と。そのときも母は言った。ジェリオにではなく、父に向かって。父は「馬鹿」とだけ応え、母はなおも「王妃の狙いは、私なのよ。私だけなのよ」言い募っていた。
 王妃――おうひ。とは、誰なのだろう。何のことなのだろう。幼いジェリオは、『王妃』の意味すらわからなかった。「王妃って、なに?」と尋ねると、

 ――貴族だ。

 父が吐き捨てた。その言葉だけが、鮮明に脳裏に刻まれている。
 あとのことは、よく覚えていない。強引に母と自分を馬に乗せ厩舎を出た父は、自分も愛馬の轡を取った。闇に溶け込む漆黒の馬。見事な青毛の馬に騎乗する父、それが父を見た最後だったかもしれない。


 今から、二十年近く前の出来事だ。記憶はおぼろげである。
 父は母と自分を守るために、犠牲になった。母は馬の背で声を殺して泣いていた。泣いていた、と思う。自身の背に触れる母の胸が、大きく震えていたから。
「私のせいで」
「私が居たから」
 そんなことは一言も言わなかったが、母の思いは強くジェリオに流れ込んできた。母が抱える秘密、それが父の命を奪ったのだと。何処かで理解はしていたものの、母を責める気にはなれなかった。父のことは嫌いではなかったが、好きでもなかった。たまに訪れて遊んでくれる楽しい『おじさん』、その程度にしか思っていなかったからだろうか。けれども、母と自分を守ってくれた、それだけ大切にしてくれていた、そう思うと。父を無残に殺害した『王妃』――貴族が許せなかった。
 誰に語ったこともない。
 語ろうと思ったこともない。
 秘めたる思いは、いつか成就されるその日まで、心の中に仕舞っておくつもりだ。
 母の言っていた『王妃』が、フィラティノア王妃ラウヴィーヌであること。彼女が母を失脚させ、父を殺した張本人だと理解した今は、彼女を仕留めることだけが自分の使命。生き甲斐となっているような気がする。
 そのせいか、このところ神経が昂っていた。行き場のない思いを抱えて、悶えている。まだ、カイラにかけられた呪縛が完全に解けてはいないのか――心の奥底に棲みついた狂獣が、獲物を求めて牙をむき出しにしている。
 この衝動を鎮めるには、異性が必要だった。激情を受け止めてくれる、女性の身体が。

 夜になると、未練たらしく露台に出ては、サリカの部屋を虚しく見つめている。彼女が求めに応じてくれれば、自分は救われる。一時だけでも。彼女の心が自分になくても、それはそれで構わない。あの甘美な器を堪能できれば、自分は。

 少年宰相は、ジェリオとサリカの関係には目を瞑ると言った。人前で愛を囁くことは許されない、けれども、深夜彼女の寝室に赴くことは構わない。侍女にもその旨言い含めた、と。
 しかし。


 夕餉の後、部屋を出て行ったディグルに不審を覚えたジェリオが、兄の行方を探ろうとした際に、
「おやめなさい」
 気付いた母に止められたのだ。ディグルは、サリカのもとへ行ったのだと言う。
「サリカの?」
 サリカは本来ならば、皇女クラウディアとしてこの国に嫁ぐ身であった。ディグルの花嫁となるはずの姫君だった。今、彼女は本来の姿に戻ろうとしている。否、戻っている。だから、ディグルとサリカの間に絆が芽生えるのは喜ばしいことだと暗にエリシアは告げていた。母は、このままルクレツィア一世が戻らず、サリカが真の姿に戻ることを望んでいるのだろう。皆が本来あるべき姿に戻る、それが一番なのだと。
(詭弁だ)
 ジェリオは憤慨した。
 余命幾許もないディグル、彼の望みを叶えたいだけなのだろう、エリシアは。ディグルが望むサリカを傍に置き、彼の心を慰めたい。それが、遠き日に不本意ながら手放してしまった我が子に対する贖罪だと思っている節がある。母は兄に弱い。兄の望みを出来得る限り叶えようとする。今までディグルにしてやりたくてもできなかったことを、この僅かな期間に全てやり遂げようとしている。そんな気がしてならない。
「――貴族は、やめなさいと言ったでしょう?」
 母の言葉が胸に突き刺さる。十三歳のときにも聞いた言葉だ。イルザをあきらめろ、彼女はカルノリア皇女ソフィアなのだと言われたことを思い出す。無残に破れた初恋、その皇女の面影をサリカに重ねていたのかもしれないが。こういう形で取り上げられるのは、最も不愉快であった。

「……」

 言葉にならぬ想いを秘めたまま、彼は露台へと赴く。秋の香りを孕んだ風が、髪を撥ね退ける。背後から零れる燭台の灯りと、仄かな月明かり。それらを受けて、彼は柵に身体を預けた。夜風に当たれば少しは頭も冷えるかと思ったが、間違いだった。隣の部屋から漏れる明かり、その中にサリカとディグルがあるのだと思うと、昏い怒りが込み上げてくる。男色家のディグルが、サリカを抱くようなことはないだろうが、完全に身体を重ねることはしなくても、抱擁くらいはしているのだろう。かつて自分が施したような、口唇愛撫も行っているのだろうか。
(馬鹿か)
 睦まじい二人の姿を想像して、勝手に嫉妬して、悶絶して。愚かな道化でしかない自分を、情けなく思う。苦笑混じりの息をつき、だらしなく露台から身を乗り出せば、
「眠れないの?」
 下から声が聞こえた。銀の鈴を振ったような、との形容が相応しい――耳に心地よい声。
「嫁か」
 階下の部屋で同じように露台から身を乗り出しているイリア、彼女と眼が合う。
「その言い方、やめてくれる?」
 イリアが唇を尖らせる。その仕草がまた、幼い。
「――怪我は、もういいの?」
 一拍ほど置いてから、若干声を潜めて尋ねてくるイリアに、ジェリオは「ああ」と生返事をする。完治したわけではない。今でも、それなりに痛む。今日もティルとの密談を終えたのち、リィルを彼の手から受け取ると、

 ――じゃあ、宜しくね。

 年長者をまるで敬わぬ不遜な少年は、去り際にジェリオの右肩を軽く叩いていった。ずん、と沈み込むような痛みを堪え、無表情を保つのがやっとだったが。普段から無愛想で通っているジェリオである、ティルもさほど気に留めなかったのか、此方を振り返ることもなくひらひらと手を振りながら退室した。宰相の部屋に一人残されたジェリオは、柵に止まる鷹と暫し目を合わせた後、ふいとその場を離れた。背後から聞こえる羽音、鷹も目的地へと飛び立ったのだろう。
 そんなことをぼんやり思い出していると。
「無理をすると、後遺症が辛いわよ?」
 ひょいと更に身を乗り出した巫女姫が、追い打ちをかける。ジェリオは鼻を鳴らし、
「適当にやってるよ」
 気のない答えを返す。
 そうして暫く沈黙が流れた。不快なそれではない、心地よい、微妙な、()。ふたりはそれぞれ中庭を見下ろしつつ、同じ時を過ごした。抱える思いは、似て非なるもの。共にサリカの存在が絡んではいるが、互いに決してそのことは口に出さない。
 静かな時を経たのち、
「ねえ」
 再びイリアから声をかけてきた。沈黙に耐えきれなかった、というよりも、何かを思い出した、そんな感じである。ジェリオの予想通り、イリアは
「宵の明星の、伝説を聞いたことはある?」
 訊いてきたのだ。
 そういえば、サリカとは古語で宵の明星を表すと言っていた。暁を示すアグネイヤとは正反対の名だと彼女は笑っていた。だから、自分はアグネイヤには相応しくないのだと判っていたのに、なぜ、皇帝になるなどと口にしたのだ、と――言葉にはしなかったが、常に自分を責めている風であった。
「宵の明星はね、乙女なのよ。夜空に月を呼ぶのが務め。でも、あるとき、人間の若者に恋をしてしまったの」
「……」
 神話伝承によくある話だ。精霊と人間との悲恋もの。
 けれども、宵の明星の話は違った。恋は成就するのだ。月の神は、彼女の逢瀬の日には空に現れない。月に一度だけ、彼女に暇を与える。そうして、彼女は身籠り、若者の子供を産んだ。その子供が、
「アンディルエの祖だと言われているわ」
 イリアの言葉に、軽い衝撃を覚える。光の一族と呼ばれるアンディルエ、光と言えば太陽の方が強いであろうに。宵の明星の末裔とは。
「意外でしょう?」
 くす、とイリアの笑い声が聞こえる。
 尤も、神話は幾つもの部族の闘争の間に、大きく変容していく。征服者が被征服者の伝承を呑みこみ、都合良く修正していくのだ。
 サリカが宵の明星であるならば、マリサは対となる明けの明星であろうか、そう思ったのだが、イリアは違うと即座に応えた。マリサというのは、南方由来の名前なのだと。南方では、月は女性である。月そのものを指すのではなく、その化身といったところか。マリサは北方風の発音で、正式には『マゥ・リィサ』となるのだとイリアは付け加える。
「そう、ね。確かに宵の明星は、明けの明星と対になるものね」
 暫く置いてから、イリアが呟く。
 ジェリオは、ふと息を止めた。宵の明星と明けの明星は、対極にある。アグネイヤの意味する『暁』、それはつまり明けの明星とも重なるのだ。明けの明星を意味する名を二人の娘に付けなかった母、どちらが帝位を継承するかを決めかねていたということもあるのだろうが、それでも。
(サリカ)
 かのひとの名、それは。
 掌に爪が食い込む。固めた拳を柵に叩きつけた。鈍い痛みが腕全体を駆け抜ける。右腕までその痛みが連鎖して、彼は喉の奥で声を噛み殺す。
「あたしが彼女をサリカと認めてしまったら、サリカはアグネイヤじゃなくなる――呼びたくなかったけれど、でも」
 イリアの声は、消え入りそうだった。雨を予感させる湿った声が、ジェリオの耳朶を虚しく打つ。ああ、だからイリアは、「サリカ」と呼びかけるおりにいつも躊躇いを見せていたのだ。
「サリカは、アグネイヤ四世ではない。彼女は、クラウディアでありルクレツィアでもある、滅びの娘にして再生の妃。だから、だから、あんな結果が出たのだわ」
 イリアは、ジェリオに語っているのではない。見えぬ誰かに、自分自身に、――声をかけているのだ。今まで胸の裡に秘めていた思いを明かしているのだ。ジェリオは相槌を打つこともなく、巫女姫の独り語りに耳を傾ける。
 皇太后は、初めから知っていたのだ。皇帝となるべき姫がどちらなのかを。だからこそ、サリカにその名を付けた。将来、クラウディアとしてフィラティノアに嫁ぐように。それでも、何かを諦められなかったのか、ルクレツィアの名も添えた。そこに親としての願いが込められていたと言うのであれば、虚し過ぎる。
 歪みは正されるべきなのか。
 本来あるべき姿に戻ることが、最良の策なのか。
 終わりのない問いに、答えなど出るはずもない。ジェリオはただ唇を噛みしめ、階下の巫女姫の姿を見つめるしかなかった。



 なかなか骨が折れたよ――宰相は心底疲れたように呟き、長椅子に腰を下ろした。彼に与えられた部屋ではない、セレスティンと呼ばれる、双子の師に当たる人物の居室、その居間に相当する場所で
「ああ、お構いなく」
 侍女が差し出す杯を受け取りつつ丁寧に礼を述べながら、年若い宰相は目の前に佇む闇の商人を不遜に見上げていた。顔の半分を仮面に隠した青年――実際、年齢から言えば壮年というべき歳なのだろうが――は、相変わらず表情がない。ルクレツィアを前にしたときは声をあげて笑うものの、その他の面子に対してはとことん無愛想である。殊に性質が似ているのだろうか、ティルには必要以上に愛想が悪い。別に阿って欲しいわけでもないが、硬質の美貌に凝視されると、背筋がぞくぞくしてくる。
(オレ、そっちの趣味ないのにね。参っちゃうよなあ)
 杯の端を軽く唇で押さえたまま、ティルは溜息をつく。
 深夜に私室を訪れるなど何事か、どれほどの急用かとセレスティンもそれなりに構えているに違いないが、そのような素振りを欠片も見せぬところが若干腹立たしい。何処か涼しげな面持ちは、アウリールを想起させる。かのひとの小言を思い出し、うんざりとしてきたティルに対し
「それで? どれほどの数を投入すればいい?」
 セレスティンは端的に尋ねてくる。ティルは「そうねぇ」と眉を寄せ、
「動かせる最大の数は?」
 逆に聞き返す。セレスティンの号令一つで、エルディン・ロウの全ての構成員が動く。けれども、現在任務を遂行中の者を除けば、かなり数は減るであろう。『大陸の狼』、その総数をティルは知らない。だからこそ、セレスティンの答えには驚いた。ティルは高く口笛を吹き、
「そりゃまた……」
 言ったきり、言葉を失う。自分はこの男をかなり見くびっていたようだ。数が多ければ好いという問題ではないが、それでもこれは頼もしい。天下の精鋭が集うエルディン・ロウである。雑魚の集団よりもずっと価値がある。
「なら、人数は任せちゃうけどね。その際は、大々的にやってよねー。出来るだけ派手に、印象的に」
「演出は、任せる」
「えー? オレ、そっち苦手だし。そういうの得意なのは……」
「お前だろうが」
 灰の隻眼に睨まれ、ティルは肩をすくめる。はいはい、と気の抜けた返事をし、彼は背後に控えた自身の侍女を呼んだ。アーシェルから呼び寄せたその少女は、恭しく主人の前に包みを差し出し、彼の許可を得てそれを卓上にて広げる。中から現れたのは、一枚の布――双頭の龍が縫い取られた、巨大な旗である。神聖帝国の印だった。
「これをどうぞ、セレスティン殿」
 笑顔で勧めるティル、セレスティンは幾分冷めた目でそれを見ていた。二百年前にかの帝国が滅びて以来、この旗が大陸の何処でも翻ったことはない。旧アルメニアにおいて神聖皇帝アグネイヤ四世が即位した際も、正確な意匠が不明との理由で、作成はされたらしいが正式に掲揚されることはなかったのだ。
 だが、これは。
「正真正銘、神聖帝国の旗だよ。随分傷んでいたからね、治すのに手間取っちゃったけど」
 巫女姫の妹が、落日の折に携えていたものだ。女帝クラウディア一世に託されたのだろう。この旗には、帝国の様々な思いが籠められている。ここで使用せず、いつ世に送り出せと言うのだろうか。
「沈黙は、破られた」
 旗を見つめ、ティルが呟く。

「龍が目覚める。覇王が起つ。ああ、ぞくぞくしてくるねえ」


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