AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
3.駆引(2)


 ルクレツィア一世として、サリカは王宮に上がった。ディグルも病を圧しての出仕となり、王太子夫妻揃っての登場に国王および宰相は幾分驚いた様子で彼らを迎えた。
「そなたらに来てもらったのは、他でもない」
 ルクレツィアがすり替わったことも知らず、国王は息子夫婦に向かって召喚の主旨を告げる。即ち、兵士の士気の高揚――国民に人気の高いルクレツィアが、露台において祖国の窮状を訴えれば、アヤルカスは早々に奪還できるであろうこと。また、彼女が表に立つことで、この戦は正義の戦となり、フィラティノア及び神聖帝国に理があること等々をグレイシス二世は滔々と述べた。
 サリカはそれを首を垂れて聞いていたが、
「我らは、協力を惜しまぬ」
 国王がそう言葉を結んだ刹那、顔をあげて。
「お言葉ではございますが、陛下」
 凛と声を響かせた。
「戦に、正義がありましょうや?」
「どういうことだ、ルクレツィア一世」
「どれほどの大義名分があれども、戦は戦です。人殺しに過ぎません。より多く相手を殺した方が勝つ。どんな手段を使っても、――寧ろ卑怯な手段を用いた方が勝利を掴み取るものです」
「だから? 戦をやめよと言うのか、今更?」
「それが、望ましいかと」
 言いきるサリカを、ディグルは冷めた目で見つめる。宰相は呆れたように眼を見開き、国王は鼻で嗤った。
「腑抜たか、ルクレツィア」
 そなたらしくもない――国王は、目を細める。蔑みの中に好色な色合いを認め、サリカは身を震わせた。これが、フィラティノア国王グレイシス二世。ディグルの父。かつてのアルメニア皇帝ガルダイア三世を苦しめた人物。サリカは震える身体を抱きしめそうになるのを必死に堪え、真直ぐに義父に当たる人物を見据える。既に、威厳や気迫では負けている。片翼であれば軽くあしらえるだろうが、自分は無理だ。国民どころかこの老王一人すら、まともに対処できないかもしれない――恐怖が、ひたひたと胃の辺りから這い上がって来る。
「肝心のそなたが、そのように気弱なことを申していては……」
 国王の『苦言』が耳をすり抜ける。強く固められたサリカの拳を、そっとディグルが握りしめた。彼は『妻』と共に父を見上げ、
「アヤルカス侵攻を、妃の名を使って正統化するのは止めて戴きたい」
 淡々とした声で奏上する。国王は口を噤み、宰相は眉を寄せた。その場に漂う不穏な空気に、側近らが落ち着きなく視線を交わしている――それを気配で感じ取り、サリカはディグルの手の上に自身のもう一方の手を重ねる。自分は大丈夫だ、と、それを示すように一度強く夫の手を握りしめ、それから静かに立ち上がった。
「話し合いを。話し合いの場を、持たせては戴けませんか?」
 アヤルカス国王ジェルファ一世。彼との会談で、ことが収まれば。そのサリカの意は、あっさりと却下された。
「何を今更。既に兵はセルニダに向かっている」
 この期に及んで、止めることはできない。国王は言いきった。


「――どうやって、父を怒らせるのかと思っていたが」
 白亜宮から離宮へと戻る馬車の中で、ディグルは小さく笑う。心地よい律動に身を任せていたサリカは、小首を傾げて斜向かいに座る『夫』――義兄に困惑した視線を向けた。
 ルクレツィア一世として、国王の召喚に応じる。が、長く義父と接していれば、彼女がルクレツィアではないことが判ってしまうだろう。顔立ちは同じ、声も同じ。けれども、発する気が違う。魂が違う。言葉のやりとりをするうちに、老獪な国王は気づくに違いない。そこにいるのがルクレツィアではなく、アグネイヤ四世であることに。
 そうならぬために。
 なるべく、国王と疎遠になるような受け答えをせねばなるまい。それが貴方に出来るのか、と。ルーラは出発前に問うてきた。サリカは「何とかやってみる」そう言い残してきたのだが。
「見事、成功したな」
 ディグルの言葉に、曖昧に頷く。
 そうだ。あのようにいえば、国王の怒りを買い、暫く召喚はされぬだろう。腑抜けた妃、頼りにならぬ女帝――この期に及んで怖気づいたのか、国民の前で、兵士の前で、あのような態度を取られては困ると国王も思うはず。
「尤も。あれは嘘ではないだろう? お前の本心だろうな」
 ディグルの指摘に、身体が硬直する。
「それは」
 否定しかけたが、口を噤んだ。確かに、あれは日ごろから思っていることだった。できれば、争いは避けたい。此度は、異母兄であり、従兄でもあるジェルファが敵となるのだ。文字通り血で血を洗う争いとなる。ミアルシァも、母の代から――否、それ以上に昔から縁のある国だ。その国と事を構えるとなれば、皇太后リディアも心を痛めるだろう。とはいえ、あの母に限っては物事を綺麗に割り切ってしまうのかもしれないが。
「とりあえず、時間稼ぎにはなる」
 言って座席の背に凭れたディグル、彼の息が上がっていた。最近大きな発作はないと言っていたが、久方ぶりの外出に体力を消耗したか。酷く、顔色が悪い。今にもその細い魂の緒が切れてしまうのではないか、形良い唇から鮮血が溢れだすのではないか。サリカは不安になった。案の定彼の喉から、ごふりという嫌な音が響く。
「大丈夫か?」
 慌てて、傍に駆け寄った。と、車輪が窪みに嵌ったか、ガタリと大きく馬車が揺れる。
「あ」
「危ない」
 サリカはディグルの腕に抱きとめられていた。久しぶりに触れた、彼の胸。それは、以前よりも薄く、頼りなくなっている。病が進行しているのか。顔色は、随分良いように思えたのだが。
「ディグル」
 言いかけたサリカの唇を、ディグルが押さえる。親指の先で、軽く。それがゆっくりと探るように唇を辿り。
「気にする必要はない」
 耳元で、囁かれた。唇と耳朶への刺激でサリカの頬は上気する。背に回された手に力が籠り、サリカは強く抱き寄せられた。いけない、と思いつつも、彼を拒むことはできない。冷え切った彼の肌が熱を欲している、そのことが判るから。ディグルが求めるのは、サリカの温もり。身体ではない。
 何もしない――彼の言葉に、小さく頷く。サリカも彼の胸に頬を寄せた。確かな鼓動が耳に届き、それだけで安心する。本当はこうして、最初から彼の傍にいたかった。あのとき、愚かな言葉を発しなければ、片翼も自分も、幸せだった。
(あ)
 間近に迫るディグルの横顔、そこにルーラの面影を重ねて、サリカは身を固くした。ルーラ、彼女――彼は、片翼と出会うことで生きる意味を見出した。もしも、王太子妃として出会っていたのが自分であれば、自分がこのようにディグルと心を通わせていたならば、ルーラは自ら身を引いていただろう。寵姫の立場を捨て、何処か人知れぬ場所へと消えていたに違いない。
 それを思うと、つきりと胸が痛んだ。
 自分たちの幸福は、誰かの不幸。生じてしまった歪みを正しても、天秤が大きく揺れるだけだ。
「サリカ」
 名を呼ばれ、顔をあげる。間近に存在する青い双眸、それに吸い込まれそうになる。
「温かい」
 囁きに近い声が耳朶を掠め、更に顔が近づく。彼女はゆっくりと目を閉じた。同時に、唇を重ねられる。
「……」
 口付けは、この上なく甘美であったが、微かに漂う血の香りがサリカの心を掻き乱す。ディグルの中に巣くう病は、その版図を確実に広げている。彼の命を確実に蝕んでいる。サリカは強く彼の身体を抱きしめた。彼が何処にもいかないように。彼の魂が、此処に留まっているように。祈りを捧げながら。


「なんということを……」
 帰還したサリカの報告を耳にしたルーラは、拳を震わせ、目を吊り上げた。サリカが国王の前で取った態度、口にした言葉、それら全てが気に入らぬのだろう。何よりも、国王をして「腑抜け」と言わしめたことこそが許せないらしい。ルクレツィア一世の栄光に泥を塗った、ルーラの眼はそう言っている。
「仮初の姿だから、なにをしてもいい、と」
 静かに怒りに燃えるルーラ、彼女を前に、背後に控えたアデルも怯えている。「ルーラ様」と怒りを鎮めるようひっそりを声をかけるも、それは逆効果だった。王太子妃の間には不穏な空気が流れ、壁際に控えた侍女らも固唾を呑んで王太子妃とルーラを見守っている。
「そういうわけではない」
 サリカは、彼女にしては珍しく声を張った。ルーラの睫毛が僅かに動く。
「無益な戦などしなくとも、何とかならないのか――それは、前々から考えていた」
「……」
「ただ。言うべき場所がなかった」
「それを、ここぞとばかりに口にしたと言うのか、御身は」
 ルーラが呆れたように息を漏らす。
 自分の、サリカの言葉ではなくルクレツィアの言葉であれば、もしかしたら耳を傾ける者がいるのではないか。そう思った。が、国王も宰相も、嘲笑うだけで相手にせず。寧ろ神聖帝国皇帝は飾り物としての役割のみしか与えられなくなってしまった――もう、暫く出仕はしなくてよい、と、離宮での待機を言い渡されたのである。それはそれで初めに願っていたことでもあったが、
「もう少し、気の利いたことはできなかったのか」
 ルーラの吐息に、サリカは軽く唇を噛みしめる。このひとは、自分が何をしても認めない。不快に思うだけだ。
 そもそもサリカがルクレツィアとして、王太子妃然として振舞うことからして気に入らぬのだ。彼女とは、何処まで行っても平行線をたどるしかない、そう思っているのに。時折ふと、垣間見せる優しさに、サリカは戸惑う。過日、傷つけた指先が、まだルーラの温もりを覚えている。あれは、サリカの向こうに片翼の影を見たからなのか。片翼の代わりに、サリカに触れたというのか。
 唇を震わせるサリカを見下ろし、ルーラは目を細める。それから、つい、と顔を背けた。拒絶の仕草に、胸が抉られる思いがする。
「僕は――マリサとは違う」
 掠れた声に、ルーラは反応すらしない。
「僕は僕のやり方で、国を取り戻す。取り戻そうと思う。そのために……」
「協力は、しない」
 きっぱり言い切られ、サリカはそれ以上言葉を継ぐことはできなかった。



 露台から身を乗り出した少年は、遠く空を見上げ、小さく口笛を吹く。と、雲の切れ間から現れた黒い点、それが徐々に此方に近づき、やがて鳥の姿となる。鋭い爪を持つ猛禽類は、主となる少年の腕を傷つけぬよう配慮しているのか、ガツリと硬い音を立てて露台の柵に着地した。ばさ、と羽が揺れて埃が立つ。少年は苦笑を浮かべつつ、口元を覆う。
「相変わらず、乱暴だねえ」
 腹の辺りを撫で上げると、鷹は「ぐるる」と甘えた声を上げる。彼はそのまま手を鳥の足に滑らせ、そこに巻かれている布を解いた。細く引き裂かれた布、そこに記されているのは文字。神聖文字と呼ばれる古代文字――主に、旧神聖帝国の帝室関係者が使用していたものだった。書かれている内容は、ごく僅かで、

 ――アグネイヤ四世、我が手に在り。

 それだけだった。一種、脅迫文ともとれるその一文に目を走らせ、少年――ティルは小さく笑う。
「やっぱりねえ」
 かのひとが、そうそう簡単にくたばるとは思えない。そうでなければいけない。くすくすと笑いだす彼の背に、
「随分、楽しそうじゃねぇか」
 無粋に声をかける者がある。ティルは眼だけをその人物に向けた。
「ああ、楽しいよー、楽し過ぎるくらいだね」
 ジェリオ、と呼びかければ、闖入者は口元を歪めた。先日、オルウィス男爵の暗殺を依頼して以降、この暗殺者とは奇妙な関係にある。ティル自身、こういった手合いは嫌いではなく、先方も特に彼を嫌っている様子はない。ただ、若輩者に命令されるのは嫌いなのだろう、無用な矜持を誇っているこの男を手なずけるためには、餌が必要だった。それも、とびきり高級な餌が。
「あんたの働きのお陰で、こっちが大分有利になったよ。大丈夫、約束はちゃんと守るから――って、あれ、信用してない?」
 おどけて首を傾げるが、ジェリオは乗って来ない。渋い表情のまま、壁に背を預けている。
「ちゃんとルクレツィア一世をあんたの寝台に連れて行ってあげるよ。誰憚ることなく、存分に可愛がってあげればいいでしょう? あっちも寂しがっているかもしれないんだからさ」
「……」
「恋敵がお兄ちゃんだから、気が進まない? 弱いねえ。腕に囲って甘い言葉を囁けば、ころっとあんたに傾くよ。あんた、自分の魅力を信じてないわけ?」
 ジェリオの表情が陰る。彼の心には、ディグルとサリカ、その仲睦まじい『夫婦』の姿がありありと浮かびあがっているのだろう。サリカの心は、ディグルにある。それは間違いない。サリカはディグルを思いながら、ジェリオに身体を許している――その状態が堪らなく、彼の情欲を煽るのだろうが。
 サリカもジェリオのことは憎からず思っている。寧ろ、恋慕に近い気持ちを持っているのだろう。ディグルに対するそれが、同情から生まれた愛や慈しみであるならば、ジェリオに対する想いは、恋だ。サリカ自身、どちらも選べていない。言い寄られた方にふらりと傾いている。優柔不断だと言ってしまえばそれまでだが、
(女ってのはねえ)
 自分に好意を寄せる相手を無碍に出来ない者が多い。ティルの嘆息をどう受け止めたのか、ジェリオは足元に纏わりついてくるリィルをひょいと抱きあげ、その紛い物の瑠璃の瞳を覗きこみながら
「次は、王妃を殺るんだろう?」
 淡々とした口調で尋ねてきた。ティルは一瞬目を見開き、それからゆっくりと口元を歪める。
「まあ、それは、いずれ。ね?」
 王妃は、ディグルの獲物だ。ジェリオに渡すことを許さないだろう。いや、その前に。国王が討手を仕向けるかもしれない。
「あの女は、俺の獲物だ」
 ジェリオの呟きに、ティルは眼を眇める。駄目だ。王妃はディグルに与える餌だ。勝手は許さない――思ってジェリオを睨むが、逆に冷ややかな二つの月に鋭く切り刻まれた。ぞわり、と背筋を恐怖が這い上がる。この自分を恐怖させる者など、過去に一人もいなかった。あの真実のアグネイヤ四世ですら、恐るるに足りない。そう思っていたのに。この一瞬で、全身の血が凍りついた。ティルは乾いた唇を舌先で舐める。傍らで、主人の動揺を察した鷹が、大きく抑揚した。

「あの女が、俺の親父を――殺した」

 呻きに似た声が、ジェリオの喉から漏れる。
 ティルは暁の瞳を大きく見開き、孤高の殺し屋を凝視した。


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