AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
2.暗躍(5)


 ――オルウィス男爵を始末して欲しい。近日中に。

 過日、黒衣の辺境伯はそう言った。王太子夫妻及びエリシアの不在を見計らって部屋を訪れたのだろう彼――アーシェル辺境伯ティルは、ジェリオがエルディン・ロウの一員であることを知っている。特段、エリシア以外には隠す気はない。が、自身の知らぬところで素性を漏らされたことには、幾許かの怒りを覚えた。
 ルーラ。あの、王太子の妾妃が、皆にそのことを告げたに違いない。
 もしくは。

 ――片割れか。

 ルクレツィア一世を名乗る、真実のアグネイヤ四世。サリカの片翼たるあの冷酷なる女帝が、腹心に話したのかもしれない。話すだけではとどまらず、暗殺の仕事を依頼してくるなど。一体どういう神経をしているのだと、ルクレツィアの性格を疑いたくなる。

 ――依頼なら、相応の報酬が必要だぜ?

 何と引き換えに邪魔者を始末しろと言うのだろう、女帝は。

 ――報酬? 報酬はね……。

 宰相の応えを耳にしたとき、ジェリオは息を呑んだ。つまりは、それだけの『価値のある』人物だというのだ、件の男爵は。結果的にジェリオはその依頼を引き受けた。引き受けざるを得なかった。思えば、サリカの暗殺依頼を受けて以降、『仕事』をしていない。あの依頼は事実上反故になり、ジェリオ自身は記憶を失って、エルディン・ロウとの接触もまるでなかった。今も、この離宮に詰めている者の半数以上がかの組織に属している者だというが、彼らもジェリオには無関心――あるいは、そう装っているのかもしれない――である。
 それゆえ、勘が鈍ったのか。
 もしくは、久しぶりの依頼に神経が高ぶって。衝動をサリカにぶつけてしまったのがいけなかったのか。

(情けねぇ)

 彼は腫れあがった自身の腕を見やり、嘆息した。
「痛くても我慢しなさいよ?」
 その手当てをしているのが、イリア。サリカの正室にあたる少女である。女同士の婚姻、形式的な飯事夫婦だと嘲笑っていたが、なかなかどうしてこの娘は夫思いであった。ジェリオがサリカにちょっかいを出すたびに、露骨に顔を顰め、その後なんだかんだと嫌がらせをしてくる。先日は余程腹にすえかねたのか、

 ――サリカから離れなさい!

 廊下ですれ違いざまにサリカの腕を捕らえた瞬間、背後から椅子で殴り倒されそうになった。イリアもルクレツィア同様、サリカに対して異常な独占欲を持っているらしい。よりによって好敵手が少女とは。それも、こんな乳臭い小娘とは思いたくもないが。
「ざまーみろ、とか思ってんだろ?」
 掠れた声で喘ぎと共に尋ねれば、
「どうして?」
 イリアは小首を傾げた。
「俺がいつもサリカにちょっかい出しているから。ムカついてたんだろ、おまえ」
「それはそうだけど」
「だったら」
「それとこれとは、別でしょう」
 心外だ、と言わんばかりの表情である。イリアは殊更乱暴に湿布を貼り付け、その上から強く包帯を巻いた。本当は添え木があればいいのだけれど――呟く彼女の手当ては、なかなか堂にいったものである。手慣れているのだろう、そんなふうに考えてから、ふと以前サリカから受けた手当てを思い出した。リナレスや獄吏による拷問で傷ついたジェリオを、介抱してくれたサリカ。彼女の手つきはぎこちなくて、危なっかしくて。それでも一生懸命な彼女が、愛おしく思えて。
(ああ)
 愛おしかったのだ、と。あのときは間違いなくサリカを愛しく思っていたのだと、自覚する。
「出来た」
 ぽん、と患部を叩かれて、ジェリオは悲鳴を押し殺した。
「何すんだ、このガキ」
「あら、痛かった? 男の子なのにねえ?」
 にやりと笑う顔は、巫女というより小悪魔である。やはりイリアは自分を嫌っている。少女らしい潔癖さで。もしも彼女に、サリカは既に自分のものになっている、と。告げたらどんな顔をするのだろう。サリカが自分の腕の中でどんな表情をするか、どんな声を上げるか。どんなふうにジェリオを求めるのか。つぶさに語ったら、この少女は。
「……」
 馬鹿らしい。なにを子供相手にむきになっているのだろう。
 彼がぼんやりと考え事をしている間に、イリアは露台から剣を運んできた。男爵の血がこびり付いているそれを、幾分身体から離すようにして。
「これ」
 気味悪そうに歪められた顔が、妙に可笑しい。ジェリオは頷きと礼がない交ぜになった言葉を呟き、彼女から剣を受け取る。ふき取ったつもりだが、まだ、血が付着していたか。それほど慌てていたのだ、自分は。考えると笑いが込み上げてくる。勘が鈍ったどころか、格段に腕が落ちたに違いない。それでも、目的を持って一つの命を潰しに行く、その高揚感だけは失われていなかった。皮肉な話である。今も肉を断ったあの感触が、掌に残っている。受けた傷の痛みよりも強く、砕け散った命の残滓がそこに留まっている。
 思い出すと、血が騒いだ。言い知れぬ感情が湧きあがって来る。
「どうしたの?」
 屈託なくこちらを見つめるイリア、その澄んだ双眸が忌々しい。
「部屋に戻る」
 彼女の視線から逃れるように、ジェリオは立ち上がった。途端、ずきりと傷が疼く。歯を食いしばり、椅子に背を預けて息を整えるが、一度楽を覚えてしまった身体は、動くことを拒否していた。
「無理よ」
 イリアの言葉が追い打ちをかける。彼女のしなやかな腕が肩を押さえ、彼を強引に長椅子に横たわらせた。何処かで見た光景だ、既視感に捕らわれた彼は「ああ」と声をあげる。ハリトーンで自分はこうして、サリカを長椅子に押し倒した。戸惑う彼女を、半ば力ずくで奪った記憶が蘇る。
 一度は心も欲しいと思った異性だ。彼女の心が自分にないと判り、あまつさえ、想いを寄せる相手が異父兄ディグルであったと確信した際に覚えたのは、絶望なのか、怒りなのか、自分でも解らなかった。けれども、それまでは。ディグルに出会う前までは、サリカもジェリオを憎からず思っていたことは確かだと。考えること自体、自惚れなのだろうか。下賎の民にかける情など、王侯貴族にはないのだろうか。
 ディグルは貴族――王族、しかも王太子であり。ジェリオは平民だった。それも、娼婦の息子にして暗殺者でもある。
 高貴な姫君が選ぶのは、間違いなくディグルだろう。ジェリオとサリカの住む世界は違いすぎる。生きてきた道も異なれば、これから進むであろう道も。サリカも国を取り戻せば、皇帝として君臨することになるだろう、あの片翼と共に。そうなったときに、自分は。自分の位置は、居場所は。
 何処にあるのだろうか。
「痛いの?」
 若干、不安げにこちらを覗きこむ巫女姫。彼女も市井に暮らしていたとはいえ、元はといえば高貴なる生まれである。自分とは違う。天と地ほどの差がある。
「触るな」
 唸り声に似た声をあげる自分は、まるで手負いの獣だ。痛むのは、傷だけではない。傷よりも、寧ろ。
「鎮痛剤があったはずだけど」
 妙な処で人の好い巫女姫は、そう言って脇机の下を探っていた。やがて、あったと声をあげ、小瓶を手に戻って来る。そこに入っていたのは、粉薬であった。薬草を粉末にしたもの、さらさらと儚い音を立てるそれを彼女はジェリオの前にかざす。
「ちょっと古いけどね」
 ちょっと、とはどれくらいだろうか。ジェリオは眼を眇める。が、イリアはお構いなしに瓶の蓋を開けた。目分量で掌に中身を落とし、何をするのかと思えば
「口、開けて」
 強引に彼の口を開けさせ、薬を掌ごとそこに押し込んだ。粉っぽさに咳き込んだが、薬を吐きださぬよう掌で蓋をされているためそれも叶わず。息苦しさのあまり唾を飲み込み、薬も飲みこんでしまう。強烈な苦みが口中に広がり、ジェリオは別の意味で悶えた。
「苦いでしょ? でも、苦い薬ほど良く効くのよ」
 にっこり笑うイリア。この娘、思った通りいい性格をしている。彼女はジェリオの唇が触れた自身の掌を手巾で拭き、更に彼の口元も同じ布で拭う。
「水」
「って、話聞いてる?」
「聞いてるよ。だから、水」
 水で流しこまない限り、この匂いと味は消えぬだろう。ヴィーカも怪しい薬を作成していたが、これは彼女の作った薬の比ではない。
「婆様から貰った有り難いお薬よ? 月のものが重かったらこれを呑みなさい、って」
「月……?」
 ジェリオは絶句した。血の道の薬か。男が飲んでどうする。そもそも、痛みの種類が違うのだ、効くわけがない。
「あたしはまだ、飲んだことがないけど……へえ、そんなに苦いんだ。やだ、飲むのやめよう」
 イリアはくすりと笑い、その場を離れた。それからまた暫くして、何かを手にして戻って来る。水か、と思ったが予想が外れた。彼女が持っていたもの、それは正絹の布だった。衣裳を留める帯だろう、こんなものをどうするのだと思いつつ、彼女の行動を見ていたが、徐に彼の手首を縛め始めたとき、
「って、何すんだこのガキ」
 ジェリオは思わず声をあげる。抵抗しようと身を起しかけ、彼は激痛に呻いた。イリアは意地悪く患部を押さえ、器用にジェリオの両手首を纏めて縛りあげ、紐の端を椅子に括りつける。
「こうでもしなきゃ。襲われたら大変でしょう? あたしこれでも人妻ですから。夫のために貞操を守らないと」
 貞操のなんたるかも知らぬような小娘は、いけしゃあしゃあと言ってのける。ジェリオは開いた口がふさがらなかった。


 背後で、衣擦れの音がする。イリアが着替えているのだろう。あのゆったりとした巫女服――というのだろうか、白い衣装の下に隠されている肢体は、まだ大人の色香を備えてはいまい。十六歳、とその年齢を聞いて驚いたジェリオの頬を抓り、

 ――なに? もっと老けて見えたの? それとも、子供に見えた? どっち?

 迫る辺りは立派に『おんな』であったが。それ以外は悉く子供だった。乳臭い、とはよく言ったものである。イリアは年齢よりもずっと幼く見えた。顔立ちは恐ろしいほどに整っており、街ですれ違えば、はっとするような美人であることは間違いない、けれども
(まだ子供だ)
 幼児趣味ではない、ごく普通の青年男子にとっては、恋愛の対象外だろう。ジェリオもそうだ。昂る己を鎮めるために異性の身体が必要だったが、どうもイリア相手にはその気にはなれない。こんな小細工をされずとも、手を出す気は毛頭なかった。が、イリアもジェリオを縛めたということは、それなりに女性としての自覚を持っているのだろうか。彼女を捕らえ、逆に長椅子に押し倒したら、あの小憎たらしい巫女姫はどんな表情をするだろう。
(馬鹿か)
 暗い妄想を頭の隅に追い払う。

 転がり込む部屋を間違えた。

 今、痛感する。サリカの部屋に忍んで行けば、彼女の手当てを受けるついでに、欲望も満たされたのに。何故、巫女姫の部屋などに逃れてしまったのだろう――自身の間抜けさに、ジェリオは溜息をついた。

「――だから」

 イリアの声が聞こえた。何か言っていたのか。ジェリオは「なに?」と問い返す。と。
「あたしも、アグネイヤ――サリカの処に行かないから、あなたも我慢してね、って言ったの」
 イリアは今夜、サリカの部屋に呼ばれていたのだ。それを知って、ジェリオは複雑な気持ちになった。サリカの部屋に行ったら行ったで、間が悪ければイリアにそれを見咎められていたのだ。イリアは当然、ジェリオがサリカに触れることを全力で阻止するであろうし、サリカもイリアの手前、簡単には靡かないだろう。

「サリカに、惚れてんのか?」
「当然でしょう? 婿殿だもの」
「あいつも、女だぞ?」
「旦那様であることには変わりはないと思うけど?」

 不毛な会話を一頻りしたのち、
「じゃあ、おやすみなさい」
 イリアが床に潜り込む気配がした。
 成程、彼を縛りつけたのには、もう一つ理由があるわけだ。ジェリオをこの部屋から出さない。サリカのもとには行かせない。子供じみた妨害工作である。イリアも独占欲が強い。というよりも、サリカの存在自体が、他者の独占欲をかき立てるのだ。彼女の笑顔も優しき腕も、耳当たりの良い声も。全て己のものにしたくなる。己だけのものにしたくなる。たとえこの世の全ての者に見捨てられたとしても、サリカだけは自分を見捨てないでくれる、そんな気がするから。あの憂いを秘めた瞳、暁の視線を他者に向けて欲しくない。
(俺と、同じか)
 ルクレツィアも、ディグルも、イリアも。同じ気持ちでサリカを見ている。
 ただ。自分の場合は違う。サリカの身体全て、髪も唇も肌も乳房も、秘められた場所さえ我がものとしたい。恥じらいながらも快楽を訴える、あの声、表情、それらを人に見せたくない。
 女に溺れるとは、こういうことを言うのだろうか。
 だとしたら、何と甘美で苦しい罠なのだろう。


 結局、一睡もすることなく朝を迎えた。腕の腫れは昨夜よりも大分引いたものの、まだ痛みは残る。負傷を気取られない程度には堪えることはできるが、それでも。
「無理すると、あとに響くと思うけど?」
 こちらも一睡もしていなかったであろうイリア、彼女に釘を刺された。
「俺の利き手はこっちだ」
 ジェリオは左手を挙げる。
「サリカを可愛がるのは、こっちだけでじゅうぶ……」
 全て言い終えぬうちに、イリアの拳が患部を直撃する。脳天を貫く痛みに、ジェリオは情けなくも悲鳴に似た声をあげた。どこまでも性格の悪い娘だ。彼はイリアを睨みつける。が、彼女はそれを軽く受け流し、
「そうねえ、サリカにも可愛がってもらいなさいな、こうやってね」
 またしても拳を振り上げている。これはたまらん、とばかりにジェリオは身を翻した。これ以上ここにいては、何をされるか判ったものではない。早々に引き揚げなくては――彼は通り一遍の礼を言い、露台へと足を踏み出した。まだ夜が明けきらぬうちに、戻らなければ。
「その手じゃ、無理でしょう?」
 イリアが渋い顔をこちらに向ける。彼女はちょっと待ってて、と、寝室を抜け出し、やや間をおいてから引き返してきた。人払いをしたから大丈夫だと言う。次の間に詰めていた侍女に、
「明け方で悪いけど、サリカに会いたい。って」
 伝えに行ってもらったの――ふふ、と笑うイリアに、ジェリオは毒気を抜かれた。何処までこずるいのだ、この娘。呆れながらも彼は、堂々と巫女姫の部屋から廊下にでた。幸い、衛兵の姿も侍女の姿もない。人に見咎められずに、自身の部屋に行くことができる。彼は気配を殺して階段を上っていった。


「あら」
 巫女姫らの部屋から人目を忍ぶようにして踏み出してきた人物、彼を見てアデルは慌てて物陰に身を隠した。あれは、確か。
(ジェリオ、様?)
 ディグルの異父弟である。サリカとの仲をルーラやエルナに疑われている彼が、何故、巫女姫の部屋から出てきたのか。巫女姫は、昨夜は王太子妃の部屋に居たはずだが。
 アデルは震えを押さえ、巫女姫の部屋に入る。そこに詰めているはずの侍女の姿はない。もしや、と思い
「巫女姫? イリア様?」
 奥に声をかければ。
「なあに?」
 常と変らぬ明るい、イリアの声が返って来たのだ。
「……」
 アデルはどくりと跳ねる心臓を押さえ、唾を呑み下した。



 オルウィス男爵急逝、その報せは、ラウヴィーヌの元にも齎された。
「なんと」
 幽閉中の王妃は、言葉を失う。影に日向にラウヴィーヌを支えてきたオルウィス男爵。令嬢や夫人に続き、男爵自身まで――彼女が受けた衝撃は、計り知れなかった。折しも彼に命じて書簡を届けさせたところである。書簡は果たして無事なのか、男爵は目的を達することができたのか。彼是思いを巡らせ、ラウヴィーヌは額を押さえ、椅子に座りこんだ。
「陛下」
 侍女らが不安げにこちらを見る。その憐れみの籠った視線ですら、鬱陶しい。
「あの、魔女が」
 ルクレツィアだ。ルクレツィア一世が、男爵を亡き者にした。刺客を送り込み、邪魔者の息の根を止めたのだろう。決して自ら動くことはなく、陰で他者を操り、徐々に権力を掴んでいくあの魔女。このままでは本当に、フィラティノアが危ない。この国は、魔女に乗っ取られてしまう。
(ああ、誰か)
 夫たる国王は、頼りにならぬ。かといって、故郷に文を送るのも難しい。やってやれぬことはないが、果たして従弟が動いてくれるだろうか。レンティルグ辺境候、その力を持ってあの魔女を駆逐することは可能だろうか。

 ――そなたを、神聖帝国の皇太后にしてやろう。

 遠き日の、グレイシス二世の言葉が蘇る。守られなかった約束、裏切られた言葉。血の出るほど噛みしめられた唇は色を失い、王妃の形相に侍女らは低く悲鳴を上げる。
(なれば)
 こちらも、動かねばならない。己の身を守るために。故郷を守るために。
「そなたたち」
 呼びかけに、侍女の一人が青ざめた顔をあげる。まだ年若い、幼いと言ってもよいその侍女を傍に招き、
「マリエフレド姫に、お会いしたい。その旨、陛下に伝えてたも」
 哀願にも似た響きを込めて、王妃は依頼した。高慢な王妃の思わぬ頼みに、侍女らは顔を見合わせている。と、うちひとり――亜麻色の髪の娘が、
「かしこまりましてございます、王后陛下」
 優雅に礼をし、
「おお、頼みましたぞ」
 王妃から笑顔を向けられた。
「して、そなたの名は?」
 尋ねられた侍女は、僅かに腰を屈め、古式に則った優雅な作法で自身の名を口にする。

「エーディト――エッダとお呼びくださいまし、王后陛下」


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