AgneiyaIV
第四章 虚無の聖女 
2.暗躍(1)


 エランヴィアとアヤルカスの小競り合いは、依然続いていた。一方的に攻撃を仕掛けて行くのは、エランヴィア。対するアヤルカスは、国境守備隊のみで応戦している。王都よりの援軍が来る気配はなく、所詮は小国とエランヴィアを侮っているのかもしれない。エランヴィアも総力戦というよりも、遠吠えといった方がよいのか。本気で仕掛けてきているわけではないだろうことは、誰の目にも明らかであった。
 単なる腹いせ、嫌がらせ。
 仔犬が猟犬に向かって威嚇しているだけのこと、他国もそう思っていたのだ。そのときまでは。

 ――アスキア陥落。

 エランヴィアとの国境を守る砦、アスキアがかの国の前に落ちたとの報せが王都セルニダに到着したのは、初夏の頃であった。使者から受け取った書簡を読みあげる侍従、その声に耳を傾けていたジェルファ一世は、
「そう」
 とだけ答えると、つまらなそうに欠伸をした。陛下、と宰相が声をかけるも、肝心の国王に動く気配はない。
「小国に、一度くらい花を持たせるのも構わないだろう」
「ですが、陛下」
 なおも言い募ろうとする宰相を手で制し、ジェルファは涼やかなる笑みを浮かべる。
 捨て置け、と、彼は呟いた。実際、取るに足らぬことだと彼は考えている。たかが小国、ささやかな勝利に酔いしれて気が緩んでいる処を一気に叩けばよい。そのまま王都を陥落させ、潰してしまえば禍根もなくなる。
「警備隊が全滅したわけではなかろう?」
 ジェルファの問いに、宰相は頷いた。城砦を奪われただけで、国境警備隊の主力はまだ残っている。彼らだけで城内のエランヴィア軍と対峙させよ、国王の言葉に宰相は難色を示す。
「美酒は、一度味わわせればよいであろう?」
 形の良い唇に笑みを刻み、彼は背後を流し見る。そこに控えていたのは、古代紫の目を持つ青年。ミアルシァより呼び寄せた、封印王族の一人。ジェルファが重用している密偵である。彼は小さく頷くとその場を去った。宰相は怪訝そうにその姿を見送る。彼がジェルファの言わんとしていることを理解するのは、その一月ほどのち。夏も盛りに入ったころであった。


 アスキアの城砦を占拠したエランヴィア軍は、自軍の旗を掲げ、そこを自らの所領であると周囲に知らしめた。小国が、砦一つとはいえ大国から奪い取ったと、諸外国はエランヴィアの快挙に驚きの目を向けた。エランヴィア侮りがたし、他国にそう思われることは、エランヴィアにとっても好都合である。これを足掛かりに、セルニダにまで攻め行ってしまおうか――主戦論者らは更なる攻撃を主張した。
 悲劇がおこったのは、まさにそのようなときである。

「今日は、やけに周りが騒がしいな」

 城壁で見張りについていた兵士らが、不審の目を前方に向ける。砦の奪還を図るアヤルカスの守備隊は、今までにも幾度か戦を仕掛けてきた。しかし、ある程度攻めるとあっさりと引っ込み、殆ど形ばかりの攻防で終わっていたのだ。このような田舎の砦、と、アヤルカスも見捨てたに違いない。最近は、守備隊の攻撃もほとんどなくなって来た、そう思っていた矢先である。
 いつにない数の兵士が、砦に向かって押し寄せてきたのだ。
 騎馬の奏でる不吉な地鳴りを耳にして、エランヴィア兵士は色を失う。彼らが過去に対峙したアヤルカス軍、その三倍はあろうかと思える数の兵士、それが一気にアスキア城砦に迫って来る。
「敵襲!」
 伝令の声が場内に響き渡り、中で寛いでいた者も一斉に武器を取った。が、時は既に遅く。城砦はアヤルカス軍によって蟻の這い出る隙もないほどに囲まれていたのだ。

「放て」

 号令と同時に、城砦に向けて樽が転がされる。中から零れ出すのは、油。獣油である。鼻を突く異臭が辺りに立ち込め、アヤルカス軍はそこをめがけて火矢を放つ。焔はあっという間に油を舐めとり、大きくその身を悶えさせながら成長していく。
 それだけではない、アヤルカスは城壁を越えてその内側にも火矢を次々と撃ち込んでいった。ただ撃ち込むだけではない、狙いはあくまでも人であり、馬であった。焔に貫かれた人馬は狂ったように暴れまわり、助けを求めて仲間に縋った。すると仲間の身体にも火が燃え移り、それが連鎖のように反応してあちらこちらに人間の火柱が出来上がる。

 その日の日暮れを待たずして、アスキアは落ちた。

 城内には黒く煤けた物体が無数に転がり、アヤルカス軍の非情さを恨むかのように、彼らの足元でさらさらと崩れ、土に帰って行った。


「確かに、美酒は一度だけ――でしょうな」
 城砦奪還の報を受けた宰相は、痛ましげに黙祷を捧げ、それから溜息混じりに呟く。玉座に在るジェルファは、微笑を浮かべ頷いた。いい見せしめになった、――彼の言葉を、宰相は否定も肯定もしない。ただ、主君の下した冷酷な命令と、それを躊躇なく実行した将軍たち。彼らに対して嫌悪を覚えていたのは事実だろう。ジェルファはそんな臣下の心を読み取り、僅かに目を細めた。
「不満があるようだが?」
 主君の言葉に宰相はやや間を置いて「いいえ」と答える。しかしその表情には陰りがあった。ジェルファは更に目を細める。が、彼に対する言及はそれ以上することなく
「ついでだ。エランヴィアも落とすか」
 風が出てきた、窓を閉めろ――とでも言わんばかりの軽い口調で戦の拡大を告げたのだ。更に表情を険しくする宰相をよそに、ジェルファは主だった家臣、将軍を招集するよう侍従に命ずる。その間、国王の背後で影の如く気配を消していた密偵は、不意に名を呼ばれて顔をあげた。
「エランヴィアに、行け」
 命令に彼は小さく頷く。

 こうして静かに歴史が動き始めたころ。
 『彼女』もまた、大いなるうねりを興すための呼び水として、かの地に足を踏み入れていたのだ。


「シェルマリヤ姫?」
 目の前に立つ少年――黒髪に青い瞳といった典型的なミアルシァの容姿を持つ彼を見て、神聖帝国宰相は低く声をあげた。そして、周囲に人がいないことを確かめると、自ら彼女のもとに歩み寄る。
 アシャンティの離宮、宰相エルハルトに与えられた一室にその人物が現れたのは、夜も大分更けた頃であった。衛兵の交代が始まるまえの、ほんの少しの時間。人々に隙が生まれるその僅かな間隙をぬって、神聖皇帝の妃は見事に離宮へと忍びこんだのだ。
「ご無沙汰しております」
 にこりと笑う男装の少女。宰相は、よくもまあ、と半ば呆れたように声をあげ、
「クラウディア――いえ、ルクレツィア陛下のご命令ですか?」
 シェラの来訪の意図を尋ねる。彼女は即座に頷いた。この離宮の間取りを教えたのもルクレツィア、セルニダの地図を見せたのもルクレツィアである。彼女は輿入れの際にセルニダの地図をオリアへと持ち込んでいた。無論、それは彼女らしからぬ乙女の感傷からだったようだが。それを無駄にせぬところがいかにもルクレツィアらしい。魔王、覇王の二つ名は伊達ではない。シェラは苦笑に似た笑みを浮かべ、宰相の前に膝をついた。
「陛下からのご伝言です。必ず、皇太后陛下と閣下をお救いする、と」
 面をあげられよ、宰相は幾分うろたえた様子で言う。シェラは主君アグネイヤ四世の妃である。妾妃とはいえ、格からいえば彼よりも上の存在だった。そのひとに膝をつかせるわけにはいかぬと、宰相は懇願した。
「けれども、今のわたくしは、アグネイヤ四世の妃である前に、ルクレツィア一世陛下の家臣です」
 シェラの言葉に宰相の瞳が揺れる。そうか、と。彼は呻くように呟いた。
「あなたも、マリサ姫を」
 言いかけて、宰相は口を噤む。彼は小さく笑い、シェラの労をねぎらった。
 この宰相、侮れない――シェラは気取られぬよう、息をつく。シェラがアグネイヤ四世ではなく、ルクレツィア一世の命で動いていると看破したのだ。やはり国内では、アグネイヤ四世よりもルクレツィア一世の方が君主の器だと思われているのだろう。それは、二人を見ればわかる。確かに、アグネイヤ四世に皇帝の冠は重すぎる。彼女は皇帝として、君主として自ら国を動かすよりも、妃として、もしくは宰相として。誰かの片腕となって働く方が似合っている。そんな気がする。いや、働くというよりも。
(癒し、だ)
 彼女のあの包み込むような優しさは、戦いに明け暮れる者たちの憩いの場となる。戦場から戻ったとき、そこに彼女がいてくれたら。高ぶる血をそのまま彼女に注ぎ込めたら。あの優しき腕に抱かれて眠ることができたなら――ひとときなりとも、安らぎを得ることができるだろう。ルクレツィアも恐らく、片翼にその癒しを求めているのだ。ルクレツィア一世が、他人が思うほど気丈ではないことは、共に過ごしていてよくわかった。シェラやルーラの前では気丈に振る舞うが、アグネイヤ四世――ルクレツィアには、サリカと幼名で呼ばれているらしいが――に対しては、全面的に甘えている。サリカの名を口にするときのルクレツィア、彼女の顔は、慈母の如く眩い。
 もしもルクレツィアの覇道を阻止したいと思うのであれば、サリカを押さえることだ。
 逆に考えると、サリカを始末してしまえば、ルクレツィアは文字通り無敵となる。大陸に覇を唱える、龍となれる。
「アグネイヤ四世陛下は、ご無事だそうです。順調であれば、私がオリアを発った翌日辺りにルクレツィア陛下のもとに到着されているでしょう」
 己の考えを振り払い、シェラは必要事項を宰相に告げる。
「陛下が、オリアに」
 神聖皇帝が二人とも『敵地』にある――彼はその事実を心に刻んでいる風にも見えた。
「そこで、我が主君より閣下にお言葉を賜っております」
 一呼吸おいて、シェラは要件を口にする。自身がここに来た理由。別途、暗躍するフィラティノア密偵の存在。そして。
「少々危険は伴いますが、閣下にもお願いしたきことがございます」
 本題を述べたとき、宰相の目が大きく見開かれた。
「よもや、それを考えられたのは」
「はい。我が主君、そして現在の神聖帝国宰相、アーシェル辺境伯です」
 答えると、宰相は一瞬呼吸すら忘れたように動きを止め、それから声をたてて笑い出した。乾いた笑い声、それが薄暗い室内に響き渡る。これは参った、彼は絞り出すように声をあげ、シェラの前に膝を屈する。おやめください、と彼女が声をかけるが、それを制して。
「御意に従います。ルクレツィア一世陛下」
 シェラの背後にある女帝、彼女に向けて宰相エルハルトは深く首を垂れたのである。


 その翌日から、シェラは男装を解いた。侍女の中に紛れるためである。幸い、彼女の容姿はミアルシァのそれに近いこともあり、誰も違和感を覚えぬようであった。ルクレツィアより予め聞かされた離宮の間取りは、全て頭に入っている。何処に隠し部屋があるか、隠し通路が存在するか。それらを一つ一つ確かめ、巧みに利用する。ミアルシァの手の者は、この離宮内の仕掛けに気付いていないのか、それとも気づいても無視をしているのか。
(いや)
 後者ではないだろう。ミアルシァは、アシャンティの離宮に関して、さして興味を持ってはいない。ただ、皇太后と宰相を幽閉した場所としか認識はしていないのだ。その証拠に。

「最近、衛兵の数が減っているような気がしますけど」

 何食わぬ顔で侍女の一人に問いかければ、
「あら、ご存じなかったのですか」
 彼女は得意げな顔をして、
「紫芳宮に駆り出されていますのよ、ほら、エランヴィアの」
 アヤルカスがアスキア城砦を奪還した勢いのまま、エランヴィアへと侵攻する――その事実を告げる。一介の侍女の耳にもそのようなことが伝わっているのか、とシェラは半ば呆れたが。実は件の侍女は現アヤルカス宰相の身内であった。彼は元々はミアルシァの有力貴族で、アヤルカスが完全にミアルシァの支配下に落ちたのちに、故国より呼び寄せられたという。それは、ジェルファ一世の生母アイリアナのたっての希望であり、

 ――あの方であれば、陛下の片腕としてその才気を発揮してくださることでしょう。

 彼女自らミアルシァ国王に書簡を送り、国王がそれを許可したのだ。その際に件の侍女も『見分を広めるため』として、アヤルカスを訪れたのだという。
 そういえば聞こえは良いが、本来は、ジェルファの愛妾候補としての入国だったのだろう。残念ながら、ジェルファの目にはかなわず、それを恥じて離宮の侍女に下ったのだ、と。シェラは推測した。ジェルファ一世のアグネイヤ四世に対する執着は、並ではない。おそらく、彼の眼に映る異性は、アグネイヤ四世しかいないだろう。
 フィオレラ、というその娘と何度か言葉を交わすうちに親しくなったシェラは、彼女を通じて徐々に紫芳宮の情報を入手していった。

「時にルキア」
 不意に名を呼ばれ、シェラは動揺を隠すために半拍置いてから
「なんでしょう?」
 首を傾ける。
 名を問われたとき、咄嗟にルクレツィアの愛称を口にしたのだ。南方の名前は、正直よく知らない。主にシェラが行っていた密偵活動は、北方――タティアン大公領もしくはセグ、あるいは国内であったから。容姿は南方のそれであるが、こちらの名を名乗ったことはない。ルキアは比較的よくある名前だとルクレツィアは言っていた。セルニダでは特に人気が高く、愛すべきルキア――初代皇后の名を好んで娘に付ける貴族が多かったらしい。
「あなたは、宰相付きでしたかしら?」
 不審に思われたのだろうか、シェラは曖昧に頷く。ここでは、宰相付きの侍女と皇太后付きの侍女が言葉を交わしてはならない、との決まりがあった。
「そう、ならば良いけれど」
 フィオレラは僅かに唇を噛む。
「皆が、ルキアを知らないと言うものだから、心配になったの」
 シェラが皇太后付きの侍女であれば、怒られてしまうから――娘らしい不安にシェラは苦笑した。が、笑ってもいられない。彼女は隠し通路と部屋を利用して、城内を行き来しているのだ。故に侍女の詰め所にも顔を出さず、点呼をされるわけでもない。存在していないけれども、存在している侍女。仲間内での会話に名前が上れば、当然不審に思われるはず。
 フィオレラがお嬢さん育ちのぼんやりした娘でよかった、とつまらぬところに感謝しつつ、
(急がなければ)
 シェラの心に焦りが生まれた。
 ここに潜んで半月、いまだ皇太后の部屋にはたどり着けなかった。彼女が幽閉されているのは、かつてアグネイヤ四世が使用していた部屋である。皇帝の自室ともなれば、いざというときに脱出できるよう隠し通路があるはずだった。が、ルクレツィアに教えられた道を辿っても、皇太后のもとに行くことはできず。途中で道を歪められてしまっているのか、開いた扉の先にあるのは、長年使用されていない空き部屋だった。
 そこから、皇太后の部屋まで正規の通路を進めればよいが。三階は、宰相のいる二階よりも警備が厳しかった。衛兵の数も若干減っただけで、常に皇太后の部屋の前は四人の兵士の目が光っている。こうなれば窓から、とも考えたが庭にも兵士は配置されており。彼女のもとに忍び込むのは中々に至難の技であった。
 しかし、悠長なことは言っていられない。フィオレラ以外の侍女に不審を抱かれれば、こちらの身が危うくなる。それまでに、なんとか。

「陛下との接触は、ほぼ不可能というわけか」

 宰相エルハルトにその旨を伝えれば、彼は重苦しく言葉を吐いた。シェラより離宮内の隠し通路について詳細を知らされたときは、すぐにでも皇太后との接触が図れると歓喜していたのだが。ことが簡単には進まないとなると――
「皇太后陛下付きの侍女を、何としても抱きこむ必要があります」
 彼の意見を代弁するシェラに、宰相は軽く頷いた。フィオレラの情報が何処まで正確かは不明だが、三階を担当する侍女や小間使いは、極端に少ないらしい。十数人が数日交代で詰めている、となれば、中に紛れこむのも至難の業だった。
「何か、方法は……」
 考え込んでいたエルハルトは、ふと思いついたように顔をあげる。
「少し危険な賭けかもしれないが」
 シェラは彼が口にした楽士の名に、目を細めた。ユリア、と呼ばれる楽士が最近皇太后のもとに使わされているらしい。アイリアナの気に入りの楽士で、異母妹の心情を慮ってか慰めにと派遣している模様であるが、一度だけ宰相のもとにも訪れたことがある。
「そのものをうまく使えれば」
 宰相の言葉に、シェラは微かに表情を曇らせる。
「なれど、その者はご生母様の気に入りなのでしょう」
 どちらかと言えば、敵に等しい存在だ。皇太后のもとに通うのも、彼女を油断させ、遠からぬ未来に暗殺を試みるためなのかもしれない。
「何事も、試してみるものだ。シェルマリヤ姫」
 半ば強引に押し切られるようにして、シェラは件の楽士を呼びよせるように、フィオレラに依頼した。そのときになって初めて、ユリアなる楽士が宮廷楽師であることを彼女は知ったのだ。流れの楽士ではない、宮廷楽師。そこに引っ掛かりを覚えて、シェラは再び宰相に忠告した。宰相も少しばかり考えていた様子であったが、
「探るだけであれば、特に害もないと思われますが」
 静かに答えた。
 彼は常に穏やかに、自身の考えを押し通す。決して声を荒げたり、威圧的に迫ったりはしない。紳士というのはこういう男性を指すのではないか、と、シェラは思う。武官と文官の違いか、シェラの周囲には他者を言葉や雰囲気で圧倒して主導権を握ろうとする者が多かった。シェラの父もそのうちの一人である。宰相エルハルトは、父の学友であったと聞いたが、おそらく親友の域までには達していないだろう。この学者肌の男性が父と反りが合うはずがない。いや、意外に仲は良かったのだろうか。
「あなたの父上は、あなたが自分の傍でこのような活躍をしてくれることを望んでいたのかもしれませんな」
「わたしは、伯父のもとで動いていたことが多かったものですから」
 やんわりと宰相の言葉を否定する。父は自分には期待していなかった。ただ、戯れに男子の姿をさせ、男子と同じような教育を受けさせた。それだけである。


 フィオレラを通じて紫芳宮に楽師召喚の依頼が届いたのは、その翌日のことだった。返事は暫く待たされ、
「近日中に皇太后陛下の御前に件の楽師が上がる予定となっております」
 その際に、宰相のもとにも足を運ぶように致しましょう――と、王宮よりの使者がやってきたのは、数日を経た後であった。楽師の来訪は、その更に三日後となり、漸くシェラはかのひとの姿を見ることができたのだが。
「ユリアと申します」
 しずしずと宰相の自室に現れた楽師、彼女を一目見て言葉を失う。
「シェラ様?」
 楽師もまた、シェラを見て驚いた様子であった。宰相とシェラ、その他には楽師しかいない部屋。それでよかったと思う。久方ぶりの再会を、ミアルシァの息のかかった者が見ていたらどうなっていたことか。シェラは辛うじて声をあげることは抑えたものの、楽師の方はあまりの衝撃につい、といった形でシェラの名を口走っていた。
「シェルマリヤ姫、この者をご存知でしたか?」
 宰相も半信半疑といった様子で、シェラを振り返る。シェラは、即座に頷いた。
 ユリアを名乗る宮廷楽師、その人は紛れもなく。アンディルエの巫女の一人、ユリアーナであった。よもや、このようなところで、このような形で会うことになるとは。シェラはこくりと息を呑む。ということは、ユリアーナもまた、密偵としてアヤルカスに潜入していたのだ。それは、誰の命令か。先代の巫女姫、エリヤなのか、それとも。
(陛下?)
 ルクレツィアの面影を脳裏に描きかけ、シェラはかぶりを振った。あの人ではない。あの人は、こういった形で自分を驚かせることはしない。
「巫女姫は、お元気でしょうか?」
 ユリアーナが気にするところは、そこだった。シェラはイリアの近況を手短に伝える。ユリアーナはほっとしたように表情を緩め、それから慌てて周囲を見回した。
「心配は無用だ。人払いをしている」
 宰相の説明に、彼女は再び安堵した様子だった。
「近々、王都より主力部隊がエランヴィアに発ちます」
 彼女は静かな声で告げる。シェラも宰相も、背筋を正した。
「当然、こちらの警備も手薄になります。――そのときを、待っていらっしゃったのでしょう、フィラティノアは。女帝陛下は」
 ユリアーナの朱唇が笑みの形に歪む。毒を持つ薔薇、そのようなものを連想して、シェラは苦笑した。事態は進んでいる。自身の知る処でも、知らぬところでも。そうしてもうすぐ。
 異なる時代へ通じる、大いなる扉が開かれるときが来る。


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