AgneiyaIV | ||||
第四章 虚無の聖女 | ||||
1.会戦(1) |
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フィラティノア国王グレイシス二世より、神聖皇帝ルクレツィア一世に召喚の正式な使者が送られたのは、その日の夕刻であった。夕餉の席にて皆を引き合わせる、その準備に追われていたエルナは 「如何いたしましょうか?」 エリィ様、と不安げな表情を向けるアデルに対し、 「ああ、こちらにも支度があるので、明日以降お目通りいたしますと言っておきな」 幾分投げやりに答える。色惚けした老人の気まぐれに付き合う義務はない。女帝は多忙なのだ。国王からの使者とはいえ、然程丁重に扱う必要もないだろう――考えてから、 「待ちな」 食堂から離れようとするアデルを呼び止める。 「折角だから、王太子殿下に時間を稼いで戴こうか」 エルナの口元が皮肉げに歪むのを、アデルは苦笑を以て受け止める。王太子の不在を狙って使者をよこしたつもりの国王には、よい牽制になるだろう。その意図を、アデルも汲んだらしい。但し、エリシアの存在は隠さねばならない。階下の客間へと使者を通したうえで、王太子をそこに出向かせる。体調の思わしくない世継ぎを長々拘束することもできぬだろうから、使者もあっさりと帰ってくれることだろう。 そんな彼女の差配は正しく、使者は応対に出たのが女帝でも巫女姫でもなく王太子であったことに驚き、 ――くれぐれも、お大事になさってくださいませ。 香り豊かな茶を侍女が運んでくる頃には、「いや、お気遣いは御無用です」と慌ただしく去って行ったという。それでも当初の役目は忘れることなく 「こちらをお預かりしております」 アデルではない、エルディン・ロウに与する侍女の一人が、恭しくルーラに国王の書状を差し出していた。内容は目を通すまでもない。 「で? いつまでに参上しろと?」 扇を右手で弄びながら、ルクレツィアは椅子越しにルーラを振り返る。ルーラは静かに頭を下げ、書状を開いた。一通りそこに視線を走らせ、 「月の終わりに楽師を呼ぶので、そのときにでも……とのお話です」 随分と婉曲的な誘いだ、とでも言いたげにルクレツィアを見やる。 猶予は、十日もない。それまでに 「戦の準備をしておかないとね」 ルクレツィアは嗤った。 「御意」 ルーラの声が重く響く。 ここからが、良くも悪くも勝負のときだった。ルクレツィアとて、自らの身が可愛い訳ではない。ここで舅に屈してしまえば、彼女の野望は潰えてしまう。だからこそ賭けに出たのだ。エルナは頼もしき女帝を、やや離れた場所から見守る。これほど興奮したのは、いつ以来だろう。 (あんたには、負けてもらったら困るんだよ。皇帝陛下) 彼女が本当に相手にすべきは、このような辺境の新興国ではない。アヤルカスの背後で、惰眠を貪っているミアルシァだ。かの国の喉元に刃を突き付けるまで、負けてはならない。ルクレツィアは、自分にとって大切な駒――否、何よりも心強き武具だった。ルクレツィアも巫女姫もティルもセレスティンを含むエルディン・ロウも、あのカルノリアのシェラでさえ。ひとつたりと無駄にして良いものはない。 ただ、警戒すべきは、サリカ。彼女の存在が、恐ろしい不確定因子となる。 (邪魔をされるくらいなら、いっそのこと) エルナの脳裏を、ルクレツィアに瓜二つの少女の面影が過ぎる。華やかな光満ち溢れた道を行くルクレツィア、真実のアグネイヤ四世。それに比べ、影のように息づくサリカ。宵の明星を意味するその名が示す通り、彼女が招き寄せるのは『夜』。闇の世界だ。彼女の瞳は、暁ではない。黄昏へと続く、落日の瞳だ。 そう思い、ふと自嘲めいた笑みを漏らす。 「なんだい。あたしと、同じじゃないか」 零れた呟きを聞いた者は、誰もいない。 ◆ 時が逆流したかのような錯覚を覚えた。 早朝、王太子と視線くらいは交わせるかと思い、庭からかのひとの部屋を窺った――そのときに。露台にひとりの女性が現れたのだ、長身の若者を伴って。彼女らを見たとき、息が止まった。眩暈すら感じた。セレスティンの灰の瞳に映ったのは、かつて恋慕を抱いた女性エリシア。そして。 「カリャオ」 彼女を大切にする、そう言って彼の手から奪い取っていった親友だった。いや、違う。 ――こいつはオレに似て、色男になるぜ。 あれは、息子だ。セレスティンが自らの手で取り上げた、カリャオとエリシアの息子。それを認識した刹那、時間が動き出した。彼の視線に気づいたエリシアがこちらを見、声を殺した悲鳴をあげた。その傍らで親友によく似たその息子が、不審そうな眼を彼に投げかける。そこに、言葉はなかった。重い沈黙の中、三人は暫しの間、互いを見つめあうだけだった。 (エリシア) あれは、間違いなくエリシアだ。ルーラではない。あのころと変わらず、気の強そうな顔をしている。どれだけ汚辱に塗れても、凛とした気品は失わない。まさに、一国の妃に相応しい女性。露台に佇むエリシアと、庭から見上げる自分。そこに距離以上の隔たりを痛感し、彼の方から目を逸らした。 どれほど望んでも、手に入らないものがある。 それを教えてくれたのも、エリシアだった。 たとえ、螺旋の如く運命が絡み合っていたとしても、決して交わることはない。 「テオ」 懐かしい声を背で拒み、セレスティンは自室へと引き上げた。 「おやまあ、随分としょんぼりされていますねえ。なにか見ちゃいましたか?」 部屋にいたのは、亜麻色の髪の少年であった。古の女傑と同じ名を持つこの少年、いつも一言多い。いや、一言どころか、厭味が過ぎる。今も、セレスティンの様子を何処かで見ていたのだろう。薄笑いを浮かべる口元を指先で捻り、 「ガキには十年早ぇえんだよ」 舌打ちと共に罵声を浴びせる。エーディトは腫れた唇をさすりながら「乱暴ですねえ」と愚痴を溢し、それから小さく肩をすくめた。 「わたくし、もう子供ではありませんよ。これでも、二十を少し過ぎています」 「そうだったか?」 「もう。短い付き合いじゃないんですから。腹心の年齢くらい覚えていてくれてもいいんじゃないですかね?」 「だったら、もう少し身長を伸ばすことだな。ついでに、体格も。それじゃ、十代のガキとかわらねえ」 「やですねえ、童顔だからこうして色々便利に使えるんでしょう、わたしのこと。これが筋肉モリモリになって、身長も伸びちゃったら、可憐な乙女の姿にもなれませんよ」 身をくねらせるエーディト、可憐な乙女とは程遠い容姿である。太く根を張った眉毛は、どう考えても女性のそれではない。顔立ちも整ってはいるが、平凡な部類に入る。なにより、歯並びが悪い。口を開けば、どれほどの美女や美少年に化けようとも、一瞬で装いが解けてしまう。 セレスティンは大仰に溜息をついた。エーディトも、僅かなりとも母親に似ていれば良かったものを。残念ながら、父親の血を濃く引いたらしい。しかし、そのお陰で彼は亜麻色の髪と青灰色の瞳、ヒルデブラントの色を手に入れることができた。忌まわしきドゥランディアの色ではなく。そのことについては、エーディトの父も土の下で喜んでいるだろう。ドゥランディアの女を孕ませた甲斐があった、と。 「ああ、あと、『若様』――サリカ姫も戻っていますよね」 付け足された台詞に、セレスティンの表情が曇る。エリシアにサリカ。どういう手を使って、ルクレツィア一世はその二人をここに呼び寄せたのだろう。女帝の手腕には、全く恐れ入る。ルクレツィアの傍にいれば、微温湯のような人生は送れない。退屈をせずに済む。ルクレツィアもまた、エリシア同様波乱の星を背負って生まれた人物なのだから。 (俺は) そういった女性に惹かれるのかもしれない。異性としてではなく、ひととして。一個の人間として。 「暫く、出てくる」 言い置いて部屋を後にする。エーディトは何も言わず何も聞かず、黙ってセレスティンを見送った。 まだ、早すぎる。エリシアと直に言葉を交わすのも。サリカと顔を合わせるのも。もう少し、時間が必要だ。それぞれにとって。ルクレツィアもそれは察してくれるだろう。彼女は聡い娘だ。余計なことも一切口にしない。 「あ、いいとこで会えた」 廊下に出たセレスティンの前に現れた少年。暁の瞳を持つ宰相は、にやりと不敵な笑みを浮かべ、師の傍らに身を寄せると、 「ちょっと急ぎで知らせたいことがあるんだけど」 二人きりで話がしたい。早口でそう告げる。セレスティンは頷き、ティルと共にその場を去った。足早に階段を駆け降りる途中、ティルは更に師に囁きかける。 「ルキアの嬢ちゃんには、許可を取った。だから――」 宰相の依頼に、一瞬、セレスティンの脚が止まる。彼の僅かな反応を見て、ティルが「駄目?」とらしくなく小首を傾げる様が可笑しかった。セレスティンはその武骨な掌で彼の頭を包み込み、 「承知」 とだけ答える。途端に笑顔を弾けさせる弟子が、妙に愛しい。エーディトもこれくらい素直であれば、と思うのだが。あの性格は生涯治らぬだろう。セレスティンはティルの肩を軽く叩き、彼をそこに残したまま一息に階段を駆け降りた。 どうやら、感傷に浸っている時間はないらしい。セレスティンは苦笑し、黄金の髪を無造作に掻きあげた。 ◆ 夕餉の席に王太子ディグルは顔を見せなかった。体調が悪い、その一言で彼は部屋に引篭ったのだ。詫びを含んだエリシアの報告を耳にしたサリカが、不安げに表情を曇らせる。それを視界の端に捉えたルーラの背後に、何やら殺気めいたものが揺らめいたのを感じ、 「判ったわ。部屋に食事を運んで頂戴」 ルクレツィアはルーラに指示を与える。サリカが何か言いたそうであったが、ルクレツィアは敢えて無視をした。片翼と夫の間に何があったのかは知らない。だが、ルーラやエルナの態度を見ていれば、薄々察することができる。とどめは、サリカだ。これ以上ないほど判り易く全て顔に出してしまう片翼は、ルクレツィアに対して後ろめたさを覚えている。となれば。 気付かぬ方がおかしい。 (……) サリカの気持ちも、わからぬわけではないのだ。女性を受け付けることのできぬ夫が、サリカと情を交わしたとは考えにくい。ただ、彼独特の感性で、サリカに好意を持っていることは事実だろう。そして、サリカも。ディグルを憎からず思っている。 いっそのこと、ここで本来の姿に立ち返ってしまえば、お互い楽になるのだ。 サリカはルクレツィアとして、ディグルの妃におさまる。自分は本来名乗るべきアグネイヤ四世の名を取り戻し、帝都奪還の戦を仕掛ける。アグネイヤであれば、背負うものはない。ただ己の技量のみを信じて、突き進めばよい。 だが。 それは、あくまでも自分たちの都合である。個人の感情を優先して、国を動かすことはできない。 サリカがアグネイヤの名を捨てたければ捨てればいいのだ。自分はあくまでもルクレツィア一世として、覇道を突き進む。それが、フィラティノアに嫁ぎ、王太子妃となった自分の勤めであるから。次期王妃として、国を背負うべき覚悟をもって、今回の件には臨まねばならない。 (あなたに、それができるのであればね) 自身の傍に席を取る片翼に目を向ける。疲労と不安とに彩られたそれは、ひとりの少女の横顔に過ぎない。自分の覇気を半分でも片翼に移すことができれば。 思っても詮ないことである。 ルクレツィアは小さく笑い、 「心配なら、あとで様子を見に行っても良くてよ?」 サリカに囁いた。 「マリサ?」 片翼はびくりと肩を揺らす。暁の双眸に、怯えの色が宿る。気づかれた、そう思ったのだろう。ルクレツィアは彼女から目を逸らし、もうひとつ、空いている席を見つけた。 「セラは?」 尋ねると、給仕として食堂に侍っていたエーディトがかぶりを振る。 「さてねぇ、どちらにいらしたか。全く気まぐれで困りますよ、あのひとは。朝からふらっと出かけたきりで、音沙汰なしですからね」 彼の答えに、エリシアの顔色が変わる。あのふたりは、もう顔を合わせたのか。ジェリオも険しい顔で母を見ている処をみると、そう込み入った話になっていることはなさそうだが。こちらもかなり面倒だった。軽く息をつき、ルクレツィアはアデルが注いでくれた葡萄酒を口に含む。と、サリカが驚いた様子で尋ねてきた。 「セラ、って。セレスティンがいるの?」 正確には、『いた』のだが。今はエーディトの言葉通り、何処かを徘徊しているらしい。大方、露台に顔を出したエリシアを見かけて、動揺したのだろう。彼のことである、落ち着くまではここに顔を出すことはなさそうだ。 「セラってのか?」 ジェリオが挑むような眼差しを、こちらに向けてきた。やはり、彼とセレスティンは顔を合わせたのだ。エリシアの反応にジェリオはただならぬものを感じたのだろう。 「あいつ、何なんだ?」 隣に座る母も含めて、彼は質問を投げかける。エリシアの唇が震えた。 「セレスティン? 彼は、わたしたちの剣の師匠よ」 ルクレツィアは間髪を入れずに答える。ジェリオの眉が、僅かに上がった。師匠? と、その唇が動く。エリシアは幾分驚いたように軽く眼を見開いている。彼女は、闇の商人テオバルトとしての顔しか知らぬのだろう。そんな男がなぜ、大国の皇女に剣を教えたのか。不審に思うに違いない。それでも、今ここで話題に上がっているセレスティンこそがテオバルトであると、エリシアも理解しているのであれば。 「いろいろ変わった処のある人なのだわ、彼は。じかに会うことがあれば、直接話を聞いてあげて頂戴」 含みを持たせて、話を終わらせる。語りかけはジェリオに対してだったが、視界の隅に捉えていたのは、エリシア。彼女もルクレツィアの視線に気づいたのだろう、頷くように目を伏せる。 母と義姉の微妙なやり取りに、ジェリオは不審を抱いたようだった。今にも席を立ちそうな、不穏な動きを見せる彼を止めたのがサリカである。 「あとで一緒に行こう、ジェリオ。僕もセラとは色々話したいことがある」 「……」 若干不満が残る様子であったが、ジェリオはそれ以上の追求はしなかった。 会食は、概ね穏やかに進められた。 サリカは主に隣に座るイリアと和やかに語らい、ルクレツィアは全体的に会話を投げかけた。イリアも傍にサリカがいるせいか、常の頑なな態度は崩れ、それなりに笑顔で応じている。アンディルエの旅の話や、占いの話、大陸の歴史などについて話題を振れば、イリアは喜んで反応した。大陸史に強いサリカも、相槌を入れたり妻の言葉を補足したり、時折質問を挟むエリシアに対して答えを返したりと随分落ち着いたようだった。エリシアはイリアの横で一生懸命肉を切り分けている小さな巫女姫、リィルが気になっているらしく、折に触れて心配そうな視線を投げかけている。その度に、 「ああ、お気になさらず。こう見えて、かなり器用ですからこの子は」 ティルが穏やかに言葉を挟む。 ただ、ジェリオ一人が浮いていた。彼は終始無言で料理を口に運んでいる。酒もかなりの杯数を口にしたと思う。以前、グランスティアでまみえたときは、もっと陽気であったように思うのだが――やはり、様子がおかしい。あとでサリカに尋ねてみようと思ったが、 (ああ、そうね) ディグルの面影が脳裏を掠め、それは野暮だと思いなおした。けれども、野暮で済まされる事柄ではないことは、ルクレツィアも、なにより当のサリカ自身も承知の上だろう。 食事の後、 「じゃあ、余興を一つ」 徐に楽器を取りだしたエルナが、大仰に礼をすると陽気にアルードをかき鳴らし始めた。人気の高い『ルキアの結婚』を面白おかしく歌いあげれば、エリシアが殊の外喜んで楽しげに同じ歌を口ずさむ。それを聞きとめたエルナが 「あらぁ、陛下。お人が悪い。どうせなら、あたしの伴奏で歌ってくださいよ」 半ば強引にエリシアを自身の隣に座らせて、一層高らかにアルードを引いたのだ。初めは困惑していたエリシアだったが、 「はい、はい」 肩を叩かれ、促され、渋々と言った呈で歌い始める。氷の歌姫と呼ばれたひとの高く澄んだ歌声が室内に響くと、 「わ、あ……」 イリアが呆けたような声をあげた。 「素敵。姉さまたちよりも、素敵」 うっとり呟く彼女に 「当り前だ」 ジェリオが棘のある台詞をぶつける。イリアは失礼な男を軽く睨んだが、何も言い返すことはなく再びエリシアの美声に耳を傾ける。エルナの濁声と比べるのは失礼なほど、心を揺さぶる歌声だった。舞台に立つ訳ではない、軽く発声をしているだけであろうに、その声は深く胸の裡に入り込んでくる。ルクレツィアも知らず、姑の歌に聞き入っていた。発声は勿論のこと、音程も歌唱力も全て完璧である。王宮に抱えられている一流の声楽家にもこれほどの実力を持つ者は少ないだろう。いや、下手をすればいないかもしれない。少なくとも、かつてのアルメニアには存在しなかった。 エルナも興が乗ったのか、いつになく力強い弾き方をしている。彼女の眼は、真剣そのものだった。歌声に負けまいと、気合いを入れているのが傍目からも判ってしまう。 一曲終わった処で、拍手が湧きあがった。イリアである。つられてサリカもリィルも、ティルも、皆エリシアに喝采を送った。エリシアは幾分照れたように頬を染め、それでも満更ではないらしい。 「陛下、もう一曲」 エルナの言葉に乗り、 「じゃあ……エリシュ=ヴァルドを」 大曲とも言える、『剣姫』を依頼した。これは、歌も難易度が高いが、アルードも簡単に弾きこなすことができない。 「言ってくれるね、燃えて来ちゃったじゃないのさ」 エルナはにこりと笑い、軽く導入部を弾き始める。その穏やかな音色に合わせて、エリシアの喉から澄みわたった水のような声が滔々と溢れだした。 皆が、うっとりと聞き惚れている。 それを確認したルクレツィアは、そっと席を立った。エリシアもエルナも、一瞬だけ彼女を見たが、何も言わない。その意図する処を判っているゆえだろう。サリカにすら気配を気取られぬように注意を払いながら、若き女帝は部屋を抜け出す。廊下に控えていたアデルは、何も言わずルクレツィアに従った。 そうして、彼女が向かった先は。 「妃殿下」 ルクレツィアの突然の来訪に驚いた様子のルーラは、それでも平静を装って主人を招き入れた。ディグルも久しぶりに愛妾とゆっくり過ごしたかったろうが、時はそれほど緩やかではない。 「お邪魔だったみたいね」 ルクレツィアの台詞にルーラの頬が染まる。対するディグルは長椅子にしな垂れかかったまま、眉一つ動かさずに妻を見上げる。 「そう思うなら、遠慮したらどうだ」 「ええ、わたしもひとの恋路を邪魔するような、野暮な趣味はありませんからね」 そうしたいのは山々だけれども、――言いかけて、言葉を切る。ルーラを一瞥すれば、彼女は恥じ入るように壁際に身を控えていた。その首筋には、口付けの痕跡がある。体調不良を理由に晩餐を欠席した割には、側室を慰める気力はあるのか。本当に甘えたい相手は別にいるのだろうに、代用品とされるルーラが、哀れだ。 「まだ、晩餐は終わっていないのだろう?」 何の用だ、ディグルの目がそう言っている。取り急ぎ夫に伝えることがある、それもエリシアやジェリオの居ない隙に。ディグルの表情が徐々に強張っていくのを心の中で楽しみながら、ルクレツィアは単刀直入に用件を切り出した。 「ディグル・エルシェレオス王太子殿下。あなたに、やって戴きたいことがあります」 |
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