AgneiyaIV
断章 滅びの娘 
静寂の灯火


 久方ぶりに再会した妻は、以前とは容貌を異にしていた。腰丈ほどもあった艶やかな黒髪は肩の辺りでぶつりと切られ、若干赤みがかっている。おそらくは、色を抜かれたうえで染められたのだろう。その名残が毛先にある。
 彼女もまた苦労を重ねたのだと思うと、胸が痛くなる。サリカは無言でイリアの髪に触れた。名を呼ぼうと思ったが、声が出ない。それはまた、イリアも同様だった。瑠璃の瞳が赤く染まっている。今にも溢れんばかりに湛えられた涙が、彼女の立場を物語っていた。
「無事でよかった」
 漸くそれだけ口にする。イリアはこくりと頷いた。
 傍らで二人の少女の様子を窺っていたエルナは、ふんと小さく鼻を鳴らす。その音を耳聡く聞いたイリアは、僅かに眉を跳ね上げた。ああ、彼女もまたあの鼻持ちならぬ侍女を嫌っているのだと思うと、苦笑が込み上げてくる。

 朝食前の僅かな時間、ルクレツィアは朝駆けに出かけて行った。

 ――あなたもどう?

 誘われたのだが、疲労を理由に断った。昨夜は旅の疲れが出たとはいえ、ルクレツィアの寝台を奪ってしまったのだ。彼女は居間で夜を明かしたに違いない。隣で寝てくれればよいものを――思ったが、ルクレツィアなりに遠慮してくれたのだろう。それを思うと申し訳なさが先に立ち、片翼の顔がまともに見られなかった。それだけではない、朝駆けにはルーラも同行するのだ。昨日あのようなことがあった手前、ルクレツィアよりも顔を合わせ辛い相手である。

 ――じゃあ、イリアに会って来るといいわ。

 言って、ルクレツィアはエルナにサリカを託した。エルナもルーラ同様、苦手な人物である。サリカは言葉少なにエルナと挨拶を交わし、彼女に従って階下のイリアの部屋を訪れた。さすがに時間が時間だけあって、早起き鳥と言われたイリアもまだ床に在ったようだ。取り次ぎの侍女に起こされ、寝惚け眼で現れた巫女姫は、夫の姿を見るなり声を失いその場に立ち尽くした。
(イリア)
 痩せた、と。そう思った。それだけではなく、以前のような明るさが影を潜めている。異国の地で肩身の狭い思いをしているのか。思うと妻が不憫だった。
「アグネイヤ」
 妻の呼びかけに、サリカはかぶりを振る。自分はアグネイヤではない、サリカだと。そう言うとイリアは大きく眼を見開いた。
「宵の明星?」
 暁を表すアグネイヤとは、対となる名である。古くはよく用いられた名であるが、最近はあまり耳慣れぬのか。けれども、イリアの驚き様は並ではなかった。
「イリア?」
 どうしたのかと尋ねれば、
「なんでもない」
 慌てて妻は否定する。そのぎこちない態度が、更にサリカの不安を煽った。どうしたのか、更に問い詰めようとしたとき。
「るきあ」
 幼い子供の声がした。サリカはふと視線を下げる。と、イリアの傍らに幼女が佇んでいた。老婆を思わせる乳白色の髪、黒に近い青の瞳。瑠璃にも見える双眸を持った少女は、真直ぐにサリカを見つめ
「るきあ」
 もう一度呼びかけた。ルキア、は、ルクレツィアの愛称である。この娘は片翼と自分を取り違えているのだ。サリカは腰を屈め、少女と視線の高さを合わせてその髪を優しく梳きながら
「違うよ。僕は、サリカ」
 ルクレツィアの双子の姉妹だと告げる。子供に、双子の意味が判るかは不明だが、ともあれ人違いだと伝えることができればよいのだ。
「ちがう、るきあ」
 少女はサリカを指さし、主張する。同じ顔、同じ声、やはり人は自分の中に片翼の影を見るのだろうか。浮かべそうになった苦笑は、しかし次の言葉で凍りつく。
「あのるきあは、あぐねいや。このるきあは、るきあ」
 息が止まる。ごく近くで、高い口笛が聞こえた。エルナだ。頭の片隅で、ぼんやりと思う。そんな余裕は何処にもないはずなのに、思考が痺れて上手く頭が働かないのに。どうでもよいことだけは認識できるのか。サリカは少女を見つめた。少女の、紛い物の瑠璃の瞳を。底の見えぬ深い湖にも似た光さえも吸い込んでしまいそうな眼は、やはりサリカを見つめている。
「そう」
 ややあって、サリカは頷いた。この少女は、判っているのだ。自分が真実のルクレツィアであることを。片翼こそがアグネイヤ四世を名乗る資格を持つ皇女であることを。知っているのだ。だからこそ。
「そうだね」
 にこりと笑う。それがぎこちなく見えていないか、不安だった。
「アグネイヤ」
 イリアが掠れた声を上げる。サリカは小さく頷き
「僕が、ルキアだ」
 少女に告げれば、少女は満足そうに頷いた。
「おやまあ」
 再び聞こえる口笛。と、頓狂な声。壁に凭れた傲岸不遜な侍女は、口角を吊り上げて三人の少女を見下ろしている。
「認めるんだねえ、自分が偽りの皇帝だってこと」
「失礼ね」
 エルナの言葉に怒りを示したのは、イリアだった。握った拳が小さく震えている。サリカはその拳を両の掌でそっと包み込み、「いいんだ」と妻に囁いた。
「でも」
 悔しげに唇を噛む巫女姫は、まだエルナを睨んでいる。温厚な彼女にしては珍しい感情の発露だ。夫たる人物を蔑まれたのが気に入らないのか、初めはそう思った。が、どうやら違うらしいことが判って来た。イリアはエルナに怒っているのではない。そう、厳密には怒っているのではない。恐れているのだ。怯えているのだ。
 けれども。いったい、何に?
 サリカは訝しげに妻を見上げる。妻と、エルナを。蝋燭の炎に映える赤紫の瞳、その瞳を揺らめかせた侍女は、嘗て占い小屋で見たイリアの札に描かれた乙女によく似ていた。



「何処へ行くの?」
 寝台代わりに使用していた長椅子、そこから音もなく起き上がったつもりであったのに。次の間へと通じる扉に手をかけた刹那、背後から呼び止められた。振り返るまでもない、声の主は、母だった。セシリア――否、本来はエリシアか。案の定、腰に手を当て視線を鋭くした母は、ジェリオの行動を止めるべくこちらに歩み寄って来た。扉にかけた手を柔らかな指先が包み込む。悪戯を咎められた子供のように、ジェリオは軽く肩を竦める。
「ここは、家ではないのよ」
 暗に、主人たるルクレツィア一世の許可なく動き回るなとエリシアは言っている。そのルクレツィアはエリシアにとって義理の娘に当たる。何故に息子の嫁に遠慮をしなければならないのだとジェリオは反論しそうになったが、やめた。自分らの関係は、そんな単純なものではない。
 扉から手を離したジェリオを満足そうに見つめ、エリシアも彼から離れる。
「サリカの処に、行くつもりだったのでしょう?」
 図星だった。というよりも、それ以外には考えられぬだろう。ジェリオの頬に朱が散った。何か自分がさかりのついた獣に思えて、罪悪感が芽生える。サリカを忘れることはできない、あの甘美な曲を奏でる器を手放すことはできない、だからこそ本能の命じるままに彼女のもとに向かいそうになる。初めてまみえた夜に覚えた予感、あれは間違いではなかった。サリカ以上に自分を満足させる異性はいない。
 だからといって。
「会えると思うの? 会ったとしても、二人きりにはなれないのよ?」
 母の皮肉が耳に痛い。そうなのだ。会ったからと言って、触れることができる訳ではない。目の前に餌をぶら下げられたまま、永遠に『待て』を強いられる犬と同じだ。
「苦しめないでちょうだい、あの子を」
 共に暮らしていて、情が移ったのか。エリシアの声には懇願の響きではなく、命令に近いものが籠められていた。フィラティノアに入ってからこちら、母は嘗て王妃であったときの感覚が蘇って来たらしい。折に触れてこういった威圧的な物言いをする。それが癇に障った。ジェリオは露骨に眉を潜め、居間へと戻る。すると、部屋の主たちの起床を察した侍女が、手早く朝の支度を始めた。
「庶民は朝が早いから、たいへんね」
 皮肉る風もなくエリシアが苦笑すると、侍女は「いいえ」とかぶりを振る。白金の髪と柔らかな春の日差し色の瞳を持つ娘は、にこやかに一礼し、厨房に朝餉の用意を手配するため退室していった。その姿を見送ったエリシアは、小さく息を吐く。
「ああしていると、彼女も普通の娘に見えるけれどもね」
 呟きに、ジェリオも眉を顰める。この部屋付きの侍女、先程の娘を含めて二人いるが、双方只者ではない。裏の世界に染まった者だけが知る、特有の血の匂い。それを纏っていた。よもや、自分らに向けられた刺客ではあるまい。母や兄はともかく、自分の命には羽一枚の重さもない。死んだところで泣いてくれるのは、エリシアと――サリカくらいか。暁の瞳を脳裏に浮かべ、ジェリオは目を細めた。自分が死ねば、サリカは望まぬ情交から解放される。
「王太子妃には、色々な知り合いがいるみたいね」
 くすり、とエリシアの笑い声が聞こえ、ジェリオは我に返った。
 離宮に仕える使用人は、その殆どが血の匂いを纏っている。個々に偶然雇われた者ではないとしたら、彼らは、彼女らは。
「エルディン・ロウ」
 自らが属する、大陸の闇の一員だろう。ルクレツィア一世は、エルディン・ロウを掌握したということか。恐ろしい娘だ。サリカと同じ顔、同じ声をしているというのに。あの娘は、サリカとはまるで違う。ルクレツィアの背後に揺らめく覇気は、ジェリオを不快にさせる。いつか叩き潰したいという願望を煽りたてる。
「怖い顔をしても、仕方がないでしょう」
 母に言われ、ジェリオは視線に宿る険を隠した。母も気づいているかもしれない。息子が、ここに住まう人々と同じ世界に属する者だということに。
 エリシアは蝋燭の揺らめきの下を潜り抜け、窓を開けた。露台へと続くそこから足を踏み出し
「まあ、綺麗。綺麗よ、ジェリオ」
 小娘の如くはしゃいだ声を上げる。先程までの王妃然とした態度とは打って変わって、冬薔薇の女主人セシリアの顔が垣間見えた。
 徐々に昇りゆく太陽が、エリシアの姿を神々しく映し出す。銀の髪が陽光に透け、黄金に変わる瞬間をジェリオは眼を細めて見つめた。東から昇り来る、雄大な朝日。古代紫に染まる空は、美しいとしか言いようがなかった。母の隣に佇み、ジェリオは清浄な空気に酔いしれながら、その光景を楽しむ。サリカの瞳と同じ空、始まりの色だった。
「ああ」
 目を細める母、その横顔に目を向けたジェリオは、ふと別の視線に気づいて身構えた。誰かがこちらを見ている。殺気はない。しかし――
「……?」
 視線を投げた先には、人影があった。目が合っても立ち去る様子もない。朝日に見入る母子と同様、かのひとは彼らを見つめていたのだ。朝日に映える黄金の髪、顔の半分を覆い隠した仮面。顔に傷でもあるのだろうか、すらりと背の高いその男は、その場から離れることなくこちらを凝視している。やがて、エリシアもその視線に気づいたのか。軽く首を傾げ、ジェリオの見る先を追う。
 そして。
「……!」
 驚愕に目を見開いた。喉の奥から絞り出される、呻きにも似た声。
「テオ」
 と。母が呟いたのは、かの男性の名なのか。ジェリオはエリシアの肩を抱き寄せ、テオと呼ばれた男を睨みつけた。



 栗毛の馬が朝日の中を駆け抜ける。光と同じ黄金の馬体、それを駆る黒髪の美少女をルーラは眩しげに見やった。幾度こうやって、共に馬を駆けさせたことか。そうしている間だけ、彼女との距離が近づいた気がする。無論、ルクレツィア一世は孤高の人だ。実際には、思うほど魂は寄り添えていないだろう。それでも、これだけで満足だった。傍にいる、傍で彼女を守る。たとえ彼女が、クラウディアの名の通り滅びの娘であったとしても。祖国に不利益をもたらす存在であったとしても、この命に変えて守りたい。
「サリカは、今頃イリアと会えたかしらね?」
 小高い丘を駆け上がり、そこで馬を休める。栗毛と黒鹿毛、二頭の馬はゆっくりと草を食み始めた。ルクレツィアは衣裳が朝露に濡れるのも構わずそこに腰を下ろし、両手を挙げて朝の空気を胸一杯に含む。
 サリカ、この女帝の脳裏には、常に片翼たるあの娘の存在があるのだろう。そして、恐らくは生涯それを消すことはできない。何故、自分よりも劣る存在を愛しく思うのか、大切にするのか、その感覚がルーラには判らなかった。

 ――サリカを守ることは、私を守ること。

 ルクレツィアに言われても、その言葉はどうにも遵守することが不可能な気がする。いや、事実不可能であった。

 ――何故、男子であるとマリサに言わない?

 最も辛辣な台詞を投げつけたサリカ、彼女は許し難い存在である。サリカが思うような下心でルクレツィアに仕えているわけではない。が、男を誘う術に長けたあの淫乱な娘は、ルーラも自分と同じに見ているのだ。それが、不愉快だった。
 サリカをオリアに呼んだのは、間違いであったろう。真実のルクレツィア一世、滅びの娘の名を持つクラウディアは、サリカなのだ。嫁いだ国を滅ぼし、跡形もなく消滅させた神聖帝国最後の皇妃、かのひとと同じ名を持つ皇女は、不吉な兆し以外何者でもない。
 生かしておいて誰かに利用されるくらいであれば、いっそこの手で。
 ルーラは自身の掌を静かに握りこむ。
「なあに? 傷が痛むの?」
 余程渋い顔をしていたのだろう、自分は。ルクレツィアに顔を覗きこまれ、どきりとしつつも苦笑を浮かべる。なんでもありません、その答えに聡い女帝は満足したかどうか。
「ねえ、ルーラ?」
 名を呼ばれ、ルーラは慌てて返事をする。
「わたしがどうあっても……いいえ、何をしても。あなたは付いてきてくれるのかしらね?」
 意味深長な言葉。それでもルーラは迷うことなく頷いた。自分が仕えているのは、心から忠義を捧げたいと思う相手はこの人しかいない。
「もしかしたら、フィラティノアが滅びてしまうかもしれない」
 わたしは、滅びの娘だから――くくく、と喉を鳴らすルクレツィア。だがルーラはかぶりを振る。
「ディグルの想いを遂げさせてあげるの。如何様な手段を用いても、復讐を果たす気があれば。彼は動いてくれるでしょうから」
 言ってルクレツィアは嗤った。朝日に溶け込む古代紫の瞳。その奥に垣間見える光に、ルーラは暫しの間言葉を失った。占い札にある、虚無の聖女。彼女の掲げる髑髏が宿す光にも似た、静かなる灯火。それを思い出す。が、ルクレツィアの瞳の奥にある光は、覇気をも秘めていたのだ。


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