AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
10.虚像(8)


 沈黙があった。それが、一体どれほどの時間であったか、サリカには認識することはできなかった。長かった気もするし、短かった気もする。ただ、気まずい――そう思われる無為な時間だけが過ぎていくように思えた。
 女帝ルクレツィア一世の玉座の前に膝を屈したサリカは、深く首を垂れたまま、彼女の言葉を待っている。真実のアグネイヤ四世、その人に対して名を返したのだ。この言葉を告げるためだけに、自分はここに来たと言っても過言ではない。

「――それって」

 声は思わぬところから響いた。ルーラではない、あの宰相を名乗った少年だった。
「自分がルクレツィア一世だ、ってこと?」
 くすくすと笑う少年には、厭味も毒もない。けれども、その場の空気が更に凍ったのは確かだった。サリカは眼を見開き、反射的に「違う」と叫ぼうとしたのだが。その前に。
「……!」
 ふわりと甘い香りに包まれた。同時に、頭を抱きしめられる。
「陛下」
 ルーラの声が聞こえる。
 顔をあげたサリカの前に、自身と同じ顔があった。一瞬、鏡を見ているような錯覚を覚え、身を固くした彼女だったが、そこにあるのが虚像ではなく生身の人間――片翼であるルクレツィア一世であると認識した刹那、
「マリサ」
 か細く片翼の幼名を呼んだ。
「サリカ」
 ぎゅう、と強く抱きしめられる。ジェリオとは異なる、柔らかな女性の身体が、慈しむように自分を包んでくれる。幼い時よくこうして抱き合って眠ったものだ、そんなことを思い出して片翼の背に腕を回そうとしたサリカは、
「あ……」
 無意識に彼女を遠ざけてしまう。サリカの思わぬ反応に、ルクレツィア一世は驚いたようだった。古代紫の瞳を大きく張り、怪訝そうにサリカを見つめる。その真摯な瞳が痛くて。サリカは眼を伏せた。
 もう、自分は片翼とは違う。片翼と同じ位置に立ってものを見ることも語り合うこともできない。自分は穢れてしまった、あらゆる意味で。穢れを纏った自分が、無垢な片翼に触れてはならない。
 それでも。
 ルクレツィア一世は、真実のアグネイヤ四世は。そう、敢えて自分が呼んだひとは。もう一度静かにサリカを抱きしめ、身を離した。疲れているのでしょう、と、朱唇が言葉を紡ぐ。
「寝室を用意してあるわ。湯も。大丈夫、誰も入って来ない。ゆっくり休んで頂戴」
 頬に冷たい彼女の手が触れ、それが離れたと思うと同じ場所に柔らかな感触を覚えた。ルクレツィアの唇、その温かさが全身に染みわたる。ジェリオやディグルの激しい貪る様なそれとは異なる、慈愛に満ちた肉親の触れ合いに、涙が零れそうになった。飢えていたのは、これだった。この、温かさだった。他の誰とも比べることのできない、魂と肉体を分かち合った者としか共有できない、温もり。
 気がつけばルクレツィアは玉座に戻り、サリカの傍には先程彼女らを案内してくれた小柄で可愛らしい侍女が佇んでいた。ルクレツィアの視線に応えて、侍女は「こちらへ」とサリカを案内する。
「後で」
 そんな形にルクレツィアの唇が動き、サリカはこくりと頷いた。そうして身を翻し、侍女に導かれてルクレツィアの私室へと向かう。王太子夫妻の居室はそれぞれ別々に設けられているのだと、このとき初めてサリカは知った。執務室も居室も、寝室も、全て別なのだ。夫婦は完全に個として行動している。
「……」
 この事実を、もっと早くに知っていれば。唇を噛みしめた彼女は、ふと、息を止めた。もっと早く知っていたら? どうしたというのだろう。どうにもならないではないか。もう既に、三年前から自分はディグルの妃となる資格を失っていたのだ。それは、自らが選んだこと。今更ここで、再びクラウディアに――ルクレツィアに戻りたい、など。むしが良すぎる。アーシェルの民も、ルクレツィアがマリサであるから従っているのだ。ここでサリカがとってかわったとしても、彼女には人望がない。マリサのように全てを押さえつけられる覇気もない。
 悄然とルクレツィアの居室に設えられた浴室に向かったサリカは、アデルと名乗った侍女の介添えで旅装を解いた。薄物のみ纏ったサリカの肌を見て、アデルの動きが暫し止まる。それに気づいたサリカは、はっとして胸を隠した。胸だけではない、彼女の身体の至るところに、口付けの痕があった。ジェリオに付けられた刻印、彼の所有の証でもある。ハリトーンの宿で睦み合ったときに付けられたものが、未だに残っているとは思わなかった。
「彼女には、言わないで」
 サリカの懇願に、アデルは驚きつつも頷いた。
 片翼のことは、何と呼べばよいのだろう。マリサか。クラウディアか。ルクレツィアか。それとも、アグネイヤか。彼女に最も相応しい名は、アグネイヤだと思う。アグネイヤ四世、その名は彼女のために用意されていた。それを、自分が簒奪した。

 ――僕が皇帝になる。
 ――それって、自分がルクレツィア一世だ、ってこと?

 嘗ての自分の声と、少年宰相の声が重なる。サリカは耳を覆った。狂った運命は、元に戻せないのか。迷い込んだ道を引き返すことはできないのか。
 答えを出すのは、自分だけではない。そのことが判っているだけに、――辛かった。



「陛下」
 ルーラの呼びかけに、幾分ぼんやりしていた女帝は、
「え? ああ、何?」
 ぴくりと肩を揺らし、夫の側室に目を向ける。暁の瞳に映るのは、焦燥、戸惑い、軽い失望。その、どれでもあり、また、どれでもなかった。敬愛する女帝の心の揺らぎに、ルーラは眉を寄せる。先程のアグネイヤ四世――サリカの言動が余程堪えたのだろう。ルクレツィアは傍から見ても呆れるくらい、片翼を愛しく思っている。慈しんでいる。何を言っても言われても、あの娘を最後まで見はなさないのがルクレツィアだ。が。

 ――アグネイヤ四世陛下。

 呼びかけられた言葉に、彼女を取り巻く空気が、瞬間凍った気がしたのは、ルーラだけではない。宰相もおそらくそれを察したろう。傍らで彼の睫毛が僅かに動いたのが見えた。
 一体何を考えて、あのようなことを口にしたのだろう、あの小娘は――それを思うと、サリカに対する嫌悪感が弥増してくる。ルーラは密かに拳を握った。サリカは、優しい。慈悲深い。それは判る。だが、それが却って人を傷つけているのだと判らないのか。
「暫く、一人にしておいて頂戴」
 考え事をしたいの、という女帝の言葉に、ルーラは従った。少年宰相ティルも、ルーラと共に退室する。表に出たところで、ティルは扉を守る衛兵の耳を憚るように声を落として、
「なあ、あの姫さん」
 サリカのことを指して
「女帝陛下と真逆じゃんよ?」
 まるで違う、魂の色も輝きも、全て違うと指摘する。姿かたちはまるで同じ、けれども一人は鏡に映る虚像の如く。
「覇気がない」
 覇王の名を与えられたはずなのに、纏うべき覇気がない。だからやはり、彼女はアグネイヤではないのだ。稀代の覇者の名には相応しくない。暗にティルはそう言っている。ティル自身、同じく神聖帝国初代皇帝の名を持つ人物である。もしもルクレツィアに会わなければ、彼こそが神聖皇帝を名乗って挙兵したかもしれぬのだ。何より、彼にも人望がある。真実の巫女姫も傍にいる。
「ついでに」
 ティルは更に声を潜め、ルーラの耳に囁いた。
「あれは、生娘じゃないね」
 どん、と、心臓を貫かれたような衝撃がルーラを襲う。久方ぶりにサリカを見たときに覚えた違和感、それは、彼女が異性を知ったからだったのだ。だから、彼女は
「……」
 ルクレツィアの抱擁を拒絶した。穢れた自身に触れられたくなくて。自身の穢れを片翼に移したくなくて。
(皇女殿下)
 噛みしめた唇から淡く血の味が染みる。女帝の慈悲深き腕を拒むその姿は、自分と重なった。ルーラは軽く眼を閉じる。サリカはジェリオと情を交わしていたのだ。あの男の腕の中で乱れ、声をあげ、女性としての悦びを知った。想像すると、虫唾が走る。ルクレツィアと同じ顔、同じ声が――
「ルナリア」
 妄想の中のサリカの声に、別の声が重なる。エルナだった。いつの間にか黒髪に戻していた彼女は、腕を組み、にんまりと笑いながら二人の前に佇んでいる。午後の陽ざしに映える瞳は、青緑。猫に似た吊りあがり気味の目を細め、彼女はルーラとティルを見比べていた。
「元気そうだね、ルナリア。傷の具合はどうよ?」
「お陰さまで」
 この通り、とルーラは左腕を動かした。もう、痛みも違和感もほぼ消えている。それを伝えれば、エルナは相好を崩した。良かった――軽く息をついて。
「これで、大事な陛下を守れるね」
 くすりと笑う。
「で、ちょっと時間あるかい?」
 情報交換、エルナの唇が小さく動いた。彼女も不在の間の離宮の様子を知りたいのだろう。それはルーラも同様である。エルナが知る限りの王太子の様子、病状、エリシア前妃のこと、更には――サリカ。彼女とジェリオのことも。
「あれー? オレは仲間外れ?」
 ルーラを別室に伴おうとしているエルナに向かい、ティルが抗議の声を上げる。
「これでもオレ、宰相閣下なんだけどな」
 口調はおどけているが、視線は鋭い。獲物を逃さぬと決めた、猛禽類のそれによく似ている。エルナは肩をすくめ、しょうがないねと言いながらティルも促した。本当に、ルクレツィアの見立て通り、この二人は仲が良くない。相性が悪いのだ。ルーラは半ば呆れて、宰相と共にエルナに従う。侍女の控えの間、そこに入室した三人は周囲を窺い、人の気配がないことを確認すると窓と扉を固く閉ざす。そうして、中央に置かれた長椅子に集ったとき、まずエルナが口を開いた。
「留守の間に変わったことは?」
 特にはない、ルーラが答える。エランヴィアが蜂起したこと、その影にフィラティノア国王の意志が働いていることは、既にエルナも承知している。あちらの動きは膠着している、というか。エランヴィアが一方的にアヤルカスを煽っている模様だった。アヤルカスも小国相手に本気で腰を上げる気はないだろう。けれども、エランヴィアに触発されたアダルバードが、密かに使いをかの国に送っている模様である。
「鴉の姫が、アシャンティに発ったけどね」
 ティルが付け加え、エルナは「あ、そう」と頷く。
「ヒヒジジイは、相変わらずお嬢さんを狙ってるみたいだしね。とりあえず、身代わりができたからいいんじゃないの? 爺には、あっちのお嬢さんを抱かせてあげれば。どうせ、生娘じゃないでしょ、あのお嬢さんは」
「言うよねー」
 エルナが眼を眇める。が、すぐに真顔に戻り
「そのこと、なんだけどね」
 彼女はルーラとティルを見比べた。
「ちょっと、厄介なことになっちゃってるんだよね」



 グランスティアの森で別れてから、いったいどれくらい経つのだろう。露台の柵に凭れ、晩春の風を頬に受けながら、ルクレツィアは過去に思いを馳せる。あのときは頼もしく思えた片翼の後ろ姿。だが、今日再会したときは
(サリカ)
 彼女は、『サリカ』でしかなかった。『アグネイヤ』ではなかった。たおやかさのなかにも、凛とした気品を纏っていたはずの片翼、その凛々しささえも影を潜めてしまっていた。あれでは、普通に廊下ですれ違っても見落としてしまうだろう。以前はあったはずの輝きすら失っている。片翼にいったい何があったのだ。
 ルクレツィアは自身の腕に目を落とす。彼女がこの腕を拒んだことなど一度もなかった。朝な夕なに互いを抱擁し、その存在をこれ以上ないくらい近くに感じて、安堵していた。それなのに。
 抱き返さず、寧ろ逃げようとしているところが、ルーラを思わせた。
 ルーラもルクレツィアに触れられることを嫌う。彼女の場合、自分が女性ではないことを感触で気付かれるから、なのだが。サリカは何故だろう。なにか、触れられたくない理由でもあるのだろうか。

 ――アグネイヤ四世陛下。
 ――それって、自分がルクレツィア一世だ、ってこと?

 心の隅に淀む懸念が、少しずつ嵩を増していく。
 サリカは、片翼は、アグネイヤ四世の名を自分に返すつもりか。そして、自分はフィラティノア王太子妃として、ルクレツィア一世として。処刑を逃れたアグネイヤ四世に冠を譲る気でいるのか。また、そんなお人よしなことを、と思う反面。別の疑惑が芽生えてくる。
「まさか、ね」
 自身の思いを打ち消すように、ルクレツィアは声に出してそれを否定する。有り得ない、あってはならないことだ。例えそれが、互いの『幸せ』のためだったとしても。歪んだ運命を修正するための行為だったとしても。
 一度自身が選び取った道なのだから。簡単に違えることは、許されないのだ。


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