AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
10.虚像(7)


 鏡を覗きこむ。そこにはいつも、片翼の顔があった。
「ありがとう」
 綺麗に磨き上げられた銅の手鏡、それをエルナに返したサリカは、沈鬱な面持ちのまま目を閉じる。鏡に映る虚像も、同じ表情をしていた。もうすぐ、片翼に会える。浮き立つはずの心には、重い枷がかけられている。ディグルとジェリオ。二人の男性の存在が、彼女の心を緩く押さえつけていた。
 サリカと同じく身支度を終えたセシリアとエルナは、少ない荷物を手に宿を引き払う準備をし、
「サリカ」
 自分を呼んでいた。頷けども、足に力が入らない。このまま一生ここに居るわけにはいかないのに、それでも子供じみた我儘を言いたくなってしまう。旅の疲れが出たのだろうとセシリアは気遣ってくれたが、それが余計に辛かった。寧ろ、エルナのように全てを見透かしたような、「お前は穢れた娘だ」と言わんばかりの軽蔑の視線を投げつけてくれた方が、余程楽な気がした。
 表に出れば、ディグルとジェリオの兄弟が待っている。彼らの顔を見た刹那、サリカは眩暈を覚えた。崩れるように座り込む彼女を支えたのは、セシリア。
「貧血かしら?」
 大丈夫と聞かれ、サリカは小さく頷いた。
「少し、休ませてもらいましょう」
 一度出た宿に再び戻り、帳場の隣の部屋を借りて休む。寝台はなく、簡素な長椅子に身を横たえたサリカに、セシリアは不安げな顔を向ける。彼女はそっとサリカの耳に唇を近づけ
「月のものは?」
 毎月来ているのか、囁くように尋ねた。
「あります」
 答えてから、はっとする。セシリアは懐妊を疑っていたのだ。彼女は、ジェリオとサリカが既に男女の仲になったことを知っている。ユリシエルの娼婦館で、ジェリオが強引にサリカを犯した。その際に身籠ったのではないか、だから体調がすぐれないのでは、と、それを危惧している。旅の疲れからか、今月は遅れているが、先月までは確実にそれはあった。けれども――唇を噛みしめるサリカに
「仮眠をとっておきなさい」
 小さく微笑んで、セシリアは退室する。
 サリカがジェリオの子を産めば、セシリアにとっては孫に当たる。嬉しくないことはないだろうが、ただ。互いの立場を考えると微妙であった。この世に誕生する子供は、全てが全て祝福されて生まれるとは限らない。そのことを、今更ながら痛感する。
 と。
「寝てんのか?」
 いきなり声をかけられ、サリカは跳ね起きた。見れば、いつ入室したのだろう、ジェリオの姿が其処にある。彼は後ろ手に扉を閉めると、こちらに近づいてきた。サリカは思わず身を固くする。狭い室内に二人きり、ジェリオが何を考えているか判るだけに、落ち着いてはいられない。案の定、彼は逃げようとした彼女を腕に捉えた。そのまま背後から抱きすくめ、髪に口付けを落とす。熱い息が首筋にかかり、
「放せ」
 サリカは本能的に身を捩った。
「久しぶりだな」
「毎日会っている」
「あんたに触んのが、だ」
 触れたくて気が狂いそうだった、と彼が呟く。言葉に偽りはなく、彼女の感触を全身で確かめるように強く抱きしめ、頬を摺り寄せ、肌の匂いを堪能している。だが、決してサリカを愛しく思っての行為ではない。男性としての本能が、相性の良い雌を求めているだけだ。今の彼は、サリカの心までも望んではいない。この身体を味わうことができれば、それで満足なのだ。
 そして、それはサリカも同じ。ジェリオに与えられる愛撫が、忘れられない。無駄な感傷などなくても、身体は反応する――教えたのは、ジェリオ。だから、彼には逆らえない。彼が愛撫を始めてしまったら、もう、離れることができない。
「急がないと。いつまでもここにいたら、危ない」
 ジェリオの手を払い、サリカは衣服を整える。彼は思うより素直に彼女を解放したが、不満の色は隠していない。これから王都に入り、更に王宮に入ってしまえば、簡単にサリカに触れることはできなくなる。その前に、と、思っていたのだろう。一度一線を越えてしまったら、その要求はとどまることを知らない。若い身体は、欲望に正直だ。
「冷てぇな」
「そんなこと言っている場合じゃないだろう」
 扉を開けようとしたところを、再び抱きすくめられる。少しだけ、彼はそう言って頬に唇を這わせてきた。サリカは観念して目を閉じる。少しだけ、唇を許すだけ。力を抜けば、壁に押し付けられ、唇を重ねられた。長く濃厚な口付けに、理性が脅かされる。甘美な熱を流し込まれ、サリカは自然、ジェリオに縋りついた。彼の背に腕を回し、その逞しさを身を以て味わう。幾度も貪られ、快楽と女性としての虚栄心を満たされたころ、
「あーあ。こういうことだったんだねえ、やっぱり」
 不躾に扉を開けてエルナが顔を覗かせた。サリカはびくりと肩を震わせたが、ジェリオは悪びれもせず、邪魔だとばかりにエルナを睨みつける。エルナは、サリカがジェリオと示し合わせてここに来たのだと思っているらしい。それは誤解だったが、説明しようにも間が悪すぎる。
「ま、妃殿下――じゃなかった、女帝陛下の傍にいたら、こんなことはできないからね。って、どうせ、目を盗んで乳繰り合っているんだろうけどさ」
 青緑の目が、冷ややかにサリカを一瞥する。先程まで覚えていた甘い痺れが、一瞬にして消え去った。
「ほんと、似てんのは、顔と声だけだね。あーあ、あんたがこんな風にいちゃついているのを見ると、気分悪くなるね。ついでに、下手なとこでこんなことされると困るんだよね。陛下が淫婦だなんて変な噂流れちゃうしさあ」
 エルナの言葉は尤もだった。それだけに、言い返すことはできない。エルナの顔もジェリオの顔も見ることができず、サリカは目を伏せたままエルナの脇をすり抜け、廊下に足を踏み出した。


 そんなことがあったせいか、サリカの纏う気配は、更に暗いものとなっていく。彼女を気遣うセシリアには、曖昧ながらも頷きを返してはいたが、エルナに対しては頑なに無視を決め込んでいた。正確には、無視しているのではなく。何も言えないのだ。彼女が怖い。あからさまに敵意を向けてくる、エルナの目が怖い。片翼は、よくぞこのような女性を傍においておけると感心してしまう。が、訳を考えれば簡単なことだ。片翼には、疚しさは欠片もない。彼女は常に裏表がないのだ。後ろめたいことももなければ、人に付け込まれるべき弱味もない。やはり、自分は片翼とは違うのだ。間違っても、片翼と同じにはなれない。
(マリサ)
 その幼名を心の中で呟く。彼女こそ、皇帝アグネイヤを名乗るに相応しい人物なのだ。自分は、皇帝には――人の上に立つ存在となることは、出来ない。そんなことなどとうの昔に判り切っていることなのに。何故、自分は。
 俯く横顔を、帳の間から漏れる陽射しが薄闇に浮かび上がらせる。視界の端に王都の街並みを捉え、サリカは息を漏らした。先程から馬車の揺れが小さくなった、きちんと舗装された道路を進んでいるのだろう、と思っていたが。やはり、王都に入ったのだ。街と外界を隔てる大門を潜り、漸く北の都へと足を踏み入れる。ディグルの父グレイシス二世が治める国、その首都であるオリアへと。
 と、ふいに馬車が止められた。ガタリと一際大きく車体が揺れる。
「なにごと?」
 セシリアが視線を鋭くし、庇うようにサリカに身を寄せる。男装はしていても、か弱い娘だと思っているのだろう、セシリアは。サリカがエルディン・ロウをはじめとする手練の刺客と互角以上に渡りあって来たことを知れば、驚くだろうか。ぼんやりと考えて、帳の隙間から外を窺う。すると。
「あ」
 そこに思わぬものを見て、サリカは声をあげた。
「どうしたの?」
「なんだい?」
 セシリアとエルナが首を傾げる。剣を引き寄せたジェリオは、いつでも飛びだせるように身構えていた。が、それを手で制し、サリカはそっと窓を開ける。
「エッダ」
 懐かしい名前を呼べば、
「ああ、これはこれは陛下、いえ、若様」
 亜麻色の髪の、女装の少年が満面の笑みで応える。栗毛の派手な馬に騎乗した彼は、どうやら馬車の前を横切って走路を妨害したらしい。彼に罵声を浴びせていた御者は、
「知り合いだ」
 というサリカの言葉に、渋々と言った呈で口を噤む。
 まさか、オリアでエーディトに遭遇するとは思わなかった、何故この馬車にサリカが乗っていることが分かったのだと尋ねると、
「あれですよ、あれ」
 御者を指さす。かのひとの右腕には、鮮やかな赤い布が巻かれていた。離宮からの使いの目印となるように、エルナが御者に身に着けさせたものだ。ということは、エーディトがルクレツィア一世の使者なのか。サリカは目を見開いた。彼が無事だったというだけでも驚きと嬉しさが込み上げてくるというのに。なんと、彼も片翼の元に滞在していたとは。ならば、リナレスも一緒なのか、問いかけにはしかしエーディトはかぶりを振った。
「いえ、若様はちょっと別の用事があって」
 含みを持たせた言い方が引っ掛かったが、ともあれリナレスも無事なのだ。サリカは安堵の息を吐く。
「さあ、陛下がお待ちです、急ぎましょう」
 言って、馬首を巡らせるエーディトだったが、その前に素早く車内に視線を投げていた。そこに居る面子の顔を認識したのだろう、彼は満足げに笑う。サリカの背後でジェリオの舌打ちが聞こえたのは、彼の記憶にもエーディトの存在が残っているからだろうか。


 一行は、東の離宮と呼ばれる、王太子夫妻のために作られた建物へと導かれた。エーディトは衛兵に対し
「アーシェルより陛下を慕って上京した、一家です」
 そう紹介し、裏口へと回った。堂々と正門から入るのは不味いのだろうが、それでも、と。サリカは視線を揺らす。自分と片翼の立場を目の当たりにさせられた気がして、心が押し潰されたような苦しさを覚える。
「陛下の元には、こうやって毎日のようにアーシェルよりお勤めを希望する人がやって来るのですよ」
 馬車のまま敷地に入ることを許されたサリカたち、その車体に並走するエーディトが簡単な説明を施した。アーシェルと言う名には聞き覚えはなかったが、おそらく片翼に与えられた領地のことだろうと察しがつく。何処にあっても彼女は人から慕われているのだ。サリカは、ちらりと揺らめいた嫉妬の炎を慌てて揉み消した。何を考えているのだ、自分は。
 裏口に辿り着けば、そこには生粋のフィラティノア人の容姿を持った、小柄な少女が控えていた。侍女のお仕着せを纏っている、ということは、女帝付の侍女の一人か。彼女は一行が馬車から下りるのを待って、更に深く首を垂れた。日除け、と称して、セシリアとディグルは被布(ヴェール)で顔を覆っている。エルナは、こちらはまた予めこの離宮に居たとでもいうような顔をして
「まあまあ、遠い処をようこそ」
 疲れなど微塵も見せず、わざとらしいまでの明るい声で旅人を労った。サリカも、目が不自由という触れ込みで、目元を仮面で隠している。これを外してしまえば、女帝と同じ顔、同じ暁の瞳が現れるのだ――それを考えると
「大丈夫ですか?」
 白々しいエーディトの労わりに、小さく頷くことしかできなかった。ジェリオはジェリオで、最後尾から冷ややかな視線を一堂に向けている。殊に、時々秋波を送るエーディトに対しては、表情が厳しくなりがちだった。
「随分と、変わったな」
 傍らを歩くディグルが、ぽつりと呟く。彼がここで暮らしていた頃は、これほどまでに活気がなかったと言うのだ。廊下を行き交う人々は、女帝の客と言うだけで皆道を開け、恭しく頭を下げる。そのほとんどがアーシェルの民だと件の侍女やエーディトからの説明を聞かされたが、彼らは一様に髪や瞳の色が異なっていた。セルニダやユリシエルのように、混血の街なのだろうか、アーシェルは。サリカはそんなことを考えたが。
「……」
 ジェリオの只ならぬ様子に、別の不安を覚える。彼は隅に避けた使用人らに、さり気なく目を配らせていた。何か不審な点があるのか――波立つ心を抑え、サリカは銀髪の侍女に従い、只管廊下を進んだ。やがて、二階、三階と導かれ、
「あ」
 踊り場に立ったとき、三階に佇む人影に目を奪われた。セシリアともディグルともよく似た、硬質の美貌を持つ女性。否、実は男性であるその人は、以前と寸分違わぬ厳しい目でこちらを見つめていた。此方を、――サリカを。
「陛下がお待ちです」
 王太子の側室自らが迎えに出ることなど、本来はあり得ぬことだろう。ルーラが自ら案内を買って出たのか、それともルクレツィア一世の配慮か。サリカは小さく頷いた。ルーラを初めて見たセシリアは、声を失い、一歩が遅れる。その母を促したのは、ディグルではなく、ジェリオであった。
「ここからは、神聖帝国皇帝陛下の私的な区域です」
 報せてくれたのは、侍女だった。だから安心せよと言うのか。それとも、一層態度を慎めと言うのか。サリカやその他の人々の身元はとうに知っているであろうから、おそらく前者の方であろう。階段を上りきったサリカの前に、更に今一人の人物が現れた。黒衣を纏った、青年。否、少年である。彼は不躾にも壁に寄りかかったまま
「ども」
 片手をあげて彼らを迎えた。その双眸を見て、サリカは言葉を失う。
「古代紫」
 とも、少し違う。更に赤みの強い瞳。まさに暁の瞳と言うに相応しい眼を持つその少年は、驚くサリカの前に立つと、
「はじめまして、もう一人の――皇帝陛下」
 おどけた様子で一礼する。と、同時に。すっと伸ばされた指先が、優雅にサリカから仮面を剥がした。露わになった容貌、それを見て彼は口笛を吹く。
「これはこれは」
 そっくりだと言いたいのだろう、彼も。細められた目が、何かを探るようにサリカを見つめる。と、彼の視線が一瞬外れ、サリカの背後に向けられたような気がした。
「名乗りが遅れまして、大変失礼いたしました。神聖帝国宰相、アーシェル辺境伯にございます」
 彼の瞳から不可思議な光が消え、宰相を名乗る少年は、再度礼を取る。
 彼が、現在の神聖帝国宰相なのか。若い、とは、サリカを含めた皆の感想であろう。先般再興された神聖帝国、その宰相エルハルトを想い、サリカは唇を噛みしめる。自身の甘さが、かの帝国を崩壊させた。今度こそ、今度こそ、同じ轍を踏んではならない。
 宰相とルーラの導きで、サリカは先に別室に案内された。ディグルとセシリア、それにジェリオは、同じ階に設けられた王太子の部屋へと促される。皆と離され、ひとり小部屋にとめおかれたサリカは、長椅子に腰を下ろしたものの、寛ぐことなどできなかった。
(マリサ)
 片翼に、どのような顔をして対面すればいい?

 ――僕は、アグネイヤ四世だ。

 そういって、グランスティアで彼女に背を向けてから、二年と経っていはいない。自ら口にしたことを守り通すことなく、名目上処刑までされてしまった惨めな自分を、片翼は軽蔑するだろう。いや、彼女はそんな卑小な人物ではない。卑小ではないから、怖い。いっそのこと、唾棄してくれればよい。無能扱いして、詰ってくれればよい。そのほうがどれほど楽か。判っていても、絶対に片翼は――真実のアグネイヤ四世は、そうはしない。彼女は、優しいから。自分を想ってくれているから。
「お待たせいたしました」
 こちらへ、と、先触れの侍女が声をかける。彼女に従い、サリカは衛兵に開け放たれた扉をくぐった。目の前に開ける、女帝の間。そこの玉座――に当たるであろう椅子に腰を下ろした少女が、静かにこちらを見下ろしている。仮面越しに感じる視線、眩いばかりの暁の瞳は、母后を思わせた。似ているのだ、片翼は。あの、烈婦と呼ばれる母によく似ている。
 女帝ルクレツィア一世が小さく頷くと同時に、扉が閉められ、先触れの侍女は退室した。人払いをしてくれたのだ。
 サリカは、徐に仮面を外す。そこに現れる、片翼に酷似した顔。寸分違わぬ面差を見比べる者は、
「へぇ」
 壁に肩を預け、にやにやと笑いながら一部始終を観察している、黒衣の少年宰相と。
「……」
 相変わらず頑なな姿勢を崩さぬ、王太子の側室だった。
 古代紫と青、その視線に晒されたサリカは、ルクレツィアが何かを言う前にその場に膝をつく。両膝を落とし、利き腕を胸に、低く首を垂れる。皇帝に対する、最敬礼だった。
「サリカ?」
 片翼の問いを、言葉を遮るように。サリカは言葉を発する。万感の思いを込めて。

「ご拝謁の栄誉を賜り、光栄にございます。――アグネイヤ四世陛下」


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