AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
10.虚像(5)


 傀儡政府、その言葉が今の神聖帝国には相応しかった。帝都も領土もなく、皇帝はフィラティノア王都の離宮に居住している。配下と言える者も極少で、公的にはフィラティノア王太子妃として『後見』の形を取っているアーシェルの領民のみがその対象となっていた。離宮に配置された衛兵の大多数は、フィラティノアより派遣されたものであるが、女帝及びその側仕えに当たる者たちの居住区域を守るのは、アーシェルの民であった。そして、厨房を仕切る者も、小間使いとして各部屋に配置された娘たちも、全てアーシェルの出身となっている。
「随分と、アーシェルはルクレツィアを慕っているようだな」
 国王グレイシスの呟きは、そのまま臣下たちの心情も表していた。数年に渡る飢饉で人口の多くを失ったアーシェル、かの民が重要であるはずの男手を女帝には惜しみなく差し出してくる。一月交代を基本とした衛兵出仕は、それでも多くの者たちが滞留を望んでいた。女帝に仕えたいと自ら離宮に足を運ぶアーシェルの娘たちも多くおり、中には一家総出で王都に上がる者たちもあった。
「不作続きで、故郷では生活ができぬと土地を引き払った者が多いと聞いております」
 宰相の説明に、グレイシス二世は納得した模様だった。幾ら女帝を慕っているとはいえ、この数は異常であった。単純計算をすれば、アーシェルの人口の三分の二が故郷を捨てていることになっている。それでも、王太子夫妻のために作られた離宮は広大であり、人員の収容に問題はないとは思うのだが。
「その分、こちらより派遣した衛兵、侍女、小間使い、庭師、馬丁、その他の使用人が殆ど暇を出されておりますな」
 このままでは、東の離宮は完全にルクレツィア一世の『城』となってしまう。名実ともに王都に小なりとはいえ神聖帝国が誕生することになる。しかも、そこにフィラティノアの入り込む余地はない。ツィスカよりの報告で、王太子は国を出て放浪の旅にあると聞く。夫の居ぬ間に、妃は良いように離宮の刷新を進めていたのだろう。小娘のすること、と、高を括っていたのだが、これほどまでに動きが活発になって来ると捨ててはおけなくなる。ルクレツィア一世、彼女はあくまでも傀儡でなければならない。彼女に実権を与えてはならない。
 グレイシス二世の眉間に、皺が刻まれる。
 彼らの目が、外に向いている間に、ルクレツィアは確実に足元を固めていたのだ。それを考えると、寒気を覚えた。女と侮ったのが間違いだったのかもしれぬ。
「近々に妃殿下を召喚されてはいかがでしょう」
 宰相に言われるまでもない。グレイシス二世もそれを考えていた。直々にルクレツィアを問いただす。そして、その折に――老獪な男の瞳に、欲望の色が宿る。男色家に身を落とした息子が手をつけていない娘。清らかなるその身体に、己の血を注ぎ込む。子が宿るまで、幾度でも。
「今まで勝手にさせ過ぎた。少しは引き締めねばな」
 尤もらしい理由をつけて、国王は神聖皇帝に使者を立てる。この召喚に応じぬ場合、あの飯事のような彼女の城も、辺境の辛気臭い不毛な土地も、全て潰す。暗にそのような脅しを含めた誘いを、ルクレツィアは断ることはできぬだろう。



 アーシェルの民、その触れ込みで東の離宮に上がった者たちの殆どが実は、
「エルディン・ロウと知れたら、あのじーさんひっくり返るんだろうねえ」
 行儀悪く女帝の執務机に腰を下ろしたティルは、けらけらと笑っていた。
 エルディン・ロウが女帝ルクレツィアに協力を申し出、快諾とは言わぬまでも女帝がそれを受けてからこちら、かの組織は続々と離宮へと入りこんできた。元々、彼らには表の顔と裏の顔が存在する。裏の顔は大陸の狼であるが、表は其々に料理人であったり舞姫であったり娼婦であったり、剣士であったり、様々な職についていた。中から、城勤めの経験を持つ者を厳選し、『テオバルト』自らが采配をふるって、離宮へと配下を呼び寄せたのだ。
 無論、離宮に闇の商人テオバルトが滞在していることなど、エルディン・ロウの人々は知らない。彼は偏屈な放浪の剣士、女帝の旧知の客セレスティンとして、ほぼ部屋に籠ったまま誰とも顔を合わせることなく過ごしていた。彼の部屋に足を踏み入れることのできる使用人は、侍女のアデルのみである。ここ数カ月で下働きから女帝付きの侍女にまで出世をしてしまった彼女には、ただでさえ戸惑うことが多かったのだが、流石にもう、慣れてきてしまったらしい。もとより、肝の据わった娘である、ルクレツィアにとってもこれほど頼もしい侍女はいなかった。彼女もよもや自身が世話をしている女帝の客人が、エルディン・ロウの幹部とは思わぬだろう。
「閣下、そこから降りてくださらないと、陛下のお仕事が進みません」
 今ではアーシェル辺境伯にまで小言を云えるほどに成長を遂げている、アデル。彼女のぷんと剥れた横顔を目にしたルクレツィアは、声を立てずに笑った。
「はいはい。口煩い侍女さんですこと」
「閣下が、お行儀悪いからです」
 減らず口を叩きながらも、ティルは素直に従う。彼は今度は長椅子の背に尻を乗せ、軽く腕を組んだ。
「で? どうなの? 女帝陛下。閨へのお誘いは断るわけ?」
「閣下!」
 国王の使者が離宮を訪れたのは、つい先刻である。近日中に王宮へと上がり、国王に拝謁すること。内容はそれだけだった。期日も特定はされておらず、詳細も語られることはない。ただ、その準備をしておくようにと使者は告げただけであったが。
 本宮へ足を向けたが最後、離宮に戻ることは叶わぬのではないか。
 不安とも言えぬ不安が、ちくりと女帝とその側近の胸を刺す。
「こんなことあの『侍女さん』が知ったら、湯気立てて怒りそうだよねえ」
 溜息混じりのティルの言葉に、ルクレツィアは視線を揺らした。忠義を越えて最早崇拝としか言えぬ態度で女帝に接している、王太子の側室。かのひとは、みすみす罠と知って女帝を行かせるようなことはしないだろう。身体を張っても止めそうである。それよりも、下手をすれば国王に刃を向けかねない。冷静にして冷徹と思えるルーラの弱点はルクレツィア一世である、と判っている者たちは、一様に彼女の反応を危惧していた。
「行かないわけには、いかないでしょうしね」
 女帝とはいえ、所詮は傀儡。これでフィラティノアの力で領土を取り戻し、名実ともに神聖帝国を再興したとしても、あの老獪な国王は自身が実権を握るつもりでいるだろう。そうはさせない、とは思うものの、
「わたしには、まだ、力がないわ」
 それを痛感しているからこそ、悔しいが従うしかない。
 だが、黙って舅に抱かれる気はない。あの男の種など植え付けられてたまるものか。ルクレツィアは眼を細めた。自分が閨に侍ることを拒否すれば、先に巫女姫を召し出すつもりだろう、グレイシス二世は。それはそれで、避けねばならない。神聖帝国に於いて、巫女姫は至高の存在である。そのひとに、汚れた血を入れてはならぬ。
 冗談ではなく、エルディン・ロウの力を借りることになりそうだ、と、幾分物騒なことを考えて。ルクレツィアはアデルを見た。
「セラを呼んで頂戴」
 短い指示に、アデルは深々と一礼して退室する。その後ろ姿を見送りながら、ティルが乾いた笑いを漏らした。


「そろそろお呼びがかかるころだと思った」
 おどけた様子で軽口を叩きながら現れた剣の師を、ルクレツィアは笑顔で迎えた。そう言うからには、彼の元にも既に国王の動きは知らされているのだろう。ならば楽だった。嘗てもそうだったが、セレスティンはルクレツィアとは多くの言葉は交わさない。必要最低限の会話で事足りた。
「どうする? 何処から潰したい?」
 セレスティンの問いかけに
「そうね」
 ルクレツィアは眼を細める。
「とりあえず……」
 彼女の要望に、闇の商人は深く息を吐いた。ああ、そうですか――幾度も小刻みに頷き、彼は肩を竦める。それくらい、朝飯前だと言わんばかりの表情で「諾」と答える男に、女帝も満足げな笑みを浮かべた。
「成り上がりは、高貴な女性が大好きだからな。それにしても、レンティルグにアインザクト、神聖帝国の君主にまで手を出そうとは。食い意地の張った爺だな」
「でしょー」
 セレスティンの言葉に、ティルも相槌を打つ。
「しかも、悪食なことこの上ない」
 苦笑と共に舌を出す宰相を軽く睨み、女帝は組んだ指の上に顎を乗せる。念のために、巫女姫の警護も更に強化して欲しい、その要求も忘れなかった。エルディン・ロウとアーシェルの民を取り込んでいるとはいえ、ここは『敵地』である。何が起こるかわからない。警戒は、ゆめ怠らぬよう改めて女帝は宰相とセレスティンに告げる。彼らは其々に頷き、用を終えたセレスティンは席を立とうとした。その背に向かい、
「セラ」
 女帝が呼びかける。
「もうすぐ、サリカがここに来るわ」
 そうか、と。彼は相好を崩す。愛弟子との再会は、やはり嬉しいのだろう。セラのお嫁さんになる、が口癖であった少女は、十二分に自身の希望をかなえられるような年頃になっているのだ。いまだ、サリカがセレスティンに恋心を抱いていたとしたら、――それを考えると、可笑しくなった。
「なに?」
 不機嫌そうに眉を寄せる師、「あと三十年若かったらな」が、口癖だったが。今も同じことを答えるだろうか。
「なんでもないわ」
 片翼と師と、共に過ごせる日がまた来るとは思わなかった。三人でのびのびと過ごした、シャン・ティィーでの日々を思い出し、ルクレツィアの表情もまた、穏やかになる。しかし。やがてここにやって来るであろうサリカ、彼女は一人ではない。ディグルと、その生母エリシアを伴っているのだ。嘗てのフィラティノア王妃エリシアは、テオバルトとしてのセレスティンとは浅からぬ関係にある。その二人がまみえたとき、そこに何らかの波紋があることは容易く想像がついた。先に、セレスティンにエリシアの来訪を伝えておくべきか否か。この期に及んでルクレツィアは迷っていた。
「セラ」
 今一度の呼びかけに、セレスティンが首を傾げる。言葉を継ごうとしたルクレツィアは、小さくかぶりを振った。
「後で時間があれば、久しぶりに手合わせをお願いできるかしら」
「喜んで、女帝陛下」
 騎士然とした礼を取り、セレスティンは身を翻す。ルクレツィアの胸に、漠然とした不安が生まれたのは、この瞬間だったかもしれない。



 フィラティノアとアヤルカス、その国境には、峻嶮なる山並みが聳えている。どちらかが相手に刃を向ける際には、この山が障害となるだろう。兵を動かすとすれば連峰を迂回して、セグかそれともアダルバードを経由しなければならない。
「……」
 連なる山々を見上げて、ルーラはふとそんなことを思う。いつの日か、この山を越えて神聖皇帝の軍がアヤルカスに凱旋する。そのとき、戴くのは女帝ルクレツィア一世ではない。
(妃殿下)
 心の中で、真実のアグネイヤ四世に呼び掛ける。あの人が偽りの冠を外し、真の帝冠を戴ける日はいつになるのだろう。

「この辺りで結構です。ルナリア殿」

 シェラの声に我に返る。ルーラは、白馬に騎乗した男装の麗人に目を向けた。アヤルカスに入るためか、密偵活動の際には常に着用していた亜麻色の鬘は付けていない。黒髪のまま、素顔を晒している。黒髪に青い瞳、容姿は完璧にミアルシァやアヤルカスの娘だった。カルノリアも人種の坩堝であるが、何故シェラがこのような容姿を持って生まれたのか――ルーラが首を傾げたのは、これが初めてではない。シェラの両親は金髪であったと彼女は言っていた。カルノリアに最も多いのは金髪に青い瞳である。現にシェラの両親もそういった色合いを持っていたというし、彼女の姉たちもそれぞれに金髪、もしくは亜麻色の髪と青い目をしていると言う。シェラだけがある意味異端であった。そして、彼女の伯父であるカルノリア皇帝シェルキス二世も、黒髪だった。但し、彼の瞳の色はシェラとは異なり灰色だそうだが。

 ――この髪は、祖母から受け継いだそうです。

 以前、シェラが語ったところによれば、シェルキスとその妹カルテュエラの祖母に当たるスヴェローニャ夫人、先帝の愛妾たるかのひとが黒髪だったという。北方に珍しい黒髪は、神聖帝国に繋がる色である。これで古代紫か瑠璃の瞳をしていれば、その者は神聖帝国帝室縁者として継承権を主張できた、はずだった。

 ――せめて、この目が瑠璃だったら。

 シェラの目を見て、彼女の父は嘆いた、彼女の言葉にルーラは虚しくなる。実の父といえど、娘の存在をそのようにしか捉えていなかったのか。家族と言うものを知らずに育ったルーラは、少なからずそれに憧れていた。だが、実際彼女が接した家族と言えば、フィラティノア王室のみであり――そこも、前妃を失脚させた女狐が支配する、家庭とは到底言えぬ場所だった。
「お見送り、感謝いたします」
 シェラが頭を下げる。ルーラもそれに倣った。
「陛下にも、よしなにお伝えください」
 それは、必ず戻るとの宣言だったのであろうか。ルーラは、黒髪の女騎士を眩しい思いで見つめた。いっそのこと、自分も女であれば。一瞬、シェラがこの上なく羨ましく思えた。異端の容姿を持ってカルノリアに生まれたシェラ、彼女の姿はこの日のために天が与えたのではなかろうか、と。
 単騎遠ざかる華奢な姿を、見えなくなるまで見送ったルーラは、馬首を巡らせた。その無事を心で祈り、シェラとは反対の方向へと馬を走らせる。王都オリアへと。

 シェラがフィラティノアを離れた、その翌日。入れ替わるように、王都をいまひとつの暁が訪れたのだった。


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