AgneiyaIV | ||||
第三章 深淵の鴉 | ||||
10.虚像(3) |
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妃殿下、そう呼びかけようとして、ルーラは慌てて言葉を呑みこんだ。 「陛下」 天気が良いからと露台に椅子を持ち出し、そこで香茶を楽しんでいた女帝ルクレツィア一世は、日頃の疲れが出たのだろう、転寝をしていた。北方の、弱い日差しとはいえ受け続けていれば折角の白い肌が焼けてしまう。彼女の真珠を思わせる滑らかな肌が傷むのは忍びない、と、 「お休みになられるなら、寝室へいらしてください」 妃殿下――呼び慣れた呼称を口にしそうになったとき。 「ん」 それまで垂れていたルクレツィアの首が、ゆっくりと持ち上げられた。眩しそうに細められた双眸、そこから零れる古代紫の光。ぼんやりとこちらに向けられた視線に、ルーラは思わず身を強張らせる。 「なぁに? もう、時間なの?」 幼子の如く目を擦る女帝、ルーラが休憩の終わりを告げに来たのだと思ったのだろう。欠伸を噛み殺しながら立ち上がろうとする彼女を 「いいえ、妃殿下――いえ、陛下」 言葉と動作で制してから、 「そこではゆっくりお休みになれないでしょう。寝室に行かれては如何ですか」 先程かけた言葉をもう一度口にする。今日は、特に謁見や会議の予定もない。急な案件さえ飛び込まなければ、ほぼ一日を休息に利用できる。多忙な女帝にとっては貴重な一日である。できれば、何も気にせず休んでほしいとは、ルーラのみならず、シェラやアデルも同意見であった。何かあれば、宰相であるティルが応対すると彼自身が明言している。 ――ルナリア殿、貴方も陛下とご一緒に休まれては如何ですか? 気を使ってくれたのだろうシェラの言葉に、何と答えたものか。曖昧に頷いて、ルーラは女帝の私室にやって来たのだ。 「そうしようかしらね」 まだ寝惚けているのか、若干覚束ない足取りで歩きだしたルクレツィアは、ちょっとした段差に躓き均衡を失う。危ない、と差し出した腕に、柔らかな肢体が倒れ込んできた。ずきりと痛んだのは、心か、それとも古傷か。重く疼く左肩――そこに意識を集中する。全身に感じたルクレツィアの感触、その余韻に浸る間もなくルーラは彼女から離れた。触れられてはならない。触れられたら、気付かれてしまう。自分が、女性ではないことに。 「少し、痩せられましたね」 感情を隠す硬い声を漏らす。 「そう? 気のせいではなくて?」 こちらは何も感じていないであろうルクレツィア、彼女も素っ気なく答える。全く、普段は鋭すぎるくらい鋭いというのに。何故、こんなところだけ鈍いのだろうか、このひとは。恋愛感情を親の腹に忘れてきたと本人も言っていたが、それは嘘ではないらしい。色恋方面の感覚を、ルクレツィアは欠片も持ち合わせてはいないようだった。片翼たるあの皇女の、無自覚に異性を誘う言動も問題ではあったが――ルーラは、軽い眩暈を覚えた。 「あなたも無理をしているのではなくて? 傷は本当にもういいの?」 ルクレツィアの問いに、 「完治しています。手合わせも普通にできておりますが」 さらりと答えるが。 「の、割には、今わたしを受け止めたときに手が震えていたけど」 「……!」 「痛かったのではなくて、本当は?」 そこか、と。今度は頭痛を覚えた。ルーラは軽く息をつき、女帝を寝室へと促す。気のせいですよと軽く流し、 「わたしは、控えの間におります。御用がありましたら、お声をかけてください」 殊更事務的に言い放った。寝室の扉がぱたりと閉まり、女帝の姿がその向こうに消えた途端、どっと疲れが押し寄せる。ルーラが長い溜息と共に長椅子に腰を下ろすと 「ルナリア様も大変ですね」 苦笑を浮かべたアデルが、香茶を運んできた。元は厨房の下働きだったというこの娘も、最近急に垢ぬけてきている。好きな異性でも出来たのか、と、ルーラはその弾けんばかりの若さ漂う面を見上げた。美女揃いと言われるフィラティノアにあって、アデルの容姿は平凡であった。瞳こそ深く美しい青だったが、顔立ちはそれほど見映えはしない。どちらかと言えば愛らしい部類に入る彼女は、女官長スタシアを思い出させた。 「ルナリア様は、その、王太子殿下の」 愛妾、という言葉は流石に憚られたのだろう。他の言葉を探して視線を彷徨わせるアデルは、 「寵姫」 という言葉を見つけたらしい。 「寵姫でいらしたのに、なんだか女官のようです。寵姫は、綺麗に着飾って、殿下の傍で笑っているだけでいいんだと思っていましたから」 女帝の片腕として忙しく動き回る姿に何処か憐れみを感じているのかもしれない、この娘は。それも、彼女なりの気遣いだと察して 「ご無礼を申し上げました、申し訳ございません」 慌てて謝罪する彼女に、ほんのりと硬い笑みを向けたルーラは 「謝る必要はない。わたしは、今の立場が気に入っている」 素直に心中を告げた。 王太子には、恩義がある。尊敬もしている。感謝も。けれども、ルクレツィアに対しては自分でもよくわからぬ感情を抱えていた。彼女こそ皇帝に相応しい人物として崇拝している。その彼女に認められたい、価値のある人間だと思われたい。そういった欲求が強いことは自覚している。いつまでも、彼女に必要とされていたい。いつまでも。 碗を見つめながら自身の想いを反芻していたルーラの元に、今一人の侍女が現れた。先触れである。彼女はアデルを通じて 「陛下に拝謁を求めていらっしゃる方が、お見えなのですが」 遠慮がちに申し出た。それはいったい誰なのか、何処の貴族かと思いきや 「それが」 更に言いにくそうに侍女が漏らしたのは、セレスティン、という名前だった。 (テオバルト) ルーラの顔が強張った。セレスティンこそ、闇の商人テオバルトその人である、そのことを知ったのは、つい数日前。彼が女帝の剣の師としてこの離宮を訪れたときだった。以来、離宮に於いても顔を合わせてはいない。いつかエリシア妃のことも含めて、諸々のことを尋ねなければならないと思っていたのだが。 「わたしが、会おう」 ルーラは碗をアデルに返し、立ち上がった。先触れの侍女は幾分ほっとしたように表情を緩める。彼女に案内されて、女帝の謁見の間――とはいえ、執務室と兼ねているのだが――に足を踏み入れれば 「おや」 窓辺に佇み外を眺めていた珍客は、驚いたように目を見張った。 陽光を受けて輝く金髪、彫刻の如く整った顔立ち。白い面の下に本当に血が通っているのか、確かめたくなってしまう。初めて会った折とは異なり、彼の隻眼は灰色であった。こうして人の目を欺いているのかと、ルーラは僅かに眉を顰める。人払いをし、室内に二人きりになるとルーラは彼に椅子を勧めた。セレスティンは礼を言い、音もなくルーラの斜向かいに腰を下ろす。真直ぐにこちらを見つめる灰の瞳、そこには独特の冷ややかさはなく。雪もよいを思わせる色だというのに、何処かしら温かみを感じさせた。 「こちらの仮面が気になるようだ」 彼は左手で仮面に触れる。仮面を付け替えることによって、セレスティンとテオバルト、二人の人間を演じ分けていたのだ。この男は。一体どちらが本当の貌なのか。ルーラの視線に、今、セレスティンを名乗る男は小さく笑った。 「正直驚いた。まさか、君がねえ、フィラティノア王太子の愛妾とはね」 くく、と、喉が鳴る。彼は知っているのだ、ルーラが男子であることを。セレスティンは、ルーラをエリシア妃の息子と間違えた。間違えて、 「これを」 卓上に、指輪を転がす。嘗てテオバルトより預かったものだ。元はエリシア妃のものであったと言われるそれを、彼はルーラを通してエリシアに返そうとしたのだが。 「残念ながら、わたしはエリシア妃の子供ではない」 敢えて、息子とは言わなかった。セレスティンは口角を吊り上げ、指輪を見つめる。灰の瞳に浮かぶのは、虚無の光。感慨はそこには存在しない。それでも彼は指輪に手を伸ばした。精巧な作りのそれを、武骨な剣士の指先が弄ぶ。かつん、と、高い音を立てて転がる指輪を見つめ、 「俺も、エリシアに惚れていた」 不意に彼は呟く。思わぬ真実にルーラが驚くのも気にせず 「一目惚れ、って奴か。確かに顔も綺麗だったし、身体も最高だった」 暗に彼女と男女の関係があったことまで口にする。 「何より良かったのは、あの気性だな」 「……」 「お姫様みたいな顔をしているくせに、気は滅法強かった。俺なんざ、何回張り倒されたことか。俺も、ダチも」 あんな女は初めてだと彼の笑みが濃くなった。 強くならざるを得ない理由が、エリシアにはあったのだ。期待の歌姫として披露される前に、グレイシスに初花を散らされた。愛妾の地位に置かれればそれでも幸せであったものを、若き王太子は彼女を正妃とした。やがて国王が崩御し、グレイシス二世となった彼の子を産んだエリシアは――姦計により失脚。不義を捏造されただけではなく、側近に辱めを受けた。その後、国外へ追放される間に、一体どれだけの男の手垢にまみれたことか。ラトウィスだけではない、彼の腹心も嘗ての国母であるエリシアを弄んだ。最終的に商品として彼女を受け取ったテオバルト、彼の手に渡るまで。否、彼の手に渡ったのちも、エリシアは。 「味見のつもりだった。商品としての。でも、情けないことに溺れちまってな」 エリシアを自分の情婦にする、そんなことも考えたのだが。 エリシアに好意を持っていたのは、自分だけではなかった。カリャオ――当時、カルノリア沿岸とルヴァーを荒らしまわっていた海賊にして、テオバルトの悪友。彼もまた、エリシアに懸想していたのだ。自分の傍にいるよりも、大陸を離れて飛び回るカリャオの元にいた方が、エリシアは安全だろう。考えて、彼はエリシアを友人に託した。エリシアも野性味溢れる若き海賊に心惹かれたのかもしれない。間もなく、二人は結ばれた。と、時を同じくしてカリャオは略奪行為をやめ、後ろ暗いことに手を染めながらも商人としての道を歩き始めたのである。海を捨て、内陸国であるセグに於いて。 「その後だ。カリャオが揉め事に巻き込まれて殺されて、エリシアはガキと共に何処かに消えちまった。どれだけ探しても見つからん」 セレスティンは苛立たしげに眉を寄せる。この指輪は、空き家となった家に残されていたと付け加える彼に、間もなくエリシアが帰還することを伝えるべきか否か。ルーラは迷った。黙っていても、いずれは判ってしまうことだ。遠からず、エリシアはここにやって来る。その時までセレスティンが滞在していれば、嫌でも二人は顔を合わせることになる。 「二度とあんな女には会うことはないと思ってたけどな」 何やら含みのある言い回しだった。彼は長椅子に深く背を預け、高く脚を組む。灰の瞳が追うのは、遠き日のエリシア妃か。それとも。 「マリサもいい女だよな」 一瞬、言われた意味が判らなかった。軽く眼を見開くルーラ、その反応に気を良くしたのか、セレスティンが声をたてて笑う。 「よく似ている、エリシアに。気位の高いところとか、強情なところとか。気に入ったものはとことん溺愛する癖に、少しでも気に食わないものは徹底的に冷遇する。ああ、確かに。エリシアも孤高の覇王の器かもしれないな」 「あ」 マリサ、それがルクレツィア一世の幼名であることに思い至り、ルーラは思わず拳を固めた。この男は、女帝をそのような目で見ていたのか。折あらば、その身体を奪おうなどと不埒なことを考えていたのではないか、グレイシス二世のように。自然厳しくなるルーラの表情をセレスティンは愉しんでいるらしい。ハリトーンに於いて遭遇したときに見た酷薄さ怜悧さは影を潜め、陽気な無頼漢となったかのひとは、刻々変わりゆくルーラを面白そうに見つめている。 「安心しな。俺は小便臭い小娘には興味はない」 「なっ」 言うに事欠いて、なんということを。ルーラは更に拳を固くする。奥歯が激しく音を立てた。と、セレスティンは身を乗り出し、机越しにルーラの顎を捕らえた。何を、と、身を翻す間もなく間近に彼の顔が迫る。灰の瞳に映り込む自身の姿に、声を失うルーラ。彼はふと視線を和ませ、首を傾けた。 「顔は似ているのに、気性は違うな」 「……」 「おまえは、マリサに……」 言いかけて、口を噤む。セレスティンはそのまま視線を横に流し、扉の方を見た。ルーラもつられて視線だけを動かす。扉の脇には黒衣の少年が佇み、赤い瞳に揶揄の色を浮かべて形だけ肩越しに越しに扉を叩く様を見せる。 「いけないところに来ちゃったねえ?」 にやりと笑う辺境伯ティルに、ルーラは慌てた。違う、と声をあげ、セレスティンの手を払う。ティルは 「気にしない気にしない」 軽く手を振りながら、セレスティンの座る椅子の肘かけに腰を下ろし、幾許か寂しそうに 「つれないねえ、セレスティン。オレに挨拶なしだなんて」 愛弟子が可愛くないのかと師を詰る。 そうだ。ティルもセレスティンに剣を習ったと言っていた。双子と、それからバディールなる元アルメニアの密偵、四人の太刀筋は確かに似通っている。大陸の狼より伝授されたそれは当然、闇に生きる者たちに対抗するには最適の技だろう。ルーラはちらりと上目遣いにセレスティンを見やる。穢れた剣ではあるが、それが今までルクレツィアを守ってくれていた。ならば、彼に感謝せねばなるまい。女帝ルクレツィアを、真実のアグネイヤ四世を守ってくれたことに。 「――そろそろ、ここの狸爺が動き出すってか?」 ティルの囁きにルーラは身を強張らせた。国王がルクレツィアに魔手を? と、焦ったが。ティルが言いたかったのはそのことではないらしい。エランヴィアが蜂起した、それに伴い、レンティルグとフィラティノアが動く、と。そのことは、薄々ルーラもルクレツィアも知っていた。が、表立ってアヤルカスを攻撃するかと思えたフィラティノアはそうではなく。 「やり方、汚いんだよねぇ。あの爺さん」 ふ、と息をつきながら肩を竦めるティル。どうやら、フィラティノアは傭兵を雇ったらしい。それも―― 「大陸の狼に、兵士を貸してくれと。テオバルトに打診が来ていたなあ? そう言えば」 まるで他人事のように、セレスティンが口にする。全くこの男も狸ではないかと、ルーラは内心呆れた。おそらくその打診があったからこそ、先に彼自身がルクレツィアの元に現れたのだ。 フィラティノアは生かさず殺さずエランヴィアを利用するつもりだ。そのことを確信したとき、ルーラの脳裏をツィスカの姿が掠めた。彼女のぎらついた緑の瞳が忘れられない。アインザクトの血を引くあの娘は、今、エランヴィアを煽っているのではないか。悲壮な決意を述べて背を向けて行った彼女を思うと、何故か胸がひりひりと痛んだ。 ◆ 「馬鹿ね」 女帝の呟きに、侍女がはっとして駆け寄って来る。何か粗相があったのか、そう思ったに違いない。不安に揺れるその青い眼差しを古代紫の光で優しく包み、 「貴方のことではないわ」 ルクレツィアは微笑する。侍女は安心したのか、「お休みなさいませ」と言い残すと部屋を出て行った。一人になったルクレツィアは、ぽんと寝台に腰を下ろす。転寝はあれほど気持ちが良かったのに、部屋に戻ると途端に目が冴えてくる。皆の言う通り、休めるときには休んでおいた方がいいのかもしれないが。こうして何もせずにぼんやりしている時間は無駄に思えた。ルクレツィアは寝室に設えられた簡易的な書棚より、読み慣れた大陸史の写本を取り出す。ここ数日伝え聞く巫女姫たちの霊夢、それに触発されてルクレツィアも神聖帝国の『落日』を読みなおしていた。 (馬鹿ね) 心の中で繰り返す。 ルクレツィアを抱きとめた腕、あれは女性のものではない。そんなことはとうに判っているのに。彼女はまだ、隠そうとしている。裏巫女だと知られたところで、何ということはないではないか。ルクレツィアはそう思うのだが。ルーラはどうも違うらしい。何としてでも自身の身体のことは隠しておきたいのだろう。男子だと判ってしまえば、傍にいられなくなる。頑なに思い込んでいるのだ。男娼を汚らわしいものと考えているからだろうか――それとも。 思い至った考えを、彼女は否定する。 片翼が自身の前に現れるまで。ディグルが帰還するまで。自分が一人で支えていなければならない。傀儡の政府といえど、神聖帝国は一つの国家だ。それを支えるためには、有能な腹心が必要であり、ルーラもその一人だ。彼女に離れられては困る。離れられぬためには、気付かないふりをし続けなければいけない。この茶番に疲れるのは、どちらが先なのだろう。 そんなことを考えて。ルクレツィアは写本を閉じた。 |
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