AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
10.虚像(1)


 目を開けば、琥珀の光が優しく瞳孔を満たしてきた。ここが、冥府なのか――それにしては漂う気配は清浄で、鼻孔をつく香りも柔らかで清々しい。このようなところであれば、もっと早く来てもよかったかもしれない、そんな子供めいた考えを払うようにして、彼女は身を起こそうと身体に力を入れた。
「くっ」
 刹那、全身が痛みに悲鳴を上げる。自分の身に何が起こったのか、記憶を辿れば。闇と炎に彩られた、美しいとは決して言えぬ光景が瞼の裏に蘇る。あの塔から飛び降りたのだ、とうに肉体は粉々となり、魂も遠く投げ出されていると思ったのだが。存外自分は、丈夫であったのかもしれない。いや、そんな馬鹿な。
「お目覚めですか」
 声をかけられ、唯一自由に動かせる視線をそちらに向ける。と、そこには見知った顔の娘が佇んでいた。
「ずっと眠られたままでしたから、どうなることかと思っておりました。大丈夫、何処にも異常はないそうです。ただ、強くお身体を打ちつけられたので、痛みは残るかもしれないと医師が」
 彼女は知りたいことを簡潔に述べてくれた。医師、ということは、皇帝の侍医か。ならば、敵の手に落ちたわけではなく、ここは味方の陣と思ってよいかもしれない。味方、それもかなり心強い味方である。
「巫女姫は、無事に落ちられました。陛下も、おそらくは」
 彼女の言葉に、目を閉じる。フィオレーンもクラウディア一世も、カルノリア大公の手を逃れたのだ。無事に、アルメニアの軍と合流できたのであろうか。一抹の不安を振り払い、彼女は傍らに佇む亜麻色の髪の娘を見上げた。黄昏と同じ、青灰色の瞳を持つかのひとを安心させるように、口元を僅かに緩めて。
「ならば、ルディンナーザは安泰だ」
 掠れた声に、娘が反応する。まだ、大きな声を出すと身体が軋む。何処かに引っ掛かって助かったのかもしれぬが、それなりに打撲はあるのだろう。右手、左手と続けて指を握りこむが、やはり痛みは走るものの、思い通りに動かすことができる。まだ、だ。まだ、自分は戦える。
 左人差指に親指が触れ、そこに常にはなかったものの感触を覚えたとき、彼女の闘志は一段と燃え上がった。
 裏切り者は、許さない。
 例え最後の一人となったとしても、鴉の息の根は止めなければ気が済まぬ。

 ――愚か者。

 囁くような、友人の怒りの声が耳に蘇る。ああ、彼女が無事ならば。傍に行きたい。傍で彼女を守りたい。
「シェルダ=リ・アーサ殿」
 呼ばれて、彼女は再び眼だけを動かし、娘を見上げる。
「共に、行きませんか? わたくしたちと」
 行く――何処へと尋ねるまでもない。西の大公領だ。アインザクト、最後まで皇帝に忠誠を誓い、巫女姫を崇拝する敬虔なる大公。彼は、鴉の爪を、ミアルシァの牙を、一身に受けるつもりなのだ。それは、今、目の前にかの娘が居ることではっきりとわかった。
「いいのですか?」
 零れた問いに、娘は頷く。そういう潔い処は、その父に似ている。真っ先に敗色を察し、和議を申し込みつつ女帝及び巫女姫らの逃亡を画策していた、宰相の姿を思い描く。この娘は、西の大公の妹姫と宰相の間に生まれた、高貴なる血筋だ。女帝警護にあたったシェラの後輩の姉に当たる姫君で、嫁ぐ前はかのひとも近衛師団の一員であった。シェルダ=リ・アーサの憧れの人で、自身もこのようになりたいと、そう思った美しく気高き女性騎士。彼女と共に闘える、それは、夢のような話だったが。
「宜しいのですか、わたしで」
 思わず尋ねてしまう。勿論、そう頷かれると、涙が溢れそうになった。
「わたしが、鴉の血を引いていても?」
 認知はされていない。けれどもシェルダ=リ・アーサは、先代カルノリア大公の庶子の一人であったのだ。それと知って、なお、このひとは。
「行きましょう。アインザクトへ」
 伸ばされた手は、シェルダ=リ・アーサのそれに触れ、強く握りこんだ。たおやかな、淑女の手。だが、掌にははっきりと、肉刺の痕が残っている。
「ありがとうございます」
 震える唇で、漸くそれだけを告げる。彼女の名を呼びかけるべく、更に言葉を続けようとしたのだが。何故か、彼女の名を思い出せなかった。思い出せない、何故――転落した際に頭を打っていたのか。それともなにか、思い出してはいけない理由があるのか。
「あ……」
 もどかしさに、強く眉根を寄せる。このひとは、この人の名は――。


「――っ!」
 自分の叫び声で目が覚めた。どくどくと波打つ心臓を抑えて半身を起せば、
「いりあ?」
 紛い物の瑠璃の瞳が、こちらを覗きこんでくる。なんでもない、そう答えようとしたが、声が出なかった。夢を見ていたのだ、神聖帝国の。夢にしてはやけに生々しい夢だった。夢の中で、自分はエルシュアードの一人シェルダ=リ・アーサとなっていた。巫女姫フィオレーンの身代わりとして、炎に散った哀れな乙女。巫女の血を継ぐ者たちに、密かに語り継がれた『英雄』の名前。彼女は死んだと伝えられていたのに、夢の中では生きていた。生きて、
「アインザクト?」
 西の大公の元へと行ったことになっていた。いや、行こうとしていたのか。
 それよりも衝撃的であったのは、
「シェラが……」
 シェルダ=リ・アーサが、カルノリアの血を引いていたとは。初耳であった。伝え聞くところによると、巫女姫の護衛兼学友としてフィオレーンの傍に上がった彼女は、下級貴族の娘だったと言われている。それが実は、カルノリア大公の私生児だったとは――初耳だった。否、これは夢だ。あくまでも夢である。イリアはその記憶を振り払うように強くかぶりを振った。
 じっとこちらを見つめる視線に、イリアは「大丈夫」とだけ告げる。それは、リィルへの言葉ではなく、自身に言い聞かせるためであった。大丈夫、これしきのことで、心が砕けたりはしない。これは、夢だ。決して霊夢、過去視の類ではない。そう、思いたい。
 全身に覚えた鈍痛は、今も残っている。それは、昼間黒衣の辺境伯やリィルと共に、野駆けをしたからだと自分に言い聞かせるが。


「大丈夫か?」
 朝食後、部屋を訪れたシェラが驚きに目を見張るほど、イリアは憔悴していたに違いない。普段は残さず綺麗に平らげる食事を、

 ――今日は、殆ど召しあがられてないようで。

 小間使いからの報告を受けたアデルが、心配してルクレツィアとシェラにそのことを報告したのだという。当然、若き女帝がイリアを気遣うことはなく、やって来たのはシェラだったのだが。
「大袈裟なんだから」
 イリアはわざと陽気に唇を尖らせた。シェラが来てくれたことは嬉しい、この際、彼女に甘えてみようか――そんなことを考えなくもなかったが。『夢』の光景が蘇り、自然顔を顰めてしまう。カルノリアの血を引きながら、アインザクトと共に闘った今一人のシェラ。シェルダ=リ・アーサ。彼女と目の前の少女とをだぶらせてしまう自分がいる。人の名には霊力が備わっているといい、真実の名を奪われることは魂をも支配されるということだと、西方の呪術師より聞いたことがある。『シェラ』の名は、神聖帝国ひいてはカルノリアに多い名ではあるが、巫女姫に仕える女性騎士として、再びこの名が現れたということは。何かの符号ではないのか。そして、今、あの夢を見たことも。
 現在の神聖帝国皇帝は、ルクレツィア、けれども彼女はクラウディアの名も持っている。クラウディア、シェラ、巫女姫。自分らにも、あの『落日』は訪れるのか。落日のとき、自分は。ルクレツィア一世と共に市井に落ちのび、その身代わりとしてシェラが。
「あ」
 今まで、特に気にもしなかった。
「どうした?」
 不審そうにこちらを見るシェラの双眸。晴れた日の空の色をした、温かな青。ミアルシァやアヤルカスの青に少しばかり近い色味を帯びたその瞳、そして、カルノリアには珍しい漆黒の髪。黒髪に青い瞳、それだけを見れば、彼女も充分巫女姫の身代わりになりうる。

 ――愚か者。
 ――お元気で。

 短い会話が、脳裏に閃く。いや、と。思わずイリアは叫んだ。叫んで、シェラに縋りつく。
「巫女姫?」
 しがみつかれたシェラも、壁際に控えていた侍女たちも、呆気にとられてイリアを見つめていた。一体何が起こったのか、急に激しく泣き出した少女を慰めるでもなくただ困惑の視線を向けている。シェラも一瞬動きを止めたが、やがて聞き分けのない子供をあやすように、彼女を抱きしめ、優しくその背を叩き始めた。その彼女に向って、
「いりあ、ゆめをみたの」
 リィルがあどけなく語りかける。
「夢?」
「そう、むかしのゆめ」
 びくりとイリアが震えた。どんな夢を見た、とは語っていない。リィルにも。
「しぇらがしんだけど、でも、しんでない。にしのたいこうにたすけられた」
 なんのことやら、といった表情でシェラはリィルを見下ろしている。リィルの言葉に、イリアは益々強くシェラを抱きしめた。言っていない、そんなことを、リィルには言っていない。だが、彼女は知っている。イリアの夢の内容を。
(どうして)
 判るのだろう。まるで、リィルも同じ夢を見ていたかのように話せるのだろう。シェラに語るイリアの夢、それは彼女が見たものに他ならない。シェラは半信半疑で真実の巫女姫を自称する彼女の語りに耳を傾けているが、
「しぇらは、あいんざくとのひめといっしょに、にしへむかった」
 そこまで言われて、更に不審を覚えたようだった。カルノリアに連なる者は、シェルダ=リ・アーサの存在を知らない。彼女が巫女姫の身代わりとして炎に消えたことも、そのような名の騎士が居たことも、恐らくは伝えられてはいないだろう。伝わっていたとしたら。憎悪を以てその名を囁かれていたはず。あの夢が本当だとしたら、「裏切り者」と。いや、本来裏切り者はどちらであろう。カルノリア大公ではないのか。忠誠を誓うべき帝室に対して弓を引き、その崩壊に手を貸した。実質、帝国を滅ぼしたのはミアルシァでも他貴族の反乱でもない。カルノリア大公だ。

 一頻り涙を流した後は、妙に晴れやかな気分となった。貴重な自由時間を割いてシェラが傍にいてくれる、そう思うだけで昂揚してくる。おそらく、巫女姫フィオレーンも、そうだったのではないか、と。ふと思ってしまう。
「あのね」
 聞いて欲しい――ここまで話してしまったら、シェラにも聞いて欲しい、と。イリアは『落日』について語った。アンディルエに伝わる、秘められた話を。巫女姫の身代わりとして敵の目を引きつけ、炎に消えた娘の話を。シェラは黙ってイリアの話を聞いてくれた。そうして、漸く先程のリィルの語りとの接点を見つけたのだろう。軽く頷くと、優しくイリアの頬を包み込んだ。黒髪が掻きあげられ、耳元で星石の飾りが揺れる。
「歴史は、常に真実を語るとは限らないからな」
 歴史は勝利者のものだ。勝利者は自身の都合のよいように、歴史を改竄する。改竄するまでもなく、隠蔽されることも、全く伝えられぬことすら存在するのだ。シェルダ=リ・アーサも、長く歴史の闇に埋もれていた一人。それに、あの夢に登場した姫君。今一人の宰相の娘も。
 夢の記憶は段々と薄れていく。語られた内容と、全身の鈍痛は覚えているのに、あの姫君の顔だけ思い出せない。亜麻色の髪と青灰色の瞳を持っていたことは記憶にあるが、果たしてその顔立ちは、というと。すっかり輪郭がぼやけている。
「神聖帝国最後の宰相、その息女」
 ぽつりと漏らすシェラの呟き。カルノリアは、その名を、存在を、知っていたのか。アインザクト大公の姪にあたるその人は、その人の名は。
「エーディト?」
 疑問形ではあったが、シェラの唇から零れた名に、イリアは反応した。エーディト、夢の中で自分が呼びかけようとした名は、それだったかもしれぬ。ただ記憶が曖昧で。そうだとは断言できない。
「――という名を、聞いたことがある。違う娘かもしれないが」
 神聖帝国の歴史を学んだ際に、耳にしたとシェラは言う。ただ。不勉強であったために、うろ覚えらしいが。カルノリア帝室に連なる人々は、『裏切り者』の一族の名を、一通り学んでいた模様である。
「エーディト」
 イリアは繰り返す。祖母であれば知っているであろうか。シェルダ=リ・アーサが辿った足跡を。彼女が関わった人々を。
(婆様)
 祖母は今、遠きアーシェルに滞在しているはず。ならば、あの辺境伯に依頼して、祖母をここに呼んでもらった方が良いのではなかろうか。ふと、そんなことを考える。



 巫女姫が二人同時に同じ夢を見た。ありえない話ではない。シェラからの報告を受けて、女帝ルクレツィア一世は、腹心を振り返る。
「どう思う?」
「どう思う、って」
 腹心の一人、黒衣の辺境伯は、ぽりぽりと頭を掻いた。「霊夢なんじゃねぇの?」と、やる気がなさそうに言葉を添える。確かに、二人同時に細部まで同じ夢というのは、些か気味が悪い。何らかの符牒であるとも考えられる。しかも、その夢の中では、イリアはシェルダ=リ・アーサと同調していたそうだから。
「普通は巫女姫同士、フィオレーンになっていそうなものだけどね」
 ルクレツィアは苦笑する。よもや、イリアがシェルダ=リ・アーサの生まれ変わりということもあるまい。なぜ、シェルダ=リ・アーサなのか。他の誰でもなく。ルクレツィアはひとり物思いに沈む。と。
「ルナリア様がお越しにございます」
 先触れが、ルーラの来訪を告げた。入室の許可を出すと同時に、女帝の執務室にルーラが姿を見せる。彼女はルクレツィアより召喚の理由を聞かされると、
「もしや?」
 懐から一粒の石を取り出した。革袋に納められたそれを、侍女の手を介さずに自ら女帝へと捧げる。ルクレツィアは首を傾げながらそれを受け取った。ころり、と掌に零れるのは、耳飾である。それも、片方だけ。彼女は首を傾げた。視線でルーラに説明を促す。
「ツィスカより、預かったものです」
「ツィスカ?」
 王太子夫妻の侍女の任を解かれ、ウィルフリートと共にアヤルカスへと向かった彼女は、まだ、帰国していない。ウィルフリートはとうに帰還しているというのに――やはり、国王の密偵として、アヤルカスに於いて工作を働いているのだろうか。アヤルカス王太后との接触を図る、とも言っていたが、その後の報告を受けてもいない。
 彼女はグランスティアにて療養中だった『王太子』の元を訪れ、この耳飾を託して行ったという。
「巫女姫フィオレーンよりの預かりもの、とのことでした。妃殿下に、いえ、陛下にお渡しするように頼まれていましたが」
 その後の騒ぎですっかり失念してしまっていた。今日はたまたまこの石に関して思い出したので、探して女帝に届けようと思っていたのだとルーラが言う。
「成程、ね」
 この石か。この石の力か。イリアの、リィルの『夢』は。星石には霊力を高める力があるという。この石に込められたフィオレーンの念が作用したのかもしれない。それでも何故、今なのか。それは判らぬが。
「まさか」
 視線を上げるルクレツィア、ルーラと目を見かわせば、彼女も瞳の奥に強い光を宿す。
「エルディン・ロウ?」
 二人の胸の内を言葉にしたのは、ティルだった。彼は留守の間にここを訪れたエルディン・ロウよりの使者とは対面はしていないが。彼らが滞在していること、どのような目的でここに現れたのかは女帝より説明を受けている。
「そうね。その可能性も、ないとは言えないわね」
 巫女姫らの夢に現れた、アインザクト大公の姪。今までその存在すら知られていなかった女性。亜麻色の髪と青灰色の瞳を持つその人の名を、おそらくそうであろうという名を聞いて、ルクレツィアは深く息を吐いた。
「エーディト、ね」
 呟いたとき、何処かでくしゃみが聞こえたような気がしたが、敢えてそれは無視する。巫女姫たちは、敏感に感じ取ったのかもしれない。エルディン・ロウを名乗る、アインザクトの残党が東の離宮を訪れたことを。これは、今日明日にでも彼女らにあの二人を紹介せねば、と。ルクレツィアは痛むこめかみを押さえながら、更に長く息を吐いた。


「あんまりいい噂じゃないですねえ」
 女帝の居室の真上。露台を見下ろす場所に座り込んでいた少女――否、少年は、軽く肩をすくめて独りごちる。エーディト、と、自身の名が女帝の口から洩れたとき、妙な悪寒が走った。如何に聡い女帝とはいえ、偶然だと思うだろう。思って、見過ごしてくれるだろう。そう思いたい。
「ま。そうはいかなそうですけどねえ」
 だから、嫌だと言ったんだ。と、彼は『上長』に向けて心の中で悪態を吐いた。
 よもやここであの人の名が出るとは。あの人の夢を巫女姫が見るとは。とんだ計算違いだった。自分はあくまでも、アインザクトとは別の方法で鴉に復讐を遂げたかったけれども。それはどうも無理らしい。
 彼はルクレツィアよりも長い息をつきながら、屋根に身を横たえ、晴れ渡る春の空を見上げた。


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